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『アリアドネからの糸』

中井 久夫 19970808 みすず書房 ,375p.

last update:20110221

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中井 久夫 19970808 『アリアドネからの糸』,みすず書房 ,375p. ISBN-10:4622046199 ISBN-13:978-4622046196 3150 [amazon][kinokuniya] ※ d/m01b

■内容

内容紹介
「この本に収めたものには、硬いものも、さほどでないものもあるが、前の二冊と比べても、際立って謎ときの意味合いを含んでいるように思う。つまり私が私なりに蓄積してきた経験や知識にもとずいてよりもむしろ私の乏しい推理と構成との力を費やして、私が踏み込んだことがない迷宮に入ろうとした試みである」(あとがきより)

『記憶の肖像』『家族の深淵』につづく中井久夫の第三エッセイ集。匂いや兆しなど、ニュアンスに対する著者のアンテナ感覚が生んだ文章は、これまで同様、多方向にわたる――いじめについて、本について、色について、記憶について、その後の阪神大震災について、PTSD について、ヴァレリー詩の秘められた構造について、創造と癒し序説など、長短32篇と詩6篇を収録。巻末の「ロールシャッハ・カードの美学と流れ」は、ホームズ=ギンズブルグばりの推理を重ねたみごとな謎ときで、改めて著者の力量に驚かずにはいられない。その文章の一つ一つには、多層にわたる人間の可能性への思いが刻まれている。
内容(「BOOK」データベースより)
第三エッセイ集。匂いや兆しなど、ニュアンスに対する著者のアンテナ感覚が生んだ文章は、これまで同様、多方向にわたる―いじめについて、本について、色について、記憶について、その後の阪神大震災について、PTSDについて、ヴァレリー詩の秘められた構造について、創造と癒し序説など、長短32篇と詩6 篇を収録。巻末の「ロールシャッハ・カードの美学と流れ」は、ホームズ=ギンズブルグばりの推理を重ねたみごとな謎ときである。

■目次

I
いじめの政治学
II
戦時下一小学生の読書記録/移り住んだ懐かしい町々/三幅対/医師は治療の媒介者/ロサンゼルスの美しい朝 /清明寮に小豆島からオリーヴの木が来た/二度目のルミナリエ/ハードルを一つ上げる/日本の心配/感銘を受けた言葉/はじめの一冊/私の選ぶ二十世紀の本/私の「今」
III
赤と青と緑とヒト/症状というもの――幻聴を例として/記憶について/精神科治療環境論/喪の作業としてのPTSD/阪神・淡路大震災のわが精神医学に対する衝迫について/二年目の震災ノート/「こころにやさしい」社会
IV
リッツォス『反復』より/これは何という手か
V
「若きパルク」および『魅惑』の秘められた構造の若干について/詩を訳すまで/訳詩の生理学/脳髄の中の空中庭園――ヴァレリー「セミラミスのアリア」注釈/セミラミスのアリア/私の三冊
VI
「創造と癒し序説」――創作の生理学に向けて/ロールシャッハ・カードの美学と流れ
あとがき
初出一覧

■引用

 ◇「私の「今」」
「阪神・淡路大震災は私の中の何かを変えた。地面が揺れたごときで何が変わるかと自分に行きかせたのは今から思えば笑止であった。
 まず、私は沈黙している患者のそばに何時間でもいるという精神科医にとって不可欠な能力をまだ回復していない。30年以上続けられていたこのことができなくなった。私は1997年春に病院を定年で退くからおそらく回復の機会はないだろう。これは高揚状態というか躁状態で地震に続く事態に対応した後遺症ではないかと思う」90

「冷戦の期間の一つの悪夢は全面核戦争であったが、もう一つ、同じ時期の悪夢はわが国限りであるが大震災であった。大震災を悪夢から現実に対処するものに変えたのが、阪神・淡路大震災の経験であったということができるのではないだろうか。東海あるいは関東地方の地震対策も暗中模索から経験を踏まえた具体的対策に変わり、国民の多くの地震の観念も怪獣が町を荒らすような幻想から、過酷ではあるけれども対処すべき現実に変わったのではないか。」90


◇「喪の作業としてのPTSD」
「1995年1月17日以来の阪神・淡路大震災において、精神科医は大量のPTSDすなわち「心的外傷後ストレス症候群」に直面することになった。みずからもPTSDに悩みつつ、何とかこれに取り組んできたのが、われわれ神戸に住む精神科医のこの一年のいつわらざる姿である。
 なるほど、PTSDは言葉として耳新しかったが、私たちの理解は、精神分析学でいう「喪の作業」、すなわち大切に思う人の喪失の後に、その耐えがたく、取り返しがつかない空虚を消化してゆく、苦渋なこころの過程そのものではないかということだった。」155
「外傷的精神障害は、精神科医の狭い密室も必要だが、それだけでは有効に対処できず、自助グループが必要であり、広い社会的参集が必要である。すなわち、ほんとうの意味で「やさしい社会」が前提となるだろう。逆に「外傷的精神障害を個人が孤独のうちに耐えしのぶべきものとしないようにするコミュニティは「やさしい社会」を作る大きな原動力となるであろう。この認識が重要である」161

「社会も精神医学も自戒するべきは傷ついた人に向かうに当たって、それ以前の性格や素行や生活態度、生活程度、あるいは外傷後の精神医学的異常の方を、外傷後症候群より優先させてしまうことである。すなわち、犠牲者をもう一度犠牲者として社会から排除しがちなことである。これは一部は人間が理由づけを行なうことや因果関係を求めることで安心する動物であることからくる。われわれは理不尽に直面する勇気が必要である。それが人為的な物であっても、そうでなくても。……この場合、倫理と科学とは個人と社会のなかの自然に対抗しなければならない。」161

◇「阪神・淡路大震災のわが精神医学に対する衝迫について」
「普賢岳、奥尻における先駆的業績を踏まえて、阪神・淡路大震災において初めて全国的な精神医学的キャンペーンが行なわれたことは、今後の精神医学にいかなる衝迫をあたえるであろうか。それを秤量することは時尚早であるにしても、ある中間的展望は可能であろう。」163

「1966年から1980年までの期間ほど、精神医学の世界においてさまざまなパラダイムが存在した時期はないであろう。一個人の中にも複数のパラダイムが存在しているぐらいであったから、どこの誰がどのようなパラダイムを持っているのか見通しさえきかないのであった。
 その時期を経過して、われわれは病院中心の精神医学から診療所や保健所を含む、フットワークの軽い精神医療を経験するようになっていた。また1980年以後における国際的診断の導入も少なくない意義を持っていた。……無論やってきたのは単にメイド・イン・USAの診察基準ではない。それは「ベトナム戦争を通過した米国精神医学者による診察基準」であった点を明記する必要がある 」164-165

「自発的なネットワーキングとしてキャンペーンが行なわれるためには、あの20年の苦渋が必要であり、あの20年はこの期に及んで初めて多少活かされたということができるかもしれない。かりに精神医療をめぐる苦渋な20年の最中であったならば、キャンペーンが行なわれていたとしても、別個の様相を呈していたであろう。さらに冷戦下であったとすれば、震災に対する見方が既に違っていたであろう。原子爆弾がわれわれの頭上にぶら下がっていた時代の私のメンタリティは明らかに今と違うものであった。私は個人的不幸に今より鈍感であった。」170

 「精神科における苦渋な20年において具体的にどこで何をどのようにしていたかにかかわらず、精神的に苦渋な20年を誠実に通過した人たちが、今回のキャンペーンのオーガナイゼーションとコーティネーションに関係しているのでhなあいか、そうでなければあのキャンペーンはありえなかったと私は思う。最初に声をあげていたのは、その世代の人であった。」171

「1980年以後の診断的黒船は、単に診断の平準化だけに貢献したのではなかった。実はこの面はさほど進歩していないのではないかとさえ察せられるのだが、大きな貢献は、分裂病以後の精神医学的問題を耳に新しく響く障害の名前で提供してくれたことであった。新しい世代は分裂症の治療を専攻する世代から引き継ぎ、先行する世代を越えて分裂症の治療に新局面を開こうとしつつ、そのなかで1980年代以降の新しい問題を育んでいた」172

「しかし、非常時におけるネットワーキングと活動の経験は参加した人に何ものかを与え、次に来る世代に何ごとかを伝えるはずであろう。実際、神戸を一時期精神科医で飽和する作戦は、災害における心的外傷に未経験な精神科医を大量に投入して、そのせいしかいとしての経験と発想において現場でそれぞれ考えてもらうという方法であって、これ以外に方法はなかったと私は思っており、また、完全からは遠いものであろうとも、問題が次第に増大して手に負えなくならない程度には局面を支配していたということができよう。それは図らずも、精神医学ではありえないとされていた一次予防が、非常時という限定化においてであるけれども、可能なことを明らかにすることになった。精神科における一次予防とは、実に予防接種でも健康診断でもハイリスク者追跡でもなく、端的に「あなたは孤立していない」ことを実感させ体験させる「人付け」であった。この含蓄は災害時における心的外傷の枠を超えて大きな広がりを将来に持つのではあるまいか。」173

「わが市民社会において、被害を個人的な物に還元し、その範囲に閉じ込め、悲しみと怒りとを黙って耐え忍び、抑圧、かい離、否認すべきものであるという伝統的当為があったが、阪神・淡路大震災を経過することによって、これが劇的に変わり、被害者の感情はそれ自体が認知され、尊重されるべきであり、そのために声を挙げるべきであり、その声は聞かれるべきであって、その際に精神科医たちはその一端を担う用意があるというふうに希望があると思いたい。」

◇「二年目の震災ノート」
 「阪神・淡路震災後満二年になる。……貧富の差、地域人脈の差、個人的才覚の差、年齢や体力の差は普段からある。被災地の一部には、所得税が一県を凌ぐといわれるところもある。しかしそこにも生活保護を受けている人がいないわけではない。ただ、普段、そのことはさほどみえない。みえても、それは世間とはそういうものだとして受け取られてきた。
 その差を災害はくっきりとさせる。災害後の蜜月時代といわれる共同体感情、共に被災者であるという一体感を味わった後では、その差は新たに疼く。現実にも、格差は時間とともに拡大してゆく。ハサミを開くのに似ているからハサミ状格差という。」178

 「関東大震災後の復興では、市長後藤新平が遠大な都市計画を立てた。その道路は広かった。ところが利権がらみの小人どもに計画を縮小されて道路の狭さをはじめとする今の東京の問題が残った。こういう議論は、神戸の震災以前では日本論壇の主流だった。後藤の無念、あるいは後世からの拙速という批判を行政当局は震災直後から意識していたに違いない。
 しかし、後藤の哲学は今初めて抵抗にあっている。つまり市の審議会は市の南部を東西に貫く高速道路は再建しなくてよいというエコロジカルな答申をしたのである。市民は高速道路のない青空を半年は味わった。危機を感じてか道路公団は、あっという間に予定の半分の期間で再建した。瓦礫の整理と鉄道・道路の復旧に大量の労働者が投入された。一時アスベストの粉塵で三宮かいわいは皆マスクをして歩かざるを得ない状態だった。労災事故や過労死の話も耳にする。急速復興の名のもとに労働基準法が尊重されたかどうか。」181-182

 「米国の災害関係者はどうも平時からお互いを知っていて、気心がわかっているようだ。災害の最中に名刺を交換する風景が神戸ではしばしば見られた。米国のばあい、どうしてそのように知りあえるかというと、災害があれば、全米の災害対策専門家が集まり、臨時にその地の職員となる。それを「たくさんの帽子をもっている」「たくさんの帽子をかぶる」と表現している。  たとえば、ロサンゼルス郡の災害コーディネーターは連ぽに呼ばれれば「連邦の帽子」をかぶり、赤十字に呼ばれれば「赤十字の帽子」をかぶる。対等の人間として発言し行動できるということだ。……米国の災害対策は基本的に地方政府が行なう。…縦割り行政であり、不整合ではないかと思われる点さえある。それを補っているのが、私の言う「防止システム」に見られるような柔軟性である。」p185


*作成:近藤 宏三野 宏治
UP:20110221 REV: 20110330, 0507
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