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『弔いの哲学』

小泉 義之 199708 河出書房新社,シリーズ 道徳の系譜,137p.


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小泉 義之  199708 『弔いの哲学』(シリーズ 道徳の系譜),河出書房新社,137p. ISBN-10: 430924193X ISBN-13: 978-4309241937 \1,260 [amazon][kinokuniya] ※ p

■内容(「BOOK」データベースより)

弔いとは「断絶」を思い知ること。死と生を断ち切るなかから新しいモラルをたちあげる哲学入門。

■内容(「MARC」データベースより)

弔いとは哀悼ではない。誰かの死と私の生の断絶を思い知る事である。あらゆる問題の根本をなす生者と死者の関係を明確にする事から、現在のあらゆる幻想と欺瞞を撃ちくだく、気鋭のデカルト研究者の哲学入門。

■著者紹介[bk1]
小泉義之
1954年札幌市に生まれる。1988年東京大学大学院人文科学研究科博士課程哲学専攻退学。1990年宇都宮大学教育学部講師。2003年より立命館大学大学院先端総合学術研究科教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
■目次
    まえがき
    I 葬礼論
    II 亡霊論
    III 戒律論
    IV 贖罪論
    V 忘却論
    あとがき
■引用

「誰かの死と誰かの生の断絶を思い知ることは、おそらくとても大切なことである。遠くの隣人であれ近くの隣人であれ、誰かが死ぬことは、私の生とはまったく関係がないということを思い知ることが、ほんとうの弔いである。このことを具体的に誰かの死を念頭におきながら述べると、きっと非難や反発を招くだろうし、私自身にも違和感が生ずるだろう。それはどう応ずべきかは、今はわからない。ともかく、誰かの死と誰かの生は断絶しているという真理を、絶対に手放さないで思考をすすめていきたい。」(p. 10)

I 葬礼論

「〈死者=死体〉から目を逸らしさえしなければ、誰かの死と誰かの生が断絶していることを見失うことはない。>0013>
 ところが、死体をよそにして、死や死者について実に多くのことが語られている。まるで死や死者が、死体から切り離されても残る何か、死体が潰えた後にも残っている何かであるかのように語られている。奇怪な光景だと思う。だから、こう見切っておきたい。死や死者とは、死体を消去して語られる何かであり、精神や言葉の中を浮遊する観念である、と。すなわち、死は観念であり、死者も観念である、と。
 死体を消去することが埋葬であるからには、死や死者の観念は埋葬と同時に発生したはずである。そして、死や死者の観念が発生してから、誰かの死と誰かの生を関係づける妄想が発生したはずである。」(pp. 13-14)

「誰かの死と誰かの生のあいだに、何らかの現実的関係が成立するのは、誰かの死体を誰かが食べる場合と、誰かの臓器を誰かが移植される場合だけである。そのとき生きのびる者は、誰かの死体や臓物のおかげで、すなわち〈死者=死体〉のおかげで生きのびるのであって、誰かの〈死〉のおかげで生きのびるのではない。だから、誰か>0014>の死のおかげで誰かが生きのびるという妄想を発生させるためには、また一般に、誰かの死と誰かの生のあいだに現実的関係ではなく観念的関係をうち立てるためには、食物と死体を区別し、死体と死者を区別して、死や死者を観念に仕立てた上で、それを誰かの生と関係づけなければならない。」(pp. 14-15)

「…何を喪失したのかを明らかにしながら、そこを埋め合わせていくことは、まさに世俗的な仕事である。そして喪の仕事は、日常生活を立て直す仕事である。日常生活は、実に多くの仕事からなっている。布団をあげること、食卓を囲むこと、近所に挨拶すること、書類を出すこと、電車に乗ること、これらは労働でも慣習でもなく、まさに仕事である。喪の仕事は、そんな日常の仕事を再開して繰り返すための仕事である。まさに喪は仕事であり、葬儀・追悼・哀悼をめぐる言説はこの仕事のマニュアルを主題にしている。
 しかし、誰かを喪失したことと、何かを喪失したことは、まったく異なることである。ここを直視したいのである。誰かが社会的にいなくなることによって、何かが喪>0034>失されて、誰かの生活が危うくなることはある。そしてもちろん、誰かの精神的生活と物質的生活が危うくなることは、その生をも危うくするだろう。しかし誰かの死は、決して誰かの生を危うくはしないし、決して誰かの死を招き寄せはしない。誰かの死と誰かの生を関係づける妄想が、そして誰かの生と誰かの生活を混同する社会が、誰かの社会的「死」を招き寄せてその生を衰弱させているだけである。ところが人はここを直視することができない。誰かの死と誰かの生の断絶を直視することができないのだ。なぜか。直視する強さをもたないからというよりは、仕事に夢中になって断絶を思い知る時を失っているからだと考えよう。」(pp. 34-35)

II 亡霊論

「戦争においては、民間人という集団や非戦闘員という集団を絶滅することが直接の目的とされることはないから、民間人や非戦闘員の殺害は、あくまで誰かが誰かを殺害した事件の集積と見なされることになる。したがって、現時点において犠牲者を想起することは、未解決の多数の殺人事件を想起することに等しい。そしてそのことは、犠牲者を殺害した元兵士の死を要求することに等しい。(中略)私はこの要求は正しいと考えているし、犠牲者を想起するからにはこの要求を取り下げるべきではないと考えている。ソンミ村、光州事件、ルワンダ、アルジェリアの虐殺を想起することは、手を下した者の死を要求することである。犠牲者という亡霊は、下手人の死によってのみ祓われる。
 では誰がいかに下手人に死をもたらすのか。八百万の神の立場をとることなく、また、八百万の神の権力を当てにすることなく、いかにして死を死でもってあがなうのか。この問いに答えないまま、犠牲者の亡霊を呼び出すことは卑怯であるし、この>0065>問いに答えない霊媒は、たんなる商売人である。アジアの二千万人の犠牲者を呼び起こすのであれば、少なくとも延べ二千万人の死をもたらす道を示さなければ不当なのである。」(pp. 65-66)

「死者を弔う生存者が、中国の人の言葉を借りれば〈幸存者〉が、世界の内在的意味でないはずがない。」(p. 73)

III 戒律論

「ただ生きることを、さまざまな理由をあげて、おとしめる傾向がある。たとえば、延命至上主義に反対して、意識機能をなくした者を延命させる意味はないと主張する語り方である。しかし、救急医療などを除いた現代医療は、決して本来の延命至上主義に立ってはいない。いわゆる高度医療をほどこすことが本当に延命に寄与するかは実に疑わしいし、死ぬまで時をかけて待つというきわめて簡単なことがやら>79>れなくなっている。そして医療関係者は、よくこんなことを言う。他人が意識機能をなくした場合には、その人を死なせてよいかどうかについては迷うけれども、少なくとも自分が意識機能をなくしたら生きるに値しないから死なせてくれてよい、と。一見、謙虚に見えるが、きわめて暴力的だ。なぜなら[…](pp. 79-80)

「要するに、〈よい〉という価値は第一義的に〈生きている〉に与えられるからには、生命を賭けるに値するものなど一つもないし、生命を失わせる理由など一つもないと言い切るべきなのだ。」(p. 83)

「戒律のポイントは、他人の要求や感情を言葉に言い表せるか否かにかかわりなく、〈殺すことはない〉ということをつかむことにある。対話や交渉が成功しようが決裂しようが、〈殺すことはない〉というところに戒律の核心がある。デリダのロゴス論は、人間の生死を対話や交渉の成否によって左右できるとする妄想の一例にすぎないのだ。話し合いの成否によって人間の生死を左右してきた者が、〈話せばわかる〉と話しても不当ではないし、そこに潔さを感じもす>0089>るが、肝心なことは、話そうが話すまいが、通じようが通じまいが、〈殺すことはない〉というたった一つのことである。」(pp. 89-90)

「 レヴィナスは、殺したいのならば、名を知って名を呼んで殺すべきであると言いた>0091>いのである。そしてそのことが、まさにそのことだけが、他人の他者性を「尊重」するただ一つの方法であると言いたいのである。レヴィナスはそんな〈高貴な殺し方〉に賭けている。そしてそれが、そのリミットにおいて殺害を不可能にすることに賭けている。
 兵士は他者を殺すことはできない。兵士が殺すのは、敵、異邦人、非戦闘員である。兵士は兵士である限り、名指される人間を殺すことはできない。これは論理的不可能性である。だから、もしかして兵士が名乗りあって対峙して殺し合うのであれば、戦争や戦闘がそのような対面の敵対関係に還元されるのであれば、レヴィナスは生身の人間として、同じく生身の人間ハンスに対峙しているのであるから、レヴィナスはハンスを殺したいと思いつつも、ハンスを殺せないという倫理的不可能性を感ずるであろう。ハンスを殺す理由は皆無だからだ。レヴィナスが言うように、他者は兵士の兵士としての把握能力をはみ出ている。兵士は敵兵である者を殲滅することはできる。そのとき残念なことに、他者もたしかに死ぬ。しかし兵士は敵兵であるかぎりの他人を殺したのであって、他人であるかぎりの他者を殺せたわけではない。兵士には、他者を殺すことができないという倫理的不可能性がある。では一般に、社会的地位を離>0092>れた誰かが、同じく社会的地位を離れた誰かを、すなわち顔をもち名で呼ばれる誰かを殺すことは不可能なのだろうか。私は不可能だと確信している。少なくとも、大岡昇平の実例がある。社会的地位を捨象した人間、すなわち自然物としての人間においては、〈殺すことはない〉。」(pp. 92-93)

IV 贖罪論

「 おそらくベンヤミンは、自然の掟に従うという簡単な答え方を自覚していた。しかし、それがあまりに簡単であるために、そのまま書くことにためらいを感じたのだと思う。〈殺した者の罪は、出世間して老化して死ぬことで流される〉、〈贖罪とは、災害や病気や事故や老衰で死ぬことである〉という、きわめて単純明瞭な答えを書きつける勇気がなかったのだと思う。なぜか。「暴力批判論」におけるベンヤミンは、政治思想や宗教思想に屈して、真の宗教性を守りきれなかったからである。とはいえ、ベンヤミンがその死の年に書いた「歴史の概念について(歴史哲学テーゼ)」は、無神論者だけが到達できる宗教性に迫っていたと思う。しかしその断章の数々は、きれいな硝子片というよりは、砕かれた骨片のように見える。あの時代に無神論者が宗教>0113>性を救済しようとする際の困難を思うと、読み進めながら暗然とせざるをえないからである。本書で私は、そんなベンヤミンの骨片の幾つかを拾っただけであるが、少なくともベンヤミンの骨は拾ったと思う。
 死刑や復習や裁判を要求することは容易である。妄想に参加することは容易だから。しかし、〈殺すことはない〉という戒律と、誰でもいつか死ぬという掟をもちだすのは大変なことである。きわめて困難だし、きっとその労苦は報われない。だからこそ、妄想にとらわれた人々の下から離れた場所を確保するべきなのである。」(pp. 113-114)

V 忘却論

「死んだ子の顔を想起すること、死んだ子の歳を数えること、死んだ子の名を呼ぶこと、それが弔うということであり、そのような仕方で、遠くの死者に対しても振る舞いたい。そして、老人が名・歳・顔を忘れていくことは、〈神すなわち自然〉からの恩寵であると思う。」(p. 135)

■書評・紹介

■言及


*作成:石田 智恵 更新:梁 陽日
UP:20080918 REV: 20090828
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