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『家族とは何か――その言説と現実』

Jaber F. Gubrium & Tames A. Holstein, 1990 What Is Family?, California: Mayfield Publishing Company, 178.
=19970525 中河伸俊・湯川純幸・鮎川潤 訳,新曜社,369p.

last update: 20140821

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■Jaber F. Gubrium & Tames A. Holstein, 1990 What Is Family?, California: Mayfield Publishing Company, 178. ISBN-10:0874848784 ISBN-13: 978-0874848786 \3675 [amazon][kinokuniya]
=19970525 中河伸俊・湯川純幸・鮎川潤 訳, 新曜社,369p. ISBN-10: 4788506009 ISBN-13: 978-4788506008 \3675 [amazon][kinokuniya]


■内容(「まえがき」より)

 これは家族の言説についての本である。本書を書いたのは、現実から言説を切り離してしまえば、私たちの関心の対象である家族が無意味なものになってしまうと考えるからである。以下のページでは、さまざまな人生を歩む人たちが、自らや他者や、彼らの対人関係などと関連づけながら家族について語ることに焦点を合わせる。家族は法的に定義されもているし、生物学的に定義されてもいる。にもかかわらず、家族に関わるものの日常的な現実は、言説を通じて創り出される、というのが本書のテーマである。つまり、家族とは、社会的なきずなや感情の具体的な組み合せであるだけでなく、関係について考え、語る方法でもある。[Gubrium & Holstein 1990=1997:ii]

・帯
 家族とは人々の行動やことばによって、日々つくられていくものである。――新しい切り口からのアプローチ


■書評・紹介

田淵 六郎 1998 「J.F.クブリアム、J.A.ホルスタイン著『家族とは何か――その言説と真実』」『家族社会学研究』10(2):152-154
苫米地 伸 1999 「書評 J・F・グブリアム、J・A・ホルスタイン著 中河伸俊・湯川純幸・鮎川潤訳『家族とは何か--その言説と現実』」『家族研究年報』24:64-67
日本経済新聞 19970727 「家族とは何か J・Fグブリアム J・Aホルスタイン著」日本経済新聞 朝刊


■言及

田渕 六郎 2000 「構築主義的家族研究の動向」『家族社会学研究』12(1):117-122


■目次

目次 i

第1章 家族とは何か 1
 言語の使用と家族の構築 13
 見るために聞く 18

第2章 新たな視点―社会構築主義 25
 家族の言説 28
 家族の言説の歴史 36
 家族の言説の社会的配分 47
 家族を発見する場所としての世帯 51
 記述という行為を研究する 56
 証拠と調査の概要 61

第3章 私領域のイメージ 75
 イメージという概念 76
 固有の家庭の秩序 80
 家族は世帯にある? 96
 特権的なアクセス 112 

第4章 大文字化された家族 121
 常識的な問いという形での家族への挑戦 123
 ローカルな資源 130
 全体としての家族のふるまい 140
 表示の装置 147
 家族の用法 155
 
第5章 記述における世帯の用法 159
 世帯の記述に求められる項目 161
 物理的な外見 165
 世帯のある場所 174
 非定住性 178
 個人的なスペース 183

第6章 日常の行為における特権的な知識 193
 特権的アクセスの原則とその実際 194
 特権的な知識のクレイム 198
 ネイティブの真正さの放棄 200
 客観性のクレイム 209
 専門知識のクレイム 214
 反専門家主義 220
 否認 225
 
第7章 組織への埋め込みと家族の多様性 231
 組織への埋め込み 233
 誰が家族か 238
 家族であるとは何を意味するか 249
 家族の用法と制度化された思考 256

第8章 家族の用法と社会統制 265
 規範的統制としての現代の家族イデオロギー 268
 解釈の統制と社会的影響力 278
 攻撃の余地のない家族による説明 283
 フォーマルな統制と常識による理論化 291
 
第9章 家庭生活の記述に関する文化―考察と展望 305
 関心の構図 306
 関心の構図の適応 308
 ローカルな文化 311
 実体から行為へ 314
 私領域のイメージの使われ方 320
 家族は消滅しつつあるのか 324

訳者あとがき 331
索引 (1)


■引用

「私たちは、家族のイメージが、イデオロギーという形の統制として、西欧文化のコンテクストの範囲を超えて広く使われているのに気づく。たとえば、現代日本での家族という語の用法に含まれる統制を見てみよう。トーマス・ローレン(一九七四)による日本の銀行のエスノグラフィーには、家族のイメージとイデオロギーが、社内の対人関係の理想的なパターンを伝えるために使われる様子が記述されている。ローレンは、その銀行のことを「一つの大きな家族」と呼ぶ行為[プラクティス]の中に、根源的な社会統<0267<制が具体的に現れていると指摘する。[…]アメリカの企業も、こうしたイメージの力を見逃してはいない。たとえば、食料品の分野のある企業グループが自らを「ベアトリス・ファミリー」と呼ぶのがその証拠である。」[Gubrium & Holstein 1990=1997:276-277]

「「家族のプロトタイプ」は、一定の範囲内の問題的な状態や状況を意味をなす形で説明するための、制度化された資源[リソース]として登場したのである。今日、家族は私たちの生活から消滅したという発言をしばしば耳にする。しかし、事実はまさしく反対だといえる。家族が説明や解釈にじつにさまざまなやり方で適用されるようになったため、それは、社会生活のほとんどありとあらゆる局面に何らかの形で姿を現すように見える。文化的な品質保証として幅広い領域で優位に立つようになったおかげで、家族は、過去においてのような認識可能な独自の組織的基盤を失ったのである。」[Gubrium & Holstein 1990=1997:293]

「社会統制の代行者[エージェント]は、常識的な家族のイメージを使用すると同時に、それを維持する。人が伝統的なイメージと一致する生活と行動をしていれば、その人自身が基本的には伝統的なのだと理解される。そうした人が逸脱行動を行っても、それはその人の尊法性を根本から踏み外したものではなく、一時的もしくは過渡期的な逸脱だとみなされるからだ。伝統的な家族の社会的配置[アレンジメント]を尊重し、支持することを通じて、その配置自体が奨励され、適切な暮らし方として暗に擁護される。」[Gubrium & Holstein 1990=1997:303]

「家族の秩序について、フェミニズムやその他の別の選択肢[オルターナティブ]となる考え方が広まれば、「進んだ」裁判官や検事、あるいはその他の司法や社会生活、家庭の事柄の関係者が、「家族のプロトタイプ」を他の形の社会的配置[たとえば、ゲイのカップルや非親族からなる世帯といった――訳者]に当てはめるようになるいというのは、善し悪しはさておいて、まったくありうることだ。どんな社会的配置が家族的なものとして歓迎されても、あるいは家族的でないとしてあざけりの種になっても、その差異を明確化し、それに意味を付与するのは、やはり家庭生活の言説なのだ。それは、私たちの時代において保証書代わりとなる言説なのである。」[Gubrium & Holstein 1990=1997:303]


「では、家族とは何だとということになるのか。家族とはイメージ、もしくは関心の構図だといえば、それで私たちは満足できるのか。そうだとすれば、家族は純粋な抽象概念であり、認識可能な観念のセット<0318<だということになるだろう。それとも、家族は一種の文法なのだろうか。つまり、社会関係に意味を付与するための処方箋なのだろうか。この見方をとれば、家族は、私たちがお互いの間のやりとり(相互行為)の場で、行動を組織化するための規則のセットだということになる。その規則が、何が家族的であり何が家族的でないとされるかを示すのである。
 私たちが各章で紹介してきたさまざまな記述という行為は、家族的なものが、観念であると同時に具体的な実体でもあることを示していると思われる。行為[邦訳傍点]、観念と「もの」とを統合するのである。だから、記述という行いに注目することが、私たちの問いに答える足がかりになるだろう。家族は記述という行為の一対象であり、したがって単なる「もの」やきずなの客観的なセットではないし、単なる社会関係の質についての観念でもない。それは、経験を材料にして、解釈を通じて組み立てられた一つの対象(客体)である。家族的なもの[ザ・ファミリアル]を記述する中で、私たちは、それに関わる当事者たちは、事実上、自分たちの社会関係についての日常的な認識に依拠して解釈作業をしているのだということを発見する。彼らは、その事柄についてさらに深く考えなけれならなくなるときが来るまでは、そうした日常的な認識を程度の差こそあれ決定的なものだとしてみなしている。彼らの作業は絶え間のない定義の過程ではなく、むしろ、状況によってパターン化されているもののようにみえる。彼らの家族のきずなをめぐって、自明視されていた理解に挑戦するような事態が起こる。すると、そうした事態によって、私たちが「家族プロジェクト」と呼ぶものが発動されることになる。家族的なもの[ザ・ファミリアル]の記述<0319<に関わる人たちは確かに、社会的構築の実践者[ソーシャル・コンストラクショニスト]である。しかし、彼らの作業は、夕食のテーブル、該当、病院の中、治療センター、カウンセリング機関、家庭裁判所といった、それが行われる場所での記述をめぐる諸条件に明らかにされる。」[Gubrium & Holstein 1990=1997:318-320]



*作成:中村 亮太
UP: 201408017 REV: 0821
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