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五十嵐 敬喜・小川 明雄 199703 岩波新書新赤版492,228p. 660 (購入額の約3%が、また以下の[boople]のところから買っていただけると5%が、寄付されます。) ・五十嵐 敬喜(いがらし・たかよし)・小川 明雄 199703 『公共事業をどうするか』,岩波新書新赤版492,228p. ISBN:4-00-430492-X 660 [boople]/[bk1] ・この本の紹介の作成:江畑明宏(立命館大学政策科学部2回生) 序章:公共事業に「ノー」の声 序章ではあるものの、現在の公共事業の限界について簡単に記してある。 1996年7月に開かれた経済同友会での会合中にオリックス社長が当時の建設省に対して行った批判に端を発し、公共事業の限界、行政の肥大化、公共事業増大に伴う財政支出の増加で起こりうるであろう財政破綻の可能性に簡潔に言及している。また書籍中では通常経済界の会合では、行政に対して公共事業の要求を行いそれに伴う予算の分配を要求するのが通例であるが、逆に批判を行うどころか公共事業のもっとも高いシェアを持つ建設省(当時)に対して公共事業の疑問・批判を呈したことは重要であると記してある。 第1章:破綻する公共事業 この章では公共事業の肥大化、それに伴う疑問について具体的に論じている。この章内であげられている主な具体的事例を挙げていくと、阪神高速道路の公害問題である「国道43号線訴訟」という事例から、現在も建設が進んでいる高速道路に対する需要と供給の問題。1996年に開かれた「国際ダムサミット」中での日本の研究員が発表した日本のダム建設の有効性に対する疑問、それに伴う会計検査院からのダム建設に伴う有効性への疑問の提示。鳥取・島根両県にまたがる中海干拓の問題での住民の反対の意思表示、それに逆行する行政の行動。農水省の国道に平行している高規格農道建設を事例にした農水省の公共事業のあり方。需要を無視した港湾建設を行う運輸省(当時)への疑問。全国総合計画(全総)における国土庁(当時)への疑問などである。 これだけ挙げていくと、一見「破綻」とさほど関係ないように見受けられるかもしれないが、ここでの大きなポイントは、公共事業の暴走から今までのシステムが破綻しつつあるそのようなことではないだろうか。そう考えられる 第2章:公共事業が止まらないわけ この章では章名の通り、公共事業の止まることのない、止まることのできない訳について言及している。おりしも本書が発行された1997年はそれと前後して官僚のスキャンダルが表面化し、大きくバッシングされた時期である。それに例をとり「果たして官僚が良い官僚になれば公共事業が減り、適切な供給ができるか」と問いかけ、「できない」と答えている。その理由が公共事業の暴走する原因につながっていき、そこから現在の官僚制の問題にまで言及している。具体的事例であると、まず官僚制の弊害の前に高速道路整備問題を例にした「全総」の問題点について論述してある。全総については第1章で取り上げていたが、それについて詳細に記してある。この全総は1950年に策定され、これまで4次にわたり計画が進められてきた。その中で大きな役割を果たしてきたのが「全国一日交通圏」の主力として道路整備問題である。そこに端を発し、あまりに肥大化してしまった公共事業の弊害について論述してある。そして、それを取り巻く財源問題、キャッシュフローの問題、政官業の癒着について触れられている。そして、官僚制における天下りや官僚独自のスタンスなどの弊害をあげていて、これら多数の要因が絡むことにより「公共事業が止まらない、とめることができない」という結論を出している。 第3章:米国公共事業の転換 アメリカでは1996年にオーバンダムの建設に議会がNOという意思表示を行った。このオーバンダムに関しては、1960年代に洪水を防ぐ目的で計画されたものであるが、度重なる反対で20年余りにわたり工事が中断されていた。その再開について論議されたのだが、そこで大きな変化が起こった。それが「公共事業の転換」である。確かにオーバンダムの対象地域では計画が策定された後も大規模な洪水が起こり、大きな被害が発生している。その点からも当初は工事が再開されるものと考えられていた。しかし、それにNOを突きつけたのは施工者である陸軍工兵隊であり、議会であった。その理由は「人工物による自然の脅威を防ぐことの限界」と「新しいものを作るのではなく現状で最も有効な資源を使い対処する」という形に転換したからである。そしてダムとともに公共事業の転換例として現れたのが「道路整備計画の完結」である。アメリカは車社会でありながら可住地域あたりの高速道路整備率は日本の4分の1以下である。にもかかわらずどうしてその結果が出てくるのか、理由は環境問題などもあるが、最も大きいのは有効性を審議して整備の財源を出す側の国民が決定主体となって決定することである。そしてその際に重要になる議会の存在、ロビー運動について言及をしている。また司法が積極的に行政に関与することにより、無駄な公共事業が削られていく一面もあるとも言及してある。 それらが重なることでアメリカでの公共事業は縮小する反面で有効性を増していると述べられている。 第4章:公共事業を外堀から攻める ここでは2章と3章で公共事業に対してのブレーキがあるアメリカとそれがない日本という2つの例を挙げた上で、日本において公共事業をスリム化させていくにはどうすればいいかという点に具体的に言及している。 その中で挙げられていたのが、市民団体による活動、情報公開制度、地方分権の推進である。 まず市民団体による活動であるが、アメリカでは先述のロビー運動のように市民団体が大きな役割を果たしている。だが日本ではそれに程遠く、ようやく環境アセスメントが動き出したというような現状である。確かに本書が執筆された当時に比べれば市民団体、環境アセスメントともに成熟度は増しているとは思われるが、それでもまだまだである。そのようなところから公共事業に対して疑問を呈することの重要性が述べられている。 次に情報公開制度であるが、わが国は官僚制という独特のシステムによりこまで政官主導の公共事業が進められてきた。そのなかで情報を公開するというプロセスがなく、ほとんどが伏せられてきた中でこれまでは進められてきたといっても過言ではない。それに対処するために政官が徹底した情報公開を行うことにより、そこから情報を得、公共事業に対しての疑問を投げかけていこうというものである。 最後は地方分権の推進である。たとえば河川の管理、港湾の管理、道路の管理などその種類・規模により管理主体は様々であり、それが弊害となり、多くの自治体が効率よい管理ができない現状がある。それに公共事業が入り込んでいることもあり、簡単にスリム化しようと思っても困難な点が多い。それを解決するためのひとつの手段として述べられている。各自治体が管理することで適切な需要・財源を管理することにより、もっと有効な措置が取れるのではないだろうかという考えである。 以上三点が公共事業のスリム化として4章で挙げられていたものである。 5章:公共事業の再生 前章で外堀を埋めたのに対して、ここでは「本丸を変えよう」というような論述がなされている。若干内容が先述の部分と重なってしまう点があるかもしれないが、どのようなことかというとシステムの変更ということである。 そもそも全総に代表されるように官僚制により日本の国土計画は官僚によって策定され進められてきた。諮問機関・審議会などは存在するものの、それらはいわばゴーサインを出すだけの機関と形骸化してしまい、「国権の最高機関である国会」もこれらの審議には大きく関与できないのである。そのような密室で決められる計画に対し、それを表に出すシステムを作ることで国民の目に触れさせ、行政主体の目に触れさせブレーキをかけさせようという狙いである。 そしてこの章でもうひとつ筆者が訴えているのが「過去の現状にとらわれた計画自体の改革・破棄」である。全総を例にとってももともとは敗戦直後に策定されたものであり、高度経済成長・所得倍増計画などの目的の一環で進められてきたものである。だが、その流れも大きく変わって久しくなるが、いまだにそれらを変革させようという兆しがない。いわば、現状を見極めた上で計画を策定するべきであろう。そのような考えである。それらシステムを変えることにより、外側だけではなく、内側からも変えていこうという考えである。 第6章:21世紀のデザイン ここではどちらかというと私の印象では公共事業で現状がどれだけ切迫しているか、その部分にウエイトを置いているという印象が強かった。具体例を挙げるとインフラ整備は諸外国の2倍に達しているにもかかわらず、公共事業予算は増えていき、そのしわ寄せが福祉予算に及んでいる、ということである。またそれでもまかないきれない部分が増税として国民に及んだり、公共事業の一環で進められてきた原子力行政のしわ寄せなど、多くの問題が「後遺症」として重くのしかかっていることを述べている。その上で各公共事業に対して地方から反対の声が大きく上がりだしていることにも言及している。そのような中で、ダム・道路など公共事業よりも現状の自然を使ったほうがそれ以上の効果が望めること、などについても言及しており、第3章で触れていた「既存のものを有効利用する」ということが重要であり、それらを決定するのは官僚ではなく、その対象主体(地方自治体など)であると締めくくってある。 私がこの本を選んだ理由はこの本が「公共事業について基礎的なこと」が記されているからである。書籍中にも若干記述されているが、公共事業の必要性についてその疑問が呈され久しい。対象住民の中からNOという意思が出てくる例も最近では出てきたが、それを除いてはほとんどその実質を変えていないのではないだろうか。そんな中での公共事業はどのようなものであり、どのような中で成長を遂げ、またその限界、これから先の公共事業はどうあるべきか、それらについて記されてある。書籍の発行年は1997年3月と今から6年ほど前のものではあるが、書籍の内容自体は現在でも充分通用するものであると考えている。 最後に 私自身、南九州の出身であり、来月開業する九州新幹線などの問題など、数多くの問題が論議されていることをよく目にする。新幹線を例に取ると、確かに遠方からの移動に対してはもっとも有効であるが、地元の反応はといえば冷ややかである。一番驚いたのがJRの駅員でさえ新幹線の開業に対しては疑問があると言っていたことである。確かに潤わないといえばそれは嘘であり、工事主体であれ、終点の鹿児島市であれ、観光収入であれ、潤うだろうと考えられるが、裏を返せば潤うのは挙げていってもそれぐらいしかないということである。途中の停車駅、JRから切り離される在来線など、逆に新幹線により不便になる、ヒトやモノが流れ出てしまうであろうといわれている。だが、それに対して行政は言及することなく、新幹線ありきで物事を進めているのが現状である。地方活性化というものの、それはあまりに地方活性化には程遠い。そんな中での今月のサンデープロジェクトでの特集で疑問を呈していたのは新鮮すら覚えた。完全に対象主体を否定した、策定主体が物事を中央で進めていった、そんな顕著な例ではないだろうか。そう捉えることができると思う。 だがそのような公共事業は何もこれに始まったことではないし、これだけでの問題でもない。全国にある数多くの中でのほんの一部でしかないのだ。この本は公共事業に対してNOを突きつけるものに近い印象を私自身受けたが、逆にインフラ整備が整っていない現状を実家に戻るたびにみると、それはそれでインフラ整備の重要性についても考えることがある。そのような両極な考えから複雑な感想を抱いてしまった。 「中央集権のパラドックス」といわれ、確かに日本の近代化に官僚制が果たした役割は非常に大きいのは現実であり、否定することはできない。ただし、それが大きな後遺症を残しているのも事実である。そのような中での公共事業のあり方について、現状を踏まえた上で言及した本書の意味は大きいのではないだろうか。それが私のこの本を通読した感想である。 UP:20040210 ◇2003年度受講者作成ファイル ◇2003年度受講者宛eMAILs ◇本 TOP(http://www.arsvi.com/b1990/9703it.htm) HOME(http://www.arsvi.com)◇ |