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『生命の意味論』

多田 富雄 19970225 『生命の意味論』,新潮社,243p.


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■多田 富雄 19970225 『生命の意味論』,新潮社,243p. ISBN-10: 4104161012 ISBN-13: 978-4104161010 1890 [amazon][kinokuniya] ※

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内容(「BOOK」データベースより)
私はどうして私の形をしているのか。遺伝子が全てを決定しているというのは本当か。男と女の区別は自明なのか―。「自己」とは何かを考察して大きな反響を呼んだ『免疫の意味論』をさらに発展させ、「超システム」の概念を言語や社会、都市、官僚機構などにも及ぼし、生命の「全体」にアプローチする画期的な試み。

内容(「MARC」データベースより)
「免疫」機能の分析をとおして個体の生命の全体性について論じてきた著者が持論をさらにすすめ、DNAの決定から離れた自己生成系として生命を見、自己多様性、自己組織化などの特性を持った超システムとして位置づける。

■目次

第1章 あいまいな私の成り立ち
第2章 思想としてのDNA
第3章 伝染病という生態学
第4章 死の生物学
第5章 性とはなにか
第6章 言語の遺伝子または遺伝子の言語
第7章 見られる自己と見る自己
第8章 老化―超システムの崩壊
第9章 あいまいさの原理
第10章 超システムとしての人間

■引用

第4章 死の生物学 79-100

 「脳死の問題がほとんどの国民を巻き込んで議論されていた時も、生物学者からの発言は皆無だった。生命そのものを研究対象とし、生命については専門家として責任を持った発言をするべき生物学者が、脳の機能を失われた状態で継続している身体の生命については、一言も弁護しなかった。私がこのことを指摘した(「科学」六十一巻八号、巻頭言)後でも、発言はなかった。それは、<0079<生物学が生の学問であり、その対極にある死は全く見ていなかったからであろう。
 人間の生死を扱う医学でも、死の医学というのはなかった。死は、医師にとっては常に敗北であり、あってはならない事故(アクシデント〔ルビ〕)であった。患者の死を迎える医学という一章は、内科の書物にも外科の書物にもなかった。医学では人間は不死であるべきだったのだ。
 さすがに人間の病気のことを扱う病理学では、病気の帰結や原因としての、細胞や組織の死についての記載はある。そうはいっても、病理学における細胞の死は、何らかの外力によって細胞が破壊されてしまう、受動的な死だけであった。
 […]<0080<[…]
 しかし、数少ない生物学者が、細胞の死には、受動的には壊死(ネクローシス〔ルビ〕)とは違った死に方があることに気づいていた。顕微鏡で組織の標本を毎日眺め続けていた病理学者の中には、癌細胞や老化した細胞、さらに壊死に至らない程度の軽い障害をうけた細胞には、細胞膜が破壊されるより前に、細胞の核の構造が不明瞭になって暗く均一になってゆくものが現れて、やがて細胞そのものが消滅したり、他の細胞に貪食されてしまったりするものがあることに気づいていた。[…]
 本当に注目をあびたのは、一九七二年に三人の病理学者が、この現象にアポトーシスという名を与え、概念化したときからであった。述語というものが、いかに科学の発展や思想の形成に重要であるかを示す好例である。<0082<
 […]<0099<[…]
 死の生物学は、いまブームを迎えつつある。不死の細胞である癌の発生、エイズにおける免疫細胞の際限ない死、アルツハイマー病での中枢神経系の進行性の死など、いずれもアポトーシスが鍵を握る重大な病気である。
 人間のゲノムの中に、個体を構成する細胞の死のプログラムがこれまでほどまでに明確な形で存在していたという事実は、生命観そのものにも影響を与えるであろう。生命はもともと死すべきもの(「死すべきもの」にルビ「ルータル」)として生まれてきたのである。」(多田[1997:]79-100)
■書評・紹介・言及

◆立岩 真也 20100701 「……」,『現代思想』38-9(2010-7): 資料


UP:20080610 REV:20120101
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