HOME > BOOK >

『生命の哲学――有機体と自由』

Jonas, Hans 1997 Das Prinzip Leben,Ansatze zu einer philosophischen Biologie, Frankfurt am Main.
=20081101 細見 和彦・吉本 陵 訳,法政大学出版局,499p.


このHP経由で購入すると寄付されます

■Jonas, Hans 1997 Das Prinzip Leben,Ansatze zu einer philosophischen Biologie, Frankfurt am Main =20081101 細見 和彦・吉本 陵 訳 『生命の哲学――有機体と自由』,法政大学出版局,499p. ISBN-10: 4588009036 ISBN-13: 978-4588009037 \6090 〔amazon〕

内容(「BOOK」データベースより)
生命存在に目的はあるのか? 不死なる原理は存在するか? 太古の有機体生命の発生から、反省的知性を獲得した人類の時代まで、自然史における生命の意味とは? 20世紀という大量殺戮の時代を生き延びたユダヤ人哲学者が、西欧近代をつくりあげた数学的・機械論的世界観、進化論、実存思想などの現代哲学総体から、生物の自由の基礎を徹底的に思考しなおす。今日の倫理学の根拠を問う名著、待望の完訳。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
ヨーナス,ハンス
1903年にデュッセルドルフ近郊で裕福なユダヤ人の家庭に生まれる。ハイデガー、ブルトマンのもとで哲学と神学を学ぶが、ナチス政権の成立とともにイギリスに亡命し、イギリス軍のユダヤ人部隊の一員として戦争に参加。のちにパレスチナに渡り、さらにカナダを経て、最終的にはアメリカ合衆国に定住。1979年に刊行された『責任という原理』によって、現代の技術文明のもたらしている危機を鋭く問いかける哲学者としてにわかに注目を集めるようになり、ドイツ出版平和賞も授与される。初期の宗教研究をまとめた代表作に『グノーシスの宗教』があるが、ヨーナスは脳死や臓器移植をめぐる生命倫理学の論客として、また「アウシュヴィッツ以降の神学」を問いかけた哲学者としても重視されている。マールブルク大学時代からのハンナ・アーレントの生涯にわたる友人でもあった。1993年にニューヨークで死去

細見 和之
1962年生。大阪大学大学院人間科学研究科修了、人間科学博士。現在、大阪府立大学人間社会学部准教授
吉本 陵
1978年生。関西学院大学総合政策学部卒業。現在、大阪府立大学人間文化学研究科博士後期課程在学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


■目次

まえがき iii
緒論 生命の哲学の主題について 1
第一章 存在についての理論における生命と身体の問題 12
第二章 知覚、因果性、目的論 43
第三章 ダーウィニズムの哲学的側面 67
 補遺 生命の理論に対するデカルト主義の意義 98
第四章 調和、均衡、生成―体系概念およびそれを生命存在へ適用することについて 104
第五章 神は数学者か?―物質交代の意味について 125
 補遺1 自然を解釈する際、数学はギリシアでどう用いられたか 175
 補遺2 ホワイトヘッドの有機体の哲学に対する注釈 181
第六章 運動と感情‐物質交代の意味について 185
第七章 サイバネティクスと目的―1つの批判 203
 補遺 唯物論、決定論、精神 235
第八章 視覚の高貴さ―感覚の現象学の試み 248
 補遺 視覚と運動 276
第九章 ホモ・ビクトル、あるいは像を描く自由について
 補遺 真理経験の起源について 316
移行部 有機体の哲学から人間の哲学へ 331
第十章 理論の実践的使用について 340
第十一章 グノーシス主義、実存主義、ニヒリズム! 377
第十二章 不死性とこんにちの実存 412
エピローグ 自然と倫理 445

原注 449
初出一覧 473
解説『生命の哲学――有機体と自由』について(吉本陵) 475
訳者あとがき(細見和之) 493
人名索引 巻末(1)


■初出一覧(pp473-474)

第1章 Life, Death, and the Body in the Theory of Beings, Review of Metaphysics 19, 1(1965); Das Problem des Lebens und des Leibes in der Lehre vom Sein, Zeitschrift fur Philosophusche Forschung 19,2(1965)
第2章 (?) Causality and Perception, The Journal of Philosophy 47(1950)
第3章 Materialism and the Theory of Organism, University of Tronto Quarterly 21(1951)
補遺 Spinoza and the Theory of Organism, Journal of the History of Philosophy 3, 1(1965)‐以下にも収録‐The Philosophy of the Body, ed. St. F. Spicker, 1970(この本には一部を収録)
第4章 Bemerkungen zum Systembegriff und seiner Anwendung auf Lebendiges, Studium Generale 10,2(1957)
第5章 Is God a Mathematician?, Measure 2(1951)
第6章 Motility and Emotion, Proceedings of the 11th International Congress of Philosophy (Brussel 1953), vol.7
第7章 A Critique of Cybernetics, Social Research 20(1953).
第8章 The Nobility of Sight, Philosophy and Phenomenological Research 14(1953/54). 以下にも収録‐The Philosophy of the Body, ed.St.F.Spicker, 1970
第9章 Hemo pictor und die differentia des Menschen, Zeitschrift fur Philosophische Forschung 15, 2(1961); Homo Pictor and the Differentia of Man, Social Research 29(1962). ドイツ語で以下にも収録‐Zwischen Nichts und Ewigkeit, 1963
補遺 The Anthoropological Foundation of the Experience of Truth, Memories del XIII Congresso International de Filosofia (Mexico 1964), vol.5
第10章 The Practical Use of Theory, Social Research 26(1959). 以下にも収録‐Philosophy of the Social Sciences, ed. M. Natanson, 1963
第11章 Gnosticism and Modern Nihilism, Social Research 19(1952).ドイツ語で以下にも収録‐Zwichen Nichts und Ewigkeit, 1963
第12章 Immortality and the Modern Temper(The Ingersoll Lecture, 1961), Harvard Theological Review 55(1962).ドイツ語で以下にも収録‐Zwischen Nichts und Ewigkeit, 1963


■要約

第8章 視覚の高貴さ‐感覚の現象学の試み
 ギリシア哲学の時代以来、目は感覚のなかでもっとも優れたものと賞賛されてきたが、個々の感覚の比較や評価はされておらず、視覚のどんな性質に高い哲学的栄誉が与えられるのか、説明されていない。視覚が認識という任務を果たすためには、他の感覚および機能による補完を必要としており、それ自体としては不完全なものである。視覚の長所は短所でもあり、どんなに優位であっても、いっそう高い依存性という代償を支払わなければならない。
 以下では、古代から視覚に対して掲げられてきた要求が正当であるとともに制限されたものでもあることを論じる。視覚の比類のない特徴は、図像能力のうちにある。ここで、「図像」はつぎの三つの特徴を含んでいる。すなわち、(1)ある多様なものを描くという意味での共時性、(2)感覚-触発という因果性の中立化、(3)空間的・精神的意味での距離、である。この3点についての考察は、感覚の現象学に寄与するだけでなく、それらが精神的な能力に果たす役割の評価にも寄与するだろう。

I 図像の共時性、あるいは視覚における時間の局面
 視覚は、同時的なものないし並列されたものに対する感覚である。一つの眺望には、多くの事物が部分として共存しており、そのような多様なものを、静止しうるものとして直観する。
 視覚以外の感覚は、自らが知覚する「多様なものの統一」を、さまざまな感覚の時間的連続から構成する。感覚の内容は、一つの質的存在が、先行する感覚から後続する感覚へと移行する際の通過点にすぎず、共時的に一つの全体として現存することはない。それゆえ時間といっそう強く結びついている感覚は、対象に対して、自分のあり方から対象それ自身のあり方を切り離すことができない。視覚は、一つの視野を提示することによって、あらゆる瞬間にこの切り離しを成し遂げている。この相違は、聴覚と触覚に即して示すことができ、視覚との比較に役立つ。

(1)聴覚
 聴覚の対象の広がりと知覚の広がりは一致している。聴覚が多様なものを総合することで目ざしている全体は、時間的な全体であって、その時間の幅は、感覚の活動の時間の幅と同一である。
 響きが直接露わにしているのは、客体が存在している場所における力学的な出来事であり、その出来事の瞬間に当の客体が置かれている状態は間接的に露わにされているにすぎない。落ち葉のなかで動物がたてるカサカサという音は、音を発する行為によってその事物の現存を示し、次に、音は、その音を生み出す出来事や行為を暗示し、次に、音そのものを対象とする聴覚の経験は、音を生み出しているものを、物音から独立した現存する主体として明らかにする。とはいえ、活動主体が音響を生む行為の前後にもそこに存在することを知るのは、その音以外の情報からであり、事物の存在を示す指標は、音自身の本質にとっては外的なのである。
 他方、対象との関係が外的であるというこの弱点のゆえに、音はそれ以外のものを表わす義務から解放されて、音自体のもつ内在的な「対象性」を構成するのに好都合である。個々の要素が現存するときには、残りの要素はもはやないかまだないかであり、これを統一的知覚へと総合することは、記憶の助けによる時間的な過程である。この記憶と予期によって、瞬間ごとに実現されるものが、統一的な経験へと結び合わされるのである。こうして生み出された音の「対象」は時間的対象であり、この対象はそれを総合する働きが続くのと同じだけ持続する。
 時間に支配されながらも聴覚は、同時的な音の「共存」を知っており、それはつねに時間における進行の共存である。この一群の音の区別には、音の高さや音色等の質的な差異が必要であり、時間の経過のなかでその差異が維持されることによって、「さまざまな音の束」は同定可能となる。それに対して、現実の空間は同時的で分離した多数性という原理からなっていて、質的な差異には左右されない。多声音楽における個々の音の束が示す「同一性」は、型をそなえた連関の相関物である。とはいえ、大きな音が同時に鳴っている小さな音を呑み込んでしまうように、ここでもまた、各部分が損なわれることなく保たれる共時性の境界は限定されている。
 これは、視覚を聴覚と比較するための重要な特徴である。つまり、ある音が自分の耳をとらえるまで待たねばならないように、音を知覚する者は、自分の管轄外で生じる出来事に依存する受動的な主体なのである。私たちが目におけるまぶたに対応するものを耳にはもっていないことについて、この性格から理解することができる。私たちは、音がいつ生じるか知らないのであり、音が生じるとき、自分のまわりの環境が変わらず存在していることを知るとともに、その環境における突発的な出来事の知らせを受け取るのであり、環境における変化は、生命にとって重大な意義をもちうるのだから、両耳はいつでも開かれていなければならないのである。
 こうして主導権はすべて外界にあり、知覚する者は聴覚の偶然的性格を一方的に負わされている。聴覚が根本的な偶然性をそなえているもっとも深い根拠は、それが実在ではなく出来事に、存在ではなく生成に結びついているという事実にある。こうして聴覚は連続的な経過と結びついていて、さまざまな対象を同時的・並列的に表わすことがなく、その感覚の所有者がどれだけの自由を得られるかという点では、視覚よりも劣っている。

(2)触覚
 触覚は、データを継趨的に受容するというあり方を聴覚と共有している一方、与えられたデータを客体の静態的な現在へと総合するというあり方を視覚と共有している。触覚を分析するのは、知覚の現象学において、もっとも困難である。というのも、さまざまな感覚のなかで触覚は、もっとも分化していないとともに、生理学的構成においても接触感覚を最下層に置くさまざまな機能の複合体だからである。ここではテーマを、知覚された感覚の質的存在に限定しよう。
 最初に見て取らねばならないのは、触覚の捉える形態は根源的なデータではなく、時間的な形成物である、ということである。柔らかい、硬い、ザラザラしている、ツルツルしているといった触覚の質的存在は、その瞬間の経験ではなく、一連の多数の感覚が付け加わることによって出来上がるのであり、運動を必要としているのである。それゆえ、触覚は、知覚する者の側で総合が働いている。触覚と聴覚は、知覚された質的存在が本質的に時間的存在であるという点において、一致している。
 とはいえ、聴覚の過程が受動的であるのに対して、触覚の過程は身体的な能動性を含んでいる。そのとき接触は受動というあり方から行為へと移行し、接触の歩みは、知覚するものの支配下に入る。
 触覚に質的存在をもたらす随意的な運動という要素は、触覚の基本的な質的存在に含まれていなかった空間的な属性を開示する。すでに働いていた触覚の質的存在の最初の総合は、それ自身素材として、空間的に統一された秩序へ入ってゆく。このいっそう高い秩序の総合は、聴覚においては一つの時間的対象に行き着くのに対して、触覚においては一つの空間的対象の現前に行き着く。
 実際の形を感じ取るための器官は、おそらくは人間の手にのみ存在している。触覚は、視覚のもつ諸能力のいくつかを有しており、触覚と視覚とを隣り合う能力としているのは、図像能力である。人間を特徴づけるのは視覚能力だが、そのような視覚能力をもつ被造物のみが、触覚を代理として「見る」ことができる。盲人が両手で「見る」ことができるのは、彼らが両目を欠いているからではなく、彼らが「観る」という能力を与えられながら、視覚の第一次的な器官を奪われている存在者だからである。

(3)視覚との比較
 視覚は、時間との関わりをもっていない。聴覚は時間系列という次元の内側にとどまっている。触覚は、感覚内容自体の部分として時間という要素を含んでおり、そのような第一次的な感覚が連続的に総合されることで、空間が組み合わされる。データ獲得の時間秩序については、触覚においてはデータ獲得の偶然的な順序にすぎないが、聴覚においては対象の秩序それ自体である。したがって、これら三つの例は以下の定式で区別されると思われる。すなわち、聴覚は連続による連続の描出であり、触覚は連続による同時性の描出であり、視覚は同時性による同時性の描出である。
 この定式によると、視覚は、触覚能力が最高度に発達した場合と比較しても、比類のない立場を保っている。一定の領域を手で触れて集められた情報がどれほど緻密に配置されても、空虚な空間は残るのであり、それは想像によって満たされねばならない。部分的な情報の収集によって得られた完全性は、共時的な形態へ統合されるのであり、それを作り出すまでの時間経過は忘却される。したがって触覚においては、視覚において一つであるものを、区別しなければならない。すなわち、感官それ自体の直接的な能力と、この能力にもとづく図像描出という間接的な能力である。二番目の能力は、厳密にはもはや触覚が扱う事柄ではなく、触覚素材による、ある種の見る行為(想像する行為)なのである。

(4)視覚と時間
 視覚は眼差しを調節することで、共時的に利用可能な領域全体から好きなものを見ることができ、それによってほかの選択可能性を犠牲にすることはない。共時的な図像は、多くの事物を一度に表わすだけでなく、それら相互の関係をも表わしており、だからこそ客観性は主として視覚から生じる。
 時間という局面そのものについて言うと、視覚の共時性は、多様なデータを連続的に集めるのに要する時間を省くことができるという実践的な利点をもつだけでなく、見ている者に現在という次元を、逃げ去ってゆく「いま」の点的な経験を超えるものとして知らしめる。視覚以外の感覚において、感覚の流れは、過去へと消えてゆくものを連続させるために、さらに進まねばならない。流れを止め、ある瞬間の「断面」を「見る」ということは、その音のスナップショットを手にすることではなく、その音のバラバラの断片をもつことであり、厳密に言えば、何ももたないことである。それゆえ、過ぎ去ってゆくことが音響的な「いま」の本質である。ここで「現在」とは聴取者にとって、継続的な流れの過程においてもっぱら一緒に漂っていることを意味している。触覚においても、能動的な行為の過程であるという違いがあるだけで、事態は類似している。両者は存在の感覚ではなく、生成の感覚なのである。
 視野のもたらす共時的な表象には、あらゆる事物が共通の現在として包括されている。その次元における事物を見回すことは、時間のなかで生じるが、それが明瞭に示すのは、見回すあいだに変化せずにとどまっているもののみである。客体の変化が視野に現われると、時間は目に見える姿で動き始める。視覚の同時性のみが、客体の持続する「現在」を伴っていることによって、生成と存在の差異を、可能にするのである。視覚以外の感覚は、変化を報告するのであって、このような差異を作り出すことはできない。したがって、視覚のみが、決して変化することなくつねに現前するものについての思想をはじめて把捉しえた際の、感覚的な根拠を与えてくれる。
 生じうる出会いの領域全体を、瞬時に見渡すことができるという共時的な視野においては、私が能動的なやりとりをまだしていないところで、多様なあり方が配置され、可能な行為の選択肢として提示されている。このような文脈においては、同時性は選択可能性とほぼ同義であって、自ら運動する動物のもついっそう高度な自由の、主要な要素なのである。

II 力学の中立化
 この選択の自由が依存しているのは、現前の同時性のみではなく、因果性の欠如がある。触覚体験を得るには、それ自体、主体と客体が互いに影響を与え合っている。聴覚においては、行為は私の側でなされていないが、客体の側で行為がなされている。音が伝えているのは、事物の現存ではなく出来事なのだから、その音の情報によって私の行為が指示される。視覚には、このような動的な事態、因果性が関係のなかに入り込んでくることが欠如している。視覚にとって、光源、光に照らされている客体、知覚している目の三者のあいだで、動的なやりとりが生じているかは、無関係であり、視覚の「図像機能」によって、その客体の動的な内容が中立化される。この中立化は、視覚的な被造物である人間の、その認識における得失の考量に役立つ。
 利益としては、見る対象である事物の客観性がある。また、現前する対象と図像を切り離し、想像力によって扱うことができる。これが抽象作用であり、自由な思考の基盤をなす。ただし、これは「作曲」として想像された響きのように、音響的なものにも当てはまるが、これは事物の世界といかなる関係ももたない。これに対して、視覚による空想は、事物の世界との関係が保持されている。
 損失としては、このような高度な発展を可能にしている性質である視覚における因果連関の脱落自体が挙げられる。因果性の欠如は、互いに対する自己完結性をもたらし、これによって視覚は、感覚のなかでもっとも自由であるが、もっとも「実在的」ではない感覚となる。実在性が証言されるのは、物理的な力の経験と混じりあった感覚である触覚においてである。したがって、視覚が事物との因果関係から切り離されていることを利点として語るならば、その利点は、結果として、視覚の対象から因果性についての証言を奪うものでもある、と付け加えねばならない。

III 空間的な距離
 描出の共時性も力学の中立化も、距離という契機がなければ不可能である。多様なものが共時的に描出されうるのは、それが残りを覆い隠すほどに私の近くに押し寄せていない場合のみである。客体が私の身体領域に侵入して来る場合には、因果性は中立化されえない。
 遠隔感覚である視覚が最良の視点を得る隔たりは、対象や目的によって変化するが、その強みは遠さである。他の遠隔感覚である聴覚と嗅覚では、隔たりを広げることは、喪失するだけであり、隔たりを縮めることで質の高い情報が得られる。
 距離について、この量的な側面に加えて、強調に値するのは、視覚において距離が経験される仕方である。客体への距離を、聴覚と触覚においては、たんに離れたものとして伝えるのみであるのに対して、視覚においては、私から対象へいたる広がりの終点として見ている。視野には、眼差しが照準されている現実の内容と潜在的な内容が融合されている。確かに、場所の移動と結びついている触覚にも、隣の地点へと移動する意識が含まれているが、そこで意識されているのは、バラバラの部分を継続的に追加して、少しずつ全体を生じさせることである。視覚のこうした空間の展開には、無限性の萌芽が含まれている。
 距離をおいて知ることは、適切な振る舞いのための時間を稼ぐことができ、自由が増大する。また、事物を共時的に表象することは、選択の機会が提示されているがゆえに自由が増大する。視覚の自由のこの二つの局面が、一つの行為において統合されていることが、感覚の王国における自由の頂点を飾る成果である。
 冒頭で問題にした古代哲学における視覚に対する偏愛の根拠を、視覚に固有の長所として示してきた。そこでは、視覚を論じた三つの局面のそれぞれにおいて、哲学の根本概念の基盤を見いだしさえした。描出の共時性は静止した現在という理念、変化と変化しないもののあいだの対比、時間と永遠のあいだの対比をもたらす。力学の中立化は質料と異なるものとしての形相、現実存在と異なるものとしての本質、さらに理論と実践の違いをもたらす。最後に距離は無限性という表象をもたらす。こうして、視覚が指し示したところへ、精神は歩んでいったのである。

補遺 視覚と運動
 第8章の本論で論じたのは、目に見える世界の動的ではない性質と、感覚に生じる出来事を「固定化する」変換だった。行為の領域は視覚に最初から存在する要素であることから、ここにおいて運動が担っている役割についての注釈が必要となる。

I 認識論における実践の忘却
 視覚は対象からの離脱の度合いがもっとも大きいがゆえに、知覚が行為に依存しているというテーゼを、他のどの感覚の場合よりも疑わしくする。にもかかわらず、視覚において知覚が行為に依存していることが見いだされるなら、他の感覚では、なおさらということになる。
 カントは、認識のための知覚素材がどのように組み立てられているかという問いを、私たちの存在の受動的な要素である「受容性」と能動的な要素である「自発性」が、どのように相対的に関与しているか、という問いとして定式化した。とはいえ、カントが「能動性」として理解していたのは、精神的な能動性(悟性のカテゴリーによる感覚素材の形式的な分節化)であって、身体的な行為ではなかった。理論的主体を実践から切り離しうるという発想、さらには「たんなる」感性と感覚認識は受動的ないし受容的本性をもつという発想は、哲学の伝統に深く根ざしていて、認識論の歩みを決定的に規定してきた。この偏りを修正しようとする反対運動(それはヘーゲルの『精神現象学』とともに始まり、決然とした声高なプログラムとしてのプラグマティズムを含む)は、逆の偏りへと誘惑されるという自ずと生じる危険に曝されている。
 以下の考察においては、「行為」は運動の基本的な意味で、すなわち身体を動かし、また身体によってほかの事物を動かすという意味で、用いられる。そして「受動的なもの」はこの文脈では感覚刺激によって表わされるがゆえに、以下の考察のテーマは感性と運動能力の相互的な関係と呼ぶことができる。

II バークリーにおける触覚の優位
 バークリーは古典的な著作『視覚新論』(1709年)において、視覚のデータは、触覚のデータと相関することによって空間的(三次元的)な感覚を獲得する、というテーゼを主張した。近代の心理学は、視覚が他の感覚からの情報から独立して空間を知覚することを証明したが、バークリーのテーゼによれば、視覚は平面的であるがゆえに、観察者からの隔たりを欠いており、視覚より触覚に優位が置かれる。
 とはいえ、空間を感覚的に構成するうえで、身体の運動性が、どのように関わっているか、という問いに決着がついたわけではない。すなわち、「実在性」という点で触覚に優位が与えられたのは、触覚のもつ活動という要素のせいだからである。運動には、視覚形態が現実にもっている物体性とその形態が配されている独立した空間の形成を、はじめて保証する要素が存在しているのである。注意しなければならないのは、運動がそのような働きをもつには、それが私の振る舞いでなければならないということである。本論で説明したように、触覚が、個々のデータを共時的な全体へと結晶させることは、運動感覚の側面なしには成立しえない。

III 視覚と身体感覚
 触覚において知覚が運動に依存しているということは、受動的な感覚であり、静止状態が最良の条件である視覚には、適用できないように見える。しかし、見るまえの運動がなければ、「見る」ことが可能な状態にはならない。すなわち、目をその一部とする身体を私たちは「所有している」のであり、身体は自らの位置と位置の変化を感じ取ることによって動的に環境世界に組み込まれていることを体験するのであり、この身体感覚という背景がなければ、空間認識が与えられることはない。このテーゼは、視覚を客体へ関係づけるのを助ける神経筋の調整機能や、幼児が対象に手で触れることで目に見える事物の物体性と距離感を経験して、それを視覚に組み込んでゆくことのように、さまざまな次元で根拠づけることができる。私が論じたいのはさらにその先、すなわち視覚のパースペクティヴはたんなる運動ではなく意図的運動に依存しているということである。

IV 湿行為としての運動
 パースペクティヴについては、観察者の運動に伴って視点は移動するものであることが意識されていなければならない。対象の配置を同一に保持しておく能力は、パースペクティヴに生じる歪みを理解するための必然的な条件である。したがって、必要なのは、そのような運動と結びついた変化パターンの経験の記憶であるかのように思えるかもしれない。しかし、運動が運動である証拠が視点の移動にほかならないとすれば、その運動自体はどのように運動として経験されたのだろうか、という認識論的な循環がある。行為としての運動が決定的となるのはまさにこの点においてである。
 仮に目をそなえた羽のついた種子が風に吹かれて飛んでいる場合、知覚されるのは、たえず変わる二次元の多様な視覚像が時間のなかで連続している、ということだけである。その図柄の交代は位置とも、位置によって規定される特徴とも関係をもたないので、その種子が空間の知覚を獲得するのに役立たない。
 この例と自ら動く動物の例の違いは、自ら動く動物は、筋肉を動かすことで自らの場所を変化させることにある。それは、そこで生じる相対的な運動が、力の相互作用によって、幾何学的な状況から力学的な状況を生み出すことを意味している。有機体にとっては、自らを動かす運動感覚的な自己知覚(自己受容性)が、有機体が行なう運動から空間的な距離と方向を構成する際の導きとなるのである。この運動感覚的な自己知覚と、その同じ行動をいつでも繰り返し実行できるという可能性の二つが、空間が静止して現前しているように見えるということの根底に存しているのである。
 したがって、身体はそれ自体経験されるべき空間の一部でありながら、自己運動する能力をもつものだが、空間においてそのような身体を所持していることこそ世界を見るための前提条件をなしている。それゆえここには、静態的な経験の枠組みである私の身体を原点とする空間座標を、動態的なものである過程が構成している、というパラドクスがある。感覚受容が知覚にまで高まらねばならないかぎりは、動くことそれ自体のために感覚受容を必要とする運動性は、それ自体で感性の根本構成に関わっているのである。


第12章 不死性とこんにちの実存
 こんにちの人間は不死性という思想に耳を傾けたがらないが、その理論的根拠は決定的ではない。不死性それ自体は、超越的な対象であって、反証と論証の彼岸にあるのではあるが、対象についての理念は存在するのである。
 この理念の意味のもつ内的な重要性がその理念の信頼性を測る唯一の尺度とならねばならない。何が有意味かは、判断する精神の全体的な傾向に依存している。私たちはこの精神に対して、不死性という思想に耳を傾けない態度について問い尋ねるとともに、不死性という理念が日陰に追いやられながらも依然として主張しうる何らかの根拠についても、問い尋ねなければならない。つまり、ここでの問題は、不死性という概念の吟味であるとともに私たち自身の吟味でもある。

I 名前や影響の不死性はもはや信頼しえない
 現代の精神は、不死性の理念を歓迎しないが、ある種の不死性の理念に対しては「立ち入り許可」を示している。この「立ち入り許可」が明確になるのは、現代の精神がそれなくしてはいまあるような姿を取ることはなかったに違いない、否定的な背景に照らした場合のみである。
 まず否定的な側面である。最初に、不死性のうちでももっとも世俗的な概念である不死(不朽)の名誉という形での生き残り方を取りあげてみる。これは古代において最高のものと評価され、高潔な行為の報酬であり、動機であった。広く人々の注意を引き、記憶されるためには、行為は目に見えるものでなければならず、したがって公的なものでなければならない。この生き残り方が可能なのは、それが獲得される領域である政治的共同体においてである。共同体が永久に続く人間の生であるのと同様に、不死の名誉は永久に続く公的な栄誉である。
 栄誉の価値は、それを授ける者の判断のもつ価値と同等であることに、すでにアリストテレスは気づいていた。だとするなら、栄誉を求める願望や、死後も栄誉が続くことを求める願望を正当化するものは、名誉を語り継ぐ人々(の判断)と、共同体が際限なく存続してゆくことに対する信頼が不可欠となる。
 これらの点すべてに関して、現代人はギリシア人のように無邪気な信頼を抱くことはできない。不死性の栄誉において、大多数が排除されているという側面については、これはその選別の正当性を信じることができさえすれば受け入れ可能かもしれない。しかし、世論操作に見るように、私たちは、公的な領域において不死性を伝達する手段である言葉が腐敗した虚偽の媒体であることを知ってしまっている。さらに、概して騒々しいものや人目を引くもののほうが評価の対象になりやすいということからして、心ある人々の感情を傷つける。ヒトラーとスターリンは、名誉に満ちていることと卑劣極まりないことが、不死性という点では同じ結果になるという、耐えがたい視点を私たちに突きつける。
 名前の不死性を渇望するのは、虚栄心の強い者のみであって、誇り高い人物は、自分の作品が匿名のまま影響をもち続けることで満足するのだともいえる。これは、不死性の経験的概念の別の形態である影響の不死性であるが、こんにちの私たちには、価値が正しく判別されて時の流れのなかで保持されてゆくなど、信じることができない。
 ところが私たちは、ごく最近、行為の影響を保管するものである社会と文化自体が滅びうるものであることを経験した(おそらく「キューバ危機」の暗示)。これによって、名前の不死性と影響の不死性という二つの概念はその妥当性を奪われることになる。それは、一握りの誤りやすい被造物にゆだねられていることを露わにしたのである。

II 人格の不死性、現象と本質の区別の不可能性
 あの世という未来における人格の存続という思想は、こんにちの精神状況にはいっそうそぐわない。人格の存続という要請の背後に元来存在している非経験的な考察は、生物であるがゆえに死をまえにすると尻込みしてしまうという問題を度外視すれば、正義という主題と、現象と現実の区別という主題の二つに分けられる。両者は、人間が道徳的主体という形而上学的身分をそなえており、したがって、感性的秩序にくわえて道徳的ないし叡知的秩序に属しているということを認めている。
 正義の原理は、応報の正義であれ補償の正義であれ、有限な時間のなかで生じる功績や過失に対する有限な時間のうちでの報いを求めているのであり、それ自身の尺度からすれば、不死性の要求を支持するものではない。さらにここで、不当な苦しみ、断念された機会、逸せられた幸福の埋め合わせに関しては、次のような考察を付け加えることができる。幸福の埋め合わせを要求すること自体がすでに疑わしいのであり、埋め合わされうるのは、努力、抵抗、不確実性、可謬性、一度きりの機会、限定された時間という条件のみであって、成功も失敗も保証しない条件である。リスクなしで保証された至福は、逸せられたものに支払われる贋金でしかない。
 ここには、現象と現実の区別に対して現代の気質が感じている応答も含まれている。この区別を説く観念論の哲学者たちは、自分たちが現象へと引き下げているものに敬意を示しておらず、外的世界の衝突から庇護されていた結果、外的世界をまるで劇として観察することができたのではないだろうか。ブーヘンヴァルト収容所の写真、歪んだ表情に目を向けて恐れおののくとき、私たちはこの現象と真理は何か違ったものだという慰めを拒絶する。私たちは、私たちにとって現実として現象しているものが真剣に受け取られることを求める。私たちが意識してきたのは、時間は現象のたんなる形式ではないどころか、むしろ自己の本質に属すとともに存在の本質に属しているということ、そして、個々の自己にとって自らの有限性は、自らの実存が本来的でありうるための不可欠の条件である、ということだった。
 こうして、現代の気質は、有限性のもたらす不安と痛みとを手離したくないのであり、自らが滅びうることを要求するのである。私たちは、この理論に賛同するにせよしないにせよ、こんにちに生きる者としてその精神を十分共有しており、その結果、「以前」と「以降」という二重の無の狭間に身を置いているのである。

III 決断の瞬間と永遠性
 それでいて私たちは、時間性は真理のすべてではありえないと感じている。というのも、私たち死すべき定めにある者の経験には、出来事の流れのなかでなされる努力を超越するという、時間的なものが永遠のものに対してもつ関係についての証言がときおり見られる。これを不死性への私たちの参与を表わしているものへの示唆とすることができる。どのような状況で、どのような形式において私たちは永遠のものに出会うのだろう?
 その証明の手続きに引き合いに出すものとして、神秘的な経験を出したのでは、すべてを心理学化して捉える現代精神の抱く不信に曝されるだけだろうし、愛や美との出会いを出したのでは、その出会いが私たちの意のままになるかのようである。むしろ、私たちの存在全体が賭けられているような決断の瞬間には、私たちはあたかも永遠の眼差しのもとで行為しているかのように感じる。このような決断ということで私たちが意味できることは何か、もっと言えば、決断がそのようなものであって欲しいという意志によって、私たちは何を意味することができるのか?
 私たちが大事にしている信仰のイメージや像に応じて、私たちは自分の感情をさまざまなシンボル表現で表わすことができるだろう。
 「超越的な秩序に拭い去れない刻印を残す……。あるいは、その行為は、善もしくは悪という形で、おそらく私たち自身の運命ではないにせよ、その超越的な秩序に影響を及ぼす……。私たちは自分の行為に対して時間を超えた裁きの場で弁明する責任を負っている……。あるいは、時の流れに押し流されて私たちがもはや弁明のためにそこにいることがないとすれば‐私たちの永遠の像は私たちの現在の行為によって規定されるのであって、私たちがいまここでその像にくわえるものによって、私たちはそれらの像の精神的な全体に対して責任を負っており、その像の精神的な全体はつねに成長しながら生きられた存在の総計を自分のうちに統合しつつ、私たちの行為をつうじて変化するのだ……。」
 ここにおいて永遠と無は一致する。すなわち、「いま」はその絶対的な立場を、時間が認める究極の瞬間であることによって正当化する。終局に直面しているかのように行為することは、永遠に直面しているかのように行為することである。とはいえ、終局をこのような仕方で理解するということは、それを時間の彼方からの光のもとで理解することである。

IV もっとも持続から遠いものが私たちを永遠と結びつける
 ここで私たちがあげたシンボル表現は不死性についてではなく永遠について語っている。この永遠はもちろん死からの自由を意味しているが、必ずしも私の自由を意味しているわけではない。とはいえそれは、死すべき定めにある私の実在に属する何かによって、永遠に参与しうる関係を有しているに違いない。その「何か」とは何でありうるだろう?
 これらのシンボル表現において永遠と関係することになっているのは、感情の領域ではなく決断と行為の領域、つまり受動的な本性ではなく能動的な本性だった。しかし、無限な広がりをもつと考えられるのは感情であり、決断は瞬間のうちに含まれて運ばれてゆくものであり、そして、不死性を要求して瞬間に対して「止まれ!」と言うのは感情であり、活動はとどまることを望まない。これは、自己を否定するもののうちに、永遠への関係を探し求めねばならない、というパラドクスのように見える。とはいえ、このパラドクスはそれ自身のうちに手がかりを含んでいる。というのも、延長をもつものは、長かろうが短かろうが終わりをもたなければならないのに対して、行為はそれが生み出される「いま」によって切断されており、持続の長短とは無関係な意味の超越によって凌駕されているからである。したがって、私たちを永遠へと結びつけているのは、時間的な流れの広がりではなく、瞬間の点なのだろう。それは、神秘主義者が時間の運動からの解放を味わう静止する「いま」としての瞬間ではなく、まさに時間の運動を生み出し、それを内的に動かすものとしての瞬間である。瞬間は、それが始めた運動にすぐに絡め取られてしまうとはいえ、責任をもって行為する者を永遠と時間のあいだに置く。
 私たちの見たところでは、現代の立場は、私たちの存在が有限な状況に内的に関係づけられているという意識にはなはだしく浸透され、存在が無限に引き延ばされるあり方を考えることにすら強い不信を抱いている。しかし、上記の方向で不死性の概念を探究することは、このような現代の立場と合致する。そしてその探究は同様に、不死性のさまざまな伝統的な理念のなかで、たとえ誤った姿においてであれもっとも意味ある形で適用された局面と合致している。
 ここまで、名声という手段が疑わしいこと、時間のなかに存在する功績と永遠の報いを同列に論じることが誤っていること、無限なる完全性の議論およびそれにもとづいて正当と称されるものについての議論が効力をもたないことを確認した。けれども以上のすべてにかかわらず、これらの不死性の理解のすべてに含まれている正義の側面は、それが決断と行為の領域に付与する超越的な尊厳のために、依然として肯定の念を呼び起こさせる。これからすでにあげた像のなかからいくつかのものを詳しく検討するのだが、その際には、私たちの活動的な経験、自由、責任が示唆するものに従ってゆき、「行為の不死性」という概念を実験的な仕方で手引きとすることにしよう。実際、それらの像自体、その種の活動的な経験の示唆するものに由来しているに違いないのである。私はそういう比喩的表現から二つのものを取り出したい。すなわち「生命の書」と超越的な「肖像」である。

V 「生命の書」と超越的な「肖像」
 「生命の書」というシンボルは、ユダヤ教の伝承においては、天上の台帳を意味しており、私たちの名前が功績に応じて書き込まれている。しかし、これをそれ自体として意味あるものと見なして、行為それ自体が記入されているものと理解するなら、行為それ自体が現世に関する永遠の記録簿に登録される、ということになる。これについて、死すべき行為者である私たちは、自分の果たした行為がそこにくわわる不死性にもはや賭け金を置くことはできないにしろ、まさしく私たちの行為は、未確定で脆弱な永遠性が私たちのうちに置いている賭け金である、と考えることはできないだろうか?
 さらに手がかりとなる比喩に、グノーシス主義の文献の超越的な「肖像」がある。その肖像の一つ一つの描線は、私たちが行なう行為によって描き加えられてゆく。天上にある人格の永遠の自己であるもう一人の「私」は、地上の「私」の努力によって完成されるのである。
 肖像という象徴表現には、集団レベルのものも存在する。マニ教の教えによれば、すべての生命は、終末に完成される「最後の像」を作り上げる作業にたえず携わっていて、神が起源において有していた全体性を最終的な姿においてもう一度作り出すのである。
 これらの比喩は、現代精神には受け入れ不可能であるが、総体的な像というこのシンボルは、私たちに語りかける力をもっている。その意義について、私としては、こんな具合に語るだろう。束の間の「である」がたえず「であった」に貧り食われてゆく、時間をもつ世界の出来事において、一つの永遠の現在が育ってゆく。その永遠の現在の相貌は、神的なものが時間のなかで経験する喜びと苦しみ、勝利と敗北をつうじて描線が刻まれてゆくにつれて、ゆっくりと姿を現わす。それらの経験はこのような仕方で不死のものとして持続する。絶えず消え去ってゆく行為者ではなく、彼の行為そのものが生成する神のなかへ入りこみ、決して確定されることのない神の像を、拭い去れない姿で形成する。この万有において賭けられているのは神自身の運命なのである。神は自らの実体を、知を欠いた万有の過程にゆだねたのであり、人間は、この最高の、つねに見捨てられうる信託財産の、卓越した管理者となったのである。ある意味で神の運命は人間の手に握られているのだ……。
 この見方が仮説的な前提として肯定されるなら、それは永遠の関心についての主観的な感情を形而上学的に正当化する客観的根拠を差し出すことができる。そしてこれらの経験が、私たちの本性がもつ不死なる側面の唯一の経験的な印しであるだろう。

VI 仮説としての神話
 このような仮説的な断片にふさわしい形而上学として、神話を用いてみる。
 始まりにおいて、私たちには知りようもない選択によって、存在の神的根底は、生成という偶然と冒険と無限の多様性に全面的に身をゆだねることを決定した。すなわち、損なわれていない神の部分は残っておらず、創造という姿での神の運命が仕上げられるように、彼岸から迂回路を経て導くことはできなかった。とはいえ、それは汎神論的な内在の意味においてではない。もしも神と世界が同一であるなら、世界はあらゆる瞬間にあらゆる状態において神の充溢を表わしているのであり、神は何かを失うことも何かを得ることもありえない。むしろ世界がそれ自体として存在するために、神は自らの存在を断念したのである。
 そして、何アイオーン(永劫)のあいだ神の事柄は、コスモスの偶然と戯れがもたらす可能性に守られている。その一方で、物質の旋回の倦むことのない記憶が集り、漠とした期待へと高まってゆく。この期待とともに永遠なるものが徐々に付け加わってゆき、不透明な内在から超越が姿を現わすのである。
 その後、生命の最初の胎動が生じ、それとともに永遠の領域における関心が上昇して、永遠の領域の豊かさを取り戻そうとするにいたる。生成する神が期待を寄せていたのは、まさしく世界のこの偶然のあり方であり、この偶然のあり方によってこそ、生成する神の高価な賭け金が最終的に取り戻される可能性がはじめて示される。
 しかし、注意しなければならないのは、生命とともに死が現われることである。とはいえ、有限な個体の自己感覚、行為、苦悩において、神の領土は彩り豊かに展開し、神は自分自身を経験するにいたるのである。したがって、死を条件に個体として区別された自己は、それによって自身に課した代償を自己保存の衝動として示しているのであり、自己に不死性を要求するのは不合理である。
 同様に注意しなければならないのは、知の登場に先立って生命が無垢であるときには、神の事柄が道を逸脱することはありえない、ということである。進化は、神的根底が行なう自己経験を豊かにする。進化は、自身の欲求を満たすことによって、神の冒険の正しさを示している。とはいえ、同様に神は無垢なる進化に守られているのであって、本当の意味では勝つこともありえない。そこで、神のなかにある新しい期待は、内在の無意識的な運動が徐々に向かっている方向に対する応答という形で成長してゆく。
 そして、進化が無垢が終わる敷居を踏み越えるとき、神は身震いする。その瞬間、自己充足的な生命の主体という無垢なあり方は、善悪の分離のもとでの責任という課題に道を譲り、これ以降、神の事柄は、この責任の遂行という次元のもつ好機と危険にゆだねられる。神の像は、この最後の転換によって人間による不確かな管理のもとへ移行する。その結果、神の像は、人間が自分と世界に関して行なうことによって実現されることになる。人間の不死性は、人間の行為が神の運命に打撃を与えるという事態に存するのである。
 人間の登場とともに、超越は自分自身に目覚め、それ以降は息を凝らして人間の行為によりそっている。超越は、人間の行為に明滅する自分の状態を反映するように、この世の舞台での力学には干渉することなく、それでも自分自身の存在を人間が感じられるようにしている。

VII 人間における二つの責任
 形而上学が休止している状態では、直接的な概念では語ることさえできない真理を暗示しうる神話という手段を用いざるをえない。
 同様の思弁的な態度で続けるなら、私の神話が暗示する形而上学からある種の倫理的な帰結が生じる。一つ目は、私たちの生の軌跡が神の姿を形づくる描線となるのならば、私たちの責任は地上における帰結という観点にのみ規定されるわけではなく、地上を超えた次元にまで関わっている、という意義である。
 さらに超越は、両義性をもつ私たちの行為の成果とともに成長するがゆえに、私たちが永遠に対して残す刻印は善になるとともに悪にもなる。私たちは、私たちの行為が痕跡を残さないように望むカモシレナイガ、私たちの行為は描線を引いたのであり、それは認められない。
 とはいえ、描線が残るのは個人の運命それ自体のなかにではない。個人は本性上時間的であって、永遠ではない。それに対して、個々の人格は、不死の事柄に関する死すべき定めにある受託者として、瞬間という時間において自らの自己を享受する。瞬間とは、時のなかにある決断に対して永遠が自らを剥き出しにして差し出す手段だからである。生成という媒体において働くものとして、すなわち、一度きりで消えてゆくものとして、存在する人格の私性は、永遠なるものの賭け金なのである。
こうして、有限な生の軌跡のもつ反復不可能な機会において、出発が繰り返し決断されねばならない。無限に持続するものならば、決断の断面を鈍磨させるし、状況の呼びかけからその切迫性を奪ってしまうことだろう。
 このような存在論的考察を度外視するとしても、人間は永遠の生命という贈り物を要求する道徳的な請求権をもたない。なぜなら、そもそも世界が存在する必然性はないのだから、人間は、実存を与えられたこと自体に感謝する責務を負っている。私たちの神話はこの神秘をシンボルの形で映し出そうと試みるものだったのだ。
 自分自身の不可侵性を放棄することによって、永遠の根底は世界が存在することを許した。神は自らを生成する世界に譲り渡したあとでは、もはや与えるべきものをもっていない。いまや神に与えることが人間の務めであり、それは、人間が生の行程において、世界を生成させたことへの後悔が神に生じないように気を配ることによって行なわれる。
 しかしこれで終わりではない。こんにちではむしろ、死の可能性をもつ冒険が不死なるものに辿りつくことより、この冒険それ自体を救い出すことが重要である。原子爆弾のようなテクノロジーによって生命界全体が危機に陥っているのであり、この危険に対処しうるのは、私的な現存在の秘められた道徳性ではなく、この地上での影響を目的とする公的で集団的な行為のみである。その際見すごされてならないのは、絶対に許容されないことを防ぐために、善は悪とどのような同盟関係に入ってゆかねばならないか、ということである。「洪水があるとしてもそれは私たちよりあとのことだ」という悪しき裏切りから、神の地上における冒険を守るのは、私たちの責任の側面である。
 考察の終点において、私たちは人間の二種類の責任を区別することができるだろう。一つは地上の因果性の尺度にもとつく責任であって、それによれば、人間の行為は近い未来ないし遠い未来に影響をおよぼしつつ、最終的にはその未来のうちに消えてゆく。もう一つの責任は、人間の行為が永遠の領域に参入するという尺度にもとつく責任であって、この領域においては人間の行為は決して消え去りはしない。前者が偶然と幸運に翻弄されるのに対して、後者は理解可能な規範のもつ確実さをそなえている。道徳的責任のこの二つの側面は相互に溶け合っているが、それは、未来全体が危機に曝されることで、未来の保護が形而上学的な関心となり、その保護に携わる決断の「瞬間」が超越的な義務とされるからである。
 科学的な認識に、従来知られることのなかった役割が与えられるというこの新しい状況に対して、従来の義務論では準備を整えることができない。確かなことは、私たちの課題に取り組むよう呼びかけるものが現に存在している、ということだけである。


*作成:植村 要
UP: 20090705 REV:
身体×世界:関連書籍 1990  ◇BOOK
TOP HOME(http://www.arsvi.com)