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『中断された正義――「ポスト社会主義的」条件をめぐる批判的省察』

Fraser, Nancy 1997 Justice Interruptus: Critical Reflections on the "Postsocialist" Condition, Routledge
=20031110 仲正 昌樹 監訳,御茶の水書房,364 3400 ※



Fraser, Nancy 1997 Justice Interruptus: Critical Reflections on the "Postsocialist" Condition, Routledge. [独語訳[2000]・西語訳[1997]あり] amazon
=20031110 仲正 昌樹 監訳,『中断された正義――「ポスト社会主義的」条件をめぐる批判的考察』,御茶の水書房,364 ISBN-10: 4275002938 ISBN-13: 978-4275002938 3400 [amazon][kinokuniya][bk1] ※

◇Fraser, Nancy→http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/fraser.htm

■内容説明[bk1]

 「ジェンダーの「批判理論」の提唱者ナンシー・フレイザーが「経済的不公正」と「文化的不公正」の複雑な絡み合いを系譜学・意味論的に解きほぐしながら、打開に向けてのプラグマティックな戦略を呈示する。」

  序論

  第1部 再分配と承認

 第1章 再分配から承認へ――「ポスト社会主義」時代における正義のジレンマ?
 第2章 家族賃金の後に――脱工業化の思考実験

  第2部 公共圏、系譜学、そして象徴的秩序

 第3章 公共圏の再考――現存する民主主義批判のための論考
 第4章 セックスと嘘と公共圏――クラレンス・トーマスの承認についての検討
 第5章 「依存」の系譜学――合衆国の福祉制度のキーワードをたどる
 第6章 構造主義か、語用論か?――言説理論とフェミニズム政治について

  第3部 フェミニズム的介入

 第7章 多文化主義、反本質主義、ラディカル・デモクラシー
     ――フェミニスト理論における現在の行き詰まりを系譜学的に捉え直す
 第8章 文化、政治経済、差異
     ――アイリス・マリオン・ヤング『正義と差異のポリティクス』について
 第9章 間違ったアンチ・テーゼ
     セイラ・ベンハビブとジュディス・バトラーへの応答
 第10章 主/僕モデルの彼方へ
     ――キャロル・ベイトマンの『性的契約』について


第1章 再分配から承認へ――「ポスト社会主義」時代における正義のジレンマ?

*初出は以下らしい?
 Fraser, Nancy 1995 "From Redistribution to Recognition? Dilemmas of Justice in a 'Postsocialist' Age", New Left Review 212 (July/August 1995):68-93=200101 原田真美訳,「再分配から承認まで?――ポスト社会主義時代における公正のジレンマ」,『アソシエ』5:103-135(『アソシエ』に掲載された訳がNew Left Reviewに掲載されたものによるのかどうかは確認できていない。)
 山本崇記氏による紹介→http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1990/9500fn.htm


第8章 文化、政治経済、差異――アイリス・マリオン・ヤング『正義と差異のポリティクス』について

*「この章は、1992年12月29日ワシントンDCで開かれたアメリカ哲学会の東部大会の「著者が著者に出会う」セッションに提出したペーパーの改訂版である。」(p.310)
 『正義と差異のポリティクス』→http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1990/9000yi.htm

二焦点的シェーマにおける承認の問題の優位 289
抑圧を定義する 292
社会集団を定義する 295
抑圧の五つの顔 299
応用 304
差異化された差異のポリティクス及び承認の批判理論に向けて 307

・二焦点的シェーマにおける承認の問題の優位 289

 「「配分のパラダイム」に対するヤングの批判を、全く額面通りに受け取るべきではない。私から見れば、それは曖昧で混乱したものである。一つの側面から見れば、それは、個人に割り当てられた収入や仕事や地位といった目に見える財や地位の配分の最終状態のパターンのみに――それが生産される際の隠された構造的プロセスを問うことなく――焦点を当てるアプローチに対するマルクス主義の批判を繰り返すものだ。この場合、批判のターゲットになるのは、「生産の視点」に対するものとしての、「配分の視点」である。しかしもう一つの側面として、ヤン(p.289)グは、潜在能力に対立する意味での商品の配分に焦点を当て、それによって人々をエージェント(行為体)ではなく受動的な消費者と見なすアプローチに対するアマルティヤ・センの反論を繰り返している。この場合、批判は配分それ自体ではなく、財の悪しき配分に向けられる。そして最後の第三の側面では、ヤングの批判は、センのそれのように、潜在能力のような知覚できないものを、配分の焦点かつ対象として扱うアプローチに向けられる。ここで批判のターゲットになるのは「物象化」である。」(pp.289-290)
 「ヤングの議論は、物象化についての彼女の懸念にもかかわらず、広い意味での配分のパラダイムの中にはっきりと位置付けられることになる。」(p.290)

 「ヤングの議論が、現代の「新しい」社会運動に帰属意識を抱いていることを反映して、承認のパラダイムは、否定しようもなく支配的な位置を占めている。実際、彼女が明言している目標とは、フェミニズムやゲイ、レズビアンの解放運動、反人種主義といった運動の政治的実践に潜在している正義論を解明し、擁護することにである。彼女が呈示している運動が他の運動と異なるのは、それが支配的な文化を抑圧の中心と見なし、「同化という理想」を拒否し、差異の承認を要求している点である。従って、文化的承認の問題を理論化することは、ヤングの著書のプロジェクトにおいて中心的な意味を持つ。」(p.291)
 「ヤングはまた、「差異のポリティクス」を支持するという視点から、近年の社会運動を取り上げている。彼女はそれを、社会集団の差異が、単一の規範からの逸脱と見做されることがなくなり、文化的なバリエーションと見られるようになる「文化革命」と考えている。ヤングは、そのような差異を廃棄するというには程遠く、むしろそれらを保(p.291)護し肯定することを目指す。このような差異のポリティクスが、ヤングのヴィジョンの中心にあり、ゆえにその著書のタイトルになっているのである。それが、彼女自身が提案する、承認のポリティクスの独特で好ましいヴァージョンなのである。」(pp.291-292)

・抑圧を定義する 292

 「「抑圧とは、ある人々が社会的に認められた設定の中で、十分で広範なスキルを学び、それを用いることを妨げるシステム的な制度的プロセス、もしくは、他の人々とプレーし、コミュニケーションする、あるいは、社会生活の中で他者が聞き取ることのができる文脈で自らの感情やパースペクティブを表現できる能力(ability)を抑圧する制度的プロセスの内にあるのである。」(JPD 38)」(p.293)

 「定義の文化的側面は、抑圧された人々の力量や能力は、本質的にダメージを受けず無傷のままであることを示唆している。つまり、抑圧された人々は主に、その集団特有の文化的な表現形式を誤承認され、過小評価に苦しんでいる、ということである。それとは反対に、政治経済的側面は、抑圧された人々の、一定のスキルを開発していく力量や能力は、妨げられ未だ実現されていないことを示唆している。つまり、抑圧された人々は、社会的に価値のある労働において、自らのスキルを開発し、学び、増大させていく機会の不足に苦しんでいるわけである。従って定義の文化的側面は、過小評価の問題であり、それに対して政治経済的側面は、未開発の問題である。」(p.294)

・社会集団を定義する 295

 「ヤングは、この著書の他の箇所では、様々な異なったシナリオを練り上げている。あるケースでは、社会集団を構成している親近性は、例えばエスニック集団の場合がそうであるように、単純に共有される文化形態の帰結として現れる、としている。しかし他のケースでは、ヤングは社会集団を構成する親近性は、労働の分業における位置の共有の帰結として現れると主張している。そして興味深いことに、その例としてジェンダーが挙げられている。更に他のケースでは、ヤングはとどのつまり、集団を構成している親近性とは、文化を共有したり、労働の分業における位置を共有したりしていなくても、外部からの敵対の経験の共有の帰結として生じることもあると示唆している。」(p.296)
 「私は以下のような語法を提案したい。集団の親近性が、文化形態の共有に基づくものである限り、それを「文化に基づく集団」と呼び、それに対して、集団の親近性が、労働の分業における位置の共有に基づくものである限り、それを「政治経済に基づく集団」と呼ぶことにしたい。」(p.297)

 「ヤングが採用している差異のポリティクスは、とりわけエスニック集団の状況に適した解放のヴィジョンである。問われている差異が、エスニック集団の差異である場合には、それらの差異を肯定し、それによって文化的な多様性を促進することが正義に資すると考えるのは一見して説得力がある。反対に、文化的な差異が、政治経済における差異化された望ましい位置とつながっている場合には、差異のポリティクスは、不適切であるかもしれない。例えば、正義が、労働の分業を再構築することによって、まさに集団の差異化を掘り崩すことを要求するかもしれない。その場合には、再配分によって、承認の必要性が回避される可能性がある。」(p.298)

 「政治経済に根ざしている抑圧の審級を「経済的に根ざした抑圧」と呼び、それに対して、文化に根ざしているそれを、「文化的に根ざした抑圧」と呼ぶことにしよう。
 […]経済的に根ざした抑圧に対する主要な治癒は、労働の分業のラディカルな再構造化である。これには、例えば、課題を定義する仕事と課題を実行する仕事の分割を除去し、社会的に価値があり、スキルを増す活動を全員に提供することが含まれる。」(p.302)< BR>
・応用 304

 「経済的抑圧が再分配によって治癒されるとすれば、”無力さ”と”尊敬に値しなさ”という共通の経験に依拠する親近性集団が生き残るというのは、ありそうにないことだからである。例えば、課題を定義する仕事と課題を実行する仕事の分業が廃止された、と仮定してみよう。その場合、全ての仕事が両方の種類の仕事を含むことになり、専門家と非専門家の間の階級分裂は廃止されるだろう。専門家を非専門家から差異化する文化的親近性も恐らく衰退していくだろう。他の存在基盤は持たないように見えるからである。従って、無力さという政治経済的抑圧との闘いに成功を収めた再分配のポリティクスは、事実上、集団を集団として破壊して(p.304)しまうだろう――ちょうど、プロレタリアートの課題は、階級としての自己を廃棄することだ、というマルクスの主張のように。」(pp.304-305])

 「エスニシティをモデルとして女性の「差異」を肯定することで、女性の文化的抑圧を治癒しようとする闘争は、ジェンダー的分業を廃止しようとする闘争――そこには、ジェンダーの社会的突出を減少させることも含まれる――を妨(p.305)げるかもしれない。結局、前者の闘争は性差をパフォーマティブに創出するとは言わないまでも、それに関心を引き寄せ、誇張することになる。それに対して後者の闘争は、そうした差異を全面的に廃止するとは言わないまでも、最小限化するものである。」([305-306])

・差異化された差異のポリティクス及び承認の批判理論に向けて 307

 「私が取ろうとしている第四の立場は、異なった種類の差異があるというものである。ある差異はタイプIであり、除去されるべきである。他の差異はタイプIIであり、普遍化されるべきである。更に他の差異はタイプIIIであり、享受されるべきである。この立場は、私たちが、どの差異がどのカテゴリーに入るか決定できることを含意している。それはまた、私たちが、劣等か、優越か、等価かといった結論に通じうる規範、実践、解釈、判断の選択肢の間での相対的価値について規範的に判断できることを含意している。それは、あらゆる総花的で差異化されていない差異のポリティクスに対抗することである。」(p.309)


■言及

◆立岩 真也 2003/11/22- 「アイリス・ヤングの勉強会のためのメモ・2――再分配と承認のジレンマ?」
 アイリス・ヤング勉強会


UP:20031125 REV:1126,27
◇Fraser, Nancyhttp://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/fraser.htm
 
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