HOME > BOOK >

『社会は防衛しなければならない――ミシェル・フーコー講義集成6』

Foucault,Michel 1997Ilfaut defendre la societe:Cours au College de France 1975-1976,Gallimard.
=20070825 石田 英敬・小野 正嗣 訳,筑摩書房,304+4p


このHP経由で購入すると寄付されます

Foucault,Michel 1997 Ilfaut defendre la societe:Cours au College de France 1975-1976,Gallimard,
=20070825 石田 英敬・小野 正嗣 訳,『社会は防衛しなければならない――ミシェル・フーコー講義集成6』,筑摩書房,304+4p ISBN-10:4480790462  ISBN-13:9784480790460  \5040[amazon][kinokuniya] s03


■目次

1975―1976年度講義
1976年1月7日
講義とは何か?―従属化された知―闘争についての歴史的知、系譜学と学的言説―系譜学の争点としての権力―権力についての法的理解と経済的理解―抑圧としての権力、戦争としての権力―クラウセヴィッツのアフォリズムの逆転
1976年1月14日
戦争と権力―哲学、及び権力の限界―司法と王権―法、支配、従属化―権力の分析論:方法の問題―主権の理論―規律権力―規則と規範
1976年1月21日
 主権論と支配の操作子―権力関係の分析子としての戦争―社会の二項構造―歴史的=政治的言説、永続戦争の言説―弁証法とそのコード化―人種闘争の言説その転記
1976年1月28日
歴史的言説とその支持者たち―人種闘争の対抗史―ローマ史と聖書的歴史―革命的言説―人種主義の誕生と変容―人種の純粋性と国家の人種差別主義:ナチス的変容とソヴィエト的変容
1976年2月4日
反ユダヤ主義に関する回答―ホッブスにおける戦争と主権―王制派、議会主義派、水平派におけるイギリスの征服言説―二項図式と政治的歴史主義―ホッブスが排斥したかったもの
1976年2月11日
起源の物語―トロイア神話―フランスの継承―「ガリア-フランス」―侵略、歴史、公法―民族的二元性―君主の知―ブーランヴェリエの「フランスの状況」―裁判所文書課、官僚組織、貴族の知―歴史の新しい主体・主題―歴史の構成
1976年2月18日
民族と諸起源―ローマの征服―ローマ人の栄枯必衰―ブーランヴィリエによるゲルマン人の自由について―ソワソンの壷―封建制の諸起源―教会、法、国家の言語―ブーランヴェリエにおける3つの戦争の一般化:歴史法則と自然法則、戦争の諸制度、諸力の計算―戦争についてのコメント
1976年2月25日
ブーランヴェリエと歴史的・政治的連続体の構成―歴史主義―悲劇と公法―歴史の中央管理―啓蒙の問題系と諸知の系譜学―規律的知の4つの操作とその諸結果―哲学と科学―知の規律化
1976年3月3日
歴史知の戦術的一般化―構成、革命、円環的歴史―未開人と野蛮人―野蛮なる物の3通りの濾過:歴史的言説の諸戦術―方法の諸問題:認識論的領域とブルジョワ階級の反歴史主義―革命期における歴史言説の復活―封建制とゴシック小説
1976年3月10日
革命における民族概念の政治的再構成:シエイエス―歴史言説への理論的諸帰結と諸効果―新しい歴史の二つの理解可能性の解読子:支配と全体化―モンロジェとオーギュスタン・ティエリ―弁証法の誕生
1976年3月17日
主権の権力から生命についての権力―生きさせることと死ぬに任せること―人間‐身体から人間‐種へ:生権力の誕生―生権力の応用領域―人口―死について、特にフランコの死について―規律と調整乗の連結:労働者用団地、性現象、規範―性権力と人種主義―人種主義の機能と応用領域―ナチズム―社会主義

■引用

1976/1/7 講義
◆講義の流れ 
1 自身の研究の転回点としての今年講義の位置づけ
2 系譜学という方法
3 権力分析のあり方
3-1 商品モデル(経済現象とのアナロジー)
3-2 「抑圧」-「戦争」モデル
3-2-1 「戦争モデル」=クラウゼヴィッツの逆転

○1
「ここ(コレージュ・ド・フランス)に着任して依頼引き続き行われてきた一連の研究に一定程度けりをつけたい」(p6)
「わたしは、言ってみれば一頭のマッコウ鯨のようなものを演じていたわけで、暫定的で小規模な飛沫の痕跡を残して海面の上へと飛び上がり、人からはもはやよく見えず、誰も目撃することも確かめることもできない海面下では、あたかも深く、まとまりがあり、よく考え抜かれた一筋の水脈を描いて泳いでいるのだと思わせ、人に信じさせ、自分自身も信じたいあるいはおそらく実際に自分も信じているような、そんなマッコウ鯨にたとえられるかもしれません」(p7)
「わたしたちがやってきた仕事は、別の正当化を請けることもできるだろうと思います。…>p9>わたしの言いたいことは次のようなことなのです。ここ10年か15年来諸々の事象、諸々の制度、諸実践、諸言説の非常に大きな、しかも増大し続ける批判可能性というものが現れてきた。」(p8-9)
「この10年か15年来ので季語と第一の特徴といえるのは、批判のローカルな性格というものです。…こうした批判のローカルな正確とは、素朴あるいは愚鈍な経験主義というものを意味しないし、軟弱な折衷主義でも、日和見主義でもない。>p10>第二の特徴に触れることになる。というのも、このローカルな批判というのは「知の回帰」と呼びうる事態をとおして起こってきた。」(p9-p10)
○2
「「知の回帰」という言葉でわたしが表しているのは…諸々の「従属されていた知の蜂起」と呼べる事態が起こっている。「従属化されていた知」という言葉でわたしが表そうとするのは二つのことです。一つは機能的一貫性や形式的体系の中に埋もれて隠されてきた歴史的諸内容をそれは指す…第二には、…非概念的な諸々の知、十部に練り上げられていないとして資格を剥奪された一連の知のことをも理解したいのです」(p10)
「精神医療を受けるものの知、患者の知、看護人の知、医学の知に平行した周縁的なものとしての医師の知、犯罪者の知など、お望みなら「普通の人々の知」と予備隊と思うそうした知(それは、共通の知とか良識の知とかいったもので反全くなく、それとは逆に、個別的な知、ローカルで領域的な知、全員一致するなどということのありえない、周囲のものすべてに対してそれが向ける刃にのみ自らの力を追う差異的な知のことです。)そうした人々のローカルな知、資格を剥奪された知が再び現れてくることで、批判は行われるのです」
「従属化された二つの形式の知においては一体何が問題になっていたのでしょう。それこそ闘争についての歴史的な知というものであったのです。」(p10)
「そうした学問的知識(埋もれた歴史の知)と諸々のローカルな記憶の結合を「系譜学」と呼ぶことにしましょう」(p10)
「系譜学的な企てを貫いているのは、経験主義というようなものではまったっくない。」(p12)
「系譜学というのは、まさに厳密な意味で、反-科学でもあるのです」(p12)
「系譜学というのは、歴史的な諸々の知を、脱-従属化し自由にする企てでもある、つまり、統一的、形式的、科学的な理論言説の強>p14>制に反対し戦うことができるようにする企てのひとであるといえるでしょう。知識の科学的な序列化、及びそれに内在する権力作用にこうして、諸々のローカルな、――ドゥルーズならば「マイナーな」とおそらく言うでしょう――知を活性化すること、…系譜学の企てとはそのようなものであるのです」(p13-14)
「考古学(アルケオロジー)とはローカルな言説態の分析に固有の方法であり、系譜学とは、そのよう似記述されたローカルな言説態をもとに、そこから解き放たれる脱-従属化した諸々の知を働かせる戦術である、と」(p14)
○3
「これらの系譜学に賭けられているもの、それは改めて言うまでもないことですが、次のような問いです。すなわち、その問題としての出現、力、鋭利さ、不条理さが過去40年の間ナチズムの崩壊とスターリニズムの後退という二つの線の上に具体的に現れてきた、この権力とは何かという問いです。」(p14)
「権力とは何か。というかむしろ、問題は、社会のさまざまに異なるレヴェルで、かくも多様な広がりを持って作動している、諸々の権力装置とはどのようなものであるかを、それらのメカニズム、作用、関係において決定することなのです。」
○3-1
「政治権力についての、法的及び自由主義的な理解と、マルクス主義的理解…との間にはある共通点があるようにわたしには見える。…それらの理論全体を通して、権力と財、権力と富の間に明白なアナロジーが存在している。」
「第一には権力はつねに経済に対してにじてきないちにあるものなのか。…第二の問いは権力は商品をモデルとするのか。権力は、所有され、獲得され、契約や力によって譲渡され、手放されたり戻されたりし、流通し、ある領域を潤し他の領域を避けて通ったりするよう何かなのか。」(p17)
○3-2
「権力の非経済的な分析を行うために、わたしたちは現在どのような手立てを持っているでしょうか。…権力とは、本性、本王、階級、個人を抑圧するものであるというわけです」(p18)
「権力は譲渡、契約、移譲の用語で分析されるよりは、あるいは更に、生産関係の更新という機能として分析されるよりは、まずなによりも、闘争、対決、あるいは戦争といった用語でこそ分析されるべきなのではないかというものです。…つまり、権力とは戦争である」(p18)
「権力の分析には、二つの大きな体系を対置することができる。一つは、18世紀の哲学者たちに見出される古い体系ですが、人々が原初的権利が移譲し主権を構成するものとして権力をとらえ、契約が政治権力の母胎である、とする立場です。…これが契約=権力であり、その極限あるいは極限を超えたものとして圧制があるわけです。それに対して、もう非おっツノ体系は、逆に、政治権力を契約=圧制という図式によってではなく、戦争=抑圧という図式に従って分析しようとする」(p20)
「いうなれば、契約=圧制の図式は司法的な図式であるのに対し、戦争=抑圧…の図式において問題とされるのは合法と非合法の対立ではなく、闘争と服従との対立だということになります。」(p20)
○3-2-1
「権力とはせんそうである、他の手段によって継続された戦争である、と。このときはわたしたちはクラウゼヴィッツの定式を逆転して、政治とは他の手段によって継続された戦争であるとかんがえることになります。これは3つのことを意味します」(p19)
「わたしたちの社会のような社会において機能している権力関係はそもそも歴史的に確定可能な一時期に戦争の中で、また戦争によって、確立されたいていの力関係に根ざしたものであるということ。」
「政治権力の役割は、一種の静かなる戦争によって、諸制度、経済的不平等、言語、そして各人の身体にまで、この力関係を継続的に記入なおし続けるものだということになります。」(p19)
「クラウゼヴィッツの命題の逆転にはまだ第3の意味があります。それは、最終的決定をくだすのは戦争である、つまり、最終的には武器が審判を下す力の対決が決めるのだということ。」(p19)

「社会は、その政治構造において、或るものたちが他のものたちに対して自分たちを防衛しうるように組織されている、あるいは、他の者たちの犯行に対して自らの支配を防衛しうるように、あるいはまた単に自分たちの勝利を防衛し、服従かを通して勝利を永続化しうるように組織されているのだ、という主張なのか」(p22)


1976/1/14 講義
◆講義の流れ
1権力の図式
2西洋における司法と権力
3支配のとらえ方
4権力分析の5つ留意点
4-1・4-2・4-3・4-4・4-5
5「主権論」的権力と「規律型」権力
○1
「「権力はいかにして」という問いを立て、研究すること、それは要するに、二つの目印あるいは二つの極限の間で権力のメカニズムをとらえようとすることでした。一方では、権力の範囲を明示的に定める司法の規則がある。他方では、つまりもう一方の端、もう一方の極限のほうでは、この権力が生み出し、この権力が導く真理効果というものがあって、そうして生み出された真理効果がこんどは、権力を引き継ぐようになる。」(p26)
「つまり、権力、司法、真理が構成する三角形があるのです。」(p26)
○2
「わたしの問いとは、およそ次のようなものなのです。権力関係が真理の言説を生み出すために働かせる司法的規則とはどのようなものなのか。」(p26)
「わたしたちは、権力によって真理の生産を余儀なくされているのです。権力は自らが機能するために、この真理を要求し、それを必要としているのだ、と。」(p27)
「西欧社会では、中世から続いていることですが、司法思想の形成は本質的に王権の周辺で行われてきたという事実なのです。王嫌悪要請で、また追う嫌悪利益のために、王権の道具としてあるいは王権の正当化のためにわたしたちの社会の法体系は作り上げられたのです。」(p27)
○3
「ここ数年、いろいろ細かな事柄に言及してきたのですが、それを語るときの全体のな企てとは…分析の一般的な方向を逆転させることにあったのです。…ほうがいかにこうした支配の道具となりうるのか――この点については言うまでもないことですが――だけでなく、どのように、どこまで、どのような形態のもので、法(わたしが法というとき、わたしは法律だけではなく、司法を施行する諸機構、制度、法規全体のことを考えています。)とは、主権の関係ではなくて、支配の関係を、伝達し実行するものであるかを示そうとしたのです。」(p29)
「私にとって支配とは、一者による他者の支配や、一つの集団による別の集団の支配といったひとかたまりとしての全面的な支配の事実を意味しているのではなく、社会の内部で働きうる多様な形態をもった支配を意味しています。」(p29)
「社会集団の内部に位置して機能する複数の主体化=従属化こそが、わたしの言う支配に関わる事柄なのです。法システムと司法の領域こそ、支配関係の恒常的な運搬道具であり、多様な形をした主体化=従属化の技術を常にもたらすものなのです。」(p29)
○4
4-1
「権力も最も局在的な、最も局所的な諸形態と制度の中で、特にこの権力を組織し、その範囲を定める法的諸規則から、権力自身がはみ出してしまい、従って、こうした規則を超えて延長し、或る制度の中で自己の役割をあてがい、あるいくつかの技法の中で実体化し、物質的なときには暴力的な介入の道具を手に入れるその場で権力をとらえること。」(p30)
 4-2
「権力を意図や決定のレベルでは分析しないこと、権力を内側から理解しようとはしないこと。」(p31)
4-3
 「権力とは、流通する何か、あるいはむしろ連鎖においてのみ>p32>働く何かとして分析されなければならない。…権力は富や財のように所有されているわけでは決してない。権力は機能するものである。」(p31-32)
 「個人は権力の一次効果の一つです。個人は権力の一つの効果であると同時に、まさに…権力の中継項でもあります」(p32)
 4-4
「固有の歴史、固有の肯定、固有の技術および戦術を持った、諸々の無限小のメカニズムからこそ出発すべきである、というのが私の考えなのです。社会の底辺に位置し、独自の研濃さを持ち固有のテクノロジーを持ったそれらのメカニズムが、より一般的なメカニズムや全体的な支配の形式によって、次第に包囲され、植民地化され、使用され、屈折させられ、転移され、屈折させられてきたのか、また現在でもそうなているのかを考えるべきだと思います。」(p33)
4-5
 「社会の土台で、権力ネットワークが行き着く地点において形成されるものがイデオロギーであるとは私は考えないのです。…それは、知の形成と蓄積の実効的な諸道具であり、観察の方法であり、記録の諸技術であり、調査と研究の諸々の手続きであり、検査の装置であったりするのです。」(p36)


「以上五つの方法論的注意事項を要約すると次のようになります。…要するにリヴァイアサンのモデル、すなわち現実のすべての個々人を包摂し、市民とはその身体であり、その魂とは主権であるというような…一人の人工的人間のモデルを捨て去らなければならないのです。権力をリヴァイアサンのモデルの外で、法的主権と国家制度によて画定される領域の外で研究すべきである。権力を、支配技術と支配戦術を起点として、分析すべきなのです。」(p37)
「主権関係はそれを講義に理解するにしても、狭義に理解するにしても、結局の所社会全体を覆っていたのです。」(p38)
「主権論は、身体や身体が行うことに向けられる権力というより、土地や土地>p39>の産物に対して行使される権力の形態に結びついていたのです。」(p38-39)
「17世紀及び18世紀になると重要な現象が現れます。権力の新しいメカニズム体系の出現かもしれません。…この新たな謙抑のメカニズム体系は、土地やその生産物よりも、まず身体と身体が行うことを対象としたものです。それは、身体から財や富よりは、時間や労働を抽出することを可能にする権力のメカニズムなのです」(p38)
「非主権型の、つまり主権の形態とは無縁の権力、それこそが「規律型」権力です。」(p39)


*作成:近藤 宏
UP:20080810, 20080830
国家  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
TOP HOME(http://www.arsvi.com)