『歓待について――パリのゼミナールの記録』
Derrida, Jacques 1997 Anne Dufourmantelle invite Jacques Derrida à répondte de l'hospitalité, Paris, Calmann-Levy, coll.《Petite bibliothéque des idées》
=19991220 広瀬 浩司 訳,産業図書,178p.
last update:20140122
■Derrida, Jacques 1997 Anne Dufourmantelle invite Jacques Derrida à répondte de l'hospitalité, Paris, Calmann-Levy, coll.
《Petite bibliothéque des idées》
=19991220 広瀬 浩司 訳 『歓待について――パリのゼミナールの記録』,産業図書,178p.
ISBN-10: 4782801270 ISBN-13: 978-4782801277 \2000+税
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■内容
盗聴と移民の時代に無条件の歓待は可能か。歓待の正義とその倒錯をソポクレス、プラトン、クロソフスキーを通して語る。
アンヌ・デュフールマンテルによる序論「招待」も併せて収録する。
■目次
アンヌ・デュフールマンテル
『招待』
原注
ジャック・デリダ
異邦人の問い:異邦人から来た問い
歓待の歩み=歓待はない
原注
訳注
訳者あとがき
■引用
ジャック・デリダ「異邦人の問い:異邦人から来た問い」
異邦人の問い[=異邦人を問うこと]、それは異邦人の/異邦人からの問いではないでしょうか。異邦人からやって来た問いなのではないでしょうか。(p.49)
われわれは前に述べておきました。異邦人の問いがある。この問いに――それとして――取り組むことが緊急事項なのだ、と。(p.49)
[……]ロゴスに内在する戦争――これこそが異邦人の/異邦人からの問いです。それは二重の問いであり、父と父殺しのあいだの口論なのです。そしてまた、
歓待の問いとしての異邦人の/異邦人からの問いが、存在の問いに連結する場でもあります。ご存じのことと思いますが、[ハイデガーの]『存在と時間』は銘文に
『ソピステス』を引用しています。(p.52)
われわれに与えられた、この意味深い事態にしばらくとどまろうと思うのなら、もう一度パラドックスないしは矛盾を指摘しておかねばならないでしょう。
歓待を受ける権利は、「家族の中の=内輪の」異邦人、つまりファミリー・ネームで代表され、保護されている異邦人にたいして差し出されます。そして、
この歓待への権利は、歓待そのものや歓待による異邦人との関係を可能にするものではありますが、同時にそれを限界(リミット)付け、禁止するものでもあります。
というのも、匿名の到来者(arrivant)、名も姓も持たず、家族もなく、社会的地位もないがゆえに、異邦人としても取り扱われず、
野蛮(バルバール)な他者とみなされるような者にたいしては、歓待は提供されないのですから。このことについてはすでに触れておきました。
異邦人と絶対的他者の差異、その微妙な差異のひとつは、絶対的他者は名前もファミリー・ネームも持てない、という点にあります。
私が提供しようとする絶対的ないし無条件の歓待は、通常の意味での歓待、条件付きの歓待、歓待の権利や契約などと手を切ることを前提としています。
そうは言ったものの、この場合でも堕落(=倒錯)の可能性(pervertibilité)をなくすことはできないことは考慮に入れておかなくてはなりません。
歓待の掟、歓待という一般的な概念を支配する形式的な掟は、逆説的な掟であり、堕落(=倒錯)の可能性を持ち、
また堕落(=倒錯)させる可能性を持つような掟として現れてきます。それは、絶対的な歓待が、権利あるいは義務としての歓待の掟と手を切り、
歓待の「盟約」と手を切ることを>064>命じているように思われます。別の言葉で言い換えるならば、絶対的な歓待のためには、私は私の我が家(マイホーム)
(mon chez-moi)を開き、(ファミリー・ネームや異邦人としての社会的地位を持った)異邦人に対してだけではなく、
絶対的な他者、知られざる匿名の他者に対しても贈与しなければなりません。そして、場、(=機縁)を与え(donner lieu)、来させ、
到来させ、私が提供する場において場を持つがままにしてやらなければならないのです。彼に対して相互性(盟約への参加)などを要求してはならず、名前さえ尋ねてもいけません。
絶対的な歓待の掟は、法的な=権利上の歓待、つまり権利としての掟や正義から手を切ることを命じます。正義の歓待は、法的な=権利上の歓待と手を切るのです。
といっても、それは法的な=権利上の歓待を非難したり、それと対立するものではなく、反対にそれを絶えまない進歩の運動の中に置き、
そこにとどまらせることができるのです。絶対的な歓待は法的な=権利上の歓待と奇妙にも異質なのです。それは正義が法=権利に対して異質であるのと同様です。
正義は法=権利とごく近くにあり、実は不可分だというのに。(pp.63-64)
[……]「寄生者」などという言葉を使ったのは、寄生と歓待との関係という一般的な問題系を切り開くことこそを、このことがわれわれに命令しているからなのです。
客 hôte(guest)と寄生をどのように区別すればよいのでしょうか。原理的には厳密な違いがありますが、そのためには法=権利が必要なのです。つまり、歓待、迎え入れ、
差し出された歓迎などを、厳密で制限的な司法権に従わせねばならないのです。到来者は歓待権や庇護権などを享受していなければ、全員が客として迎えられることはありません。
この権利なしでは、到来者は、寄生者として、不当で非合法でもぐりの客として、追放されたり逮捕されたりする客としてしか、「私の家」に、主人 hôte(host)としての
「自己の家」に入り込むことはできないのです。(p.86)
ジャック・デリダ「歓待の歩み=歓待はない」
前回われわれは、電話、テレビ、ファクス、電子メール、インターネットなどの新たな遠距離通信技術(テレテクノロジー)についてお話しておきました。こうした機器は、
遮断をいたるところに導入し、場という根を奪い、家という「場の解体(dis-location)」をもたらし、我が家へ強制的に侵入してくるものです。さて、言葉や母語は、
こうした場の解体に対して、たんに抵抗するマイホーム、抵抗力や対抗力として対立させられる自己の自己性にとどまるものではありません。
言語は私とともに移動するのですから、あらゆる可能性に抵抗するものなのです。言語はもっとも取り外しにくいもの、もっとも移動しやすい固有の身体であり、
それがあらゆる運動性の安定はしているが携帯できる条件であり続けるのです。ファクスや「セルラー(細胞的な)」電話を利用するためには、
私は言語と呼ばれるもっとも移動しやすい電話を自分の身体に身につけていなければならないし、私とともに、私の中に、私として携えていなければなりません。
それはおのれが語るのを聞くこと(s’entendre-parler)を可能にする口と耳なのです。(p.107)
■書評・紹介
■言及
◇まちの居場所シンポジウム(2013年2月20日~21日)
http://www.ritsumei-arsvi.org/news/read/id/508
「デリダは「匿名の到来者」を身分や資格を問わず歓待することを、「無条件の歓待」と呼んだ。「まちの居場所」は、人々を既存のさまざまな制度の物理的・精神的な囲い込みから
「逃し続ける運動」(例えば、一時避難所)としても注目される。」
*作成:北村 健太郎