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『先生、ぼくの病気いつ治るの――障害者と生きて四十年』

近藤 文雄 19961101 中央公論社,237p.

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■近藤 文雄 19961101 『先生、ぼくの病気いつ治るの――障害者と生きて四十年』,中央公論社,237p. ISBN-10: 412002640X ISBN-13: 978-4120026409 [amazon][kinokuniya] ※

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内容(「BOOK」データベースより)
難治の筋ジストロフィーに挑み、遂には筋ジス研究所設立運動にまで邁進した一外科医の、ボランティアとしての医療を生きた四十年を顧みる感動の記録。

内容(「MARC」データベースより)
難治の筋ジストロフィーに挑み、遂には筋ジス研究所設立運動にまで邁進した一外科医の、ボランティアとしての医療に生きた40年を顧みる感動の記録。医師とはどういう存在なのかを患者の目線に立って問いかける。

■目次

第1章 ベットスクール
第2章 西多賀ワークキャンパス
第3章 重症心身障害児(者)
第4章 筋ジストロフィー
第5章 リサイクル
第6章 ボランティア

■引用

 「それまでどこの病院でも、筋ジス(筋ジストロフィーの略、進行性筋萎縮症と同じ)患者の受入れを拒否していたのである。病院とすれば、治療法のまったくない、しかも今すぐ救急処置をしなければならぬという状態でもない病人を入院させるわけには行かない。学校にしても、そんな恐ろしい(実はそんなに恐れるほどのものではないのだが)病気の子を入院させて、校内で事故でも起こされたら大変、さわらぬ神にたたりなしとい考えたとしても無理はなかった。
 私自身も病院という立場からは無条件に筋ジス患者を受け入れるわけには行かなかった。病院が病気の治療をするところであるとしたら、治療法のまったくない患△005 者を入院させることは矛盾したことである。
 大学病院でも、学生のため必要だから一人や二人は 常時入院させていたが、それ以上は検査が終わったら家に帰すのが常だった。その際、治療とは肉体の治療を意味し、精神的な苦しみや社会的な悩みの解決は病院の仕事ではない、という割り切り方が当時の社会を支配していた。少なくともそこまで考えようとしなかったのが一般であった。[…]
 当時の医療保険の制度では、同じ病気で三年以上保険を使うことはできなかったので、筋ジス患者の治療は事実上自費でするほかなかった。幸い会社の温情で、医療費の自己負担分くらいは、補助してくれていたが、それも微々たるもので、精神的にはもちろん、経済的にも耐えきれない最悪の事態に直面していたのである。もし私が入院を断っていたら一家心中でもするほかなかったかもしれない。 その頃、障害の治療ばかりでなく、教育も生活の指導もする肢体不自由施設児がすでにできていたから、私は友人のその施設長に相談した。ところが、彼の施設はいまいっくいで「収容できないからそちらで頼む」という返事だった。
 現に厚生省からは、治療効果のあがる患者を優先的に収容して、治療効果の薄い患者は後回しにするようにという指示さえ出ていた。
 私は考えた。治療法のない患者を入院させることは病院の目的に反するかもしれない。しかし、もう一段高い立場からいうなら、国は国民の幸せを守る義務がある。国立の病院が病気の治療をするのはそのためであるが、病気は治せなくとも、筋ジ△007 ス患者の幸せを守ることがこの病院でしかできないとしたら、入院を拒否すべきではない。
 私は、筋ジス患者を私の病院に収容してよいかどうか、厚生省の指示を仰ぐべきだったかもしれない。しか、几帳面な役人のことだから、待ったがかからないという保証はなかったし、少なくとも意思決定に何カ月もかかる懸念があった。私は藪蛇になることを恐れて独断で収容する決心をした。
「厚生大臣ならきっと私の考えを支持してくれるに違いない」と思ったからである。
 数年後、厚生省は家族の要請に応え、筋ジス患者を国立療養所に収容する方針を打ち出してきた。だから、私の心配は杞憂に過ぎなかったといえる。

  療養所の中での教育

 私を、不治の筋ジス患者を入院させる気にさせたのは、前述のように、私の病院にはべットスクールがあったからだが、そのベットスクールとは、臥たきりの病気の子のために設けられた病院内の学校であった。△008
 それは行政が作ったものではなく、庶民のやむにやまれぬ至清から、自然発生的に生まれた寺子屋のような学校であった。
 人間の優しさは、戦後の混乱のさなかでも、このような思いやりの心を芽吹かせ、育て、開花させることができるということな証明した、希有の出来事であった。

国立玉浦療養所
 昭和三十年、私は仙台の南郊外にあった、わが国唯一のカリエス専門病院匡立玉浦療養所の所長として着任した。
 その頃は戦後の復興がようやく緒につき、生産も戦前のレべルに回復し、何事にも明るいきざしが見え始めていた時だった。
 しかし、まだまだ店の棚には商品の影は疎らで、現在のロシアや北朝鮮の店頭の状態に近かったであろう。そのときの心細さが身に染みているせいか、私は今日スーパーに溢れるほど品物が並んでいるのを見ると、いまだにわくわくするような喜びと安心感に満たされるのである。
 いま、百万都市をほこる仙台も、その頃は人口三十万くらい、木造平屋の国鉄駅△009 前には、市内唯一の交通信号が点滅していた。
 それまで結核は亡国病といわれるほど国中に蔓延し、結核の療養所は国立だけ二百数十力所もあった。
 結核といえば通常肺結核と思われているが、本来結核は全身どの臓器でも冒すもので、そのうち骨や関節が冒されたのがカリエスである。
 結核菌に冒されると、あの硬い骨が豆腐かすのようにぼろぼろに壊されて、背骨は曲がり関節は動かなくなり、そこに溜まった膿が皮膚を破って外へ流れ出すのである。
 いくつもいくっつ膿のでる穴が背骨や関節の周りに開いて、何年たっても閉じない。当然立つことも、歩くこともできず、五年、十年と寝たきりの療養生活を余儀なくされることが珍しくなかった。
 比較的希な病気ではあったが、全国的に見ればその数は十万にも達していたので、内科の医者は処置に困っていた。
 そこで、どうしてもカリエス専門の病院が欲しいということになり、当時、東北大学の整形外科の教授だった三木威勇先生に頼んで、整形外科専門医を玉浦に派△010 遣してもらって、カリエスの専門病院にしたのであった。
 九大出身の私がこの病院に赴任するようになるにはさまざまな因縁があった。
 昭和十六年、日本が太平洋戦争に突入した年に私は大学を卒業した。すぐ戦地に出ていくことになっていたが、医師免許証を貰ってはいても、傷の縫合の仕方も知らないではものの用には立たない。戦場に行く前に、どうしても実地の手術を経験しておく必要があった。
 外科は医局員の数も多く、なかなか手術をやらせてくれないので、私は人数が少なくて一番早くメスを握らせてくれるという整形外科を選んだ。そこで、ほんの二ヵ月たらずの間ではあったが、神中整形外科教室に入れてもらった。事情を察した先輩は早速手術をやらせてくれたが、その中で何くれとなく面倒を見てくれたのが後の神戸大学の柏木大治教授だった。
 これだけではまた私が仙台に行く縁には繋がらないが、運命の糸はさらに複雑に絡まっくいた。
 卒業したとき急場の策として選択した整形外科を、復員後、私は本式に専攻したいと思った。ところが、当時の交通、食糧の事情は厳しく、どこにでも自由に行け△011 るような状態ではなかった。そこで、終戦後シンガポールで俘虜生活を共にした、私の旧制高校(六高)二年後輩の戸川潔氏(後の水戸中央病院長)が東大に帰っておられたので、私は氏の紹介で東大整形外科に入れてもらった。
 その時の教授は高木憲次先生だった。先生は日本の肢体不自由児療育事業の開拓者として著名な方で、その道で多くの弟子を養成されていた。そこで私は、はからずも先生から身体障害者間題について直接薫陶を受けることができた。誠に得がたい幸せであった。
 高木教授退官後、三木先生が後任として東北大学から東大に帰られ、私は三木教授の弟子としてカリエスの研究をすることになった。それが私を玉浦に結びつけたのである。
 その時、先生も私もほんの三、四年というくらいのつもりであったのに、これだけ因縁が重なると、ちっとやそっとのことでは縁が切れず、私はとうとう玉浦に根を下してしまった。
 その頃、結核は不冶の病といわれ、根本的な治療法がないので事実上自然に治るのを待つばかりであった。△012
 中でもカリエスは難病で死亡率も高く、内科の医師が持てあました結果この病院が誕生したのであるが、専門病院とはいえ、結核の根本的治療法が確立される以前のことで、対症的療法をしながら自然治癒を待っという情けない有様であった。その点においては他の結核療養所もみな同様であった。
 医学の名誉のために付け加えると、昭和三十年頃からストレプトマイシンが実用化され、結核の治療に革命が起こった。とくに手術を併用することによって目覚しい成果が挙がることが分かり、カリエスも手術なしで治るようになったのである。結核が不治の病という汚名を返上したのはそれから間もない頃であった。
 玉浦療養所は仙台の南、国欲夷化県と哲啓像の合流点である岩沼町(現在、市)にあった。
 太平洋の波が岸打つ、相の釜の松林に近く、周囲は一面の田圃で、自然環境には恵まれていた。それだけに辺鄙で不便な土地でもあった。それでも、住めば都、戦争中の不便を思えば文句はいえなかった。
 着庄して驚いたのは野菜の新鮮さであった。キュウリもナスも東京では思いもよらぬ旨さで、イチゴも大きな箱で買って堪能するまで食べた。近所の人々とも顔見△013 知りになるにつれ、素朴な人柄とその牧歌的雰囲気に、古きよき時代が再現したような気がしたものである。
 当の病院は、軍から移管されたおんぼろのバラック建で、床は抜け屋根はもり病室には薪や炭を持ちこんで自炊する者さえいるという有様。
 二百人くらいいた患者の多くはいわゆる傷痩軍人で、軍から病院もろとも引き継いだものだった。だから、軍時代に支給された白い病衣をつけた患者もちらほら見受けられた。
 長い療養のすえ運よく回復した患者は、医師の命じた安静時間に、こっそり病院を抜け出して(病院な取り囲む生け垣には、人の出入りできる穴がいくつも開いていた)、鮒を釣ったり鰻を採ったり、またその鰻を蒲焼きにして仲間に売って小遣い稼ぎをする者までいた。
 それは戦地で身につけた兵隊の生きる知恵ではあったろうが、給食の貧困さを補う役割も果たしていたといえる。
 職員も、患者の行動に目くじらを立てて争うこともなく、ルーズといえばいえるほど大らかな空気が漂っていた。戦後のほっとした心の緩みかもしれない。

 べットスクール誕生
 一百人ちかくいたカリエスの患者の多くはギプスで固定されて寝たきりであったが、その中に四人の子どもが混じっていた。
 背骨と股関節のカリエスで、いずれも五年も六年も寝たきりで、腰の周りにいくつもの孔があいて膿が流れだしていた。当然学校には行けず、病気がいつ治るというあてもない、暗い孤独の日々を送っていたのであった。
 昭和二十九年、一人の大人の患者、菅原進氏は、十数年にわたるカリエスの療養後、ようやく歩行を許されたばかりであった。その彼が病室を廻っているうちに目ざとくもこの子たちを見つけた。戦争中、満州で小学教員をしていた彼は、子どもの存在が特に気になったからである。
 見れば、枕元には古いノートや教科書に参考書まで置いてあるではないか。それは子どもたちの悲しい思いな訴えているようであった。
 彼の胸は痛んだ。
 「どうだい、一緒に勉強してみようか」△015
 […]
 このような出来事が新聞、テレビ、ラジオ等のマスコミを通じて報道されるにつれ、この学校の存在は広く知られるようになった。
 その結果、カリエスばかりでなく、いろんな病気で家庭や病院で寝ていた子がぞくそくと玉浦へ押しかけてきて、病気の種類も子どもの数も次第に脹らんでいった。ー人目につかぬ所で学校に行けないで困っている病気の子がたくさんいることを示すものであった。
 人々はこの学校をいつしかベットスクールという愛称で呼ぶようになった。ベットに寝たまま勉強する学校という意味である。
 この名称は朝日新聞が昭和三十三年に初めて使ったものだが、ドイツ医学書に同じ意味のベットシューレという言葉を見つけて私は驚いた。ドイツでもやっていたのか。ベットはドイツ語、スクールは英語でちぐはぐだが、どちらも十分日本語化しているから構うことはないだろう。
 べットスクールは戦後の殺伐とした空気のなかで一服の清涼剤のような役割を果たしていた。いわば、冬枯れの野原の一隅に見つけた一輪のスミレの花のように、みんながこの学校を大事に守ってくれたのである。
 病院ばかりでなく、地域社会の人々からも特別の親愛の情をもって迎えられ、そのことがまた障害者に対する一般市民の理解を深め、社会福祉に対する意識のレべルアヅプに役立ったように思われる。△028
 […]
 病気と学習は決して両立しないものではない。今日までは病気たから勉強をしてはいけない、明日からは治ったから勉強してよいなどということはない。そこは医者の判断で決めればよいことで、われわれには十分なデータが揃っている。カリエスの子らの教育を今日まで無視してきた行政は怠慢いわれても仕方がないであろう。
 私がこの問題に関連して、文部省の初等中等教育課長を訪ねたときのこと、カリエスの子には是非ともベットスクールが必要という理由を私が説明した時、課長は、病気の子に学習させるのは可哀相な気がするという。実は課長も病弱の子な持っているのだが、とても勉強せよとはいえないと。温厚な人柄と見受けられたが、心からそう思っているようだった。
 それから一時間余り、私はべットスクールの話をし、課長も根気よく耳を傾けてくれた。最後に、「少し分かったような気がする」といってくれた。
 紆余曲折はあったが、翌年からべットスクールに教師一人を派遣してくれることが決まった。昭和三十一年の年の瀬も迫った頃、陳情にいった私の肩を叩いて、大△031 沼宮城県知事は、
「来年はきっと公立の学校にしますから安心してください」
といってくれた。
 昭和三十二年四月一日、玉浦療養所の門柱に、
  石沼町立岩沼小学校
  岩沼町立岩沼中学校 矢の目分校
という看板が、岩沼町古内助役(後の町長)の手によって掲げられた。
 この時生徒の数は二十五名となっていたが、小、中学を通じて派遣された教師はただの一人。それでも公立の学校だから大手を振って進級も卒業もできることになった。
 一人の先生で何もかもできるはすはないから、従来通り病院の職員や患者が応援していた。
 その後、毎年教師が一人二人と増員され、昭和四十八年に、べットスクールは教師七十数名を擁する独立の県立病弱養護学校となった。△032

 親の会会長・今野正己さん
 […]
 そのうちに特筆すべきことが起こった。その頃、方々の結核療養所に、肺結核の児童のための病院内学級(寝たきりでない)が作られ始めたので、厚生省はその子らのために、入院の費用を免除し、学用品や日用品を支給する制度(療育の給付)の創設を考えた。
 つまり、結核の子が誰でも安心して療養所に入り、治療も勉強もできるようにしようという親心からだったのである。
 結核の子を長期にわたって入院させることは、親にとっては大変な経済的負担で、そのため病院内学級のことは知っていても、入院、入学をさせることができない人があったからである。
 ところが、大蔵省がなかなかその企画を認めてくれない。困った厚生省は、われわれの所にまで側面的援護を要請してきたのである。
 今野さんと私はべットスクールの資料をまとめ、学習風景などの写真もそろえて陳情に行った。大蔵省はもちろんのこと、根回しのため全国社会福祉協議会やマスコミを廻り、特に地元出身の代議土には支援をお願いした。△037
 こんなことは一度や二度の陳情ですむことではない。二人ともあまり仕事を休むわけにはいかないので、東京まで夜行列車で行って夜行で帰ることにした。当時は片道九時間くらいはかかったろうか、まだ若かったので大して負担には感じなかった。
 こんな交渉は二人とも初めての経験であったのに、今野さんは慣れた態度でぐいぐい私な引っばっていった。二人でたすきを掛けて有楽町に立ち、道行く人々に呼びかけたのも、いまは思い出となった。
 当時(昭和三十二年頃)、大蔵省の厚生省担当の主計官は鳩山威一郎氏であった。
 地元代議士から紹介してもらってはいたが面識はない。初めてのことで、カリエスの子どもの事情などを説明してこの制度の実現をお願いしたが、その日は事務的な応対に終わった。
 厚生省〔たぶんここは大蔵省の誤記〕全体から見れば小さな問題であるし、新たな子算を伴う事業ともなれば簡単には受け入れられないことは初めから覚悟していた。
 私が行けないときにも、今野さんは独りで出掛けていった。紹介してくれた代議士に「これだけやって駄目ならもう見込みはあるまい」とまでいわれたが今野さん△038 は怯まなかった。
 何回目だったか、正広くんのことを語る彼の真情にうたれた鳩山さんは、そんなにひどかったのかと眼をうるませ、耳を傾けくくれた。
 結局、結核全体については認められなかったが、カリエスの療育の給付の制度だけは成立し、これが突破口になって後日、他の結核にも筋ジスにもこの制度が適用されることになった。もし、今野さんがいなかったら、この制度は恐らく日の目を見ることはなかったであろう。
 これが縁となって、鳩山さんはその後もべットスクールや私たちの病院には格別の好意をもたれ、ひとかたならぬお世話をして下さることになった。

 母と子
 […]△039

 光と影
 […]△043
 私は、このまま放置すればべットスクールは形骸化すると思って、校長が交替したのを機に、本校秘蔵の教頭、半沢健先生を分校主任に任命ずるよう煩んだ。本校としては大きな犠牲ではあったが校長の英断で、これまでで最高の人事が決まった。
 半沢先生は、前々からべットスクールに関心を持ち、特殊教育こそ教育の原点であるという信念を持っていた。終戦時には、仙台駅前にテントを張り、仲間とともに浮浪児の面倒を見ていたことがある。
 教育者として、親を失った子が苛酷な環境のなかで転落していくのを見るに忍びなかったのである。世の常の教育者が慨嘆するだけで手も足も出さず傍観するなか△046 で、彼は垢にまみれ虱のわいた子を抱いて寝るという、優しさと強さと実行力を備えた偉大な教育者であった。
 教授法はきわめて独創的で、ただ知識を詰め込むのではなく、まず生徒に何故?という疑問を起こさせることにカを注ぎ、生徒の方に答を知りたいという気持ちがみなぎってきた頃合いを見計らって、生徒とともに答を探していくというやりかただった。
 したがって、彼の授業は生徒にとってはあっという間に過ぎてしまって、もっと続けてほしいという気持ちを持つのが常であった。
 よく方々の学校に頼まれて授業にいくが、授業が終わると期せずして拍手が起こり、また来て下さいとアンコールが続いた。
 その半沢先生が自らべットスクールを志頭していたのに校長が手放さず、代わりに前述の分校主任を任命したのである。
 運命の分れ目は紙一重の差である。
 今度はよいほうへ一瀉千里、すべてが理想的に展開していった。教師の空気も徐々に明るくなり、胸を張って「私はぺットスクールの先生です」といえるように△047 なった。
 三度にわたる心ない人事は、教育行政首脳の教育に対する姿勢を如実に反映するものであるだけに看過できない。障害者の教育にこそ人格の尊厳を基本に据えた教育の原点があるのだ。したがって、教師を志すものには最初に障害者教育を体験させるべきである。それは将来きっと教育全体に良い影響を及ぼすに違いない。

 その後のカリエスの子ら
 […]
 ここで注目すべきことがある。
 ここまで制度が整ってくると、入院すると自動的にべットスクールに入学することになる。そこでこんなことをいう子もでてぎた。
「病気で入院したのに、病院でまた勉強させられるのか」
 私たちが苦労して作り上げた養護学校なのに、養護学校不要論がとなえられたり、逆に、障害を持つ子が普通校に入学しようとするのを断るために養護学校を持ち出したりする、不可解な現象が見られるようになった。
 立派な養護学校ができると、新しく普通校から転勤してきた先生は、なぜこんなものができたか分らない。そして、何事も普通校の基準で考えようとする。たとえ△055 ば先生が病室へ行って教えるのは特別のことと考え、できるだけ生徒を教室へ連れてこようとする。
 べットスクールでは教室がなかったから、理科の実験まで寝たままやろうとしたのに。そんなことは効率がわるいと反論するだろうが、大事なのは効率よりやる気である。
 ある養護学校で奇妙な論争があった。学校は子どもを教室に集めるために、歩けない子はストレッチャーで運び、歩行困難な子もなんとか歩いていく。学校と病室は廊下でつながっているから、子どもの送迎の役割を、病院と学校がどのように分担するかが当然問題になる。それはよいとして、ある時、筋ジスの子が廊下で倒れた。教師がそれを見ていながらたすけようとしなかった。
 なぜたすけないのかと聞かれたとき、たすけることは易いがその時私がたすけたら、今後その仕事は教師の仕事になるから、と答えたという。何という深謀遠慮、返すべき言葉もない。玉浦のバラック病院で患者先生が苦労しながら授業に工夫をこらしていた頃が懐かしい。
 それかあらぬか、初期の玉浦ベットスクールの子らはいまだに同窓会を持ち、昔を偲んでいるが、後期の養護学校の子の問にそのような集まりがあるという話は聞かない。
 物事には進歩はかりがあるのではない。一面では進歩し、他面では退歩しながら産史は繰り返すのである。△057

第二章 西多賀ワークキャンパス

 友情ライン
 玉浦療養所は辺鄙な土地にあり建物もひどく傷んでいたので、私は昭和三十三年頃、仙台市の近くに移転したいと厚生省に申し出た。
 ちょうどその頃、厚生省は国立療養所の統廃合を進めようとしていたところで、職員や地域の人々の反対にあって難航していた。だから私の移転の申し出には渡りに舟と応じてくれ、仙台にある国立西多賀療養所と合併することになった。△058
 私は西多賀に移るについて病棟はぜひ鉄筋コンクリート建にしてほしいと注文をつけた。
 バラックでは火事が起こった時大勢の寝たきりのカリエスの患者を救けだす方法がないからである。多少の無理は承知の上での作戦だった。
 今なら鉄筋コンクリートは常識であるが、当時はみんなバラックで、玉浦並みかそれより少しましなくらいだった。また、国立療養所全体の整備予算もきわめて少なかったから、鉄筋の建物にしてくれという要求は法外なものといわれても仕方がなかった。
 ところが、それが認められたのである。
 そのためには国立療養所全体の整備予算の大半を西多賀に投入しなければならなかったが、それを敢えてしてくれたのは鳩山さんの英断があったからである。事情をよくご承知の鳩山さんなればこそできたのである。
 おかげで西多賀は国立療養所としては、初めて鉄筋コンクリート建の病院となって、カリエスの患者を迎え入れることができた。
 それも、あるいは全国でただ一つ円満に成功した施設統合に対する褒美だったの△059 △060 かもしれない。後日、医務局長が視察に来たとき、統合の条件に鉄筋の建物にしてくれなどといわれては困るといわれた。ところが、その後を継いだ医務局長が来たときは、「なあに予算をとった方が勝ちですよ」といっていた。本省では問題になっていたのであろう。
 昭和三十五年、玉浦療養所は西多賀療養所に統合されて仙台に移った。合併によって病院は、職員数三百、べッド数五百ちかい大病院となった。仙台市の西郊にあった西多賀は、もと日本医療団という民間の全国組織に所属していたものが、終戦とともに厚生省に移管されたのであった。玉浦は軍の、西多賀は民間の病院として、ともに国の結核行政の一翼を担っていたのである。
 病院は太平洋をはるかに見渡せる小高い丘の上に建っていた、裏には広い二千坪くらいの松林があった。足を踏みいれることも出来ないくらい雑木が茂っていたがそれは貴重な自然であり、私は、どんなことがあってもこれは将来に残さねばならないと思った。
 […]

  西多賀ワークキヤンパスの日々
 まぎらわしい名前ではあるが、これは西多賀にできた民間で初めての、重度身体障害者の収容授産施設の名称である。

 ワークキヤンパス誕生
 私の病院にはカリエスをはじめたくさんの身体障害者がいたので、その人たちの社会復帰はケースワーカーにとって頭の痛い問題であった。
 […]△067

 鳩山威一郎さんのこと
 その後、共生福祉会が順調に発展して規模を拡大していく過程で、はからずもまた鳩山さんのお世話になることになった。
 福島さんは自己の土地を法人に寄付し、法人はそれを売却して事業遂行の資金にあてる計画であった。社会福祉法人だから、当然課税されないと考えていたのだが、そうではないらしいことがわかった。
 福島さんが法人に土地な寄付すると、法人には課税されないが、福島さんには税がかかるのである。福島さんがその土地を売ったものと見なして、その利益に匹敵する額にたいして税をかけるというのた。公共のために寄付をして何の利益も得ていない福島さんに課税するという、驚くべき税制である。これでは寄付をさせないようにしているのと同じではないか。△079
「そんなことになったら計画は根底から崩れる、さあどうしよう」
 そのとき、思い出したのが鳩山さんのことであった。そこで今野さんにも一役買ってもらって、福島さんともども鳩山さんを訪ねた。鳩山さんは久しぶりに今野さんに会い、喜んで話を聞いてくれた。その時鳩山さんは関東信越国税局長をしておられたので、打ってつけの問題であった。
 事情を聞かれて鳩山さんは、「それは怪しからぬ、国がやらねばならぬことな民間でやってくれるというのに、税金をかけるとは。それは法律が間違っている」とすぐ係りの者を呼び出して対策を考えるよう命じられた。
 普通なら、「おかしいようだが法律だから仕方がありませんよ」と片づけるところであるが、国税局長が間違っていると断言せられたのだから呆れる。
 係りの方も当感されたであろうが、根拠になる条項を示して詳しく説明してくださった。寄付された土地を売るのではなく、法人の事業に直接使用するなら課税はされないとのことであった。
 これで危機は切り抜けられたが、またひとつ問題が起こった。共生福祉会が発展していくためには広い敷地が要る。近くにちょうど良い国有地があったので、それ△080 を払い下げてもらいたいと考えた。そのときも鳩山さんに甘えてお骨折りを願ったのである。福島さんの人柄、事業の内容など十分承知していただいていたので、ことはスムーズに運んだ。
 夫生福祉会が今日あるのは鳩山さんのおかげである。
 その後共生福祉会は目覚ましい発展を遂げた。ワークキャンパスは拡張されて体育館まで作られ、仕事の方は、髭ぜんまいの後は印刷が主体となっている。
 さらに、萩の里福祉工場の建設、ニつの療護施設、福寿園と第二福寿園の開設、障害者更生センター禎祥園の建設へと発展し、宮城県における障害者福祉の一大拠魚となったのである。
 しかし、よいことばかりは続かないものである。ここでもべットスクールに似たような現象が起こった。
 菅野さんが去り、飛世さんが去り、私も後述のように仙台を離れ、初期のスタッフはつぎつぎに消えていった。何よりもの痛手は福島さんが八十九歳の天寿を全うされたことで、共生福祉会にとっては大黒柱を失ったも同然である。
 バブルのはじけたあとの不況は、ワークキャンパスや福祉工場を直撃し、経営に△081 多大の困難をきたしている。園生の苦労はいつまでも尽きない。

 第三章 重症心身障害児(者)

 これまで私は、私自身が直面した問題と取り狙んできたが、重症心身障害児に関する限り私の職場とは違う方面からの要請によって始まった。
 重症心身障害児(者)というのは、身本的にも知能的にも最高度の障害を持った子のことで、障害者のなかで最も気の毒な人たちである。
 いくつになっても、歩くことも、しゃべることも、食べることも、排池することも自分ではできないような子たちで、この世の不幸を一身に背負って生まれてきた人々である。
 私は重障児の存在は知っていたが、私の眼に触れることは滅多になかったので、△083彼らは私の関心の外にあった。
 重障児を持つ家庭の悲劇は想像を絶しているが、それに対する世間や行政の態度は冷ややかだった。無知ゆえにといってよいであろう

 「拝啓、池田総理大臣殿」
 それが、昭和三十八年に『中央公論』に載った、「拝啓、池田総理大臣殿」という水上勉氏の公開状を契機として、ようやく社会の注目を惹くようになった。
 人々は、この公開状によって初めて、水上氏に重い障害を持つ子がいたこと、その子を中心とする氏の家庭の苦悩とその闘いがいかに深刻であったかを知ったのであった。しかも、水上氏の悲しみや苦しみは氏一人のものではなく、同様な悩みを持つ全国の多くの家庭の一代表に過ぎないということから、問題の重大さに気づいたのである。
 この公開状の主が有名な作家であり、相手が総理大臣であり、それを掲載した雑誌が権威のあるものであっただけに、重症児は一躍世人の注目を浴びることになった。△084
 池田総理は恐らくそれまで重障児のことはほとんどご存じなかったであろうから、この手紙をみて驚かれたに違いない。政府は官房長官の名において、善処する旨回答したが、それで万事うまく解決したわけではなかった。
 しかし、この公開状は、重障児の問題を社会の基本的重大問題として、あからさまにしたという点で、大きな役割を果たしたといえる。
 実は、それより十年も前から、重症児をもつ親たちの血の惨むような苦闘が始まっていたのである。
 そして、その後、この人たちの長い年月にわたるたゆまぬ努力の集積が、実質的な解決をもたらしたのである。初めこの人たちの存在が余り世間に知られなかったのは、名もない庶民の手によって社会の片隅で行なわれていたからであろう。

 重症心身障害児(者)を守る会
 わが子が重障児と分かったとき、親の受ける衝撃の烈しさは想像に余りあるが、二十歳になっても赤ん坊同然の子の世話をし続ける親の肉体的、精神的苦痛も筆舌に尽くし難い。△085
 ところが多くの親から、「この子は私の宝です、生きがいです」という言葉を聞いて私は二度びっくり。そして、その心を推し量り、そこに至るまでの親の苦しみと悲しみ、それとは裏腹の、喜びの日々を思うとき、親の愛の偉大さの前に私は頭を下げるばかりである。
 しかし、社会の一般の人々はそんなこととはつゆ知らず、たまたま街頭で重障児を見かけると嫌悪の情を以て顔を背けるか、同情的な人でも、「可哀相に、あんな子は、悪いけどはやく亡くなったほうが幸せです」というのが精々である。このような障害者を軽視し蔑視する、心ない伝統は今も根強く日本の社会には残っている。
 その原因の大きな部分は、「親の因果が子に報い」などという迷信に基づくものだと私は思っている。この因果応報という言葉は、過去(前世)の悪い行為(当人のみならず先祖の行為まで含めて)のために障害者になったという考え方であるが、これは根拠のない俗信にすぎない。
 しかもそれが仏教の教えであるというに至っては誤解もはなはだしい、仏教はそれとは反対に、苦しむもの悲しむもの、善人も悪人も、限りない仏の慈悲で包みこんで残らず救うものである。△086
 ひどいのは、この迷信を仏の教えであるかのようにまことしやかに説く僧侶まであり、それを材料に無辜の民を惑わし金品を巻き上げるぺテン師がいることである。彼らが障害者を罪人のようにみなし、人間として下等なものと考える、愚かな風潮を作り出したのである。
 これは物事を合理的に考える習償に乏しい社会の生んだ悲劇といえる。
 この考え方が行政にまで反映し、社会に役に立つものには、金を使って教育もして最大限に利用する反面、社会の役に立たないものには国費を使うことでできないと考えていたのである。
 このような社会の風潮の中で、昭和三十年ころから、心ある親たちが、日赤産院小児科部長の小林提樹先生を中心に集まって、重障児の治療、介護から社会的支援体制確立にいたるまでの、実践と研究と啓蒙活動をはじめていたのである。それが、「全国重症心身障害児(者)を守る会」の前身で、その中心になったのが東海大教授(元、九大教授)、北浦貞夫・雅子夫妻であった。
 北浦氏の二男尚くんは健やかに生まれすくすくと育っていたが、生後七力月の時種痘の接種をうけ、十日後高熱を発し、あらゆる手を尽くしたが効なく、ついに重△087 障児となってしまった。
 その無念さ、悲しさはいかばかりだったであろう。
 夫妻は悲嘆を乗り越えて、同じ苦悩を持つ親たちの先頭に立って、共に重障児の幸せを守る運動をはじめたのである。
 当時の健康保険制度の下では、重障児は健康保険で入院することが認められず、日赤産院に入院していた子もやむなく退院するという、信じられないようなことまで起こったのである。小林先生はじめ親たちの必死の運動も効なく、事態を改めさせることはできなかった。
 この子たちの親亡き後を考えると、どうしても彼らを収容し、生涯世話をする施設が必要ということは自明の理である。
 昭和三十六年に、重障児の親の一人である島田伊三郎氏が、わが子のために家を建て介護人をつけて世話をしようと、小林先生に相談した。先生は「同じ作るならいっそのこと、他の子も入れられるような施設を作ってはどうか」と勧められた。
 それももっともと、候補地な探し適地は見つけたが、土地の住民の反対にあって難航した。このような民主主義をはき違えた動きは今でも存在するのである。△088
 朝日新聞、産経新聞などマスコミの支援もあって、ようやく、東京都多摩村に約一万坪の土地を手に入れた。そして施設の建設にかかったが、さまざまな障害に遭遇し、その上経済事情の悪化から資金の調達が不可能となってしまった。
 そのとき、産経新聞の報道で事情を知った、電源開発総裁、内海清温博士が資金果めに尽力され、また、施設長は医師でなけれぱならぬという厚生省の意向から、小林先生が日赤を辞して施設長になられ、ようやく島田療育園が誕生したのである。
 それが現在の島田療育センターの始まりであるが、医療保険も使えず、措置費もない施設の運営は困難を極め、財政的には破綻に直面した。
 親たちが懸命に厚生省に働きかけた結果、厚生省もこの施設の意義を認め、昭和三十八年に委託研究費四百万円を計上してくれた。それでなんとか収支辻棲をあわせることができた。
 この委託費の計上は、国の重障児対策の方向転換を意味するものとして重大な意義があった。
 昭和三十九年、親たちは集まって「全国重症心身障害児(者)を守る会」を結成レ化。
 そのような時に水上氏の訴えが公表され、伴淳三郎さんたちの「あゆみの箱」の運動が始まり、世間の眼が次第に重障児に集まるようになったのである。
 そして、翌年第二回全国大会に、時の内閣官房長官・橋本登美三郎氏が臨席せられ、その特別の計らいにより、国立療養所に重障児を収容するという画期的方針が決まったのであった。
 その後の守る会の活動は、地道ではあったがきわめて着実に進められ、今日の充実した制度を完成させたのである。

私との関わり
 私はそのような事情はまったく知らなかった。
 ただ、結核児童の療育給付制度創設の運動をしていたときの良き助言者だった、全国社会福祉協議会の藤村哲氏が、新設される重症児施設近江学園(滋賀県)に赴任されると聞いて、大変ご苦労様と思ったことがある。
 それまで(島田療育園意外)なかった、最重度の子ばかりを集めた施設がどんなものになるか、空恐ろしい感じがしたからである。それが思いもかけず今度は自分△090 にお鉢が廻ってこようとは。
 昭和四十年のある日、東北大学整形外科定例の抄読会(学習会)の席で、肢体不自由児施設拓桃園の高橋孝文園長から、
「重症児施設を西多賀で引き受けてくれないか」
と突然頼まれた。思いもかけぬ話だったので、私は前後の考えもなく言下に断った。その頃、私は筋ジスのことで頭がいっぱいで、他のことなど考える余裕がなかったからである。 余りにもそっけない返事に、高橋園長は、「それならこの仕事は私自身が引き受けねばなるまい」と考えたと後日語った。それほど私はこの間題に対しては冷淡であった。
 その後しばらくたって、厚生省から国立療養所に重障児を収容する方針が決まったという通知があり、説明会が開かれた。
 国立療養所の内容を知っている私には、国立療養所で重障児を扱うことはきわめて困難ではないか、という感じを持った。★★
 「やれといわれればやれぬことはないが、はたしてそれで、満足のいくような重障△092 児の処遇ができるだろうか」と危ぶまれたのである。厚生省もその点をひどく気にしていたようであった。
 私は、「もし国立療養所でやるとしたら、私の病院がまだ一番ましではないか」と思った。寝たきりの子どもの世話をすることにかけては、他の療養所よりは慣れているという自信があったからである。
 厚生省もそのことを考えて、西多賀を頼りにしているように見えた。
 何回か会合を重ねているうちに、私が断ったら厚生省は失望するのではないかと思って、断りきれない気持ちに傾いていった。
 職員とも相談してみると、やってもよいという。そこで私は重障児ばかりでなく、この際、西多賀を小児専門病院に転換しては、とまで考えた。
 その考えは実現しなかったが、重障児の収容は受け入れることになった。
 国立療養所課長は、国寮に重障児収容方針を打ち出したものの、はたしてそれを受け入れる施設があるかどうか、非常に心配しておられるようだった。
 そこで私は、「他の施設が受け入れないようでしたら、予定のべッド全部私のところで引き受けましょう」と進言した。とたんに課長が椅子から飛び上がって、△093 深々と頭を下げられたのにはびっくり、それほど心配しておられたのかと気の毒になった。
 引き受けた以上万全の準備をしなければならない。
 何よりも大事なことは職員の訓練であるが、それも技術的なことよりも精神的な訓練、とくに重障児に対する基本的な心構えを確立することが何よりも大事なこととであった。その点においては、感性に関する部分が多く、つけ焼刃の教育ではどうにもならぬところがある。だから、優れた資質をもつ職員を採用することが何よりも先決であった。
 幸い、その面においても予想外の好運に恵まれた。日頃ボランティアとして交流のあった学生やその仲間が、西多賀に重障児施設ができるという話を聞いて、自発的に重障児研究会を発足させたのである。
[…]

第四章 筋ジストロフィー

ぼくの病気治るの?
[…]△098

筋ジストロフィーとは
[…]

筋ジス研究所
 過去の医学の進歩の跡から類推すると、筋ジスにもいずれは治る日がくるであろ△106 う。とすれば、その日が一日も早く来るように研究を推進すべきである。
 ところが現状では、筋ジスは一部学者が個人的な興味で研究しているにすぎない。こんな、海のものとも山のものとも分からぬ研究に打ち込んでいたら、泥沼に足を突っ込んだように一生を棒に振る恐れがあるからだ。したがって、確実な研究成果を挙げたいと思う学者は、そんなテーマは取り上げない。
 そこに筋ジスの研究が遅々として進まない原因がある。
 もし、癌や結核の研究のように、大々的、組織的に、人的、物的資源を傾注して筋ジスの研究を進めたら、短期間に大きな成果が得られるに違いない。それをやらないのは、癌や結核に比ぺて対象患者の数があまりにも少ない(人口十万中四人)からであろう。しかし、純学問的にいえば、これはきわめて興味あるテーマで、俗な考えだが、ノーべル賞に値する研究である。私は、「筋ジス専門の研究所を設立して欲しい」と思った。それも、中途半端なものでは役にたたない。
 近代科学の粋を集めた一大総合研究所が必要だ。これまでやってきたような、小さな研究室をいくら寄せ集めても飛躍的な成果は期待し難い。科学のあらゆる分野の第一級の専門家を集め、その総力を結集してまったく新しい科学を創造するくら△107 いの意気込みをもって取り組む研究所が欲しい。
 研究は思いもかけぬ方向に進むものであるから、この研究所は、単に筋ジスだけではなく科学全体の進歩に大きく貢献をするに違いない。この研究所は、日本ばかりでなく、世界の頭脳を集めた、科学の最先端をいく研究所となり得る可能性を持っている。
 「そんな膨大な研究所をつくる金があるか」
 「ある」
 時あたかも列島改造論が一世を風摩していた。そのほんの一部を充当すればよいのである。土木事業や工場建設に何千億、何兆、何十兆円も投入していることを考えれば、学間研究のために、その何分の一かを投資してもよいではないか。景気刺激効果は同じくあるはすである。
 否、それどころではない、長い眼でみればその方が文化の発展、人類の繁栄により大きな貢献をするであろう。
 そのような研究所を作る可能性のある国のなかで、日本は現時点では最高の条件を備えているといえる。経済力においても、学者のレべルにおいても。△108
 少々我田引水のきらいはあるが、私は筋ジス研究所の創設にこのような夢と理屈をつけて、私の考えを正当した。
 そして、私はそのことな厚生省に進言した。
 厚生省といっても、縦割りの行政機構のなかで、いきなり大臣に直訴することはできない。筋を通すとなると末端の出先機関を経由する他はない。そこから大臣にまで行く間にはおびただしい関所があり、その一つ一つをクリアしなければならないのである。
 そんな事情を考えると、私の誇大妄想狂的意見が通る見込みはきわめて薄かった。仮に担当課長にまで届いたにしても、誰かの寝言くらいにしか響かなかったに違いない。
 その証拠に私の進言に対ずる厚生省の反応は糠に釘、柳に風と受け流されるばかりであった。もっとも、面と向かっての反対は一言もなかったが。
 そんな時、千載一遇の好機が訪れた。
 厚生大臣に、実力者といわれる、園田直氏が任命され、就任早々、私の病院を視察に来られたのである。△109
 ベットスクールや筋ジス患者、さらにはワークキャンパスまでご覧になって、強い感銘を受けられたようであった。というのは、大臣が東京に帰られてから、至る所で「西多賀、西多賀」と連発されていたという噂が流れてきたからである。厚生人臣に就任した最初の出来事だったので、強く印象づけられたのであろう。
 私は、他のことはどうでもよいから、筋ジス研究所だけは創ってほしいと大臣にお願いした。園田さんは私の説明を聞いて、
 「なるほどその気持ちはよく分かる。鉛筆書きでよいからすぐ計画書を出せ」といわれた。私はそこまでは準備していなかったし、おいそれと書けるようなものでもないので、後日、私の病院内に設ける研究所の大まかな計画書を提出した。それに対する返事は梨のつぶてであった。どこかの関所で握り潰されたことは明らかで、大臣の手元に届いたとは思われない。
 園田さんは、お名前のとおり、素直なこころで陳情を聞かれ、素直な気持ちで答えられたのだが、役人は戸感ったようである。
 「大臣のいわれたことをみんな実施したら厚生省の予算はいくらあっても足りない」と皮肉って、毛沢東語録をもじり、園田語録という言葉を流行らせた。△110
 写真△111
 しかし、私は園田さんの返事に満足している。役人の下書きどおりの、そつのない答えょりどれだけ励まされたことか。
 その数年後、筋ジス関係者の親の間でも、伊藤忠の自動車部長・徳田篤〔誤記→正:篤俊〕氏が中心になって、日本筋ジストロフィー協会を設立し、政府に対して適切な対策を講ずるよう要請した。
 これに対して厚生省は国立療養所に筋ジス患者を収容するという方針を固め、全国数箇所の国立療養所が指定された。もちろん西多賀病院はその中に含まれていた。
 徳田氏は、会員に負担をかけないようにと会費もとらず、自費で全国を廻って組織作りをされていた。西多賀にも来られて筋ジス対策について話しあったが、私はよいパートナーができたと、大いに期待していた。
 ところが、病気のため間もなく会長を辞められたのは、筋ジス患者のためには返す返すも残念なことであった。」([112])

 筋ジス研究所設立運動
 転進
 このまま病院に留まるべきか、それともすべてを捨てて「筋ジス研究所設立運動」にふみきるべきか。私は迷った。
 町のままでは、研究所設立の見込みはない。私が病院長の地位に留まっているかぎり計画を推進ずることはできないからた。だが私が辞職し、国家公務員という資格を捨てて一市民となれば、誰はばかることなく研究所設立を訴えることができる。なぜならば日本国毒法第十六条には、国民は国会に対して請願する権利が保障されているからである。
 もし、私が辞職するとしたら、これまで築いてきた病院は捨てなければならない。ベットスクールもワークキャンパスも重障児や筋ジス患者の療育も、これまで永い年月培ってきた友情も、すべてな捨てねばならない。
 しかし、病院長の後任は得られる。ベットスクールは半沢先生がいるから心配な△0124 い。ただ、ワークキャンパスだけは違う。大恩うけた福島さんに対しては何とも申しわけがたたない。これほどお世話になりながら、いまさら自分の都合で、はいさようならとはいえないのである。
 といって、このままにしておけば筋ジス研究所は永久に日の目をみることはない。それだけは確かである。「筋ジス研究所を作れ」などという変わり者は、日本広しといえども私以外にはいないからである。
 とすれば筋ジス研究所を作るために、私がワークキャンパスと決別することも福島さんは許して下さるかもしれない。これまでの長い年月一緒に仕事をしてきてくれた多くの仲間も私を許してくれるに違いない。
 私は苦渋の決断をした。
 しかし、筋ジス研究所を作ることを真っ正面から打ち出すのは、余りにも常識はずれで、かえって奇異の感を招きかねない。成功する可能性がゼロに近く、私自身にも自信がなかった。
 それより月並みな理由、「両親も老いたし家庭の都合で故郷に帰るのた」ということにした方が無難だと考え、ごく一部の人を除いてはそれで通した。しかし、そ△126 れも多くの人々の納得を得るまでには至らなかったようである。でもいつかはきっと分かってくれる日がくるであろう。
 私が郷里に帰った後、厚生省の局長から電話があった。
 「どんな条件でものむから帰ってこい」
 「ご好意はありがたいが、すでにルビコンは渡った。いまさら引き返すことはできない」と断った。
 かりに引き返しても、二局長のカで研究所ができるとま考えられなかったからでめる。その局長には悪かったが、結果的には断ったほうがよかったと、今でも思っている。

 太陽と緑の会
 […]△0127
 △132

 国会請願と田中首相への陳情
 運動の途中、私は暇を見ては上京し、研究所設立を陳情してまわった。この種の運動は今度で二度目だから要領は分かっていた。全社協、マスコミ、国会議員などの周辺から始め、本丸の厚生省や大蔵省にも陳情を繰り返した。
 肝腎の厚生省は逃げ腰で、迷惑そうな顔をしていた。もっともである、喧嘩別れしたようような仲だから。
 この陳情でもっとも奮闘し、大きな成果を挙げたのが筋ジス患者で、ワークキャンパスにいた榊枝清吉氏であった。
 不自由な体に似ずきわめて積極的で、東京に自宅があったのを幸い、私とは別に、単独でたびたび陳情に廻ってくれた。
 時の厚生大臣、斎藤邦吉氏〔1909〜1992、厚生大臣任期1972〜1974〕の所へはしばしば訪ねていったので、大臣とも顔馴染みになって、「おお、また来たか」と肩を叩いて迎えてくれる仲となった。一般の人が大臣に面会するのは容易でないが、彼の場合、一目で筋ジス患者と分かるので、秘書官も特別扱いにして、木戸御免となっていたのである。
 斎藤大臣だけは筋ジス研究所に対して同情的に見て下さっていたが、これは官僚△132 の思惑とは食い違っていたようである。後に述べるようにわれわれの国会請願が採択され、首相命令で研究所設置が決まったが、それでも官僚は渋っていた。そのうちに大臣が交替したので、彼らは思う壷と胸を撫で下ろし手をつけずに放っておいた。
 しかし、悪いことはできないものである。
 斎藤さんが再び厚生大臣になられたのでびっくり、その怠慢がばれた。大臣から「まだやってないのか」と叱られて、今度こそはいい逃れができず、重い腰を持ち上げたというのが真相である。この話は私が洩れ聞いたもので根拠がある。
 話は元に戻るが、われわれの血と汗の結晶である請願書の署名が二十五万に達した!
 「時至れり」と、昭和四十八年四月、全国の代表が東京に集まって、いよいよ国会に請願することになった。
 紹介議員は八田貞義先生で、請頭書は榊枝氏がワークキヤンパスで印刷し、署名簿をリアカーに満載して国会に向かった。
 国会議事堂前には、衆、参院とも特別の壇を設け、自民党から共産党まで超党△133 派で、各党の代表議員が受け付けてくれた。破格の待遇であった。
 後は社労委員会の審議を待つばかりである。
 しばらくして、両院とも社労委員会、全員一致で採択との通知があり、官報にその旨登載された。
 これで第一関門は無事通過、次は内閣である。議会が採択しても内閣が実施に移さなければ空振りに終わるからである。
 八田代議士の紹介で日程を打ち合わせて、総理大臣陳情の日が昭和四十八年八月二十三日と決まった。
 いよいよ大詰め、いちかばちか決まる日である。
 八田先生に付き添われ、代表五名が応接室に招き入れられて首相のおいでを待つた。やがて田中角栄首相が軌務室の扉をあけて応接室に現われ、八田先生からわれわれが紹介された。
 首相は私を右側の、榊枝氏を左側の椅子に招じてすわらせた。
 陳情の主旨を一通り聞かれて首相は、
 「私はかねがね大変気の毒に思っていた。この研究所は必ず作ります」△134
ときっばりといわれた。
 いささかの疑問も残さぬ明快な答えで、前々からはっきり決断しておられたことは明白であった。しかも注目すべきは、「この予算は枠外」と何回も秘書官に念を押されたことである。それは首相の並々ならぬ決意を示すものであった。
 もし研究所の予算を、厚生省の予算の中から出すとすれば、ほかの子算を圧迫し、ひいては研究所の予算も十分に取れなくなる恐れがあるからである。
 われわれは「百億円つけてほしい」とお願いしたが、金額に関してその場では可否の言葉はなかった。しかし、肯定的に受け取られたことは次の事実によって明らである。
 後日、総理府の機関誌『政府の窓』に、田中首相と斎藤厚生大臣が話し合われて「筋ジス研究所には百億でも二百億でも出そうではないか」といわれたことが出ていた。
 私は首相のこの言葉を聞いたとき、全身に衝撃を受け、すべてが突然夢幻の世界に変わったように思えた。
 涙がとめどもなく溢れて、お礼をのべる声もつまってしまった。△135
 「天にも昇る心地」とはこのことだろう。陳情が終わって、足も地につかぬ思いで控え室にかえり報道陣に囲まれた。
 「ああこれで研究所ができる、これが世界の筋ジス研究のメッカになる」と思うと、また新たな涙が溢れて止まらなかった。
 翌日の自民党の機関誌『自由新報』の第一面トップに大見出しで、写真をのせ、「涙、涙、首相、筋ジス研究所に百億約束」
と報じていた。朝日、毎日、読売、その他市販の各紙も大きく取り上げてくれ、テレピ、ラジオも報道してくれた。
 私はこれで万事解決と考えた。「枠外で百億円くれるのだから厚生省も文句はないだろう」と。
 ここで、当時私が徳島新聞に寄稿した「研究所への期待」を再録しておくことにする。

 「去る八月二十三日、筋ジストロフイーの患者らが、首相官邸に田中総理大臣を訪ねて、筋ジストロフイーなどの研究所の設立を陳情したことはまた耳新しいと△136 [写真]△137 ころである。首相は、必ず立派なものを作る、と約束したが、ここに至るまでの患者たちの苦労は並たいていではなかった。
 まず、我々がこの研究所に何を期待するかを考えてみよう。そうすれば自らその備うべき内容は決まってくるであろう。
 もちろん、我々は、筋ジストロフィーの本態をきわめ、その発生予防と根本的治療法の開発を是非その手でやりとげてほしいと願っている。しかし、これは実は大変な要求であって、世界広しといえども自信をもってこれを引き受けてくれる人は居ないであろう。それにもかかわらず「この研究所で治療法を発見するのだ」という決意を持つことを強く求めたいのである。決意こそ、ことの成否を決めるカギだからである。ここでも在来の常識を打ち破ってほしいと思う。
 そしてもし、筋ジストロフイーを解明するほどの能力を持つ研究所ができたとしたら、それはジストロフイーばかりでなく、ガンやその他の難病の解決にも決定的役割を演ずる能力も持つはすである。また、それは、日本の医学界に活を入れ、その潜在能力を現実化する契機ともなろう。二十一世紀の医学を開花させる原動力となるような研究所をこの機会に作ってほしいと心から願うのである。△138

 研究所の基本構想
 この研究所は極めて基礎的な研究が中心となることは当然予想される。医学というよりは生物学、生物学の中でも生化学が中心となり、中でも生体内の物質代謝の立役者である酵素の追求が研究の核心となることは想像に難くない。といって、特定の酵素をねらい打ちするような研究ではなく、生物学のみならず、必要なあらゆる科学の分野をカバーする一大総合研究所でなければならぬ。その内容からすれば、生命科学(ライフサイニンス)研究所ともいうべきものであろう。設備は現在最高レベルのものを備え、現在可能な科学技術はすべて研究に利用できるところまで整備しなければならぬ。とにかく、今まで日本に存在したことのない機構と機能を持つ画期的な研究所の建設を期待したい。
 研究所の大きな骨組みとしては、中心になる研究部門のほかに、病院部門と事務部門は当然必要てあり、さらに研修部門や情報公報センターまで厚生省は考えているようである。
 研究部門について
 研究部門の中にどのようなセクションを設けその機構や運営をどうするかは、△139 素人の判断に余るところであるが、次の点は十分に考えてほしいと思う。研究者は医学者ばかりでなく、理学者はもとより、農学、工学や数学者に至るまでの広い分野の専門家が参加して、それぞれの高度の専門的知識や技術を十分に総合発揮できるシステムを作ることである。研究の自由は大切であるが、各分野の研究成果を持ちよって全体的視野の中で討議し、未知の世界に打ちこむクサビともいうべき仮説を作っていく仕組みが必要である。この点について、さきの陳情の席で、首相が特に強調しておられたことはさすがである。
 研究部門の内部のセクションとしてどんなものを考えるか、内容の重複もかまわず列記してみると、疫学、病理学、生理学、生化学、酵素学、遺伝学、発生学、微生物学、組織培養学、薬学、実験動物学などが一応考えられる。その他に難病といわれる各病気ごとのセクションが必要であり、各セクションはさらにいくつかに細分される可能性もある。
 こう考えてみると、研究部門全体の機構はかなり膨大なものとなり、その運営は複雑化して能率的運営が困難となることが予想される。したがって、研究所全体の大きさには自ら限度があって、難病全部を一つの研究所に集中して研究する△140 ことはかえって不都合を生ずると思われる。無難なところ、比較的共通な部分の多い疾病を群とし、群ごとの研究所を作ることであろう。差し当たって、神経筋疾患研究所と精神医学研究所あたりから手をつけくいくのが妥当ではあるまいか。
 実験動物部門については、厳しい学問的批判に耐え得る動物の質と量を確保する必要があるので、それを賄うに足る規模と高い質が要求されるであろう。

 病院部門について
 病気の研究をずる以上、病院部門がなくてはならぬ。そこで心配なのは、患者と管理者と研究者の対立である。三者の間には心からの協力関係がなければならぬが、そのためには、一番弱い患者の人権を十分に守る病院内外の環境を作らねばならぬ。従来のジストロフィー施設の宿弊を改め、患者が院内外で人間として充実した生活が送れるようにしなければならぬ。研究者も、学問のためとはいえ、興味中心で患者を扱うことなく、その人格を十分尊重する態度が必要である。
 思者の処遇をよくするには、日夜その身辺の世話をし、療育の任に当たっている職員の処遇をよくしなければならぬ。従来のジストロフイー施設のように、職員がその心身をすり減らすことによって支えている形を改めない限り、結局は患△141 者の処遇も高く維持することはできない。職員の数を増やすことによって体力の消耗を少なくし、学習の時間と機会を与えることによって精神的栄養を補給し、あすへの意欲とエネルギーが枯渇しないようにしなければならぬ。
 研究の中心となる優秀な学者の確保は、建築や設備以上に重大な間題であるから研究所設置の企画の中にはその点に関する計画が十分に検討されるべきである。学者を集める第一の要件は魅力ある研究環境を作ることである。それにはいろいろの要素があろうが、その最たるものは、目先の成果にとらわれずに生涯のテーマと取り組み、最高の設備を駆使して自由に研究できることである。研究者の子弟の教育や家庭生活の配慮も忘れてはなるまい。
 このようなことを並べると、ぜいたくのそしりをうけるかも知れないが、それによってよりよい成果があげられるならその経費は安いものである。全体の投資額からみれば微々たるものであるからである。従来の日本の研究者や特に福祉施設の職員の待遇の低さを他の業界のそれと比較すれば、このくらいのことは、つつましやかな要求というべきである。△142

 ところが、好事魔多し、ことはそう簡単には運ばなかった。最大の痛恨事は田中総理の失脚であった。私の考えた理想的な研究所は田中総理ほどの実力者でなければできないことであった。
 その証拠に、斎藤厚生大臣にせっつかれてようやくできた研究所の予算は九億円という見る影もない哀れなものとなっていた。
 研究所の予算が九億円ときいて、私は後継の三木武夫首相〔首相任期1974年12月9日 - 1976年12月24日〕の所へ行って、「約束とはちがうではないか」と詰った。
 三木首相は、「そのことは官房副長官に話しておくから、そちらへいって話してきなさい」といわれた。私は上京して榊枝氏とともに副長官を訪ねた。
 官房副長官は首相からは何も聞いていない様子であった。
 「総理がそういわれるのなら、重く受け止めねぱならない」といったきりだった。
 待っているあいだに聞こえたのは、隣の部屋で、
「田中さんが約束したのなら田中さんから出してもらえばよいではないか」という笑い声だった。不注意か故意かは知らないが。
 引き上げる途中、同行していた秋元波留夫神経センター(われわれのいう筋ジス△143 研究所)設立準備委員長は、「なんだ、何の役にも立たないではないか」と愚痴った。自分が行って話せばうまく行くとでも思っていたのであろうか。そんな簡単なことで片付くなら苦労はしない。全国の仲間の長年にわたる苦労をなんと心得ているのか。
 私は初めからこの交渉にほとんど期待はしていなかった。ただ、万が一、少しでも前進があればと考えて行動したのであった。そのような行動の積み重ねが今日の成果をあげたのである。委員会では、そのような苦労も、筋ジス患者の悲しみも知らぬ委員たちが、自分たちの都合中心に審議を進めていたのであろう。
 死児の年を数えるわけではないが、私が希望し、総理が認めてくれたとおりの研究所ができていたら、日本もこの分野で世界のリーダーとなり、医学の画期的進歩に貢献ができたであろうに。
 だが、成功も失敗も運命、じたばたしても始まらない。しばしの夢でも見せてもらえたのはありがたいと思うほかはない。

 神経センター△144
 筋ジス研究所の設立が政府の方針として決定してから、国立精神衛生研究所の一人の医者が私を訪ねてきた。
「今度できる筋ジス研究所に精神科関係の研究も含ませてくれませんか」というのが主旨であった。私は、
「この研究所は物質面の研究だけで心理的な研究は考えていない」というと、
「精神科の方もそれでよい、心理的な研究は含ませない」と答えた。私は、
「筋ジスの研究にも神経の研究は必然的に入ってくるから、その面では共通の広場がある。一緒にやりましょう」と同意した。
 その後の経過から判断すると、厚生省は独自の構想の下に研究所を作りたかったようであろう。しかし、われわれの実績を無視するわけにもいかない。といってわれわれの主張を鵜呑みにしたのでは厚生省の浩券にかかわる。はっきりいえば官僚の面子が潰れるということである。
 苦肉の策として、一応私の了解を取って、この研究所に神経を潜りこませておけば、後はなんとでも料理ができると踏んでいたようである。
 厚生省はまず研究所設置検討委員会をつくって、基本的な問題の審議を姶めた。△145
 私もその一員に加えられてはいたが、第一回の委員会に呼ばれず、二回目から出席させてくれた。出席して驚いたのは、委員会の名称が、「神経センター(仮称)設置検討委員会」となっていたことであった。
 あまりのことに私は、筋肉の研究が主体であるのに、神経センターとは何事かと訂正を求めた。さすがに気が引けたとみえ、まあこれは仮称だから正式な名称は後でどうにでもなる、といって誤魔化そうとしたが、最終的に「神経、筋センター(仮称)」ということに落ち着いた。
 ところが、その後検討委員会は解散して次の段階の準備委員会に切り替えられたとき、その委員から私は外されていた。東大や慶大の名誉教授や現役の教授が名をつらねる委員会であったからであろう、とばかりはいえないようでもあった。
 委員長には精神科で東大の秋元名誉教授が選ばれていた。そして研究所の名称についても、委員会の採決をまたずして委員長が独断で、筋抜きの、「神経センター」と決めてしまった。
 さらに、ずっと後になって「神経センター」は「国立精神神経センター」と改編された。官庁の統廃合の線にそったものと説明するであろうが、最初私に除外を約△146 束した「精神」が主役の位置を占め、軒を貸した家主の「筋」の名はまったく姿を消しくてまったのである。
 名はどうでもよい、実質があればよいではないかという意見もあろう。私もその意見には賛成するが、それはあくまでも実質があればという前提にたっての話である。
 なるほど、筋ジスの研究には優秀な学者が研究にあたり、センターの現総長は終始筋ジス研究をリードしてこられた杉田秀夫博士であるが、センター全体から見れば筋ジスは一部にすぎない。私が最初に考えていたような研究所の全機能を集中して筋肉の研究ができるような体制にはなっていない。各自、研究の自由の名の下で独自の研究を進めるだけで、学際的、総合的研究が効率的にできるような体制ではない。百億でも二百億でも出してやろうといわれた宰相の親心は無にされてしまったのである。
 アメリカのNIH(National Institute of Health 国立衛生研究所)のような膨大なものともなれば、各部門の研究もかなりの規模でできようが、この程度の研究所で△147 総花的運営をしたのでは、結局あぶはちとらずに終わるほかはない。
 さんざん苦労して手に入れた筋ジス研究所のパイは、筋ジス患者の悲しみをよそに、学者や官僚によって食いちぎられてしまった。
 神経センター完成の式典に私と榊枝氏は末席に招待されたが、発言の機会はまったく与えられなかった。爆弾発言でもされたら大変だからであろう。といって招待しないわけにもいかず、考えた末の策だったのか。
 その時の新任の小沢辰男厚生大臣がのべた祝辞がふるっていた。
「このように立派な、世界にも希な研究所ができて誠におめでたい」と。
 せっかく総理大臣が百億やるといったのに、たった九億に縮め、画期的一大研究所ができるはすであったのを潰して、ありきたりの研究室の寄せ集めに終わらせたのを、おめでたいとは。
 神経センターの業績報告(『国立武蔵療養所神経センター年報』、後改め『国立精神神経経センタ神経研究所年報』)が毎年出ているが、そのなかに記された歴史には、われわれの行動については一言も触れていない。
 あれから二十年、国立武蔵療養所の一部として発足した神経センターは、組織を△148 改めて国立神経センターとなり、武蔵療養所は逆にセンターの付属病院となった。研究部門も増え、研究棟も増築されて規模を次第に拡大した。研究機器は大学以上の高度のものを揃え、動物部門は従来にない完備したものとなった。
 その後、さらに「国立精神神経センター」と改編、規模は一層大きくなり、筋ジスの研究はその中の神経研究所で行なわれている。
 筋ジスの研究に関しては、ようやく曙光が見えはじめたといえるところまできた。
 従来、研究の方向も分からなかったのに、一九八六年ハーバード大学のルイス・クンケル博土らは、デュセンヌ型筋ジス患者の遣伝因子に欠陥のあることを発見、杉田博士らは、その欠陥遺伝子を基に五十個のアミノ酸で構成するペプチドを合成し、それに対する抗体がデュセンヌ型筋ジス患者の筋細胞膜にのみ反応し、健康な人のそれには反応しないことを確認した。
 一方同じハーバード大学のエリック・ホフマン博士らは、デュセンヌ型筋ジス患者の筋肉中にジストロフィンと呼ばれる蛋白質が作られていないことを発見した。
 これらの発見は筋ジスの本質に迫るもので、筋ジス治療法発見も間近かに近づいたことを思わせる。これからが問題ではあるが、一日も早く治療法が確立されるこ△149 とを祈りたい。△150

第五章 リサイクル 151
 その後 151
 障害者の結婚 154
 知恵遅れの子の療育 157
 リサイクル活動 163
  ポパイの家 163
  リサイクル誕生 168
  奇跡の三段跳び 171
  リサイクルの基本理念 174
  給料ミーティング 179
  リサイクルの現状 182

第六章 ボランティア 187
 学習会 187
 ボランティアとは何か 195
  ボランティアの心 195
  本務の中のボランティア 200
  本務のほかのボランティア 203
  東洋のボランティア 207
  海外援助 212
  犬飼基金 214
  ウガンダ支援 218

おわりに

■言及

◆立岩 真也 2016/07/01 「国立療養所・4――生の現代のために・14 連載・125」,『現代思想』44-(2016-7):


UP: REV: 20160608, 09, 10, 11, 20161007
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