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『精神科医がものを書くとき・U』

中井 久夫 19961028 広英社,423p.

last update:20110207

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中井 久夫 19961028 『精神科医がものを書くとき・U』,広英社,423p. ISBN-10: 4906493033 ISBN-13: 978-4906493036 [amazon][kinokuniya] ※ m.

■広告

内容(「BOOK」データベースより)
精神科治療の場から、医療機関・危機管理のシステム整備、そして翻訳者としての文学的営為まで―、つねに現場に身を置き、思索し、行動する「臨場的な叡知」がここにある。変貌する社会状況の中で、人間の“正気”の条件を探索しつづける中井久夫、待望のエッセイ・論集Part2。

内容(「MARC」データベースより)
精神科医の立場から、医療機関・危機管理のシステム整備、そして翻訳者としての文学的営為まで。つねに現場に身を置き、思索し、行動する「臨場的な叡智」がここにある。人間の正気の条件を探索し続ける著者のエッセイ論集。

■目次

宗教と精神医学
公的病院における精神科医療のあり方
精神医療改善の一計
神戸大学医学部附属病院第二病棟「清明寮」の開設について
清明寮の庭
ある臨床心理室の回顧から―故・細木照敏先生を偲びつつ
コラージュ私見
芸術療法学会の二十五年
難症論
時間精神医学の試み〔ほか〕

■引用

◆1994 「精神分裂病の病因研究に関する私見」,『精神医学』36-6→中井[19961028:104-126]

 「はじめに

 […]病気の原因というものは、我々が素朴にこれと指摘じてきるものとは限らない。むしろ、そちらのほうが例外で悪。病気というものは通常、長い事件の連載あるいはパターンあるいは布置である。その中で不可欠の因子があれば、我々は、これを病気の原因という。感染症でも一発必中というのは狂犬病かラッサ熱ぐらいしか思い当たらない。」(中井[1994→19961028:104])

 「慢性病態についての思弁

 時々、分裂病は器質性疾患と思わないのかという質問を受ける。「器質性疾患」という用語を、光学顕微鏡(電子顕微鏡でもよい)水準の異常を整合的に発見しうる疾患と定義しないと、神経症に<0119<も我々の日常思考にも、脳内、体内にあるその物質的基底の変化があるはずなので、この問いは意味をなさない。私は、器質性疾患といわれているものは、「粗大な原因によって粗大な結果を生むもの」と考え、分裂病は「些細な失調が回り回って大きな結果を生む」として区別するのが実際的であろうと思う。「プロツェス」という概念はさらにわからず、慢性分裂病の方向に状態を遷移させる力という理解しかできないが、それでよいのであろうか。これを「起病力S」といいかえれば、「抗病力R」もあるはずである。後者がゼロに近くなった場合が「激症(奔馬性)破瓜病」であろう。さらに付随的な条件が疾病の帰趨を決する場合もあるであろう。この二つの力に関してはむろん病気以前の最初の状態はS<Rのはずである。この符号がこの観点から特に速やかに逆転すれば分裂病性エピソードであろう。
 この観点から特に間題なのは慢性病態であって、これは、SとRとの不宏定な釣り合い状態であるとみなすことができる。いずれも入力をもって維持せざるをえないから、次第に生体は疲弊してくる。しかも、すべてシステムというものがそうであるように、その状態を変えようとする作用に対しては、その状態を維持しようとする反作用が生じる(15)。慢性病態の変えにくさはこのような原理的なところにもあるだろう。
 釣り合いの平衡点が多少ずれるところに様々な界面現象が発生する。山口直彦らの「知覚変容発作」「恐怖発作」もその一つとして理解することができる(16)。この状態はそのつど薬物で解消することができるが、それで事足れりとするのは早計である。初期あるいは軽症(外来)において維持<0120<した例では,そのつどの解消成功にもかかわらず、苦い結末に至った。治療関係が良好な――ほとんどすがるように離脱を求めていた――ままであった。精神科医としてそのような場合に遭遇したのは実に二回だけであったが、思いみれば、毎日、S優位の状態とR優位の状態とを往復するということは、北極と赤道とを往復するよりも過酷なことであろう。友人も多く、大学通学もしていた。R優位の時は、活き活きとした青年であった。S優位の状態は日に一時間ほどであり、夕刻、しかも移行期(ホーム、車中、喫茶店など)に限られていたが、それでも、「発作」のない時には「あれがいつ襲ってくるか」という不安があり、「発作」の最中は不思議にこの不安がないのであった。今となっては「臨界期」の諸現象がどうして発動しなかったのかが怪しまれる。一見些細な、一過性の事象であるから、発動の閾値に達しなかったのであろうか。あるいは、Rの氷山の一角であると思われる臨界期の生物学的基底の欠陥あるいは疲弊があったのであろうか。あるいは、未済の葛藤――それはあった――に重要な何かが振り向けられていたか、消費され尽くしていたのであろうか。
 あるいは、「迷路」を逆に通り抜けることが難しいように、臨界期の生物学的基底の複雑さが、「非S」(R優位)の状態への復帰を妨げていることが慢性化成立の一因かもしれない。こうなると悲観論的になるが、抗糖神病薬は少なくとも初期にはこれを押し下げる効果があった.もっとも、これに先行してドパミン系が安定化することが必要かもしれず、さらに、臨界期の生物学的基底の安定化と再建ということも重要であるかもしれない。この基底が固定的構造物というよりはダイナ<0121<ミックな機能集団であるとすれば、そういうこともあるだろう。
 ここで参考になるのは、おおむね、緊張型においては、臨界期は数日、数週であるが、妄想型においては、数ヵ月、数年にわたり、また破瓜型においては、トビトビに起こって「実らない」傾向があることである。また一般に軽症においては単純な構造を持ち、順当な治癒の場合には、一つが終わりつつある時に次が起こり始めるという継起性があることである。緊張病状態は分裂病状態の入口だけでなく出口でもあるというサリヴァンの考え方も一理がありそうである。

  精神病理学からの一言

 生物学的精神医学が精神病理学から何らか得るものがあるとしたら、それはまず、注目されていなかった現象の発見、意味づけであろうか。精神病理学といわず、臨床精神医学は、まだ肉眼で月を見ているようなものである。望遠鏡で見ればまったく別の月面が見える。我々の場合は、時間尺度を変えることによって、まったく別の様相を呈するはずである。それは、氷河が年の単位では流体とされるのと似ている。しかし、分単位、時間単位の非破壊的観察には独特の困難がある。また、私の得た多少の成果も、精密にすればするほど個人を特定できてしまうために、発表する際には抽象的、曖昧あるいは省略した表現にしないわけにはゆかない。
 私は、妄想や幻覚は、ある状態の指標としては重要であろうが、分裂病の本性に迫るものとは思<0122<っていない。それらの与える苦痛を軽減することは有益であるが、それらに焦点を当てた治療はある程度以上の意味がないと私は思う。また、急性期の幻覚妄想と慢性幻覚妄想とはいちおう別個の現象と考える。妄想と幻覚を消し去る薬物が開発されたら万事よしではない。マイクロサイコーシスの一面を持つ「発作」を薬物で解消した跡に残るのはしばしば癒しがたい索漠感である。
 複数の患者からの言によれば、妄想と幻覚の持つ苦痛は、それに先行する恐怖体験に比べれば何ほどのこともなく、したがって、それほど悩まないようにみえるのである。実際、発病時の恐怖体験の与える大きな苦痛が、すべての患者に起こるかどうかは断言できないが、幻覚妄想は対象化、感覚化であり、言語化可能であって、これは「全存在を包み、個別感覚を超え、言語化できない恐怖体験」からの「健康化」とみることもできる。これは一つの罠であるが、安定した幻覚妄想を持たない患者が恐怖発作の再来に悩むこと、および幻覚妄想の中に恐怖の要素があって、患者はこの恐怖に対して反応しているのであって、幻覚妄想の狭義の内容ではないことを言っておきたい。
 特に、分裂病の精神病理学においては、破綻論と基礎構造論のいずれであるかを考えて読む必要があると思う。
 最近の中安信夫が初期分裂病と呼ぶものは、新しい治療的課題である。ドパミン系に対する薬物が無効であることは理論的にも大きな問題である。これが必ず分裂病の前駆段階であるかどうかは断定できず、いちおう別個として「中安症候群」とでもしておくべきであろう。この治療は、私の経験では、ごく少数の薬物の援護下に困難なシュヴィング的接近を行わねばならず、しかも、シュ<0123<ヴィングらが対象とした慢性緊張病患者よりもはるかに治療者の心身の負担を必要とするように思われ、かつ、自殺のリスクが予想外に高いのではないかと懸念される。」(中井[1994→19961028:119-124]) cf.原因/帰属

◆1991 「吉田脩二『思春期・こころの病――その病気を読み解く』序文」→中井[19961028:385-286]

 (著者の吉田は)「基礎医学である解剖学の大学院から精神医学に転じているが、大学も大学院も金沢であると聞けば、精神医学に大きな地殻変動を起こした金沢学会を思い合わいられないであろう。実際、この変動のさなかという時期に、氏は、いかなる契機によってか、精神科の道にはいり、精神科医となって、今は二十年。」(中井[1991→1996:385]) cf.金沢学会
 「氏の属する「団塊の世代」すなわち”学園紛争”世代の医師は、多く、道のない坂を登るような修行をしてきた。いちおう鋪装してある道はあるのに、そこに登った先はほんとうの山頂ではないとして、薮をこぐほうを選んだのである。これは楽な道ではない。連帯などどいう言葉が虚ろに聞こえる、独りの道である。そして、臨床の努力をやめたり、一時中止する理由はいくつもあった。氏がつねに臨床のためのヒゲ根を伸ばす努力をやめなかったことは、その著作を追って読めばさらに明らかになるだろう。」(中井[1991→1996:386])

■言及

◆立岩 真也 2013 『造反有理――身体の現代・1:精神医療改革/批判』(仮),青土社 ※
◆立岩 真也 2011/08/01 「社会派の行き先・10――連載 69」,『現代思想』39-(2011-8): 資料


UP: 20110207 REV:20110711
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