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『盲人の歴史』

谷合 侑(たにあい・すすむ) 19960910 明石書店,290p.

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■谷合 侑 19960910 『盲人の歴史』,明石書店,290p. ISBN-10: 4750308447 ISBN-13: 978-4750308449 \3465 [amazon][kinokuniya] v01


■内容(「MARC」データベースより)


視覚障害者の歴史はチャレンジの歴史であり、闘いの歴史であった。古代末から音楽や按摩などで自立した職業人としてたくましく生きてきた歴史、明治から現在にいたる福祉・教育・新職業の開拓の力強い運動の歩みを知る。


■目次



推薦のことば (日本点字図書館理事長 本間一夫) 3
まえがき 5

第T部 中世・近世編 11
1 生活自立への闘い
『今昔物語』に現れた七人の盲人を中心に 12
2 平家語り専業者への闘い
『平家物語」と盲人 26
3 文化伝播者としての闘い
『看聞御記』に現れた三二人の盲人を中心に 41
4 新職業獲得の闘い
戦国時代を乗り越えた盲人 58
5 鍼按業獲得の闘い
元禄時代の生活と職業 73
6 自治組織衰退の中の苦闘
座の弱体化と盲人たちの苦悩 87

第U部 明治・大正・昭和編 103
1 キリスト教伝道者たちの闘い 104
2 伝統芸能継承者たちの闘い 114
3 政治家・社会事業家の闘い 124
4 社会事業への挑戦 135
5 戦傷失明者たちの闘い 145
6 全身病による失明者たちの闘い 155
7 芸術への挑戦 165
8 盲女性たちの闘い 174

第V部 昭和の激動編 185
1 盲人福祉の黎明期 186
2 戦争と福祉事業の苦闘 193
3 盲教育の進展と失明傷痍軍人の教育 201
4 三療業の危機と日盲連の結成 209
5 盲教育の新展開 216
6 新職業への挑戦 223
7 新職業の展開と職域開拓の闘い 230
8 三つの裁判闘争と盲人弁護士の誕生 239
9 統合教育の進展と大学の門戸開放運動 249
10 雇用促進運動 259
11 飛べ!世界へ 267
12 昭和のフィナレ国際障害者年 277

あとがき 289


■著者紹介(「奥付」より)


谷合 侑 (たにあい・すすむ)
1932年 東京都八王子市に生まれる
1957年 東京教育大学教育学部教育学科卒業
同年  東京教育大学(現筑波大学)付属盲学校教諭
17年間、同校で盲教育に従事
1974年 東京都小平福祉園(盲精神薄弱者施設)・指導課
1979年 東京都心身障害者福祉センター・視覚障害科
1989年 東京都八王子福祉園・訓練指導科
1992年 東京都定年退職
18年間、東京都において視覚障害者福祉に従事
1978および1990年 筑波大学心身障害学系非常勤講師
現在は、視覚障害者支援総合センター役員および八王子視覚障害者用地図製作委員会代表・四季の会(視覚障害者と自然を楽しむ会)代表

[主な著書・論文]
視覚障害者労働白書 1985年版              1985年1月
同 1987年増補版                    1987年3月
盲人ガイドのキーポイント―ガイドヘルパーのための15章― 1985年6月
視覚障害者(児)の教育・職業・福祉―その歴史と現状―  1989年3月
視覚障害者と大学シリーズ1―門戸開放四〇年の歩み―   1990年12月
同シリーズ2―学習条件整備を求めて―          1990年12月
同シリーズ3―点字による国家公務員試験が実現するまで―        1991年9月
三〇年にわたる活動の展開 「日本盲人福祉研究会(文月会)30年のあゆみ」 1992年3月
広げよう公務員への道                1993年10月
進めよう視覚障害者の大学進学と職域拡大         1995年1月    
以上、日本盲人福祉研究会・視覚障害者支援総合センター発行
チャレンジする盲人の歴史 株式会社こずえ       1989年3月
中途失明者のリハビリテーション 「からだの科学」138号 日本評論社  1988年1月
失明糖尿病患者の自己管理と生活指導 「臨床成人病」 東京医学社  1990年7月
盲人関係施設の変遷 「創立四〇周年記念誌」日本盲人社会福祉施設協議会 1993年6月
本間一夫と日本点字図書館「日本点字図書館五十年史」   1994年3月


■引用



第T部 中世・近世編

1 生活自立への闘い
(pp23-24)
 まとめ
 『今昔物語』に登場する七人の盲人について、同時代のいくつかの文献および絵巻物で補いながら検討を試みた。
 この結果明らかになったことは次のようなことである。
 @ 多くの盲人の生活は貧しいものであった。律令制の崩壊過程で多数の農民が浮浪化していくが、盲人たちも例外ではなかった。彼らは村人にあるいは寺社に日々の糧を求めていた。
 A しかし物を乞う受身の生活のみでなく、積極的に職業に従事して生きようとする盲人たちがい[p24>た。盲祈?師であり、盲僧であり、盲琵琶法師であり、盲女である。
 B 琵琶法師はこの時代かなり多く存在し、神社仏閣の境内で、路頭で、あるいは貴族の私宅で演奏活動をしていた。その風姿は絵巻物でみた通り、俗法師体で高足駄をはき杖をつき、弟子を伴っていた。
 C 琵琶法師・鼓を打つ盲女は、この頃すでに師匠と弟子の関係を保持していた。このことは盲人同士の相互扶助、芸の伝授という教育機能を持っていたことを示し、小集団の共同生活があったことを暗示している。


2 平家語り専業者への闘い
(pp38-39)
まとめ
 『平家物語』と琵琶法師との結びつきは、作者の思いつきや盲人への隣愍 (れんびん) の情からでは起こりえないことである。琵琶法師が「語り」と「歌い」の専業者として存在し、その実力が世の中に認められていたという素地がなければ、考えられないことである。
 『平家物語』の生成・発展は軍記物の文芸作者と琵琶法師集団との共同の戦いであったのであり、単に行長と生仏との問題ではなかったといえる。こう考えると琵琶法師集団が『平家物語』を獲得していった時、すでに一座があり、その統率者もいたと考えるのが妥当のように思う。座の結成は『平家物語』の成立前後にまでさかのぼれるのではないだろうか。[p39>
 私は中世の盲人にすさまじいバイタリティーを感じる。絵巻物に見られるように、一遍上人の行くところ琵琶法師あり、法然上人の行くところにも琵琶法師がいる。彼らは杖を頼りに弟子を連れて全国を遊行したのである。
 このバイタリティーが「平家物語」を獲得し、自らの社会的地位を向上させていった源泉であったと思う。


3 文化伝播者としての闘い
(pp55-56)
まとめ
 伏見殿を舞台に演奏活動をした三二人の盲人たちに焦点を合わせて検討を試みたが、その結果、次のことが明らかになったといえる。
 @ 京中に五〜六〇〇人の平曲家がおり、強固な芸能座 (この頃すでに当道座と呼んでいた) をつくっていたこと。伏見殿を訪れた三二人がごく一部の平曲家であったことがわかる。
 A 勧進平家の盛行、あるいは城竹検校の東奔西走の活躍からみて、当時平曲が民衆から貴族に至るまで広く歓迎されていたこと。
 B 一部の平曲家は貴族・寺社などのパトロンを持ち、有利な演奏活動をしていたこと。[p56>
 C 彼らは平曲のほかに物語 (因話) を語り、小歌を歌っていたこと。特に歴史物語は当時の知識階級に好んで聞かれて利用されていた。
 D 盲女性も瞽女座をつくり、曽我物語の語りを表芸にして、小歌などの歌謡も盛んに歌われていたこと。
 平曲家も瞽女も次の戦国時代になると大きな試練を受けることになり、生活を守っていくためには「持ち芸」の転換を迫られることになる。


4 新職業獲得の闘い
(p71)
まとめ
 芸能に従事していた盲人の職人たちが、戦国時代をいかに乗り越え、近世への転身を果たしたかをみてきた。
 それは「みごと」の一語につきる転身ぶりである。
 彼らは、平家語りから浄るり語りへ、三味線音楽へ、さらに箏曲へと、新しい職域を開拓し、しかも質の高い音楽文化を築きあげたのである。
 このように、わが国の文化史上に果たした役割はまことに大きい。にもかかわらず歴史学の上において盲人たちの業績に対する評価はまことに低い。
 中世・近世を通して歴史年表の上に記載される人物は、明石覚一、八橋検校、塙保己一ぐらいのものである。
 歴史的評価の見直しがあってしかるべきだと思うのは、私のみであろうか。


5 鍼按業獲得の闘い
(pp85-86)
まとめ
 元禄時代の生活と職業についてまとめると次のようになる。
 @ 箏曲・三弦の音曲業と鍼按業が盲人の職業として確立された。また時代の要請で金融業を営む者も現れた。これらの新職業は上から与えられたものではなく、盲人たち自身の努力で獲得し発展させていったものである。
 A 当道座の組織は新式目の制定によって一層強固なものになった。このような強い仲間の結束があったが故に、新職業に果敢に立ち向かうことができたのである。
 B 主な収入源は職業からの営業収入であったが、ほかに官金配当と運上配当があった。
 C 座の下層の者、座に入っていない盲人たちにとっては、運上配当が生活保障の役割を果たして[p86>いた。
 この時代の盲人たちは鍼按・音曲の技術を磨き、社会の人びとから高い評価をえて受け入れられ、元禄文化の一翼を立派に担っていたといえる。


6 自治組織衰退の中の苦闘
(pp99-100)
まとめ
 わが国における視覚障害者の歴史は、中世・近世を通して一本の太い線でつながれていることがわかった。
 それは「当道座(とうどうざ)」「盲僧座(もうそうざ)」「瞽女座(ごぜざ)」と呼ばれる障害者自身の自治組織である。第T部の内容はこの座の生成から終末までということになったが、次の三点を指摘してまとめとしたい。
  @ 障害者は自らの生活を守るために、芸能のあるいは鍼按(しんあん)の技術を身につけ、集団組織 (座) をつくった。為政者の援助がなかったわけではないが、少なくとも上から与えられた組織ではなかった。
  A わが国では仏教の慈善救済活動が障害者を救ったとされているが、盲人の歴史を通していえることは、決して慈善救済活動によって支えられ、これに甘えていた歴史ではなかったということ[p100>である。盲人たちは職業を持ち、その生活は自立していた。
  B 盲人たちは中世・近世を通して忌避(きひ)されることなく社会に受け入れられていた。わが国は盲人 を受け入れる社会体制を持ち、精神風土を持ち合わせていたといえる。しかしこのことをもって盲人に対する理解が深かったとはいいにくい。現在でもなお理解の低さに苦渋をなめさせられることが多いのが実状である。


第U部 明治・大正・昭和編

1 キリスト教伝道者たちの闘い
(p112)
まとめ
 熊谷は自然の中で少年期を過ごしたあと鍼の道へ、そして盲学校教員から宣教師の道へと歩んだ。また石松は普通小学校で学んだあと音曲の道へ、そして盲学校教員から宣教師の道へと歩んでいる。
 二人とも盲学校教育を受ける機会を持たなかったが、しかしそれ以上のものを自然の中で、小学校の中で学びとっている。最初に二人が選んだ職業は鍼と音曲であった。この伝統的職業の中でいかに思い悩み、これからの脱出をはかったか。自叙伝は私たちに多くを語ってくれる。
 二人の歩んだ道は紆余曲折があり困難なものであったが、そこにはいかなる試練にもくじけない強い意志と実行力、そして未知の世界に立ち向かう開拓精神とが強く感じとれる。この盲人牧師たちの精神は、現代の盲人たちに受け継がれているのである。


2 伝統芸能継承者たちの闘い
(pp121-122)
まとめ
 芸能に携わる者の修業は大変厳しい。そして彼等の生きざまは「すさまじい」の一語に尽きる。時代に取り残されようとする中で必死に生きてきた。伝統芸能の継承を重視する風潮が生まれたのは、ごく最近のことなのである。
 江戸時代においては箏曲・三弦は三療業に並ぶほど盲人の職業と[p122>して盛んであった。明治四年に当道座が解散させられて以降、最も衰退の激しかったのはこの芸能の分野であった。それでも先覚者たちは盲人の有力な職業として、その復興に尽力したのである。しかし時代のすう勢には勝てなかった。盲学校音楽科(11)に学ぶ生徒は減少の一途をたどり、盲人邦楽家は先細りの現状におかれている。これを復興する手立てはないものか。盲界自身が真剣に取り組むべき課題であろうと思う。


3 政治家・社会事業家の闘い
(pp131-132)
まとめ
 愛盲運動が全国の統一組織のもとに展開され、さらに国際組織(14)の運動にまで高められたのは、岩橋武夫に負うところが大きい。
 しかし、愛盲運動の原点はあくまで地域に住む一人の盲人の生活と福祉の向上というところにある。社会事業家の自叙伝の多くが、このことを私たちに教えてくれる。
 さらに私たちが見落としてはならないことは、愛盲運動は盲人自身によって展開されてきたという[p132>点である。他から押しつけられたものでも、慈善的にはじめられたものでもない。盲人の問題を解決するために盲人自身が立ち上り、主導し展開してきているのである。
 先駆者たちの愛盲精神は、現在もなお脈々と受け継がれている(15)。


4 社会事業への挑戦
(pp143-144)
まとめ
 一つの施設が誕生するためには、多くの苦難を乗り越えなければならない。地元の反対、資金の不足は言うに及ばず、戦災さらに大地震まで加わったのである。
 資金面でいえば、日本点字図書館が点字図書出版貸出事業の厚生省委託を受けたのは、昭和二九(一九五四) 年からである。また光道園が身体障害者更生援護施設として厚生省の委託を受けたのは昭和三三年からである。国からの援助が受けられる以前は、その経営は困難を極めたのである。
 これらの困難を乗り越えさせた原動力は、愛盲精神以外のなにものでもなかったことを、自叙伝は私たちに語ってくれる。
 盲人のための授産施設は、他の障害者のそれに比べると大変少なく、さらに増設されることが望ま[p144>れるし、点字図書館は第二種社会福祉事業(7)となっているために、国からの援助額が少なく、この増額も今後の課題として残されている。


5 戦傷失明者たちの闘い
(p152)
まとめ
 近藤は郷里の人々に迎えられ、名誉の凱旋ができた。また軍人寮および教育所において、かなり恵まれた教育を受けることもできた。
 木村には名誉の凱旋はなく、待っていたものは焼けた郷里であり、失業であった。そして最も苦難の時期であった光明寮において、鍼按の業を学んだのであった。
 この二人にとって戦後は厳しかった。戦後の八年間は恩給も断たれ、困窮の生活を余儀なくされた。
 こうした状況の中で、近藤は新職業の開拓に情熱を燃やし、木村は地域福祉の向上のために、努力を惜しまなかった。
 この情熱と努力を生ましめたものは、何であったのか。失明傷痍軍人として国からの援護を受けたからであろうか。そうではない。旧軍人としての自己を否定し、失明という障害を乗り越え、新しい道の開拓に挑戦した、精神力の強靭さにあったことを、自叙伝は私たちに語ってくれる。


6 全身病による失明者たちの闘い
(pp163-164)
まとめ
 全身病による失明者の場合、病気との闘いと失明との闘いという二重の闘いを強いられ、その苦悩は言語に絶するものがある。
 ハンセン病は治療薬の出現により、長い苦闘の歴史は終息の方向に歩みはじめた。スモン病はキノホルムの発売禁止措置により、医学的には終止符が打たれるが、激しい裁判闘争のすえに和解の道で終息しようとしている。
 しかし現在もなお、べーチェット病(8)あるいは糖尿病(9)などによる失明者はあとを絶たない。これらの病気の自叙伝を紹介できなかったが、闘病と失明の二重の苦しみを、自叙伝は私たちに訴え続けている。この訴えに応える道は何か。医療面での研究を進めることが、第一の課題であるといえるが、さ[p164>らに医療と福祉が今まで以上に緊密な協力態勢をつくり、社会復帰の道を保障していくことであるといえよう。


7 芸術への挑戦
(pp171-172)
まとめ
 盲学校で理療科を卒業し、鍼按の免許をとった上で、芸術に挑戦した人は数多い。鈴木敏之・中川[p172>童二・竜鉄也・長谷川きよしなどもそうであった。芸術の壁にぶち当たった時、生活していける技術を身につけておきたい、そのような願いがあったのだろうと思う。
 このことは芸術を甘く見ているわけではない。芸術がいかに厳しいものであるかを十分承知しているからこそ、とられた方法なのである。
 和波孝禧・佐藤博志のように幼少時からヴァイオリン一筋と決めて進む生き方もある。それでも本人の努力は並大抵のものではない。本人のみでなく家族の一心同体の協力と教師の愛情のこもった個人指導によって、はじめて成しえたことなのである。
 盲人の芸術家がもっと出てほしい。そして彼らをバックアップする態勢がつくられるようにと願っている。


8 盲女性たちの闘い
(p182)
おわりに
 私が盲人自叙伝を収集しはじめたのは、昭和五九年頃のことであった。一〇〇余冊の自叙伝があり、それらが惜しくも埋もれていることを知った。これらの自叙伝は、彼らの生活が病気との闘い、失明との闘い、そして差別との闘いの歴史であったことを、私たちに強く訴えかけている。私は幾度も涙しながら読む中で、この貴重な文化遺産をわれわれが共有し、次代の発展の糧にしなければいけないと考えた。
 本文の中では自叙伝の内容を十分紹介できなかったし、本文の一覧表に書かなかった自叙伝も、表U−24の通り四一冊ある。本文で紹介した七三冊を合わせると一一四冊になる。 一人でも多くの人が自叙伝に興味を持たれ、自叙伝の中の何冊かを読んでいただければ幸いである。


第V部 昭和の激動編

1 盲人福祉の黎明期
(p192)
おわりに
 昭和四 (一九二九) 年、生活保護法の前身ともいえる「救護法」がつくられている。しかし、慢性的不況下にあって、この実施は昭和七 (一九三二) 年まで延期された。その内容は、労働能力のない者が主な対象となっており、身体障害者に対する施策はなにもなかった。点字投票の公認は、国の盲人福祉施策にまで及ばなかったのである。国が福祉施策を持たないならば、盲人自身が福祉活動に福祉事業に取り組まなければならない。秋元梅吉も岩橋武夫も、そして今回触れられなかった、石松量蔵・森恒太郎・斎藤百合など多くの先人が、盲人福祉のためにどれだけ心を砕き、その前進のために闘ったか。その一端は、ご理解いただけたものと思う。


2 戦争と福祉事業の苦闘
(p200)
あとがき
 軍国主義下のわが国に、ヘレンケラー女史の来日は大きな波紋となって広がったが、戦争の激化とともに、その波紋は消されてしまった。政府は、障害者に対する福祉施策は何もとらなかった。ケラー女史と文部大臣の間で約束された、盲児の義務教育も反故(ほご)にされ、日本ライトハウス・陽光会・日本点字図書館などへの具体的援助は、何一つなかった。太平洋戦争の戦火は、福祉事業の上に苛酷に降り注いだ。陽光会をはじめ多くの民間福祉事業は、挫折せざるをえなかった。しかし、日本ライトハウス・日本点字図書館などの灯は、戦争という嵐といえども、これを消すことはできなかったのである。
 この頃、政府がとった唯一の福祉施策といえるものは、失明傷痍軍人に対する教育と職業訓練であったが、このことについては次章で触れたい。


3 盲教育の進展と失明傷痍軍人の教育
(p208)
あとがき
 この時期 (昭和一〜二〇年) 、盲教育界にあっては、点字教科書の出版に、あるいは弱視教育に進展がみられた。しかし、文部省発行の初等部用国語と修身を除けば、他の教科書はすべて民間篤志家の事業として、点訳・発行されていたのである。盲学校における教材は、これらの教科書以外にはほとんどなかった。副読本や参考書は、教師が家族やボランティアの協力により、苦心して作成していたのである。この頃の盲学校の教育は、普通科が軽視された鍼按科中心のものであった。その鍼按科教育は旧態然としており、改善の動きはなかった。
 これに反し、戦傷失明者に対する新職業の試みは、盲学校の職業教育に一石を投じたものといってよかったが、残念なことに盲学校への波及がないまま、終戦となってしまったのである。点字教科書の出版も、弱視児教育も、そして新職業の試みも、終戦と同時に断絶され、戦後その復活にはかなりの年月を要したのである。


4 三療業の危機と日盲連の結成
(p215)
まとめ
 占領下の六年間は、盲人福祉にとっても激動の時期であった。按摩・はり・きゅう禁止の危機を乗り切り、全国組織をつくって盲人の力を結集し、ヘレンケラー女史の来日を成功させた。占領下の混乱期にあって、受身の姿勢ではなく、自らの道を切り開いていった努力は、高く評価されてよい。日本盲人会連合が取り組んだ課題の一つに、盲人福祉法制定運動がある。この運動は政府を動かし、ついに障害者全体を対象とした、身体障害者福祉法となって実現したのである。この頃、全国組織を持つ障害者は、盲人のみであった。盲人団体の福祉運動は、障害者全体の福祉運動をリードし、障害者福祉の向上に大きく寄与していくことになる。


5 盲教育の新展開
p.222
まとめ
 高橋定蔵は三療の免許を得て卒業するが、それを使うことはほとんどなく、成田雲竹の伴奏者として三味線の道に復帰する。田村鉄之助は盲学校で青春を燃やし尽くしたあと、飛騨の高山で開業するが、その後音楽の道へ転身するまでの間、本当の苦闘がはじまることになる。二人とも終戦直後の激動期を盲学校で過ごしたわけであるが、当時の教育界は物質的には貧しかったが、精神的には豊かであった。私は終戦の年に中学一年生であった。墨ぬり教科書を体験し、『日本国憲法』というまっ先にできた新しい教科書に、感動を覚えた記憶がある。新しい教育の時代が、いよいよはじまったのである。


6 新職業への挑戦
(pp228-229)
まとめ
 名古屋ライトハウスの金属作業場は、現在、港ワークキャンパスと名称を変えて継続されているし、光道園は授産施設としてさらに拡大され、大きな実績を積み上げている。次章で紹介する日本ライトハウスとともに、これらの民間施設における新職業開拓の取り組みは、それなりに成果を収めているといってよい。成功の原因は何か。雨の中を大八車を引き、油だらけになってプレス機械に取り組んだ、ひたむきな実行力。鍼按業の基礎の上に、幅広い盲人職業を確立していかなければならないとい[p229>う信念であったと思う。それに比べ、文部省が主導した試みは、成功したとはいいにくい。その原因は、盲学校の理療科に固執する体質にあったといえるように思う。


7 新職業の展開と職域開拓の闘い
(p237)
まとめ
 昭和四〇年代は、日本ライトハウスで新職業の基盤がつくられ、教員・公務員・一般企業等への新職域開拓の闘いが、組織的にはじめられた時期であった。この闘いは、藤野高明に象徴されるように、厚い壁が立ち塞がっており、これを突き崩すことは容易なことではなかったのである。個々の事例を一つ一つ実現させていく、これ以外には有効な手立てはない。雇用連などの組織的運動は強化されてはいるものの、この状況は今でもさほど変わっていないといえる。


8 三つの裁判闘争と盲人弁護士の誕生
(pp247-248)
まとめ
 昭和四〇年代に起こった前記三つの裁判は、いずれもほぼ一〇年に及ぶ長いものであったが、その[p248>結末は不満を残すものであった。しかし、一審の判決および支援団体等による闘いの経過は、大変大きな成果を生ましめたといってよい。視覚障害者の生存権・生活権を、あるいは生命・身体の安全保障を、広く社会の人々にアピールすることができたのである。ただ難病問題でいえば、スモン病は終息をみたものの、原因不明の病気 (たとえばべーチェット病・多発性硬化症・網膜色素変性症など) はあとを絶たず、訴訟も起こせない状況におかれているし、「未熟児網膜症」の裁判は現在もなお続いている。このことを忘れてはならないであろう。
 また、一人の盲青年が弁護士になる闘いも一〇年に及んだ。アルバイトをしながら家族を支え、京都大・東大をはじめ多くの学生の仲間たちと、多くのボランティアの協力があって、成し遂げられた快挙であったといえよう。
 はじめて門戸を開く先人の苦労は、想像を絶するものであったことが、彼の自叙伝から知ることができるのである。


9 統合教育の進展と大学の門戸開放運動
p.258
まとめ
 盲教育の変革を、盲学校の外と内という視点からみてきた。統合教育はほぼ二五年に及ぼうとしているが、いまだに文部省・教育委員会の認めるところとなっていない。しかし、その数は着実に増加している。盲学校における重度・重複障害児の教育は、その方法論については熱心に取り組まれているが、卒業後の進路については不十分のままである。高等部普通科は、当初の設置目的のままでは機能しなくなってきている。また、普通科卒業生のための職業前教育、新職域につながる職業課程の新設など、盲学校の取り組むべき課題は多い。また、大学の門戸開放もその数は徐々に拡大されてはいるものの、盲学生に対する教材保障は不十分だし、卒業後の就職の保障はさらになく、常に氷河期そのものなのである。これらの課題解決は、平成の時代に送られることになったのである。


10 雇用促進運動
(p266)
まとめ
 地域住民が見せた「盲人に対する無理解」、国会が見せた「請願不採択」、中央省庁が見せた「ほど遠い対応」、地方自治体が見せた「冷たい厚い壁」、これらを突き崩せるものは何なのか。まず第一は、松井新二郎が地域住民にみせたねばり強い運動であり、雇用連が組織的・継続的に実行した請願署名運動、全国集会、中央交渉などである。不屈の精神で「ねばり強く続ける」これ以外に良策はないといえる。第二は、雇用連と県教職員組合、雇用連と理教連のような共闘態勢を組むことである。さらに一〇万人署名のように、市民グループを運動体の中に吸収し、運動の力を強くすることである。第三は、松井雇用連会長がいうように、単なる陳情ではだめで、確かな調査資料をもって提案・交渉することである。雇用連では「視覚障害者雇用の現状と雇用の拡大に関する調査研究」を、プロジェクトチームをつくって作業を進めている。この成果は、一九九〇年一二月に労働省および日本障害者雇用促進協会から冊子となって報告されている。


11 飛べ! 世界へ
(pp275-276)
まとめ
 盲人福祉の問題は、もはや一国の問題ではなくなってきている。世界連帯の中で課題解決に当たるべき時代になったといえる。次章で述べる「国際障害者年」は、まさにこのことを象徴しているといえる。
 このような時代に対応するためには、盲人自身が国際感覚を身につけ、国際人とならなければならない。昭和六二年の年末、第三回海外盲人ツアー「盲人福祉事情研修旅行」が実施され、全国から二四人が参加した。第一回はヨーロッパ、第二回はアメリカ、そして今回はオーストラリア・ニュージランドであった。昭和六三年一〇月、ソウル・パラリンピック (障害者のオリンピック) が開催され[p276>た。わが国は、昭和三九年の東京大会 (第二回) から毎年参加しているが、ソウルには二〇〇人を超える障害者選手団のうち、視覚障害者の選手二五人が参加した。また、盲学生たちの海外留学は、現在大学生から高校生へと広がりをみせている。このための援助機関も多数ある。意志と能力さえあれば、その機会は保障されつつあるといってよい。次代を背負う多くの青年たちが、海外へ飛躍することを願ってやまない。


12 昭和のフィナーレ国際障害者年
(pp286-287)
まとめ
 国際障害者年のスローガンは「完全参加と平等」である。この意味するところは、「障害者のための」慈善的福祉から、「障害者の、障害による」福祉へ脱皮しなければ、真の福祉は実現しない、というところにある。福祉施設が作られ、環境が整備されてきているが、この点のみの評価で終わるのではなく、いかに障害者自身が企画・運営の段階で参加できたか、この点を問わなければならない。国際障害者年の成果を検証できるのは、全国の視覚障害者一人一人であるといってよい。読者のみなさんが[p287>生活の中で、この検証に取り組んでほしいと思う。いずれにしても、多くの課題を平成の時代に残して、昭和は終わったのである。


*作成:植村 要
UP: 20111119 REV:
視覚障害  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK 
 
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