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『シェリングとその時代――ロマン主義美学の研究』

神林 恒道 19960810 行路社,270p.

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last update:20160805

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神林 恒道 19960810 『シェリングとその時代――ロマン主義美学の研究』,行路社,270p. 3000+税 欠品

■著者略歴

1938年新潟に生まれる。1967年京都大学博士課程修了。文学博士。大阪大学名誉教授、立命館大学教授。

■目次

まえがき
序 ヴィンケルマンとドイツ古典主義

第I部 イロニーと神話
第一章 ロマン主義の神話解釈――根源への回帰
第二章 ゾルガーの美学
第三章 イロニーの論理

第II部 絵画のロマン主義
第一章 ロマン派の画論
第二章 シェリングとその時代――『学士院講演』をめぐって
第三章 ロマン主義絵画と近代
第四章 ロマン主義美学のアクチュアリティ――『芸術の終焉』と『新しい神話』の可能性

第III部 シェリングの美学
第一章 「神話」と芸術の哲学
第二章 転換期の美学――同一哲学と自由論の間
第三章 根源への問い――シェリングの芸術哲学

付録
“Das alteste Systemprogramm des deutschen Idealismus(ドイツ観念論最古の体系計画)”(1796 oder 1767)について

初出一覧
あとがき
人名索引


■要約


序 ヴィンケルマンとドイツ古典主義
■18世紀後半の新古典主義
◆ヴィンケルマン『ギリシャの絵画および彫刻作品の模倣についての考察(通称・ギリシャ美術模倣論)』(1755)『古代美術史』(1764)
 ヴィンケルマンの古典主義思想は、全西欧世界に及ぼした影響力の大きさにおいて、一つの時代を画する。

一 新旧論争
 一般に「近代」はルネサンスに始まると言われる。

■芸術における「近代」の自覚的表明は「古代人近代人優劣論争(新旧論争)」
 1687年1月27日、国王ルイ十四世の病気快癒を願って、詩人ペローが『ルイ大王の時代』という礼賛詩を朗読したところ、古典主義者ボワローが激怒した。 早速、ボワローは諷刺詩を発表して反撃した。この礼賛詩には、フランス中心主義の傾向が随所に現れていた。 新旧論争は1697年に一応の決着をみるが、完全な終結ではない。その後も依然として、あらゆる文化領域を「進歩」という物差しで測ろうとする急進的な近代主義は存続した。 それらを継承したのが、テュルゴーであり、コンドルセである。

二 ヴィンケルマンの古典主義
◆ヴィンケルマン『ギリシャ美術模倣論』(1755)
「われわが偉大な、いやできれば他の模倣を許さぬ者になる唯一の道は、古代人の模倣、つまり源泉としての自然に還帰することである」

◆ルソー『学問芸術論』(1750)『人間不平等起源論』(1755)
 啓蒙主義が掲げてきた、社会は徐々に完成に向かって進歩しつつあるという理念についての絶対的信仰がゆらぎ始める。 旧体制の矛盾の露呈は、もはや社会はよりよき未来に向けて進歩の道を進んでいるのではなく、むしろ頽落の道をたどっているのではないかと感じられた。

三 ユートピアとしての「古代」
 ルソーとヴィンケルマンの思想は、相互に補完し合う関係にある。ヴィンケルマンは、ルソーが方向づけた思想に歴史的な根拠、擬歴史的モデルを提供した。 ヴィンケルマンの影響を受けたのが、シラーの芸術論である。
◆シラー『人間の美的教育について』(1795)『素朴文芸と情念文芸について』(1795/96)

 ヴィンケルマンの古典主義は、ルソーの反近代の思想と結ばれたことで、その反フランス的近代の性格をあらわにしてくる。

四 ドイツ古典主義とナショナリズム
 ドイツの芸術や文化のアイデンティティを求める動きが、ヴィンケルマンに始まる新古典主義と結びつく。 ドイツ古典主義の根底には、ロマン主義の開花によって顕在化されるナショナリスティックな要素が潜んでいた。
 ヴィンケルマンの「古典美」の理想は、ルソー的「自然」の理想と重なり合い、来るべき市民社会の理想的人間像の具体的イメージを与えた。 時代への批判的眼差しにこそ、18世紀後半の新古典主義を画したヴィンケルマンの芸術館の最も本質的な部分が認められる。

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第四章 ロマン主義美学のアクチュアリティ――『芸術の終焉』と『新しい神話』の可能性

一 「芸術の終焉」以後の「芸術」
モダン・アートの展開が始まろうとする胎動期に、ヘーゲルは『美学講義』(1835)で「芸術の終焉」を宣言。近代の精神が芸術を凌駕。 芸術の自律化、絶対化の傾向 「芸術のための芸術」芸術の自己目的化、抽象化。

カント『判断力批判』(1790)
「天才」の「範例的独創性」

■19世紀から20世紀初頭のアヴァンギャルド
ハイ・アートとマス・カルチャーの二極分化
ハイセン「大分水界」
◆ベンヤミン『技術的複製可能性の時代の芸術作品』(1936)

ヘーゲル「理念と形態の乖離」
ガダマーの解釈「理念とは、ある時代または社会において自明なものとして人々に共有され、実際にその社会を支える現実的な基盤をなしていた精神」
ガダマーはホメロスの詩に倣って「神話」と呼ぶ。

ヘーゲル「芸術の終焉」とは、かつて人々に自明なものとして共有されていた「神話」の喪失。

ガダマーは、この歴史的事態を「近代市民社会の成立」と、その結果もたらされた「キリスト教的=人文主義的伝統の偉大な自明性の終焉」と捉える。

二 「新しい神話」の挫折と「芸術」の解体
ヨーロッパの伝統社会の精神的基盤の理念の解体 ゼーデルマイヤ「中心の喪失」

■ドイツ・ロマン派「新しい神話」の創造の企て
◆シェリング『超越論的観念論の体系』(1800)
◆シュレーゲルの論文「文芸対話」(1800)
◆ヘーゲルの手稿『ドイツ観念論最古の体系計画』(1796/97)
「新しい神話」という言葉を見出すことができるが、オリジナルな着想が誰なのかは定かではない。

すべての人々に共有される「神話」になるためには、この理念が大多数の「民衆」の感性に適合して美的に表現される必要がある。 ロマン主義という芸術運動を通して、そこに新たな美的文化の可能性を探ろうと努めた。しかし、シュレーゲルはその歴史的不可能性を見た。 ヘーゲルの「芸術の終焉」は、試行錯誤の末の最終的結論である。

芸術は主観的な内面化へ 純粋化の傾向を強める
モダン・アートの自覚的転換点が、「純粋視覚」の芸術を目指した印象主義の絵画
純粋視覚形式の抽象化の極みが、20世紀初頭のカンディンスキー「偉大な抽象主義」

◆カンディンスキー『芸術における精神的なもの』(1912)
カンディンスキーは「偉大な抽象主義」が「偉大なリアリズム」の台頭で補完されると予言。

三 「芸術」の哲学とメタ「芸術」
◆ハイデガー『芸術作品の根源』(1935/36)ガダマー『真理と方法』(1960)
カント美学以降の「美と芸術の自律性」への否定的見解。本来、芸術が有してした社会的機能、あるいは生の機能というべきものが離脱した。 1960年代以降 ポップ・アートの台頭。

1970年代以降、ヴェトナム反戦運動、学生たちの反乱、公民権運動の高まり。既成のエリート文化に相対峙する反体制のカウンター・カルチュアーへ。

■カンディンスキーが予言した「偉大なリアリズム」
「反芸術」のダダ、「非芸術」とされたマス・カルチュアーまでを含めることができるのではないか。

かつてロマン派が提示した新たな理想的共同体を志向する「新しい神話」は、解体しつつある芸術を再び一つに結びつけ、新たな普遍性を保証するもの。

ベンヤミンは、複製技術という新しいメディアの出現に注目。生活世界の相互浸透。
現代における「新しい神話」の再生、その可能性の問い。

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付録
“Das alteste Systemprogramm des deutschen Idealismus(ドイツ観念論最古の体系計画)”(1796 oder 1767)について

*カギカッコは日本語訳文で傍点があることを表す。

 ……「ひとつの倫理学」、全形而上学は将来「道徳」に属することになるから――これについてカントは二つの実践的要請で範例を提示しただけで、 何ら「充分に論じた」わけではないが、この倫理学はあらゆる理念、つまりまったく同じことであるが、あらゆる実践的要請の完全な体系以外の何ものでもないであろう。 第一の理念は当然ながら、絶対的に自由な存在としての「わたし自身について」の表象である。 自由で自覚的な存在と同時にひとつの「世界」の全体像が――無から――現れてくる。 唯一真実かつ思考可能な、「無からの創造」である。――ここでわたしは自然学の領域に下りることにする。問題はこうである。 すなわち、世界は道徳的存在に対してどのようにあるべきなのであろうか。われわれの遅々とした、実験による辛苦な道を歩む自然学に、わたしはもう一度翼を与えたいと思う。
 さて、――哲学が理念を、そして経験が事実を示すならば、わたしが後世に期待している大規模な自然学を、われわれはついには獲得することもできるであろう。 現今の自然学は、われわれの精神がそうであり、またあるべきような創造的精神を満足させうるものとは思われない。
 自然から「人間の仕事」に目を向けてみよう。まずは人間性の理念――というのもわたしが示したいのは、国家とは何>252>か機械的なものであるがゆえに、 「機械」についての理念が存在しないと同様、「国家」についての理念などは存在しないということである。 ただ「自由」の対象であるものだけが、「理念」と呼ばれる。 それゆえわれわれは、国家を超えなければならない――国家はすべて、自由な人間を機械的な歯車装置として取り扱わざるをえないからである。 国家はそうすべきではないし、ゆえにそのような国家は「廃される」べきである。ここでは永遠の平和についてなどのあらゆる理念が、 ひとつのより高次の理念に「従属する」理念にすぎないことがおのずとわかるであろう。 同時にわたしは、「人類の歴史」を明らかにするための諸原理を起草し、国家、憲法、行政、立法といったみじめな人間の仕事全体を――丸裸にしてみたい。 最後に来るのは道徳的世界、神性、不死性の諸理念――あらゆる迷信の払拭、最近の理性をよそおう僧侶階級の、理性そのものによる追放である。 ――自らの内に知的世界を宿し、「自らの外に」神や不死性を尋ねたりする必要のない精神の所有者すべての絶対的自由である。
 そして最後に、あらゆる理念を統合する理念、それが「美」の理念である。この語は、より高次なプラトン的意味で考えられている。 さてわたしは、あらゆる理念を包括する理念の最高の行為は美的行為であり、「真も善も」「美において」のみ結び合わされていると確信している。 ――哲学者は、詩人と等しい美的能力を有さねばならない。字句にこだわる現今の哲学者達は、美的感覚を欠いた人間である。精神の哲学は美的哲学である。 何事においても美的感覚を欠いては――精神に富んでいるとはいえない。歴史についてすら精神豊かに考えをめぐらせることはできない。 理念をまるで理解せず――目録や索引の枠を超えるやすべてが不明になってしまうと無邪気に告白する人間に、元来何が欠けているかが、ここで明らかになるはずである。
 詩は、これによってより高い品位を獲得し、最後に再び最初にそうであったところのもの――つまり「人類の教師」となる。 なぜなら、もはや哲学も歴史も存在せず、ただ詩芸術のみが他のあらゆる学術を超えて生きのびるであろうからである。>253>
 同時にわれわれは、大衆が「感性的宗教」を有すべきであるということを実にしばしば耳にする。大衆のみならず哲学者もそれを必要とする。 理性と心情との一神論、構想力と芸術の多神論、これがわれわれの必要とするものである。
 まずわたしは、ここでひとつの理念について語ろう。それはわたしの知るかぎりでは、いかなる人も思いつかなかったものである。 ――すなわちわれわれは、新しい神話を持たなければならない。しかしこの神話は理念に仕えるものでなければならず、またそれは「理性」の神話とならねばならない。
 われわれが理念を美的な、すなわち神話的なものにしないかぎりは、それは「民衆」にとって何の関心もなく、また逆に神話が理性的なものでないかぎりは、 哲学者はその神話を恥じるにちがいない。こうして最後に啓蒙された者と啓蒙されない者とがたがいに手を差しのべることが必要なのである。 神話が哲学的に、民衆が理性的にならねばならないのであり、哲学者を感性的にするためには、哲学が神話的にならねばならない。 そのとき初めて、われわれの間に永遠の統一が支配するのである。そこにはもはや侮蔑的な眼差しや、賢者や祭司に対する民衆の盲目的おびえはない。 そのときはじめて個々人の、そしてすべての個人の「あらゆる」能力の「均一な」形成がわれわれを待ちもうけるのである。 いかなる能力ももはや抑圧されることはない。 そのときすべての精神の普遍的自由と平等が支配する――天来のより高い精神がわれわれのあいだにこの新しい宗教を創設しなければならない。 そしてこれが、人類の究極的な、最も偉大な仕事となるであろう。 (J. Hoffmeister(Hrsg.), Dokumente zu Hegels Entwicklung, 1936. 所収のテキストより訳出) (pp.251-253)

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神林 恒道 編 20061020 『京の美学者たち』,晃洋書房,258p.  ISBN-10: 4771017778 ISBN-13: 978-4771017771 3000+税  [amazon][kinokuniya] ※

■書評・言及



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*作成:北村 健太郎
UP:20160805 REV:
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