私たちの眼前に、「新しい」名前が次々に現われては消えていく。名前の連続的かつ加速度的な貼りかえとして「現在」が立ち現われ、立ちはだかる。この名前の洪水の中で、自分をとりまく世界との関係についての、根本的な疑念が私たちの内に膨れあがる。
かつてホッブスは、人間が世界を構成するすべてのものに名前をつけさえすれば、あとはそれを一旦ばらばらにしてまた組み合わせればよい、つまり名前の足し算と引き算によって世界は認識できる、と考えた。「方法の規則」にもとづいて、このように「名前の帰結に関する計算」を信頼することができた彼は、その限りで幸せであったといってよい。世界が名前に対してひらかれ、名前は世界を背負うものと想定しえてこそ、その「計算」は成り立つことができたからである。そのとき、名前の普遍性についての確信は、世<0132<界認識のための徹底的な方法的態度をもたらすものであった。しかし、その確信もその態度もいまの私たちにはあまりにも遠い。
十七世紀の哲学者の世界ばかりではない。あのヘレン・ケラーの発見、すなわちwaterという名前を突破口とする、「すべての物は名前をもっている」こと、あるいは世界とは名前であることの発見も、感動的ではあっても疎遠なエピソードにすぎなくなりつつある。すなわち、いまや私たちの「名づけ」に対して、世界あるいは物事の秩序は応答しなくなっているのではないか。ここでは、ばらばらの名前をどのように寄せ集め組み合わせみても、「物に行く道」にはならないのではないか。名前の次元への私たちのこだわりや、貼りかえられる名前に対する敏感さは、おそらくこのような疑念を裏書きしている。
そうであるとすれば、この「危機の瞬間」に際して、名前をもって物事に相対してきた人間の基本的な経験の有様と、ほかならぬその「名づける」という行為の基底がいわば胎盤剥離しつつあることを見定めなければならないだろう。(pp.132-133)
この大物主を祭ることによって疫病は終息した、とされたわけだが、疫病の大流行という理解を絶する恐怖に投げ込まれた人々にとって、このような「名づけ」の信頼感をもたらす効果は絶大であっただろう。見えないもの、それゆえに神秘化されるとともに恐怖や不安をよびおこすものを、「見える」ものとすることによって恐怖心を鎮静し消去すること、それが名前の重要なはたらきの一つであった。「隠されたもの」に対する共同体的な対処は、このようにして行われた。そのとき「名づけ」は、事態との応答関係を存分に担うものであった。したがって、医療が専門機関のもとに独占され、学術的<0145<と称する病名の体系が制圧するとき、それが何を喪失せしめたのか、に思いを致すべきであろう。(pp.145-146)