『死産される日本語・日本人――「日本」の歴史‐地政的配置』
酒井 直樹 19960510 新曜社,300p.
■酒井 直樹 19960510 『死産される日本語・日本人――「日本」の歴史‐地政的配置』,新曜社,300p. ISBN-10:4788505568 ISBN-13:978-4788505568 \2940 [amazon]/[kinokuniya] ※
■内容(「BOOK」データベースより)
学問をはじめ、今日の知的状況に携わるものは、人種主義、自民族中心主義、国民主義、人間主義に無自覚でいることはできえない。学問の政治性を自覚しつつ、「日本」の歴史‐地政的配置を分節する。米国に渡り、コーネル大学准教授として活躍する著者のはじめての論文集。
■出版社/著者からの内容紹介
日本の近代は常にヨーロッパ近代を参照項として語られてきた。〈日本〉の歴史‐地政的配置を明らかにし,〈日本〉という言説の意味を問い直す。ナショナル・アイデンティティの語りがもつ陥穽を抉り,日本的自民族中心主義からの脱却をめざした注目作。
■目次
はじめに
T 近代の批判:中絶した投企――日本の1930年代――
西洋という仮想された同一性
普遍主義と特殊主義の親和性
反近代主義のなかの近代主義
竹内好の〈抵抗〉
U 国民共同体の「内」と「外」――丸山真男と忠誠――
運命共同体と帰属
近代世界における国民共同体の表象
V 国際社会のなかの日本国憲法――社会性の比喩としての〈移民〉と憲法――
近代をどう規定するか
憲法は社会問題を創出する
〈移民〉という比喩
憲法第九条は国境をまたいでいる
憲法第九条の可能性
W 遍在する国家――二つの否定:『ノー・ノー・ボーイ』を読む――
回帰なき帰還
同一性という危機
投企による社会性への讃歌
X 歴史という語りの政治的機能――天皇制と近代――
歴史の言遂行の側面――「実定性」の産出と成立
「日本人」「日本語」「日本文化」――同一性の制作
近代性を語りうる実定性の水準
複綜文化主義的配置
〔付〕自己陶酔としての天皇制――アメリカで読む天皇制論議――
昭和末のオルギア/アメリカにおける天皇制像/投稿に対する反響
天皇制論議の内と外/ナショナリズム、ナルシシズム、天皇制
Y 死産される日本語:日本人――日本語という統一体の制作をめぐる(反)歴史的考察――
多言語性と多数性
日本語の誕生/「社会」の輪郭と日本語の輪郭/言語の実定的外部とテクスト内の外部
話しことばと新たな主体の組織
話しことばの発明/「話しことば」と主体の措定/国民共同体の日本語
Z 「西洋への回帰」と人種主義――現代保守主義と知識人――
人種主義と主体の構制
近代世界における人種主義の遍在/差別への抵抗と差別の機制の内面化
人種主義の批判の多義性
無徴の場所としての「西洋」
人種主義の普及と西洋中心主義/西洋と「接触領域」
西洋と情報の集中
〔付〕人種主義に関する提言
注
あとがき
■引用
W 遍在する国家
「 徴兵とは、徴兵される兵士にとって、国民の全体性を表現するかぎりでの国家への自己の死を預ける行為のことであり、国のために自己の死を覚悟することである。それはたんに自己の死を国家に賭けることではない。近代国家においては、必ず死の覚悟は、国民の全体性によって媒介されている。国のために死ぬ、というとき、少なくとも近代国家の文脈では、徴兵の命令を発する省庁、あるいは政府代表者に対する関係だけでなく、徴兵に応ずる〈私〉と同胞の全体の関係が措定されてくる。これは近代以前の国家における徴兵とは明らかに違っている点である。
つまり、近代国家においては、徴兵拒否はたんに国家のために死ぬことの拒否だけでなく、国民の全体のために死ぬことの拒否を含むことになるのである。別の言い方をすれば、〈国のための死〉における国とは、近代社会においては、同時に国家でありまた国民であって、まさにそれは国民国家なのだ。だからこそ、徴兵拒否は国家の命令に対する拒否だけでなく、同胞のために>0116>死ぬこと、国民を自己の帰属する運命共同体として認定することの拒否をも意味することになる。それは国民の名において自己の死を賭けること、自己の死の可能性を媒介にして、国民共同体と同一化し、そこに帰属しようとすることの拒否なのである。」(pp.116-117)
X 歴史という語りの政治的機能
「 だが、近代性を究極的に規定することになる「日本人」「日本語」や「日本文化」といった実定性は、いつどこで生成したのであろうか。そもそも「日本人」「日本語」「日本文化」が生成するというのはどういう事態を指すのであろうか。こうした実定性を歴史資料のなかで実証的に同定し認知する作業に携わってみればすぐわかるだろう。「日本人」や「日本語」「日本文化」は実証的な作業の可能性の前提になっていて、それ自身は、実証に、論理的にいって、先行している。したがって、私たちがたとえば「日本文学」の研究をしようとして過去の文献に接するとき、「日本人」や「日本文化」は「すでにあったもの」という様相で、私たちの文献の読みを統制してくる。これらの実定性は必ず「完了形」で存在するものとして想定されるのである。だから、まさに読みの過程でそれらの実定性が投射され再生産されつづけているにもかかわらず、実定性は「すでにあったもの」、文献のなかにあらかじめ収められていたもの、という仕方で読む者に対して現れてくる。」(pp.136)
■書評・紹介
■言及
*作成:石田 智恵