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『差別と共生の社会学』

(岩波講座現代社会学 15)
井上 俊・上野 千鶴子・大澤 真幸・見田 宗介・吉見 俊哉 編集委員
19960412 岩波書店 http://www.iwanami.co.jp/


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■井上 俊・上野 千鶴子・大澤 真幸・見田 宗介・吉見 俊哉 編集委員 19960412 『差別と共生の社会学』(岩波講座現代社会学 15),岩波書店,248p. ISBN-10: 4000107054 ISBN-13: 978-4000107051 238p. ISBN-10: 4000107046 2100 ISBN-13: 978-4000107044 \2100 [amazon][kinokuniya]

『差別と共生の社会学』

■出版社/著者からの内容紹介

差別は今どのように構造化されているだろうか.民族差別からいじめまで,社会と文化のあり方を問い,複合する現代社会の差別の本質を見据える.古くて新しい課題の克服へ向けて.【執筆者】チョン・ヨンヘ,赤坂憲雄,山崎敬一,山崎晶子,立岩真也,花崎皋平,金静美,手塚和彰,湯浅俊彦,石川准,保坂展人,上野千鶴子,福岡安則.

■目次


鄭 暎惠 19960412 「アイデンティティを超えて」
『差別と共生の社会学』(岩波講座現代社会学15):001-033
赤坂 憲雄 19960412 「常民の形成――「土佐源氏」を読む』
『差別と共生の社会学』(岩波講座現代社会学15):034-054
山崎 敬一・山崎 晶子 19960412 「差別のエスノメソドロジー??場面の組織化とカテゴリーの組織化」
『差別と共生の社会学』(岩波講座現代社会学15):055-074
立岩 真也 19960412 「能力主義を肯定する能力主義の否定の存在可能性について」
『差別と共生の社会学』(岩波講座現代社会学15):075-091
花崎 皋平 19960412 「アイヌシモリの回復――日本の先住民族アイヌと日本国家の対アイヌ政策」
『差別と共生の社会学』(岩波講座現代社会学15):093-108
キム チョンミ 19960412 「国民国家日本と日本人「移民」」
『差別と共生の社会学』(岩波講座現代社会学15):109-132
手塚 和彰 19960412 「日本における外国人労働者の共生と統合」
『差別と共生の社会学』(岩波講座現代社会学15):133-154
湯浅 俊彦 19960412 「差別的表現と「表現の自由」論」
『差別と共生の社会学』(岩波講座現代社会学15):155-169
石川 准 19960412 「アイデンティティの政治学」
『差別と共生の社会学』(岩波講座現代社会学15):171-185
保坂 展人 19960412 「いじめ――排除の政治学」
『差別と共生の社会学』(岩波講座現代社会学15):187-202
上野 千鶴子 19960412 「複合差別論」
『差別と共生の社会学』(岩波講座現代社会学15):203-232
福岡 安則 19960412 「「差別研究の現状と課題」(overview)
『差別と共生の社会学』(岩波講座現代社会学15):233-248

■引用

立岩 真也 「能力主義を肯定する能力主義の否定の存在可能性について」(pp. 75-91)

問い

「ゆえなく」人を不利に扱うことを差別という。

頭が悪い、体が悪いなどの理由で、社会から不利に取り扱われる。このような差別の問題について、典型的な主張とおもわれるものを提示し、それを吟味し、別の主張を立てていく。

機制

能力にかかわる差別が現れる場=市場

・市場の構造
  ↓

  1. 太郎君(A)にある能力があるとする。しかしながら、その能力を発揮した成果が太郎君のものになる。これは、太郎君だけが能力・行為に対する制御能(機能)をもっているという意味で言われる。
  2. 太郎君(A)は、ある能力を獲得することができる。

(能力主義の)批判[1と2の批判]

  1. 他者を手段として取り扱うことが問題なのではないか?
  2. 太郎(A)が、ピアノを弾く能力(a)を獲得したのは太郎だけの努力に由来するものではなく、社会性、共同性の中で取得される。しかしながら個人の業績として評価されている。

手段性の不可避性[ (1) の批判]

差別の根は、確かに太郎(A)がピアノを弾く能力(a)を役立てるということにある。しかし、この条件を消し去ることはできない。

個別性の不可避性[ (2) の批判]

  1. すべてが、共同性・社会性の所産だとは言えない。
  2. ピアノを弾く能力(a)がAの行為であり、能力であるということは確認可能。そしてそれをベースに古典的には批判されてきた。(マルクス)

配分の変更(市場による)

働けない次郎(A)や能力をもたない三郎(A)は何も得られない。つまりより少なくしか受け取れない。(つまりいわれのない不利益を被る者が1、2だと出てしまう可能性がある)

→だから

1と2を採用する市場はこの範囲内でなんとかしようとする。しかしながら、現実に機能する保障などない、むしろ市場存在自体が配分を否定するような意識を生み出す。

上記のような問題について、十分な分配を実現する方途、実現を阻害する要因を除去する方途はいくつかあり、次に述べることはこのことにも関わる。

価値の変更

できることの方ができないことの方ができないことよりもよいという価値観が問題にされることが多い。価値観=役に立つ

問題:役立つことが「人の価値」に結びついている。

→これを否定する

太郎(A)とピアノを弾く能力(a)の繋がりを否定し、(A)が(a)を表示することにより評価されるという繋がりを否定する。これは市場の論理内でいえることであり、市場は(a)だけを問題とするのであり(A)の属性をみない。そもそも市場は、人をみない。
(この繋がりは、つまりAとaが繋がっていることを知ることは、労働・生産物を取得しようとするものにとっては有効である)

→J. ロック以来の「自分が作り出すものは自分のもの」という私的所有を正当化する――というより、私的所有に対する信仰を語る――教説自体がその機能を果たす

結論

存在のために手段があり、その手段が使用されることを認めるなら、選別、拒絶、排除は究極的に解消されない、解消されるべきではない。能力・行為の個別性は消去されえない。問題は、道具として使うこと、そこにできる/できない ということが、できる人/できない人 とされ 使われる/使われない ということが 使われる人/使われない人 の差異が現れることにはない。

課題

・ピアノを弾ける能力 (a) のみが市場に扱われるとして太郎 (A) はどこに現れるのか?
(太郎(A)の具体的な受容があるためにはそのための契機が必要でありそうでなければ生活資源の問題が論じることができない)

贈与の問題。たとえば、太郎 (A) の側になんらとがめられるべきことがないのに、B(花子)に受け入れられない、つまり愛されない可能性がある。これは太郎 (A) にとって十分に不幸である。これは1の定義なら差別になる。


第6刷 424 20010403
REV: 20091019(中田 喜一
差別  ◇社会学(者)  ◇BOOK  ◇身体×世界:関連書籍 1990'
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