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『新潟水俣病』

斎藤 恒 19960310 毎日新聞社,413p.

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last update: 20180611

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■斎藤 恒 19960310 『新潟水俣病』,毎日新聞社,413p. ISBN-10:4620310980 ISBN-13:978-4620310985 3500+ [amazon][kinokuniya] ※ m34, w/tt15

■内容

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「BOOK」データベースより

医師として、水俣病対策会議初代議長として、患者たちの心の支えとなり続けた著者が記す真実の記録、新潟水俣病の全貌。

「MARC」データベースより

昭和40年(1965年)の最初期から、新潟水俣病の診察・運動の両面で深く関わってきた著者が、30年の全貌をまとめた。患者たちの心の支えとなり続けた著者が記す真実の記録。

本書

 はじめに 一介の町医者として

 私は大学では小児科学を学んだ一介のの町医者であった。その私が新潟水俣病について知ったのは昭和四十(一九六五)年の春のことである。すでに熊本で水俣病が公表されて九年が過ぎていた。
 それは五月の良く晴れた夕方であった。私は阿賀野川の堤防沿いを車で走っていた。きらきら光る川面に、いつもと変わらず釣り人たちの舟がたくさん浮かんでいた。岸辺から釣糸を垂れる人たちも多く、賑わっていた。私はこの時すでに、母校の新潟大学の医師から有機水銀中毒症が発生していることを知らされていた。眼前に広がる光景が穏やかであっただけに、私の体は逆に身震いを覚えた。今もあの日の夕映えの中の阿賀野川を忘れることはできない。
 同じ年の六月十二日、新潟水俣病が公表された。そして、患者たちが共闘組織と一緒になって、補償要求に立上がるのだが、以来、私はこの共闘組織の運動の推進にも関係し、患者たちの相談に乗り、医師として診療に従事しながら裁判の証言台にも立つことになる。水俣病が私の生涯の仕事となってしまったわけである。
 (斎藤:1)

■目次

第1部 記録 新潟水俣病(初期の段階;熊本水俣病の教訓;共闘組織と水俣病患者組織;新潟水俣病の原因究明について ほか)
第2部 水俣病の医学(水俣病の発見;胎児性水俣病;小児水俣病;新潟水俣病の疫学 ほか)

■引用

◇武内 忠男 199201 「水俣病におけるガリレオ裁判――水俣病研究史の報告」,『公害研究』21-3:59-67(特集:水俣病の現在)

 環境庁専門家会議と棄却患者の急増

 これまで無策であった政府も第三の水俣病事件によって急遽、日本中の水銀汚染の総点検を始めると共に、環境庁(三木武夫長官)はカセイソーダ工場の水銀電解法の廃止、そして全国の九つの汚染水域(水俣湾・不知火海・有明海・徳山湾・新居浜・水島・氷見)を緊急に調査することを決定した。
 また一方、環境庁では昭和四十八年八月十七日、新潟大学椿忠雄教授を座長とする専門家会議を開き、対策を協議した。この専門家会議で、熊本大学第二次研究班から報告された有明町の二症例が「シロ」とされ、大牟田市の一例も九州大学の黒岩教授により水俣病が否定された。
 昭和四十八年八月十七日、有明町の二症例が「シロ」とされ、四十九年三月二十三日、有明町の残症例がいずれも否定され、熊本大学が第三、第四の水俣病発生を警告して以後、浮かび上がった疑わしい地域の症例は、四十八年八月から一年間にすべてが否定されてしまったのである。
 新潟水俣病の自主交渉も補償協定が六月二十一目に締結され、運動も終息に向かっていた時期である。そして、さらに昭和四十八年暮れから日本経済は石油ショックにぶつかり、四十九、五十年は戦後最大の不況に入っていた。そして皮肉にも社会的には公害問題は急速に影をひそめていった。
 そして、昭和四十八年の春から四日市喘息の否認例が増え、秋から熊本、次いで新潟水俣病の否認例が急増したのである。
 平成四(一九九二)年になって、熊本大学第二次研究班の班長であった熊本大学名誉教授武内忠男先生が昭和四十八年の環境庁専門家会議の状況を『水俣病におけるガリレオ裁判』として公表された。
 「熊本大学、武内教授が全般の報告をした後、立津教授が臨床報告を行ない、その後、眼科の筒井教授が眼球運動の異常、視野の狭窄と沈下が明瞭に見られる事、さらに耳鼻科の野坂教授が内耳性難△142 聴があることは確かであるが、これは水俣病の際にもみられる。その他の後迷路性難聴も否定できず、水俣病の特徴的所見の一つであると報告し、最後に立津教授が以上から総合して水俣病と同様の症状みた、と報告した。その後、徳臣教授が映画で、この患者で歩行失調のないことを示す。一方、立津教授は映画でも、ぼたんかけがまがまずくて遅い。手掌(しゅしょう)をつかっている。振戦もある。歩行障害もこの映画ではわからぬが、診察して何回もみるとあるのです。それでも正常とはいえない、と主張するが、椿委員長が映画では歩行は正常と判定されると主張し、議論が沸騰する。
 しかし、椿教授は、映画で見た限りでは明らかな運動失調はない。いろいろ議論はあるが、今日委員長とて結論を出さなければならない。私にはその義務がある。現時点ではこの二例は水俣病であると認める事はできない、と述べ、予め用意してあった環境庁の文章を結論として読み上げる。
 始めから結論が出ていたことに、立津教授初め熊本第二次研究班の委員たちは怒り心頭に発したが時間切れとなり、涙を飲んだ」と記載されている。
 映画で運動失調がはっきり言えるような新潟水俣病は何人もいないことは椿教授自身がよく知っていたことである。それをあえて否定してしまったのである。この事は明らかに椿教授が変身したことをうかがわせるものである。そして、水銀パニックを起こしたのは熊本大学第二次研究班であるとして、これを否定し、はやくパニックを押さえることのみを目的とした極めて政治的なものと見られる。これと同時に、審査会の認定は厳しく変えられていったのである。
 さらに見ると、認定区分の六ランクについて記載されている。
 その区分についてはすでに述べたように、一ランクは水俣病である。二ランクは有機水銀の影響が認められる、すなわち水俣病が疑われるものということになっている。 △143
 有機水銀の影響を認める症状が臨床的に確認されるならば、それは「疑い」ではなく水俣病そのものであって何故一ランクとニランクと分かれるのか、私にはわからない。
 第一回から六回までは事務次官通達の出る前で認定、否認、要観察と再検に分かれている。
 昭和四十四年十二月の「公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法」によるものである。四十五、四十六、四十七年の頃は一度否認されても後から認定されているものが多い。その頃は私が診断書を書いて申請した例はほとんど認定されていた。棄却にあたる四ランク、五ランクはほとんど見られていない。
 それが、椿教授が環境庁の専門家会議の責任者になり、水銀パニックを静めようと努力する頃から急速に四ランクの棄却例が増え、一、ニランク認定が滅っている。昭和四十九年の県議会での証言も一つの大きな転機となったように見える。
 審査会で水俣病を否認された患者から不服申請が出ている。それで、新潟県議会で椿教授が、共産党の林県会議員に質問を受けたのである。そのときの林氏とのやりとりの一部を抜粋してみる。

  林氏 審査会での仕事は、純医学的になされるのか、それとも行政的判断が入っているのか、
  椿教授 純医学的だ。
  林氏 認定ランクは六つあるが、区別の基準は?
  椿教授 すべての病気は、一〇〇%そうだというのは少ない。水俣病らしさというのが多い。九〇%ぐらいあるのが@ランク、七〇%ぐらいがAランク、可能性が半分以上あるのがBランクと考えている。しかし、Cランク以下でも完全に否定できない。環境庁の通達で広く認定せよということだった。しかし、最近もう一回純医学的に見て行こうということになった。 △144
  林氏 Cランクについても、まったく否定するものではないとのことだが、そういう人たちについて、行政的に救済措置をしながら、追求していくことが必要と思うが。
  椿教授 追求するのは当然だ。Cランクの場合他の病気も考えられるので、水俣病だけで、狭く追求していくのはよくない。認定したほうがいいかどうかは、行政の問題で関与することではないと思う。
  林氏 否認が増えてきたのは二十五回以降の審査会からだ。昨年八月頃から否認が多くなっている。全国的にみて、厳しくなっている。審査会に外部から何かあったのかどうか?
  椿教授 そんなことば絶対になかった。影響もされないし、こういうことは間違いだ、という信念をもっている。認定されたのだから患者だという考え方が患者にはある。患者の診かたには充分でない面があり、昨年秋頃からレントゲン、カルテも突き合わせて審査会で検討するようにした。以前認定された患者で、今、改めておかしい、という患者もいる。こうした反省もあって純医学的には前に診たものをもう一回見直してみたい。

 以前の審査に甘さもあったから純医学的に見直したいと述べたことは、新潟大学で審査会の会長であり、環境庁の特別委員会の責任者でもあるだけに、当然のことながら全国的にも大きな反響を呼んだ。そしてこの後から一、二ランクの認定がほとんどなくなり五ランクが増えている。昭和五十一年にはいると三ランクも影を潜め、ほとんど認定されなくなっていく。
 このわずかな期間で少なくとも四ランクの考え方、五ランクの考え方、医学的評価が変わってきている。
 私はちょうどその頃、椿先生にお会いし、率直にいろいろお開きしたことがあった。私は椿先生を△145 信頼し、尊敬していた。それまでも、患者の症状についても、リハビリについても、私の見解を述べ、いろいろ教えていただくことが多かった。
 私は認定ランクについても、一ランクとニランクを分けるのはおかしいとか、パーセントで分類するのは医学的にはどう決められたのか、ハンター・ラッセルの症状を視野狭窄、運動失調、平衡障害、感覚障害、難聴など五つの症状から一つを二〇%として計算するんですか? なども聞いたことがあった。
 椿教授はそんなものではないといわれたが、はっきりとは答えられなかった。また、私は昭和四十八、九年頃、否認例が増え始めたことについて、先生の考え方が変わったんではないですか、と聞いてみた。その時、椿教授は三つほど意見をいわれた。
 一つは共闘会議は水俣病患者をどうして一律補償にしたのか、私は全部が水俣病とはいってない。疑いもある、ということ。
 共闘会議は「新潟水俣病共闘会議」のことで、「新潟水俣病被災者の会」と一緒になって昭和四十八六月に一律補償の補償協定を結んだときのことを聞かれたのである。
 私は、患者への連絡はあなたは認定されたというだけで、ランクは教えられないこと、患者でも一律補償といっても介護を要するようになると、介護手当てが出たり、補償金もあがることを述べた。
 二つめは、補償協定でどうして癌の治療費まで昭電に出させるようにしたのか、という事だった。
 水俣病だけに限った医療保障では発熱や腹痛など、日常的に最も多い病気で医療手帳が使えない場合は、実際に近くの医者にかかれないことになること、水俣病の患者が、近くの医者から、水俣病の医療なら専門のところに行け、水俣病以外の病気になったときにこい、ともいわれている。
 私は、それを考慮にいれて疾病補償ではなく、水俣病患者には何病にかかっても適用する対人補償△146 にしたことを話した。
 三つめは認定に関する事だった。
 汚染の事実がはっきりして、四肢の感覚障害があれば認定しても良いのではないか、と言う私の質問に対し、椿教授は、「斎藤君、君のいうことはわかる。それは今まで認定されているよりもっとピラミッドの底辺まで認定しろということだろう。しかし、そうなったら昭和電工や国はやって行けるだろうか?」といわれた。
 私は驚いて、「椿先生ともあろう人からそんな言葉を聞くとは思わなかった。それは政治的に医学を歪めることではないですか」と言うと、椿教授は「でもねー」と言って黙ってしまった。さらに私から、「どうして頸椎症の診断をよく使われるんですか、ほんとに皆頸椎症とは思ってはおられないでしょう?」という質問も行なってみた。
 すると、椿教授は、「斎藤君、君も知っているだろう、新潟大学の人文学部のW教授が水俣病にかかり、『新潟日報』に書かれたことがあった。これはたまげて驚いた、という文章だ」
 新潟大学人文学部のW教授は郷里の津川町に住み、しょっちゅうアユ釣りをし、そのはらわたで作る「うるかの塩から」が好きで毎日酒の肴にしていた。アユは年魚であり、肉は水銀も低く規制とならなかったが、アユの常食にする苔に水銀があり、それを食べて水俣病になり、自分の病気が不治の水俣病と言われて驚いた、と、その感想文が『新潟日報』に掲載されていたことがあった。
 椿教授は、あのような方でもびっくり仰天される。しかし、水俣病は治らぬ病気である。頚椎症のように治る病気であるといってあげたほうが本人には幸せではないだろうか、といわれた。
 この言葉には私もびっくりした。そこで、私は「それにしても先生、社会が水俣病の専門家として、椿先生に期待していることはそんな事ではないでしょう」とまで申し上げた。 △147
 私は椿先生が以前の先生と違い、環境庁の特別委員会の責任者として、水俣病の幕を引く事のみを考えているように思えた。医学者としてでなく、行政官になってしまった感じがして、その後、直接部屋を訪問する事は止めてしまったのである。

 昭和五十二年環境庁環境保健部長通知と五十三年の事務次官通知

 認定ランクをパーセントでいう考え方について、昭和六十一年、椿教授は法律雑誌『ジュリスト』で「後で考えて見ると、とてもそれはパーセントなどで言えるものではないので、パーセントでいうのはとてもできないという考えになっています」と撤回されている。
 とにかくこのような流れを経て、昭和五十年から椿教授が座長となり、四十六年に通知を依頼検討され五十二年七月に、環境庁環境保健部長通知「後天性水俣病の判断条件について」が出されたわけである。これも全文を掲げておこう。
 (斎藤[1996:142-148])


 「昭和四十年四月、新潟大学に神経内科の講座が新設される事になり、最初の主任教授には東大脳研究所の椿忠雄助教授が決まっていた。四十年一月八日、椿助教授が新大医学部に挨拶にこられて、たまたま、脳神経外科に入院していた今田一郎さん(三十一才)を診察した。そして今田一郎さんが新△0219 潟水俣病の第一号となったのである。
 一郎さんの父藤吉さんは阿賀野川の漁師だった。今田さんの家は農業兼漁業で、下山部落で畑作と養鶏を営んでいた。昭和三十九年六月十六日、新潟地震の被害で、耕作が不能となり、川漁に専念した。その頃、特に豊漁が続き、毎日ニゴイ、マルタなどを多食した。
 一郎さんは昭和三十九年九月頃より腰痛、一カ月くらいで両手足のしびれが現れ、ひき続き二週間くらいでしびれ感は口周囲、両下肢、全腕さらに全身へと拡大し、下肢の脱力感と、歩行がふらついて定まらず、目も視界がぼけ、日常動作も円滑さを欠き拙劣となり、言語も遅く不明瞭となった。十月二十六日に近くの桑名病院に入院した後、十一月十二日に新潟大学脳外科に転院した。他に著明な視野狭窄、運動失調、聴力障害が認められた。これらはハンター・ラッセル症候群である。そして、椿教授の予想したとおり、四十年一月二十八日には今田一郎さんの毛髪から三二〇ppmという高濃度の水銀が検出され、アルキル水銀中毒症の診断が確定した。

 新潟大学の初期の取組み
 椿教授は後でこの時のことについて、白癬治療薬によるメチル水銀中毒の患者を診察したことがあるので今田さんを診察したときすぐにピンときた、私に述懐されたことがある。
 新潟大学神経内科には、昭和四十年四月中旬、胡桃山の太田藤松さん(二十八才)、五月中旬には江口の星田幸平さん(五十五才)も受診し、有機水銀中毒症の診断を受けた。また今田さんの近所で三十九年八月に発病し十月に亡くなった北大助(六十三才)さんも本症と診断された。
 有機水銀中毒の報告は、原因別に見ると、@工場の労働災害によるものA農薬中毒B医薬品中毒C水俣病の四つに大別される。△220
 当時の新潟大学の精力的な取組みについて、当時の新潟大学神経内科の近藤喜代太郎講師の報告が具体的に記してあり暫く引用させていただく。」(斎藤[1996:219-221])

 「元東京大学教授の白木博次博士は、人間の体をコンピューターに例えて、次のように述べている。
 「私が比喩的に申し上げたいことは、人間とコンピューターは、それは違う点はたくさんありますが、非常に共通点もあるわけではないでしょうか。つまり、両者ともセンサーから、ありとあらゆる情報が入力されてくるわけです。それは、人間としては各種の感覚情報で、それは目であり、耳であり、匂いであり、味であり、皮膚、粘膜、関節、筋肉に加えて、特に内臓系からくる諸情報がそれです。そういうものがセンサーであって、そして大脳、脊髄というのは、プロセッサーとして受け止めていくわけです。」
 「極端なことを言えば、大脳、脊髄がやられていなくとも、つまりプロセッサーがやられていなくても、末梢からの、センサーがうまく入ってこなければ、どうして大脳あるいは脊髄がうまく動くでしょうか。そして、それはアクチエーターを通じて、出力としてその命令が末梢に伝わらない。したがって感覚系の末梢神経というのは、ものすごく大事だと思いますし、さらにそこに神経内分泌系からのものはどうなのか。こういうことが殆どわかっていないではありませんか」
 このように白木博士は抹消神経障害の重要性を述べ、また自律神経の障害その他、未知の問題も多いことを述べている。それゆえ自覚症調査が重要であることを指摘している。△234
 
 水俣病の他覚症状
 すでに述べたごとく、新潟水俣病発生当初から疫学面を重視して取組んだ椿教授が、それまで基準とされた「ハンター・ラッセル症状」にとらわれることなく、昭和四十七年、水俣病診断要項を発表した。
 その診断要項で椿教授は「知覚障害は最も頻度が高く、特に四肢末端、口囲、舌に著明であること、またこれが軽快し難いことを重視する」と述べている。
 水俣病に感覚障害のみの例はあるかどうかについては、熊本でも新潟でも行政不服や裁判で長い間、争われていることである。
 新潟水俣病の初期の二十六例について、感覚障害のみの例も水俣病と診断されているが、椿教授は多くの例が知覚症状以外の症状を持つとしても、水俣病で感覚障害のみの例も、この頃は認めていたのである。この二十六名中、運動失調調査のアジアドコキネージスと指鼻、膝踵試験の異常例は+と±を加えても、二十二例中八例、三十六.四%に過ぎない。そして、感覚障害のみの例は、二十六例中四例、一五.四%に認められている。また、昭和四十五年に行なわれた第二回の一斉調査でも、有機水銀汚染地区に四肢遠位部に知覚障害を認める多発神経炎のみの患者数、頻度が有意に高頻度であったことも認められている。
 水俣病の場合の感覚障害は、多発神経炎型の感覚障害である。これは、四肢の末端に強く、軀幹に近づくにつれ次第に感覚鈍麻の程度は弱くなる。感覚障害部と健常部の移行ははっきりしないが、障害部は手袋や靴下をはいたような分布を示すとして、手袋靴下型(glove and stocking type)という。感覚障害の範囲も四肢だけではなく、下腹部や臀部に及ぶものも多い。口囲、舌先、二腹壁の正中部の△235 知覚障害も、神経の走行から抹消に強い障害を示している。
 また、水俣病の場合、半身の知覚障害がよく見られる。
 昭和四十七年に当時、沼垂診療所に受診中の水俣病認定患者百八十二名について、私が調べたところでは、半身の知覚障害のある例は、一過性のものも含めると、八十一名、四四・五%であった。
 新潟大学医療技術短期大学部の白川健一教授は昭和四十八年に新潟水俣病患者五十六名を調べ、そのうち三十二名、五七・一%に不全片麻痺が認められたと報告している。
 感覚障害については四肢だけではなく下腹部、臀部にもみられ、また口囲や腹壁や背部の正中部に感覚障害の強い例も認められる。半身の知覚低下も約半数に認められている。
 昭和四十二年の初秋のことである。私は水俣病の桑田忠一さんの家に往診し、忠一さんから最近手指が曲がってきたことを告げられた。両手を揃えて反るように伸ばすと、手指が基、中、末関節ともに軽く屈曲し、指を揃えて伸ばせず、指の間が少しずつ開く状態になっていた。
 そこで、見舞にきていた忠一さんの兄で水俣病の桑田周平さんの手を見ると、程度は少ないが、手は反らせて伸ばすことができず、両手の小指が少し開いていた。また本家の婿の清さんも水俣病であったが、足の第一趾と第二趾が重なってきて歩くと痛むこと、背骨も湾曲してきていた。そして、さらに阿賀野川の水銀汚染以来、大骨のまがった魚がよくとれること。人間も魚も同じ、やはり水銀のせいではないかと告げられた。
 また、体のあちこちの筋が縮んで行くような痛みや筋肉の痙攣がよくあるという。
 まもなく私は椿教授に会い、この事を話し、神経や筋の生検(生体の臓器または組織の一部を切り取って、病理組織学的に診断を確定すること)をやってはどうか、四肢のしびれは末梢神経や筋肉の障害によるのではないか、と聞いてみた。△236
 椿教授は自分でもこれまで水俣病は中枢神経だけが重視されているが、末梢神経を調べてみたいと答え、「しかし、水俣病は社会問題になっているので、生検まで患者にいうことはできないので斎藤君、患者で神経をとって調べてもよい人を探してほしい」と依頼されてしまった。
 私は二、三の患者にあたってみた。そして、これは患者本人の治療にすぐ役立つかどうかはわからないが、潜在患者で水俣病と診断されずに苦しむ人たちには役立つ可能性があることを率直に話した。
 昭和四十三年の水俣病患者たちの新年会で患者たちに、椿教授に依頼された件を話してみたが、その塲では何の反応も聞けなかった。
 しかし、春になってから、一人の患者が私のところに申し出てきた。水俣病になってから一度漁をすると三日も休むほど疲労するため、つい酒ばかり飲み、肝臓も痛めて入院もした五十嵐健次郎さんという若い漁師である。「おれはまだ三十六才、働き盛りの年でこんな病気になり、世の中の役に立にない状態になって、ほんとに残念だ。せめて、おれでも役に立つことがめるなら、神経でもなんでもとってほしい」と言う。
 私はその気持ちに感動すると共に、早速、椿教授に紹介し、患者の会でも報告した。すると、さら志願者が増えた。
 かくして、水俣病で最初の神経生検が行なわれたのである。ただ、これは下腿背部の下方に感覚神経のみからなる腓腹神経があって、この一部を切除して調べるため、切除するとそれより末梢の感覚がなくなるという弊害がある。
 昭和四十四年、椿教授はそのときの結果を含めて次の報告を行っている。末梢神経の組織像は二剖検例において、斑状の脱髄巣、シュワン核と線維細部核の増加を見出した。最近さらに二生検例を得たが、同様に著名な脱髄変性を認めた。」(斎藤[1996:234-237])

 「初期に新潟水俣病の疫学調査を指導された椿教授は、「診断基準の枠をはめる事を避け、疑わしいものを広くすくいあげ、この中から共通の症状をもつものを選び、これと並行して、診断要綱を設定するという方法を採った。この方法が正しかった事は、後に新潟水俣病の実態把握の際に立証されたものと信じている」と疫学調査を重視し、事実を重視する立場で述べておられる。
 この手法で「ハンター・ラッセル症候群」を基本としながら、その狭い枠にとらわれずに、椿教授による水俣病の診断要綱がまとめられていったのである。
 公害問題においては、この立場がいつも大切なことである。」(斎藤[1996:274])

 「特に、新潟水俣病第二次訴訟に参加された元東大教授の白木博次先生からは教わることが多かった。「医学は自然科学と見るのは誤りである。総合科学であり、経験科学である。それだからといって価 > 401 > 値が低いものではない」とよく先生は話される。そして、医師は自然科学も社会科学も駆使して、人類に役立てねばならない。社会的な影響を無視し、医学を単なる自然科学と見て、自己の興味本位にのみ進む傾向を戒め、経験の一つ一つを大切に蓄積することの重要さを指摘された。
 二十一世紀に向かって、地球環境の破壊が重大な問題となり、人類存亡まで話題となるときに、公害問題など社会的な問題にまともに取組む医師が極めて少ないことは残念なことである。
 白木先生はまた「公害問題やワクチン事故など、国が責任を持って全貌を明らかにしようとしないのは憲法違反である」とも話されている。日本国憲法第二五条第二項では、「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と記載されている。この公衆衛生の向上及び増進が大切であるが、例として、アメリカのナショナルインスティチュート・オプ・ヘルス(国立衛生研究所)が大きな予算を使い、その疫学調査は世界の学会をリードし、政府の政策に、極めて大きな役割を果たしていることも紹介された。」(斎藤:401-402)


■書評・紹介

■言及

◆立岩 真也 2018/08/01 「七〇年体制へ・下――連載・148」,『現代思想』46-(2018-08):-

◆立岩 真也 2018 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社


*作成:岩ア 弘泰
UP:20180526 REV:20180611, 13
水俣病 椿 忠雄(つばき・ただお)19210316〜19871020  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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