『ライフヒストリーの社会学』
中野 卓・桜井 厚編 19960215 弘文堂,270p.
■中野 卓・桜井 厚編 19960215 『ライフヒストリーの社会学』 弘文堂,270p. ISBN-10: 4335550618 ISBN-13: 978-4335550614 2940[amazon]/[kinokuniya] ※
■目次
まえがき
ライフヒストリー研究の位相 佐藤 健二
1 『口述の生活史』の問題提起
2 フィールドとしての個人
3 口述の方法性
4 ライフヒストリーの実践の豊饒化のために
インタビューからライフヒストリーへ――語られた「人生」と構成された「人生」 小林 多寿子
1 インタビューとライフヒストリーのあいだ
2 語られた「人生」
3 構成された「人生」
4 インタビューからライフヒストリーへ
『口述の生活史』作品化のプロセス 大出春江
1 『口述の生活史』を聞く
2 調査技法からみた『口述の生活史』
3 語りと編集
4 『口述の生活史』が示す個人の生と生活
記述のレトリック――感動を伴う知識はいかにして生まれるか 井腰 圭介
1 「ライフヒストリー研究とは何か」という疑問
2 口述記録と表現のレトリック
3 注釈と媒介のレトリック
4 「感動を伴う知識」の産出方法としてのレトリック
ある告白の再解釈の試み――何が彼女に自立志向性を放棄させてしまったのか 水野 節夫
1 フロイトの事例でやってみたいこと
2 再解釈の際の着目点と分析の焦点
3 ある告白の再解釈の試み
4 再解釈のやり方を振り返る
5 フロイトの解釈との相違点
彷徨するアイデンティティ――ライフ・ドキュメントとしての日記と作品 有末 賢
1 ライフヒストリーとライフ・ドキュメント
2 個性とアイデンティティ
3 稲垣尚友氏のライフヒストリーとライフ・ドキュメント
4 捜し求めるアイデンティティ
5 モデルなきアイデンティティ
歴史的現実の再構成――個人史と社会史 中野 卓
1 個人史の信憑性と多元的現実
2 自他の自分史とセルフ・アイデンティティ
3 語られた生とズレ
4 生の現実の想起と創作
5 自分史と歴史
生が語られるとき――ライフヒストリーを読み解くために 桜井 厚
1 ライフヒストリーの常識的見方
2 ライフヒストリーの構成的な見方
3 生の多元性と語りの位相
4 歴史的現実としての語り
5 象徴的な語り
あとがき
ライフヒストリー研究文献目録
■引用
太字見出しは、作成者による。
ライフヒストリーの五つの時間
結局、ライフヒストリーは、五つの時間が設定されて組織されたものである。まず、インタビューの場であり、過去の経験が想起されたC<現在>の時間において、「人生」が語られている。その「人生」を構成したライフヒストリーは、<現在>を準拠点としている。ライフヒストリーを構成する際、@<クロノロジカルな時間>、A<ライフサイクル的な時間>、B<歴史的な時間>という三つの時間は、語られた「人生」を解釈するのに欠かすことのできない時間である。つまりライフヒストリーの「構成」や「編集」は、これらの時間を指標としたからこそ可能になってくる。
しかしこれらの時間をもとに作成された「出来事のクロノロジー」だけがライフヒストリーではない。語られた「人生」に流れるD<個人的な時間>がどのようなものであるかが表現されてこそライフヒストリーとなる。ライフヒストリーを構成することは、<個人的な時間>をとらえ、そこを貫くさまざまな「意義」を解釈しようとする行為であるということができる。ライフヒストリーは、語り手に固有の<個人的な時間>が理解可能になるように構成されたものなのである。(p.66)「インタビューからライフヒストリーへ――語られた「人生」と構成された「人生」 小林 多寿子」
日本のライフヒストリー研究の方法意識
以上のように口述記録の記述と編集の仕方とをみる限り、日本のライフヒストリー研究が独特な方法意識をもっていることは明らかであろう。それは、一方で話者のレトリックを保存して「表現された世界」を記録として定着させ、他方でこうした記録から「読者が一人の人間として話者との直接的な出会いを体験すること」(水野[1986:187])ができるように編集することで、「話者から聞き手へ」、また「書き手から読者へ」という二つの関係のなかで、「経験された世界」を他者にむかって適切に表現するためのレトリックを駆使しようとする意識である。そして、こうして準備された個人的記録という素材に加えられるもう一つの素材が「注釈」である。(pp.118-119)「記述のレトリック――感動を伴う知識はいかにして生まれるか 井腰 圭介」
注釈
全体への注釈は、後に検討する「部分への注釈」を加えて作品化されたライフヒストリーの提示に先立って、「はじめに」や「まえがき」といった形で明確に区別されて提示されるライフヒストリー全体への注釈である。ここでは、@語りがどういう経緯で行われたか、口述記録はどのようにして作成されたどんな性質をもつ記録なのか、口述記録全体をどう構成したかといったライフヒストリー作成過程に関する説明と解説、A書き手が話者に抱いた印象や生活状況や居住地域の特徴などを通しての話者の紹介、Bライフヒストリーの中で使用した記号表記の凡例といった技術的説明、などがなされる。(pp.119-120)「記述のレトリック――感動を伴う知識はいかにして生まれるか 井腰 圭介」
部分への注釈は、書く視点と内容によって、端的には三つに大別できるものと考えられる。三つとは、@読者が語りが理解するのに直接必要になる知識を、話者自身の視点の範囲内で補足するための注釈(直接的注釈と呼ぶ)、A観察者として視点から書き手が読者に語りの場の状況を説明するために加えた注釈(観察的注釈と呼ぶ)、B書き手の視点から話者の語られた経験を一般史の中で位置づけ解説するための注釈(直接的注釈と対比する意味で、間接的注釈と呼ぶ)である。(p.124)「記述のレトリック――感動を伴う知識はいかにして生まれるか 井腰 圭介」
ライフ・ドキュメント
これに対して、これとは全く異なった側面として、個人、個人が日々生活している時間軸上で絶えず起こっている「生の反省」と「生の記録」という面がある。われわれは、毎日の生活で絶えず主観的リアリティを移動させ、生活世界を構成し、そして記憶に焼き付いたり、文字に書き留められたり、写真に撮られたり、テープに吹き込まれたり、映像に残されたりして「記録」される。それらは、個人にとって、少なくともその時点においては「意味のある記録」として位置づけられている。このような側面を、生活史におけるライフ・ドキュメント的側面と呼んでおこう。(pp.167-168)「彷徨するアイデンティティ――ライフ・ドキュメントとしての日記と作品 有末 賢」
フィクション
ライフヒストリーは、自分史、自伝だけでなく、他者の「伝記」(他伝、バイオグラフィ)にしても、個人の人生という歴史的現実を記述したものである限り、個人史として社会史と交差しており、両者は互いに補強しあうことができる。それが可能な理由は、たとえどちらも物語性を示すとしても、架空の物語ではなく、共に本人・研究者双方にとって歴史的現実としての信憑性をそなえた歴史として再構成されたものだからである。社会学・社会人類学と歴史学の学際的協力が可能なのもこのためである。また精神医学などで対象者のライフヒストリーの再構成が診断や治療に役立つのも、そのライフヒストリーがフィクションではなく、自分の人生の現実を本人が自己の経験に即して語った信憑性あるものだからである。(p.193)「歴史的現実の再構成――個人史と社会史 中野 卓」
信憑性
結局、ライフヒストリーのテクストはいかようにも解釈されるものであってはならず、特定の解釈が妥当するものでなければならないというのが、中野の方法論的な主張である。これは実証主義者がいう客観的事実とは異なるが、意味の解釈においては客観性すなわち「信憑性」を求めようとする態度にほかならない。(p.241)「生が語られるとき――ライフヒストリーを読み解くために 桜井 厚」
作成者 篠木 涼