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Dworkin on Disablement and Resources



Tremain, Shelly 1996 “Dworkin on Disablement and Resources”, Canadian Journal of Law and Jurisprudence, vol. IX, No. 2 (July 1996), 343-359.


■内容紹介(堀田義太郎)

◆ 障害の社会モデルの立場から、ドゥオーキンの仮設的障害保険市場が個人モデルを前提にしていることを指摘し、それを前提にした「分配モデル」あるいは「補償モデル」では差別や社会的・制度的な不利益は是正されないどころか、むしろ再生産されるとして批判した論文。

◆まとめ

 なぜリベラルは平等に関心を持つべきなのか という問いに対するドゥオーキンの解答。リベラリズムは①中立性に基礎を置く形態と②平等に基礎を置く形態がある。
 ①は 政府は道徳的問題に関する中立性を保持すべきであり、平等主義的政策はそれが憲法の諸原理から導き出されることが明らかな場合に限って支持される、という立場であり、②は、政府は市民を平等者として扱うべきであり、道徳的中立性は、平等によって要求されるときにだけ強調される。
 現代平等主義リベラルは民主主義社会の政治道徳の根本原理については合意しているが、実質的な問題については立場が分かれている。(343) とくに「ハンディキャップをめぐる問題」は論争の中心にある。Lesley Jacobsは「ハンディキャップの問題を満足に扱えない社会正義に関する平等主義理論が、まともな支持者を得られるとは考えられない」と述べている。(344) 障害が分配的正義理論に提起すると思われる「問題」は二重である。第一に、とにかく社会は障害を持つ人々に何を負っているのか。第二に、表面的権限の比率をいかにして決めるのか。

 
注3 ハンディキャップは「手の中の帽子(cap-in-hand)」に由来しており、慈善を求める物乞いのポーズを含意すると指摘されている。 ⇒ ジョナサン・ウルフ「不利への対処と人間の善」(菅原寧格・長谷川晃訳『北大法学論集』57-1、2006)でこの解釈は違うと指摘されている。


 ドゥオーキンにとって障害者がその自然の賦与によって経験する「不公正」な不利益は、個人的不運でありあるいは「過酷な不運(brute bad luck)」である。私はドゥオーキンがそのように障害の「問題」を理解している以上、彼の再分配シェーマは社会正義を促進するものではないと論じたい。ドゥオーキンが障害者に対する不正義を各人の「環境」に由来するものとみなしている限り、彼は、障害を持つ人々を究極的には貶めるような資源配分メカニズムを提唱していることになるし、したがってそれは、彼自身の平等主義の目的と整合しないことになるだろう。(344)
 ドゥオーキンの「ハンディキャップ」の扱いは、彼の資源ベース平等主義が障害を持つ人々に対する「平等主義的直観impulse」を厚生ベースの平等理論よりもよりよく説明するということの説明の中で記述されている。ドゥオーキンによれば、厚生ベース平等理論は、障害者への財の移転を潜在的には際限なく(limitless)認めてしまうことになりかねない。ドゥオーキンは、厚生ベースの補償シェーマは「直ちに魅力ある」ものに見えると指摘しつつ、しかし、結局のところ実際の配分量は慈善の政治に依拠しているので一般に思われているほどこの図式は寛大ではないと述べる。(345)

※ pp. 346-349の議論文脈のまとめ(必ずしもTremainの記述どおりではない:堀田)
ドゥオーキンによれば、障害への仮設的保険市場は、障害がどれくらいの補償に値するかについての多くの人――「平均人」――の選好は概ね一致するので、障害に対する保険料が、社会成員の奇妙なリスク選好や、企図(ambition)の違いによって大幅に変わるということはない。またたしかに、仮設的保険市場の設定、つまり自分が障害をもつか否かについて無知な状況では、個々人は人生に対してどんな企図を抱くかが変わるならば、――どの能力をどの程度評価するかは個々人の企図に応じて変わるので――保険料が一定の水準に至るかどうかは「不明確」かもしれない。それが不明確であるならば、厚生ベースの議論へのオルタナティブにならない。だが、ドゥオーキンは、「普通の身体障害(ordinaly handicaps)の場合には一般化が可能であることから、この不明確さにうまく対処することが可能である」(訳書:132)とする。それに対して、能力(skills/talents)についてはそうはいかないと述べて、「障害保険」と「能力保険(あるいは雇用保険)」を区別し、無知のベールの位置を変えて対応しようとしている。障害保険は、自らの障害の有無について無知だが、企図および能力の社会的分布は知っている状況で掛けられるとするのに対して、能力保険は、能力と企図を知っているが、能力の社会的分布(どの能力がどの程度社会的に評価されるか)については無知な状況とされている。とはいえ、他方、ドゥオーキンは障害と能力は「程度の相違」だ、とも述べている(訳書:130)。


⇒ もし「ハンディキャップ」と能力との違いが「単に程度」の問題であるというドゥオーキンの示唆を真剣に受け止めるなら、(前者の状況の場合の)「処理できる」不明確さと(後者の状況の場合の)「処理できない」不明確さのあいだの区別は、唐突な区別であるとみなすべきだろう。(349) つまり障害保険と能力保険はパラレルに扱われるべきではないか。だがドゥオーキンはそうはいわない。

 「ドゥオーキンに抗して、私は彼が「ハンディキャップ」にたいして推奨する保険市場を条件づけている不明確さが、同様に彼が能力の欠如にたいして導入する保険市場の不明確さに比べて処理しやすいとは言えないだろう(より処理しにくいということではない)と論じたい」。(350) 能力の欠如に対する保険図式を斥けるために、ドゥオーキンは(1)才能と能力はこの図式が有効に働かないようにするくらい企図と結びついている、(2)「ハンディキャップ」は、人が保険を掛けられるような単一の限定された出来事の帰結であるのにたいして、人の能力のレベルは、その人のナラティブヒストリーの特徴である、と論じている。だから「ハンディキャップ」が障害を持つ人々の企図と相互に連関しており、個人の伝記的ナラティブの一次元であるということを示すことができるなら、ハンディキャップ保険についても上述の議論が当てはまることになる。そして以下それを示す。(350)
 上の(2)は、障害者は「障害を持つということゆえに」企図を持たないだろうし、能力や資質も持たないだろうということを含意している。だが、障害を持つ人々はその目標と夢を追求する際に、彼らを妨げる重大な社会的バリアに直面しているのであって、障害者とその能力/資質および企図(の欠如)に関するドゥオーキンの想定が馬鹿げたものであると言えば十分だろう。(351)

 また、「ドゥオーキンは、障害者に障害を「補償」するために配分されるべき資源比率は、非障害者が障害を持つ状況を貶価(disvalue)する程度によって決定されるべきだと論じている」(353)。 それは「現に」人々が障害について抱いている価値・経験・見方によって決まる。ドゥオーキンがとりうべき前提は二つ。①非障害者は障害を持つ生活の特徴や質を知ることができ、不偏的判断を下せるという前提か、より穏当に②障害者であるか否かはほとんど、あるいは全く認識的意義を持たないという前提である。
 ⇒ だがそれらはいずれも受け入れられない。(352) 非障害者の障害に対する見方は既存の社会の偏見等にそまっているからであり、文化的バイアス・ステレオタイプに依存しているからである。
 また、非障害者が障害者の生の状況を評価でき、またそれを基準にしてよいという前提は、「平等な関心と尊重」というドゥオーキン自身の平等主義リベラリズムの第一原理と整合していない。
 さらに、ドゥオーキンはたとえば、ゲイ・レズビアンについてその不利益を補償する保険市場を制度化しようと論ずるだろうか。しないだろう。なぜなら、彼はそうすることが、ゲイやレズビアンの生活形式を貶価するだろうということを知っているからである。(355) 
 それにたいして、障害について補償保険市場を導入するのは、ドゥオーキンが障害を、「自然」の欠陥であり生物医学的な「条件」あるいは遺伝的「不具(deformity)」と解釈しているからである。

⇒ 「ようするに、もしドゥオーキンの理論装置に似た青写真をもつ補償図式が制度化されたならば、それは、障害を持つ人々が障害を持たない市民に比べて僅少な機会資源にしかアクセスできないような社会経済的不平等を再生産するだろう」(355)

 ドゥオーキンの補償についての考え方は、喪失やダメージに均衡をとる、あるいはそれを置き換えるための補償という図式であり、それは不法行為賠償に似た補償概念(tort-like compensation)である。だが不法行為への補償という図式は分配的正義ではなく、むしろ匡正的正義(corrective justice)の形態である。
 それにたいして、均衡的あるいは代替的補償にたいして「平等化」する補正(equalization compensetion)を提唱したい。(356) 積極的差別是正措置もその一種である。
 「障害」はフーコーが描写した意味で、ある種の歴史的な特徴であり、政治的起源をもっている(357-8)。政治哲学者や理論家が障害の「問題」を個人的特徴や「欠陥」とみなすとき、彼らはこの点を見逃している。逆にこの観点を採用するならば、障害者がつねに日常的に経験する障壁を生みだすような制度化された差別、意思を挫く公的態度、建造物のバリア、排除的なインフラ計画を補正する(compensate)ことが目的となるだろう。(358)


*作成:堀田 義太郎
*このファイルは生存学創成拠点の活動の一環として作成されています(→計画:I)。
UP:20100605 REV: 20100709
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