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『義務とアイデンティティの倫理学‐規範性の源泉』

Christine M. Korsgaard, with G. A. Cohen, Raymond Guess, Thomas Nagel, Bernard Williams, edited by Onora O'Neill 1996 The Sources of Normativity, Cambridge University Press
=20050323 寺田 俊郎・三谷 尚澄・後藤 正英・竹山 重光訳,『義務とアイデンティティの倫理学‐規範性の源泉』, 岩波書店, 404p. ISBN-10: 4000225391


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■Christine M. Korsgaard, with G. A. Cohen, Raymond Guess, Thomas Nagel, Bernard Williams, edited by Onora O'Neill, The Sources of Normativity, Cambridge University Press, 1996
=20050323 寺田 俊郎・三谷 尚澄・後藤 正英・竹山 重光訳,『義務とアイデンティティの倫理学‐規範性の源泉』, 岩波書店, 404p. 4725 ISBN-10: 4000225391 ISBN-13: 978-4000225397 [amazon]

■岩波書店のHP
http://www.iwanami.co.jp/
■目次
日本語版への序文
緒言  オノラ・オニール

序論 卓越と義務――西洋形而上学のごく簡潔な歴史(紀元前三八七年から紀元一八八七年まで)  クリスティーン・コースガード

第1講 規範性の問い  クリスティーン・コースガード
  一 緒論
  ニ 問題
  三 主意主義
  四 実在論
  五 結論

第2講 反省に基づく認証  クリスティーン・コースガード
  一 緒論
  ニ デイヴィッド・ヒューム
  三 バーナード・ウィリアムズ
  四 ジョン・スチュアート・ミル
  五 反省する行為主体

第3講 反省の権威  クリスティーン・コースガード
  一 緒論
  ニ 問題
  三 解決
  四 道徳的義務
  五 道徳、個人的な人間関係、葛藤
  六 結論

第4講 価値の起源と義務の範囲  クリスティーン・コースガード
  一 緒論
  ニ 相互に義務を課しあうこと
  三 価値の起源と生の価値
  四 懐疑論と自殺
  五 結論

第5講 理性、人間性、道徳法則  G.A.コーエン

第6項 道徳とアイデンティティ  レイモンド・ゴイス

第7講 普遍性と反省する自己  トーマス・ネーゲル

第8講 歴史、道徳、反省のテスト  バーナード・ウィリアムズ
  一 規範性への問い
  ニ 反省と説明
  三 私の見解をめぐる論評
  四 ヒュームをめぐる一論点
  五 ヒュームからベンタムへ
  六 実践的アイデンティティ――他の人々
  七 歴史に関する脚注

第9講 回答  クリスティーン・コースガード
  一 普遍化可能性の要求――あらためて立てられる問い
  ニ カントから逸脱しているように見えること
  三 欲求の身分
  四 自己理解と利己主義の問題
  五 説明と正当化


訳者あとがき
文献表
索引


■引用
道徳哲学が、われわれを議論で説き伏せて、私的な理由ではなく公共的な理由をもつようにさせる試みであるとすれば、道徳哲学は実は誤りに基づいていることになるのだ。しかし、他方、理由が本質的に公共的であることを示す方法が二つある。一つは、ある種の実質的な道徳実在論を擁護することだ。理由が公共的であるのは、それが公共的世界のある客観的価値から導き出されたり、それを指し示したりするからである。この見解を「客観性としての公共性」と呼ぶことができるだろう。プリチャードを参照したことから思い出されるように、これは道徳を擁護する議論というよりもむしろ道徳を擁護する議論は必要ない、という主張である。個人の私的な理由に訴えることによって個人に対して道徳を正当化する試みは、上要なものとして退けられる。なぜなら、個人の理由ははじめから私的なものではありえないからである。G・E・ムーアの利己主義を退ける議論は、おそらくこの戦略を最も明確に展開したものである。ムーアは、私自身の利益はただ私にとってのみよいという考えは、端的に矛盾していると論じた。あるものが私にとってよい、と言うことは、私がそれをもつことは客観的によい、と言うことに他ならず、それは誰にとっても存在するよさなのである。
 もう一つの方法は、私がはじめに述べた事態の要素を一つ含んでいる。理由の公共的性格は、たしかに個々人の理由を相互に交換すること、共有することによって生み出される。しかし、その方法は、先述の批判の要点を認める。もし、これらの理由が本質的に私的であるとすれば、それらを交換したり共有したりすることは上可能であろう。したがって、そういった理由のもつ私的な性格は偶有的なものか、一時的なものに違いない。それらは本質的に共有可能であるはずだ。この見解を「共有可能性としての公共性」と呼ぶことができるだろう。私は、これをもう一つ別のテーゼと同じことを言うものと見なす。われわれが理由を共有することができ、またそうせざるをえないのは、われわれの社会的本性によるというテーゼである。
 人間が事実として、社会的動物であることは広く認められているにもかかわらず、近代の道徳哲学者たちは、道徳を正当化することを目指す議論においてこの事実に気安く手を伸ばすことは許されない、と考えるのがふつうだった。われわれの社会性は、あまりに生物学的、偶然的な事実であり、理性的な議論において役割を果たすことができないように思われるのだ。もしかすると、社会的でない理性的動物を、それどころか社会生活に参加しようとしない人間すら、想像することができる、と思われるかもしれない。あるいは、その代わりに、われわれが社会的であるということは、われわれが個人として欲するものを得るためには協力しあわなければならないという意味、すなわち、われわれには社会的であるべき私的な理由があるという意味にすぎない、と考えることもできるだろう。だとすれば、道徳を擁護する議論はわれわれの社会的本性に訴えることはできない。なぜなら、われわれの社会的本性は、大ざっぱに言えば、その議論が証明しようとしている当のものだからである。
 しかし、公共的であり共有可能であることはわれわれのもつ理由の本性である、と言えるほどに、われわれの社会的本性が深みをもつとすれば、道徳の正当化はそれに訴えることができるし、またそうすべきである。とすれば、ここで必要な議論は、われわれは、どういうわけか、私的な理由に促されて公共的な理由に関与するようになるという議論ではなく、そもそも理由が私的であるとすれば、それはただ偶然的にそうであるにすぎないということを認める議論である。理由に基づいて行為するということは、すでに、本質的に、他の人々と共有されうる規範的な力をもつような事由に基づいて行為するということである。ひとたびそれがしかるべき位置づけを与えられるなら、自分自身の人間性を認める人に道徳的義務があることを理解させるにはどうすればよいか、示すことは容易だろう。(pp.159-161『第4講 価値の起源と義務の範囲』)

まず、動物的本性は、あなたの人間的アイデンティティ、すなわち道徳的アイデンティティが依拠している基本的アイデンティティであることを、私は指摘する。あなたが自分自身に価値を認め、自分自身の目的であるのは、たんなる人間としてではなく、感覚をもつと見なされる人間、つまり動物と見なされる人間としてでもある。このように反省が拡張されるに応じて認証の範囲も拡張される必要がある。もし自分の動物的本性に価値を認めないなら、あなたには何にも価値を認めることができない。それゆえ、あなたはその動物的本性の価値を認証しなければならない。そしてあなたの動物としてのアイデンティティに基づいて生じる理由や義務は、私的な理由ではない。そういった理由によってあなたが自分自身をどのように拘束しようと、同じようにあなたは他者を拘束しうるし、また他者によって拘束されうる。それゆえ、他の動物たちの理由はあなたにとっても理由である。
 苦しむ動物を哀れむのは、あなたが理由を知覚しているからである。動物の叫びが苦痛を表現するとき、それは理由があるということ、状態を変えるべき理由があるということだ。そして、あなたが動物の叫びをたんなる雑音として聴くことできないのは、人の言葉をたんなる雑音として聴くことができないのと同じことである。他の動物も他の人とまったく同じように、あなたに義務を課す。人間と動物とに共通していることは誰かであるということだ。だから、もちろんわれわれには動物に対する義務がある。(p.180)

どうすることもできない状況を告げる苦痛を感じているということは、何か恐ろしいものを写した映像――殺人の実写映画、強制収容所の写真――を見るようなものだ。何か悪いものの映像を見ることは嫌なことだが、そうすべき理由、それに向かい合うべき理由があることもある――悲しみの事例が示すように、それは苦痛にも当てはまる。その映像を見るのが嫌であることは、それがわれわれにもたらす情報の価値の観点だけでは説明されえない。というのも、その映像に写されている悪い状況についてわれわれにできることがあろうとなかろうと、それを見るのは嫌なことだからだ。そして、この嫌さはふつうその映像を見ない理由を与える。映画のなかで死ぬ人についてどのみち何もできないことを根拠に、殺人の実写映画を好きに楽しんでよいと思う人がいるとすれば、たいへんな誤りを犯していることになるだろう。しかし、そこには、その映画を見るのは嫌だということが、その映画に写されているのは悪いということから独立である、ということを示す気配は、何もない。たんにそれが苦痛を感じさせるからではなく、その苦痛によって知覚される悪のゆえに、われわれは顔を背けるのである。(p.183)



*作成者:篠木 涼
UP:20080112 REV:20080616
「哲学/政治哲学(political  philosophy)/倫理学」  ◇BOOK
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