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『ケアの向こう側――看護職が直面する道徳的・倫理的矛盾』

Chambliss, Daniel F. 1996 Beyond Caring: Hospitals, Nurses, and the Social Organization of Ethics, The University of Chicago Press
=20020301 浅野 祐子 訳,日本看護協会出版会,274p. 3000


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■Chambliss, Daniel F. 1996 Beyond Caring: Hospitals, Nurses, and the Social Organization of Ethics, The University of Chicago Press=20020301 浅野 祐子 訳,『ケアの向こう側――看護職が直面する道徳的・倫理的矛盾』,日本看護協会出版会,274p. 3000 ※ [amazon][amazon][boople] ※ c04.n04.

◇内容(「MARC」データベースより)
現役ナースへのインタビューなどをもとに、病院という組織の中でナースたちが日常業務において直面する道徳的・倫理的矛盾をどのように捉え、対処しているかを明らかにした名著。『ナーシング・トゥデイ』翻訳連載をまとめる。

目次

序章 組織化の時代における看護と倫理
第1章 不幸のルーチン化
第2章 カオスからルーチンを守る
第3章 ナースであるということ
第4章 組織における倫理的問題の発生
第5章 物として扱われる患者
第6章 組織的行為としての死

◇序章 組織化の時代における看護と倫理

「ナースたちは[…]本来は自発的に感じられるものであるべき感情作業(emotion work)を職務上命じられる[「命じられる」に傍点]、という看護固有の矛盾に苦しんでいるのではないだろうか。」(6)

「この研究は、論理学でもなく道徳哲学でもなく、社会科学の研究である。私は、「倫理」というものの哲学的定義から始めるつもりはないし、ナースの行動規範を導き出すつもりもない。私は、道徳的論議の弁証法も、論理学の命題や真理表もよくわからない。これは社会学である。私の仕事は、ナースが日常業務の中で倫理的問題をどのように捉え、対処しているのかを、詳細に、かつ弁護できる程度の一般化をもって記述することである。」(12)
「病院には依然として他の組織と大きく異なる決定的な要素がある。そこでは日常の一部として人々は苦しみ死ぬ[「そこでは日常の一部として人々は苦しみ死ぬ」に傍点」(24)
「「病院の定義は、死という出来事が起こり、さらに誰もそれを気に留めない場所であると言える。もっと厳しい言い方をすれば、その目的に沿っている限り、死が社会的事実として容認される場所とも言える」。」(Bosk, Charles L. Forgive and Remember: Managing Medical Failure, University of Chicago Press, 1979, p.90からの引用)(24)

◇第1章 不幸のルーチン化

◇第2章 カオスからルーチンを守る

◇第3章 ナースであるということ

◇第4章 組織における倫理的問題の発生

◇第5章 物として扱われる患者

 「患者の権利章典」についての言及(195)
 キヴォーキアンについての言及(196)

◇第6章 組織的行為としての死

 カレン・クインラン事件への言及(229-232) cf.安楽死・米国
 「特定の一人が、それをしなければいけないということではない、そのナースは感じていた。組織には、個人、特に法的責任のない人たちを保護しつつ、生命維持を中止するためのテクニックがあり、それは組織あるいは集団による行為であるべきだ。
 実際、一九七〇年代末の、かの有名なカレン・アン・クインランのケースを機に、表立ってではないが社会全体が決定に参加するようになってきた。[…](p.229)  この判決は、後のナンシー・クルーザン裁判への連邦最高裁判所の判決(一九九〇年)とともに、アメリカのDNR政策を刷新するものとなった。
 ノーザン・ゼネラル・ホスピタルのあるナースは次のように話してくれた。  「 カレン・アン・クインラン裁判の前にも、人工呼吸器を切ることは時々あったけど、今はもっと多くなったわね。個人的なかかりつけ医を部屋に呼んで、やってもらうことが多いみたい……[医者を]二五年もやっていれば、「この患者はもう回復することはないだろう」と言うこともできるわ。そして引き抜くの……チューブ類を取り去って、人工呼吸器を切るの。」【インタビュー】
 人工呼吸器を外すことは最近始まったことではなく、変わったのはそのことが世間的にも法的にも認められるようになったことである。ペギー・アンダーソンは著書『Nures』の中で以下のように述べている。(p.230)
 「この[クインランの]ケースは異例の事件である……延命手続きがもはや適切でないと判断された時には、患者を死なせる決断は毎日のように下されている。」
 このような延命の中止は極めて一般的に行われていたが、クインランのケースで特筆すべきことは、それが法廷に持ち込まれ、世間に広く知られることととなった点である。さらに、この判決は多くの医療関係者にとって次のような意味で判断のよりどころとなった。第一に、この種の問題に法律家が介入する場合もあり、厄介なことになる場合も考えられること,そして第二に、生命維持装置の停止を裁判所が認めることもあるということである。クインランのケースは医療現場における倫理的判断に裁判所が正式に介入できることを印象づけ、またこのケースが有名になったことにより、医療関係者たちは自分たちの決定はもはや個人的なものではないと思うようになった。この意味で、クインランは生死に関わる決定の、全く新しい土壌を作り出したと言える。(p.231)」(Chambliss[1996=2002:229-231])

cf. Anderson, Peggy 1978 Nurse, Berlekey Books=1981 中島 みち訳,『ナース――ガン病棟の記録』,時事通信社

■言及

◆立岩 真也 2013 『私的所有論 第2版』,生活書院・文庫版
◆立岩 真也 2004/07/25 「摩耗と不惑についての本」(医療と社会ブックガイド・40),『看護教育』45-07:(医学書院)


UP:20040602 REV:0609 20080623, 20130122
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