『人権の彼方に――政治哲学ノート』
Agamben, Giorgio 1998 1996 Mezzi senza fine, Torino, Bollati
Boringhieri
=20000520 高桑 和巳訳,以文社,161+7p.
■Agamben, Giorgio 1996 Mezzi senza fine,
Torino, Bollati Boringhieri=20000520 高桑
和巳訳『人権の彼方に――政治哲学ノート』,以文社,161+7p. 2400 ISBN:4-7531-0212-2 [amazon]/[bk1]
※
■内容説明(bk1)
「今日のスペクタクル的な社会のなかで宙吊りにされた人間の生。その生の喘ぎは、世界規模での難民の創出、テロリズム、暴力などの外部として、この世界
を縁どる。現代の生の困難とその隠れた母型を明かす新しい政治の思考。」
■著者紹介(bk1)
「〈アガンベン〉1942年ローマ生まれ。ヴェローナ大学教授。ベンヤミンのイタリア語版の編集者としても知られる。著書に「スタンツェ」がある。」
■書評・紹介
◆交流用マルチ変換プラグ アガンベン使用法」
『[本]のメルマガ』2000年6月5日
http://takakuwa.at.infoseek.co.jp/texts/plug.html
◆田中純 200008 「伝記(バイオグラフィー)の技法:ロザリンド・クラウス『ピカソ論』、ジョルジョ・アガンベン『人権の彼方に』書評」,『建築
文化』2000-08
http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/tanaka/ac_0008.html
■引用
序
純政治的な範例の数々を、通例は政治的とは考えられていない(もしくは周縁的にしか政治的と考えられていない)経験や現象のなかに探し求める。それは以下
である。フーコーのいう生政治の診断によると、ポリスの中心に置きなおされたものであるという人間の自然な生(かつては純政治的な領域から排除されていた
ゾーエーzoe)。例外状態(法的秩序の一時的な宙吊り。これが法的秩序のあらゆる意味での基礎構造を構成することがいまや明らかになっている)。強制収
容所(公的なものと私的なものとの見分けがつかない地帯。われわれの生きている政治空間の隠れた母型)。難民、すなわち、人間と市民の間の連関を断ち切っ
て、自らが周縁的な形象から近代の国民国家の危機の決定的な因子になる者。言語活動、すなわち、われわれの生きている民主主義−スペクタクル社会の政治を
定義づけている、ある肥大の対象、かつ多有化の対象。政治の固有な圏域としての、純粋な手段の圏域、もしくは身振りの圏域(つまり、手段でありながら目的
との関係から解放されている手段の圏域)。
主権権力と剥き出しの生との関係に照らしてわれわれの政治の伝統の範疇全体を再考すること(pp.5−6)
1
<生の形式>
「ゾーエーzoe」生あるもの一切(動物、人間、神々)に共通の、生きている、という単なる事実を表現するもの(p.11)
「ビオスbios」これこれの個体や集団に固有の、生の形式ないし生き方(p.11)
<生の形式>という用語でわれわれは、それとは反対に形式から分離することが決してできない生、そこから剥き出しの生のようなものを決して隔離できない生
を指すことにする。(p.12)
この生においては、生きることのあらゆる様態、あらゆる行為、あらゆる過程が、決して単に事実なのではなく、何よりもまず生の可能性であり、何よりもまず
常に潜勢力なのである。(p.12)
人権の彼方に
人民とは何か?
収容所とは何か?
2
身振りについての覚え書き
一。西洋ブルジョワジーは、一九世紀末には自らの身振りを決定的に失っていた。(p.53)
足跡測定法を可能にしたのは、最も日常的な身振りを距離を置いてとらえる、ということだったわけだが、それがここでは、チック、痙攣、断続的運動、ぎこち
なさといったものの顕著な増大を描写するのに適用される。(pp.55−56)
この消滅を説明しうる仮説の一つは、運動失調やチックや筋緊張異常がこの間に規範となり、ある時に、すべての人びとが自分の身振りの制御を失って熱狂的な
歩行と身振りをするようになった、というものである。なんにせよそれが、マレーとリュミエールがまさにこの時代に撮りはじめたフィルムを前にして感じる印
象だ。(p.57)
二。自らの身振りを失った社会は、失ったものを映画においてもう一度我有化しようとし、同時に、映画へとその喪失を託す。
自らの身振りを失った時代は、同時にまた、その身振りに取り憑かれてもいる。あらゆる自然さを奪われた人間にとっては、それぞれの身振りが運命となる。そ
して、目に見えない潜勢力の働きの影響を受けた身振りは、屈託なさを失ったものとなり、そうなればなるほど生は解読しがたいものになっていった。
(p.58)
ヨーロッパ文化においてニーチェは、身振りの抹消および喪失と、身振りの運命への変形、という二極間の緊張が絶頂に達する点を体現している。というのは、
潜勢力と現勢力、自然さとぎこちなさ、偶然性と必然性とが見分けなくなっているある身振りとして(つまりは唯一、演劇として)しか、永劫回帰の思考は認識
できないからだ。(p.58)
最も典型的なのが無声映画である。(p.58)
三。映画の境位(エレメント)は身振りであり、像ではない。
ジル・ドゥルーズが示したように、映画は、心的現実として像(イメージ)と物理的現実としての運動との間の心理学上の偽りの区別を抹消する。映画の像(イ
メージ)は「永遠のポーズposes eternelles」(古典世界の諸形式のような)でもなければ、運動の「不動の切片coupes
immobiles」でもない。それは、それ自体が運動している像(イメージ)、「動的な切片coupes
mobiles」であり、ドゥルーズはこれを「運動−像images-mouvement」と呼んでいる。ドゥルーズによるこの分析をさらに延長する必要
があり、この分析が、一般に近代における像(イメージ)の立場に関わるものであることを示さなければならない。ところで、このことが意味しているのは、像
(イメージ)の神話的な堅固さがここにおいて粉砕された、ということであり、より正確に言えば、問題であるべきは像(イメージ)ではなく身振りだ、という
ことである。事実、像(イメージ)はすべて二律背反的な極性によって動かされている。一方では像(イメージ)は、身振りの物化であり身振りの抹消である
(つまり蝋で型どるデス・マスクや象徴、という意味でのイマーゴーimagoがそうだ)。しかし他方でこの同じ像(イメージ)は、身振りの潜勢力
dynamisを生(き)のままで保存してもいる(マイブリッジの瞬間写真の場合がそうだし、スポーツ写真なら何であれそうだ)。第一の極は、意志的な記
憶が奪い去る記憶内容に対応している。第二の極は、無意識的な記憶の顕現のうちにひらめく像(イメージ)に対応している。第一の記憶が魔の孤立の中で生を
営んでいる時、第二の記憶は、常に、その記憶自体を超えて、その記憶を部分として含むものの全体へと送り返す。(p.60)
四。像(イメージ)ではなく身振りを中心としている以上、映画は本質的に、倫理的かつ政治的な次元に属している(のであり、たんに美的次元に属するのでは
ない)。(p.61)
身振りを特徴づけるのは、そこにおいては人は生産も行動せず、引き受け、負担する、ということである。つまり、身振りは、人間の最も固有な圏域であるエー
トスethosの圏域を開く。(p.62)
制作することが、これこれの目的のための手段であり、行為することが、手段のない目的であるとすると、身振りは、目的と手段のなしている、道徳を麻痺させ
ている誤った二者択一を打ち壊すのであり、それは、目的になってしまうことのないままに手段性の領域にそのままで従属する諸手段を提示する。(p.63)
身振りとは、ある手段性をさらしだすということであり、手段としての手段を目に見えるものにするということである。(p.64)
「目的のない目的性」というカントの不明瞭な表現は、こうしてはじめて具体的な意味を獲得する。目的のない目的性とは、手段において、身振りを、<手段
であること>そのもののうちで破断する身振りの潜勢力のことであり、この目的のない目的性は、このようにしてはじめて、手段をさらしだし、ものresを、
すなわちgerereされるもの、res
gestaにすることができる。同様に、もし人が言葉を興隆の手段と見なすのなら、これこれの言葉を示すということは、この言葉を交流の対象とする、より
高度な平面(第一の水準の内部ではそれ自体交流不可能なメタ言語活動)を用いるということではなく、それはつまるところその言葉を、いかなる超越性もない
ままに、その言葉固有の手段性の内に、その言葉の固有の<手段であること>の内にさらしだすことである。この意味で身振りは、交流可能性の交流である。よ
り正確に言えば、身振りは言うべきことなど何もないのだ。というのも、身振りが示すのは、純粋な手段性としての、人間の<言語活動の内にあること>だから
である。しかし<言語活動の内にあること>は命題として言われうるようなものではないので、身振りは、その本質において、常に、言語活動の内では把握され
ない、という身振りなのである。身振りは常に、語の本来の意味でのギャグgagである。この語はもともと、言葉を妨げるために口をふさぐものを、また記憶
に穴が開いてしまったり話せなくなったりした時に、俳優が場を繕うために即興でやることを意味する。というわけで、身振りと哲学だけでなく、哲学と映画が
近さをもってくる。映画の本質的な「無声性」(これは、サウンド・トラックのあるなしには関係がない)は、哲学の無声性同様、人間の<言語活動の内にある
こと>をさらしだすことである。(pp.64−5)
五。政治とは、純粋な手段の圏域である。言い換えればそれは、人間の、絶対的で全面的な身振り性の圏域である。(p.66)
言語と人民
『スペクタクルの社会に関する注解』の余白に寄せる注釈
顔
3
主権警察
政治についての覚え書き
この流謫にあって謫−イタリア日誌 1992〜1994
解題=「例外状態」と「剥き出しの生」西谷修