『障害をもつ子のいる暮らし』
毛利 子来・山田 真・野辺 明子 編 199510 筑摩書房,373p.
■毛利 子来・山田 真・野辺 明子 編 199510 『障害をもつ子のいる暮らし』,筑摩書房,373p. ISBN-10: 4480857214 ISBN-13: 978-4480857217 2625 [amazon]/[kinokuniya] ※ d.
■内容(「MARC」データベースより)
生まれた子どもに何らかの異常や障害があるといわれたとき、具体的にどうしたらよいのかを親の心に添って共に考える一冊。各専門家による、それぞれの異常や障害についての医療論も収録。「患者の会・親の会」の一覧付き。
■目次
1 障害をもつって、どういうこと? 受けとめ方編
2 障害をもつ子とどう暮らす? 暮らし編
3 どんな病気?どんな障害? 医療編
■言及
◆立岩真也, 19970905, 『私的所有論』
(pp376-377)
日本では、一九七二・七三年に、第一四条「…医師会の指定する医師は、左…に該当するものに対して、本人及び配偶者の同意を得て、人工妊娠中絶を行うことができる」に、第四項「その胎児が重度の精神又は身体の障害の原因となる疾病または欠陥を有しているおそれが著しいと認められるもの」、いわゆる「胎児条項」の新設を含む優生保護法の改正案が出された際、女性・障害者の側から強い反対運動が起こった。また同時に、女性運動における女性の決定権の主張と障害者の側の論理とが時に厳しい対立を見せた。この時に提出された論理と論理の対立は現在に引き継がれている(*3)。
(pp431-432)
(*3)この技術について何らかの見解が示されている文章として、横塚晃一[1975→1981](引用D)、横田弘[1979](C)、橋爪大三郎[1979→1983:248-255]、中谷瑾子[1982:21]、福本英子[1983:210-231]、荒木義昭[1983](H)・横田[1983](G)・西山昭子[1983](I)(『季刊福祉労働』21所収)、松田道雄・唄孝一[1984:200](→注14)、福本[1984:144]、大谷實[1985:22-26]、江原由美子[1985:126-137]、石川憲彦[1985→1990:178-183]、山尾謙二[1985→1986:160-162][1986:157-167]、大橋由香子[1986]、中谷[1986]、やぎみね[1986:198-207]、棚沢直子[1987]、石神亙[1987]・篠原睦治[1987b](日本臨床心理学会編[1987]所収)、大倉興司[1987:264-269]、堤愛子[1988]、木村資生[1988:268-278](→第6章注45)、石川[1988]、上埜さと子・青海恵子[1988:56-57]・山田真[1988:156-165](古川他編[1988]所収)、白井泰子[1988a:157]、川島ひろ子[1988:70-71]・長沖暁子[1988:87-88,92-93]・白井[1988b:115-116]・東門陽二郎[1988:129,140-141](フォーラム実行委員会編[1988]所収)、マタイス[1988:144]、堤[1989](→注22)、金井淑子[1989:54-91]、山田[1989:159-162]、向井承子[1990:135-147]、稲垣貴彦[1990]、大谷[1990:286-289]、加藤秀一[1991a](→注20・32)、飯沼・大泉・塩田[1991:213-215](→注12)、丸本百合子[1993:164-173]、加部一彦・玉井真理子[1994]、DNA問題研究会編[1994:41-43]、石井美智子[1994:192-193]、黒柳弥寿雄[1994:214-215]、飯沼和三[1994:671-672]、飯沼・北川[1994:50-52]、野辺明子[1995:108-109]、永田えり子[1995a:136-141](→注32)、堤・飯田・武谷[1995:4]、鈴森薫[1995:17]、竹内一浩・永田行博[1995:67]、松田一郎[1995:115]、白井他[1996](関係部分の執筆は土屋貴志→注19)、青海[1996]・山崎カヲル[1996:56-57]・天笠啓祐[1996:57]・福本[1996](『インパクション』97所収)、佐藤孝道編[1996:87-97]、藤木典生[1996:73](→注12)、新川詔夫・福嶋義光編[1996:16]。以上の相当部分をhpに引用。
(p417)
このことを主張すること、そして質の決定に関与しない、選択をしないという選択があるのだということ、そのような選択が認められるべきことを主張すること、また、そのように考えない者がいることを事実として認め、それに論争を仕掛けていくこと、社会の全体的な決定として、政策として、これを推進することを批判すること、こうした選択が現実に行われる場、検査・医療の場において、検査自体も含めいかなる意味でも義務ではないことをはっきりさせること、どのような情報を与えているのかその公開を求めること、それだけでなく、障害をもつ者が生まれると本人も不幸で社会も不幸だなどとどうしても思ってしまう医療従事者の考え方ではなく、少なくともそれだけではなく、それと対立する考えが伝わるようにすること、現実に障害があって生きていく生き方を伝えること、そのために、不幸であるという声に抗して生きている障害・病を持つ者の参与をこの場にそして様々な場に求めること(*27)。以上述べてきたことから、これらが支持される。
(p.439)
(*27)その生活を知らず、そして「治すべき」「除去すべき」者ととらえ、「不幸である」と思い(引用A)、せいぜい「こういう幸福な例もある」といった程度のことしか言えない人は、情報提供、相談、告知の役割を担うことはできない。まず、そういう人は何も知らないということを知るべきだし、知らない事実を知る必要がある。そのために別のことを知っている人、別のものの見方ができる人(特に障害をもつ当事者)が教育・訓練の場に介入すべきである。また与えられる情報は公開され、検討されなければならない。と同時に、相談や助言の場に今いる人達と別の人達の参加が必要である。
そしてより重要なのは、検査結果が出て決断を迫られる以前の場である。子の質に対して親が責任を負うべきだという観念、実際その帰結に対して責任を負わなくてはならない現実が与えられていることが問題である。安積遊歩[1990][1993]、境屋純子[1992]等、障害(骨形成不全、脳性麻痺)のある当事者が書いたものがある。知的障害をもつ子の親(達)による著書にしても(正村公宏[1983]や大江健三郎の著書がよくあげられ、それはそれでよいのだが)山尾謙二[1986]、最首悟[1984][1986][1988]、玉井真理子[1995b]、ぽれぽれくらぶ[1995]、松友了[1996]、等々がある。文字で書いたものでも、本人が書いたものでなくても、知らないよりよい(ものもある)。子どもの障害や障害をもつ子を育てることについては毛利・山田・野辺編[1995]が優れている。
*作成:植村 要