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『兵士デカルト――戦いから祈りへ』

小泉 義之 19951015 勁草書房,268p


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小泉 義之 19951015 『兵士デカルト――戦いから祈りへ』,勁草書房,268p. ISBN-10: 432615313X ISBN-13: 978-4326153138 \2,940  [amazon][kinokuniya] ※ p

■内容説明[bk1]
デカルトは兵士であった。「方法叙説」は戦いの書であり「省察」は祈りの書であった。ソクラテスに始まりウィトゲンシュタインに終わる、戦争に参加した哲学者の系譜にデカルトを位置づける。

■著者紹介[bk1]
小泉義之
1954年札幌市に生まれる。1988年東京大学大学院人文科学研究科博士課程哲学専攻退学。1990年宇都宮大学教育学部講師。2003年より立命館大学大学院先端総合学術研究科教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
■目次 ■引用

読者への序言

 「近年、戦争や革命に対する幻滅の後に到来した懐疑論は、不徹底なままに潰えようとしている。すべてを幻想と見切ったはずの思想家たちは、カント的啓蒙をいわば善意の嘘として復権させてようとしている。[…]懐疑論を潜り抜けたはずの思想家たちが、「ナチス」「レジスタンス」という名を疑わないことや、カント的恒久平和論と正義論を復権させることは過ってはないのであろうか。敵/友理論や国家連合構想や正戦論こそが、戦争や革命を悲劇に導いてきたのではないのか。
 デカルトの懐疑が徹底的でありえたのは、私が欺かれても現に生きていること、これだけを真で確<4<実なこととして肯定して、他の一切のことを欺く神に由来する欺瞞として退けたからである。だからデカルトにとっては、生きるか死ぬかという問題以外は、すべて取るに足らない問題である。そしてとくに、病気や死をめぐる言説も価値を失う。例えば、ホッブズの自然状態、ヘーゲルの主人奴隷論、生命倫理、民俗誌的社会史は無意味になる。病気や死について何を語ろうとも、人間はいずれ病んで死ぬからである。誰でも、〈一切は幻想であるし、幻想について論ずることも、幻想を利用することも幻想である〉と語ることはできるし、実際そう語られてきた。しかし、〈真で確実なことは、人間が生きて死ぬことだけである〉と本当に知る人、そしてその知に相応しく生きる人は少ない。ここにコギトの核心があり、〈老人〉の智恵がある。」(pp. 4-5)

 「近年、世俗的公共体を言祝ぐことを自己の使命であると考える知識人が増えてきた。そして世俗的公共体の尺度に合わせて、徳論や感情論を考える道学者も増えてきた。戦争や革命の時代は過ぎたの<5<だから、何ごとも穏当に程々にというわけである。市民という名の〈大人〉たちで世は溢れている。かれらは傍観者であるから、世俗的公共体に背を向ける仕方について全く考えたことはないし、高々それを、戦争や革命という形態か、犯罪や逃避という形態でしか表象しないのである。」(pp. 5-6)

第1章 戦争とデカルト

 「貴族には、革命の友となるか、革命の敵となるか、という選択肢しか開かれてはいない。いずれにぜよ貴族は、演劇の舞台で徳と力を発揮することを自己の名誉とする。これに対して傍観者は、演劇が上演された後でしか自己の存在価値を示すことができない。だから傍観者は、常に密かに演劇の閉幕と役者の死を待ち望んでいる。傍観者は貴族の名誉を知らない。
 カントは最初の傍観者であった。そしてデカルトは最後の貴族であった。」(p. 10)

 「フーコーは一面的であったと思う。施設の外にいる者は、少なくとも一度は、少年の安楽を真の快楽と考えるべきではないのか。囲い込まれても快楽を享受できる少年の力を、人間の真の栄光として讃えるべきではないのか。ソクラテス的囚人ではなくストア的囚人を讃える思想こそが、刑罰制度の本質的な部分を骨抜きにして、逆にそのことで牢獄の中の現状と牢獄の外の現実を批判する力を発揮するのではないか。デカルトの道徳はまさにこの水準において理解されなければならない。」(p. 38)

「老人が過去に苦しんだ悪を想起しても満足を感ずるのは、「にもかかわらず生き続けてきた (subsister) 」ことが善いと思っているからである (II. 95) 。」(p. 45)

「異常な事件を読んで眺めても、身近な人間が死んでも、戦争でいくら多くの人間が殺されても、驚くべきことに、私は生き延びて生き残っているのである。むしろ逆に、生きるとは常に必ず生き残ることである。そこから魂の内的情動が生じてくる。これに対して傍観者は、自己を決して悲劇の生き残りとは感じないから、魂の内的情動を感ずることはないのである。傍観者には役者であった経験がないからである。」(p. 49)

「高貴な魂は内面的には悲しまない。外面的に感覚において悲しんで共感することにおいて、内面的には喜ぶのである。それは、善意を持つこと、共感すること、責務を果たすことが、自己の完全性であると考えるからである。」(p. 49)

「苦しむ他人を前にするとき、大事なことは、他人のために嘆き悲しむという疑似完全性を選好することではないし、そのような感情を育むことでもない。他人のために嘆き悲しんでいるのであれば、そのことを言挙げするよりは、他人のために善行を為せばよい。そして他人のために善行を為すことは、他人のための完全性であるよりは、自己の完全性であり自己の徳や力である。それは魂の喜びである。」(p. 50)

「デカルトにおける悲劇の快とは、例えば悲歌を合唱する喜びである。飢えた者や死んだ者のための(51)悲歌を享受することは、外面的に嘆き悲しんで内面的に喜ぶことであり、他人のために徳や力を発揮しながら、自己の徳や力によって生き残っていると感ずることである。そして悲歌は、苦しむ他人さえも魂の喜びを喚起することがある。エリザベトとカントはこの魂の喜びを捉え損なった。あるいはむしろ、それを留保抜きで承認する勇気がなかったのである。エリザベトは共苦に拘泥したからであるし、カントには共演する意図すらなかったからである。」(pp. 51-52)

第2章 神と魂の方法的制覇――フラネケルの形而上学

第3章 魂の修練としての省察

「ある個体が種の本性に照らして怪物と評価されることがある。しかし神は、種の本性を理念として、個体を存在させるわけではないし、そもそも種の本性なるものは人間によって作為された観念にすぎない。」(p.142)

第4章 情念による制覇

第5章 神学のエチカ

■書評・紹介

■言及



*作成:梁 陽日
UP: 20090828 REV:
哲学/政治哲学(political philosophy)/倫理学   ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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