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『裁かれるのは誰か』

原田 正純 19951015 世織書房,248p.

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last update:20180515

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原田 正純 19951015 『裁かれるのは誰か』,世織書房,248p. ISBN-10:4906388302 ISBN-13:978-4906388301 2300+ [amazon][kinokuniya] ※ m34, w/hm06, w/tt15

『裁かれるのは誰か』表紙

■内容

 専門家とは体制の隠れミノか?

 高度技術管理社会とは、たえず技術革新を行い、たえず守るべきルールが増えていく社会である。この社会を維持するには膨大な官僚を必要とする。官僚は専門家を操作し、専門家を隠れみのにして、社会・民衆を管理する。操作される専門家とは何か、その実像を水俣病は鏡のごとく映し出す。    最首 悟

 (オビより)

■目次

はじめに…i
1  来るなていうたで…3
2  こころの通訳…23
3  被害者こそ教師…39
4  生きているうちに救済を…59
5  裁かれるのは誰か…77
6  病気を生活の中でとらえる…113
7  たけのこ塾の試み…143
8  環境庁、内部文書に本音が…173
9  教科書…193
10 現場にこそ専門家が…215
11 命の灯をかきたてながら…231
 あとがき…245

■引用

 「一九六六(昭和四一)年の第六三回日本内科学会の話題は新潟大学神経内科の椿忠雄教授の「阿賀野川下流沿岸地域に発生した有機水銀中毒症の疫学的ならびに臨床的研究」に集中していた。椿はニ六名の患者を発見したこと、毛髪水銀値が五〇ppmから三〇ppm以上あったこと、川魚を食べることによって起こったものであることが考えられること、汚染源としては上流のアセトアルデヒド工場が疑われていることなどを報告した。
 その時の討論をみてみよう(「日本内科学会雑誌」五五巻六号より)。
 
 九州大・勝木「椿教授の御発表に表在僅知覚障害が頻発しているが、今回の観察ではこの様な症状のみのものはどの程度あったか。また、このような有機水銀中毒症の不全型を綿密に観察され、本中毒症の一症状としてとりあげた炯限に敬意を表する。実はかつてわたくしが熊本大学在職中昭和三一年の水俣病多発の一年前に、われわれの内科に二名の末梢神経炎症状を示す患者が入院、検討したことがめる。何か中毒性のものではないかと疑い調査したが遂に原因不明のままであった。しかるに翌年には定型的水俣病症状を具備して再入院した。このことから、原因不明の症状、疾患に出遭った場合、僅かの変化も見逃さず追求する必要があることを痛感した。」
 椿「症例の中には、知覚障害のみのものも含まれている。毛髪中水銀量、魚の摂取状況と症状 > 068 > 発生の時期、知覚障害の特異性と経過により、有機水銀中毒と診断したもので、アルキル水銀中毒症、必ずしも定型的ハンター・ラッセルの症状を呈しないことを強調したい。勝木教授の御経験はわれわれにも大いに参考になり、われわれの診断を支持されることであり、貴重な御意見に感謝する。」
 熊本大・徳臣「本演題の報告はかつてわれわれが経験した水俣病と同一である。本症の診断は電型的の場合には、いわゆるハンター・ラッセル症候群として容易である。しかしながら毛髪中、尿中水銀量が正常の数倍に達し、わずかに知覚障害を伴うだけといった症例を如何に取扱うか問題である。われわれは水俣地区で九〇〇名の住民の毛髪水銀量を検査し五〇ppm以上の者が二三%に認められた。この間題は補償問題が起こつた際に水俣病志願者が出現したので、過去においてわれわれはハンター・ラッセル症候群を基準にすることにて処理した。」
 座長「初めの疾患単位を確立する時期においては必要であったと思います。」

 この時の二名の患者とは発病初期の浜元二徳(昭和一一年生まれの漁師)、中津芳男(仮名) (昭和六年生まれの漁師)であった。このときの彼らの診断は「アセチレン中毒の疑い」であった。その翌年、浜元の両親が急性激症で発病して死亡した。中津の父親も同様に発病した。もし、現在言われているように「感覚障害だけの水俣病があるかどうか」の議論が病像論であると > 069 > するならばこの時点で決着はついていたのである。さらに、水俣に関しても胎児性水俣病の母親の臨床症状や住民の健康調査などの結果、多数の特徴のある感覚障害患者が存在する事実、加えて、カナダ・インデアン区の居留地の汚染地住民検診や中国水俣病の症状などから「感覚障害だけの水俣病が存在するという」証拠のほうが多い。これに対して、「感覚障害だけでは水俣病ではない」とする根拠はない。専門家があげたいくつかの論文が確かにあることはあるがこれらは多くがミスリーディングであった。すなわち、荒木らの「水俣病は感覚障害だけの水俣病がなかった」という報告は認定患者の一〇年間の追跡調査であった(「臨床神経」二四巻二三五頁)。認定患者は認定する時点で初めから感覚障害だけの患者は含まないのだから、一〇年後に追跡しても感覚障害だけの患者が見つからないのはあたりまえではないか。老人にも感覚障害が多いという論文は一般の感覚障害と水俣病に見られた特徴ある感覚障害を故意に混同しているものであった(「水俣病に関する総合的研究」中間報告第二集、一四九頁、一九七六年)。ただ、環境庁が唯一の根拠とされるものは、一九八五年一〇月の「水俣病の判断条件に関する医学専門家会議」の意見書である。」(原田[1995:68-70])

   「川本輝夫との出会い
 昭和六年八月一目生まれの小柄なこの男、川本輝夫は患者の多発地区である月の浦の、旧国道3号線沿いの小さな家に住んでいた。彼はいわゆるその頃の進歩的と自称した多くの人々がしたように、裁判支援という形では水俣病に係り合っていなかった。
 最初に彼に会ったのは確かチッソの組合事務所であったように思う。私はその頃、水俣病の裁判支援にやりと立ち上がった労働組合に行って、住民検診の可能性を相談すると同時に、新患者の掘りお > 082 > こしの必要性を訴えるためにしばしば組合事務所を訪れていた。
 大学の同僚の中には組合とつき合うことに否定的な意見が強かった。出された結果について色眼鏡でみられたり、組合に政治的に利用されるというのがその理由であった。しかしこの時期、一体誰が、患者の掘りおこしに積極的に協力してくれるであろうか。社会党は患者支援のための水俣病対策市民会議(昭和四三年一月)をつくって会長になった日吉フミ于を除名しようとしたし、協力してもらえそうもなかった。共産党でも裁判がおこる数年前、水俣病問題に関心をもって調査をはじめた私の友人の党員は、党から厳重注意を受けて調査を中止した。今曰の水俣病の運動からはとても信じられないような長い沈黙の時代があったのである。そして、新日窒の労働組合(旧労)が昭和四三年八月に保存中の触媒水銀母液約百トンをプラントと共に韓国に輸出しようとした会社の計画を中止させ、「何もしてこなかったことを恥とし水俣病と闘う」ことを定期大会で決議してから、少しずつ情況が変っていった。」(原田[1995:82-83])

■書評・紹介

■言及

◆立岩 真也 2018 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社


*作成:岩ア 弘泰
UP:20180515, 28
水俣病  ◇原田 正純  ◇椿 忠雄  ◇病者障害者運動史研究  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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