『沈黙と爆発――ドキュメント「水俣病事件」1873〜1995』
後藤 孝典 19950530 集英社,SHUEISHA NONFICTION,270p.
■後藤 孝典 19950530 『沈黙と爆発――ドキュメント「水俣病事件」1873〜1995』,集英社,SHUEISHA NONFICTION,270p. ISBN-10: 4087751953 ISBN-13: 978-4087751956 1600 [amazon]/[kinokuniya] ※ m34
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九州熊本県の水俣という片田舎に、アジアとヨーロッパが隣りあわせ、中世と近代とが同居していた。その上に圧縮された戦後日本の駆足が重なった。その軋轢の狭間で、被害者たちは沈黙を強いられ、そして爆発した。本書は、その沈黙と爆発の物語である水俣病事件を通しての、日本の近代化と戦後日本史への招待である。
■目次
第1章 水俣の近代化
第2章 敗北
第3章 俺の病気は何だ
第4章 自分たちでやろう
1 水俣市民の敵になって
2 東京乞食
3 手負いの猪
4 判決を超えて
第5章 その後のこと
■引用
第4章 自分たちでやろう
3 手負いの猪
行き場もなく 1972年
「ストックホルムで、国連主催の第一回人間環境会議が開かれ、坂本しのぶ(胎児性)と浜元二徳(いずれも訴訟原告患者)の二人が、日本の恥をさらしてくると不自由な体をひきずって、出発した。
欧米諸国の環境問題についての関心は、もっぱら空を飛ぶ渡り鳥や海を泳ぐ鯨の保護の問題であった。日本のこの地上では人の生き死にの問題であった。」(後藤[1995:212])
カンパ部隊
「行く末には展望がない。
なくても座り込みを続ける以外にない。そのためには資金がいる。資金は一般からの献金で賄うほかない。数えようもないほど地域や職場や大学に支援の会がつくられ、募金活動が続けられていた。募金の半分は街頭カンパであった。」(後藤[1995:214])
4 判決を超えて
合体 1973年
「判決が言渡される期日が近づくにつれ、事態の流れは勢いを強めて渦まきはじめた。
三月八日、訴訟派と自主交渉派の患者が弁護団と、判決後の行動について打合わせをすること<0224<になった。ところがその会合で激論となり、患者たちと弁護団の関係に修復不能なまでの亀裂が入った。
理由は二つあった。一つは、弁護団が判決後のチッソとの交渉を弁護団と国会議員が中心となって行うことを主張した点にあった。
患者たちにとって、チッソとの直接交渉は、ボス交渉の場所ではなかった。魂の救済にかかわる空間であり、余人を容れようもない場であった。
もう一つは、弁護団が一月二〇日に第二次訴訟を起こしていることであった。その原告のうち一〇人は環境庁裁決後に認定された人々であったから、この訴訟は川本たちの自主交渉を否定し、新認定患者のなかに別のグループをつくる意味を帯びていた。
患者自身による直接交渉を否定して弁護団中心の交渉を主張し、自主交渉を否定して裁判を主張すくということは、何もかも弁護団が中心になることであり、患者は単にそのための道具にしかすぎないことになるではないか。患者たちにとって、判決が出ようとするこの時期に、チッソとの直接交渉を妨げるものは、弁護団といえども許せなかった。
判決五日前、訴訟派患者総会が開かれ、東京交渉を患者中心でやり抜くことが承認された。判決直前に、原告たちと弁護団との縁が切れるときいう不思議が起きた。
告発する会も訴訟支援の県民会議を脱退し、弁護団に絶縁状を叩き付けた。告発する会にとっては、訴訟の理論立てと立証準備を担ったのは水俣病研究会であるという自負があった(水俣病研究会は告発する会の主要メンバーと重なり合っていた)。弁護団は、水俣病研究会が出版しようとしていた「水俣病にたいする企業の責任――チッソの不法行為」の原稿を丸写しし、第四準備書面として裁判所に提出してしまう不信を犯してもいた(後に撤回された)。訴訟でプロ<0225<でさえなかった弁護団が訴訟外の交渉の場で指導者づらすることは許せないという理由であった。
この一連の軋轢は、訴訟派と自主交渉派の、相互接近を触媒することとなった。訴訟派としては、判決後のチッソとの交渉を弁護団ぬきでする以上、自主交渉派と別個の組織を維持する理由はもうない。自主交渉派としては、判決を利用しない手はない。
判決当日、訴訟派と自主交渉派は合体した。
「水俣病患者東京本社交渉団」が結成された。」(後藤[1995:224-226])
■言及
◆稲場 雅紀・山田 真・立岩 真也 2008/11/30 『流儀』,生活書院