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『福祉部長 山本茂夫の挑戦』

山本 茂夫 199503 朝日カルチャーセンター,226p


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山本 茂夫 199503 『福祉部長 山本茂夫の挑戦』,朝日カルチャーセンター,226p. ISBN-10: 4900722146 ISBN-13: 978-4900722149.\1,456(税込\1,529) [amazon][kinokuniya] ※ b a02 a06

【内容(「BOOK」データベースより)】
武蔵野市福祉公社をつくった山本茂夫が血ぬられた銘刀で、官僚主義と福祉行政をバッサ、バッサと斬りまくる、痛快、感動のドキュメント。

【内容(「MARC」データベースより)】
老後福祉の前線自治体で、その歴史をきり拓いてきた著者が、福祉の原点と問題をリアルに明快に示す。「寝たきり老人」を大量生産するニッポンにはびこる官僚主義と福祉行政をバッサバッサと斬りまくる。

【[BOOK著者紹介情報]】 (山本茂夫 200104 『定年後は心なごむ「レストラン」を始めよう』ノ著者紹介情報から引用)
山本茂夫[ヤマモトシゲオ]
1934年、樺太生まれ。終戦で山形へ。55年、日本社会事業短期大学卒業。同年、東京・武蔵野市福祉事務所に就職。1963年、早稲田大学第二文学部卒業。主に高齢者福祉の分野を歩み、93年、福祉保健部長。この間、“武蔵野方式”といわれる先端的な高齢者福祉を進め、関係者に注目される。95年、定年退職。翌年、障害者の子息との約束を果たすべくランチ専門「レストランえりか」を開店。現在、早稲田大学第二文学部、日商簿記三鷹福祉専門学校講師、西水元ナーシングホーム(特養)施設長を務める。著書に『福祉部長山本茂夫の挑戦』『新しい老後の創造』がある。

第1部 地方公務員 山本茂夫の四十年
第2部 これで良いのか福祉行政
第3部 介護地獄をなくすために
第4部 特別対談 土屋正忠市長、武蔵野市の福祉を語る―豊かで安らぎのある武蔵野市を

■引用

 「東京都では、昭和四七年に制度化されたねたきり老人などへの福祉手当は、現在でも七〇歳以上の要介護者に月額五万一千円の手当が支給されている。この金額は、他の自治体では想像できないほどの高額なもので、全都で約四〇〇億円の福祉手当(臥床)が支給されている。」(山本[1995:127])

 「昭和四八年度、東京都は在宅福祉サービスの三大新規偉業として、福祉電話、友愛訪問員、家庭家事雇用費助成事業を実施した。家庭家事雇用費助成事業とは、東京都と都内の家政婦協会が協定を結び、市町村は協定料金で介護券を協会から買い上げ、ホームヘルプサービスの必要な家庭に介護券を配布するという画期的なものであった。私は、ホームヘルパーの常勤化を進める一方、ヨーロッパの福祉先進国では、非常勤ホームヘルパーの活用で量的に対応しているとの先例を知り、東京都の新制度の推進に積極的に努力した。
 美濃部革新都政の現実的な対応として出された介護券によるホームヘルパー派遣の新規事業であったが、労働組合、特に特別区職員労働組合の連合組織である「特区協」が反対運動を展開した。武蔵野市職労にも、民生局(現在の福祉局)に対する抗議行動への参加について上部組織から指令や、ホームヘルパーへの直接な働きかけなどがあったが、担当係長であり執行委員長として、私はそれらの動きを黙殺していた。」(山本[1995:131])

 「老人病院のひどい実態を見聞する機会は多いが、それを取り上げ論じるのは、ごく少数のジャーナリストだけで、老人福祉の専門家や政治家たちは、言の葉にも乗せず、知らんふりを決め込んでいる。
 月刊誌『宝石』(昭和五七年三月号)で、NHKのディレクターであった和田努氏が三郷中央病院を告発したのが、老人病院の非情な処遇を取り上げた最初のものであった。
 (中略)<164<
 昭和四八年一月より、老人医療費支給制度の実施により七〇歳以上の高齢者に対する医療費の無料化が実施されたことにより「老人病院」が各地で繁盛した。
 (中略)
 和田氏の告発を契機に、厚生省は検査づけ点滴づけの老人医療を改善するために、昭和五八年二月に老人保健法を制定した。一部には、「老人への差別医療の導入」という批判は根強くあったが、これにより三郷中央病院のような悪徳経営にブレーキがかけられることになったのは事実である。一ジャーナリストの果たした社会的意義は大きい。
 大熊一夫氏が告発したのは入院患者に経費をかけないで儲けようとする新しいタイプの悪徳病院で<165<あった。『告発ルポ・老人病棟』は、私にとって和田氏につぐ再度の衝撃であった。
 アル中患者になりすまして精神病院に潜入し、『ルポ精神病棟』を著して衝撃を与えた大熊氏は行動派の記者であるが、「眞愛病院」の取材は困難を極めたようである。
 二一九人の入院患者の中から毎月二〇人近い人が死ぬ殺人工場に等しい老人病院が、三郷中央病院が消えた五年後にも現存していたのであった。
 (中略)
 その後、劣悪な老人介護について、問題提起をするジャーナリストはあらわれなかったが、平成六年六月一日から朝日新聞紙上に連載された『付き添って――ルポ老人介護の24時間』という記事は私にとって新しい衝撃であった。生井久美子記者が病院と付添さんの了解を得て何日間も病院に泊り込ん<166<で取材したもので、標準的な病院における付添看護の実態であるだけにショックは大きかった。(以下略)」(山本[1995:164-167])

■言及

和田努 医療ジャーナリスト和田努の「医療・健康・福祉」を考える「CONSUMER HEALTH」
http://wadajournal.com/index.htm

http://wadajournal.com/profile/katsudo.htm
 老人医療制度を変えたスクープ
 「私がジャーナリストとしてスタートした70年代は、人口の高齢化が本格的にすすむ時代でした。高齢者問題に力を入れてきました。埼玉県三郷市に「三郷中央病院」がありました。この病院は老人を食い物にする悪徳病院でした。丹念に取材して、廃院に持ち込みました。この事件は国会問題にもなり、厚生省が老人医療を見直しするきっかけになった事件でした。私としては思い出深いスクープです。
 武蔵野市福祉公社をつくり、老人福祉の歴史を拓いてきた山本茂夫さんが『福祉部長 山本茂夫の挑戦』という本のなかで私のことを紹介してくれています。いささか長くなるが引用させていただきます。
 老人病院の実態を見聞する機会は多いが、それを取り上げ、論じるのは、ごく少数のジャーナリストだけで、老人福祉の専門家や政治家たちは、言の葉にも乗せず、知らんふりをきめ込んでいる。
 月刊誌『宝石』(昭和57年3月号)で、NHKディレクターであった和田努氏が三郷中央病院を告発したのが、老人病院の非情な処遇を取り上げた最初のものであった。
 和田氏は病院関係者の研究会の席上、私立病院の管理職だった人から、悪質病院の話を聞き、病院に勤めて要る職員や退職した人、家族などから困難な事情聴取を重ね、埼玉の三郷中央病院が典型的な悪質病院であることに確信を持ち、病院の名前を明記して実態を公表することを決意し、記事にした。それに先立って、和田氏は、病院院長から「名誉毀損で訴えるぞ」などの嫌がらせを受けながら、さらに『老人でもうける悪徳病院』(エール出版)で、薬づけ検査づけの実態やお年寄りをベッドに縛り付ける看護婦の姿を詳細に伝えている。
 三郷中央病院は、許可された病床が177床なのに、200人以上の患者がつめ込まれ、いやがる老人をベッドに縛り付けて、検査と点滴を行っていたと和田氏は告発した。
 昭和56年一年刊に200人近くの老人がこの病院で亡くなり、退職した職員は「ふとんを強いた殺人工場です」と語ったという。
 和田氏の告発を契機に、厚生省は検査づけ点滴づけの老人医療を改善するために、昭和58年老人保健法を制定した。一ジャーナリストの果たした社会的意義は大きい。(山本茂夫著『福祉部長山本茂夫の挑戦』より)」

■言及

◆立岩 真也 2008 『…』,筑摩書房 文献表


UP:20071224 REV:
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