cf.Dworkin, Ronald 1981 "What is Equality? Part 1: Equality of Welfare"
Philosophy & Public Affairs 10:185-246
reprinted in: R. Dworkin, Sovereign Virtue. The Theory and Practice of Equality, Cambridge: Harvard University Press 2000, pp.11-64. http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/dworkinr.htm
ここに続けて述べたことはわずかであり――もうすこし詳しくは立岩[2006b]に収録されている文章で述べている――、論じるべきことは様々あり、論じることの実践的・政策的意義もある。労働運動・労働政策は原則なしにして、ベーシックインカムだけで行こうという主張――それは、現行の労働運動・労働政策に対しても(必然的に、ではないが、多くの場合)批判的・否定的なものになる――をどう評定するか。例えば、『税を直す』の執筆者の一人で独立系(の小さな)労働組合の運動について調査研究し、またその活動に実際に関わってもいる橋口は同意できないだろう。となると、その間?にいる私はどのように考えて言うことになるか。
もう一つは、「労働の義務」についてだった。ベーシックインカムは無条件給付であるという。働けずに働かないのではなく、働けて働き口もあってしかし働かない人にも給付が与えられることになる。あまり強くそのことを言わない人もいるが、ヴァン・パリースはベーシックインカム主義者の中ではっきりとそれを主張する。他方私は、連載の第12回「労働の義務について・再度」(二〇〇六年九月号)等で、人の生存の権利を人々が実質的に認めるというのであれば、そのこととまったく同時に、その権利を実現するための義務を人々は負うことになる、負うことにならざるをえないと述べた。ただし、その上でも、無条件給付を認めた方がよいと言いうることも述べた。また、所得保障と就労・労働とを強く結びつける――就労のための努力を義務づける、さらには就労を条件とする――「ワークフェア」の政策を是認することはできないと述べ、その理由を、連載第15〜17回「ワークフェア、自立支援 1〜3」(二〇〇六年一二月号〜二〇〇七年一月号)で述べた。
ではヴァン・パリースの方はどうなるのか。まず、「自由」が何よりも大切にされるべきであるという立場からそれが正当化されるとする。ここでその人が何を大切にするかについては、自由であるとされ、余暇を強く選好する人がいてもそれはそれで認められるべきであるとされる。これだけであればずいぶんと単純な話でもある。しかしそれだけではない。「資産としての職」(Jobs as Assets)という把握があって、さきに紹介した二つの解説でもそれ取り上げられ、肯定的に、とくに齊藤によって肯定的に評価される。著書では第4章が「ジョブ資産」(Jobs as Assets)と題されている。この考え方についてこれから検討していこうと思う。