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『ベーシック・インカムの哲学――すべての人にリアルな自由を』


Van Parijs, Philippe 1995 Real Freedom for All-What (if Anything) Can Justify Capitalism? Oxford University Press
後藤 玲子齊藤 拓 訳 20090610 勁草書房,494p.


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■Van Parijs, Philippe 1995 Real Freedom for All-What (if Anything) Can Justify Capitalism? Oxford University Press=後藤 玲子齊藤 拓 訳 20090610 『ベーシック・インカムの哲学――すべての人にリアルな自由を』,勁草書房,494p. ISBN-10: 4326101830 ISBN-13: 978-4326101832 \6000 [amazon][kinokuniya] ※

『ベーシック・インカムの哲学――すべての人にリアルな自由を』

原著についての頁

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◆勁草書房のHP http://www.keisoshobo.co.jp/book/b28466.html

福祉(所得)と就労(労働)は本当に不可分なのだろうか。「万人のリアルな自由」という正義概念が、ベーシック・インカムを要求する。精緻に規範的論証を行う基本書。

80年代後半からヨーロッパで高まったベーシック・インカム(BI)論議に影響を与えた基本書。自己所有権に拘泥しすぎる者は真のリバタリアンでない。各人が「社会的財産」の一人当たりのシェア分を専有し、それを不断に最大化できる社会を求めてこそリバタリアンだ。政策論としてでなく、規範理論の視点からBIの発見的な正当化をめざす。

◆BOOKデータベースより)
福祉(所得)と就労(労働)は本当に不可分なものだろうか。80年代後半からヨーロッパで高まりをみせるベーシック・インカム(BI)の論議に影響を与えた基本図書。

■著者からのコメント

  本書は「ベーシックインカム論の基本図書」と銘打たれていますが、それにとどまりません。とくに、多くの人が共有する市場原理主義的でリバタリアン的な直観と、より充実した社会保障を求める平等主義的な直観とを整合させる試みとして、日本の政策論議にインパクトを与え、欧州的な第三の道主義vs.米国的な新自由主義という対抗軸しか持ちえていない多くの日本人に新たな政治的対立軸を提示するでしょう。
 本書は六つの章からなっていますが,第二章から第五章はかなり学術的な内容で、その中でもかなりマニアックな主題を対象としています。その意味では第一章と第六章が一般向きです。これら二つの章は「自由」や「自由な社会」とは何かといった主題を分析的に論じており、資本主義社会と社会主義社会のどちらが人々をより自由にするのか、そのとき、「より自由である」とはどのような基準でそう言われるのか、などについて述べられます。また、第六章はベーシックインカムのマクロ経済的な擁護論となっており、一般的なエコノミストの方々にとくに読んでいただきたい所です。また、マルキストの資本主義批判に精通した筆者がそれら資本主義批判を痛快に切り捨て、資本主義とはどのように擁護されるべきかを提示した章でもあり、日本であまり語られていないタイプの資本主義擁護論となっています。
  残りの第二から第五章についてですが、「ベーシックインカム論の基本図書」たる内容は第二から第四章にあたります。第二章では主に厚生経済学の分析概念を用いてベーシックインカムが擁護され、第三章では個人間で能力に大きな格差がある場合に満たされるべき「平等」の基準が、分配的正義論の趨勢(R. ArnesonやR. Dworkinなど)を踏まえながら、提示されます。そして第四章は怠惰な「サーファー」への所得保障を完全否定したロールズへの反論であり、本書のメインとなる章です。これら諸章の組み合わせが全体的にいかなる国家像を導くかを一読して理解するのは困難ですが、この点については「訳者解説」を充実させてあるので、そちらを参照されれば本書および著者の政治哲学的な主張の概要は理解していただけると思います。最後に、第五章は本書全体の論証にとって必要というわけでないものの、しばしば「分析派マルキスト」と括られる筆者の特徴がよく現れている部分です。「搾取」という語を無自覚に使って何かを言った気になっている多くの人に、搾取という概念を分析的に考えるようイ垢任靴腓Αぢ 最後に本書は、資本主義か社会主義かといった、無意味でしばしばイデオロギー的な対立図式を止揚し、それら各レジームのどの側面をどのように評価すれば我々にとってよりヒューリスティックになるのか、提示してくれるでしょう。

■著者・訳者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

パリース,フィリップ・ヴァン
1951年ベルギー・ブリュッセル生まれ。現在、ルーヴァン・カトリック大学経済・社会・政治学部教授。ハーヴァード大学哲学科客員教授。BIEN国際委員会座長

後藤 玲子
1958年生まれ。1998年一橋大学大学院経済学研究科理論経済学専攻博士課程修了。博士(経済学)。現在、立命館大学大学院先端総合学術研究科教授

齊藤 拓
1978年生まれ。現在、立命館大学大学院先端総合学術研究科博士課程在学中(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

■目次

まえがき



第1章 資本主義,社会主義,そして自由
 プロローグ 
 1. 1 資本主義vs.社会主義 
 1. 2 自由な社会としての純粋社会主義 
 1. 3 自由な社会としての純粋資本主義 
 1. 4 個人主権と集合的主権 
 1. 5 何への自由か? 義務,自律性,潜在的欲求 
 1. 6 何からの自由か? 二つの強制概念 
 1. 7 形式的自由と実質的自由 
 1. 8 リアル・リバタリアニズム 

第2章 持続可能な最高水準のベーシック・インカム
 プロローグ 
 2. 1 ひとつのラディカルな提案 
 2. 2 無条件性と実質的自由 
 2. 3 持続可能性 
 2. 4 現金か,現物か? 
 2. 5 初期賦与か,定期給付か? 
 2. 6 実質的自由の尺度は何か? 
 2. 7 競争的な価格設定,機会費用,無羨望 
 2. 8 体制間での実質的自由の比較 
 付録:ベーシックインカム vs. 負の所得税 

第3章 非優越的多様性
 プロローグ
 3. 1 拡張されたオークション 
 3. 2 ピープ・ショーで働くこと,広場でデートすること 
 3. 3 無知のヴェール下での保険 
 3. 4 ドウォーキンに対する四つの異論 
 3. 5 アッカーマン提案の一般化 
 3. 6 不十分な再分配? 
 3. 7 諸他のオルタナティブな戦略 
 3. 8 過大な再分配? 
 付録1 ローマー対ドウォーキン 
 付録2 十分さ,ぜいたくさ,豊富さ,そして最低所得保証 
 付録3 非優越的多様性と無羨望

第4章 資産としてのジョブ
 プロローグ 
 4. 1 クレージー/レイジー問題 
 4. 2 ロールズ対ドウォーキン 
 4. 3 われわれの遺産は増やせるか? 
 4. 4 非-ワルラス的世界における平等な賦与 
 4. 5 ワークシェアリング,買収,稀少性の消失 
 4. 6 ジョブ・オークションから所得税へ 
 4. 7 一貫性のない提案? 才能の不平等に伴う雇用レント 
 4. 8 滑り坂? 働く権利から結婚する権利へ 
 付録 クレージー,レイジー,修正されたロールズ格差原理

第5章 搾取と実質的自由
 プロローグ 
 5. 1 他人の労働から利得を引き出すこと 
 5. 2 権力,贈与,フリーライド
 5. 3 ロック的搾取
 5. 4 創造者保持原理
 5. 5 ルター的搾取
 5. 6 努力に応じて各人に
 5. 7 ローマー的搾取
 5. 8 資産に基づく不平等

第6章 資本主義は正当化されるか?
 プロローグ
 6. 1 最適資本主義 vs. 最適社会主義
 6. 2 資本主義的な選好形成
 6. 3 市場の失敗と無用な活動
 6. 4 危機
 6. 5 失業予備軍
 6. 6 創造的破壊
 6. 7 人民主権
 6. 8 ペンギンの島には近づかない

 参考文献

 訳者解説 齊藤 拓
   1.著者経歴
   2.本書の全体的な主張:リアル・リバタリアニズム
    2.1.本書の制度的インプリケーション
    2.2.BIの前にやること:二つの制約条件
    2.3.現物給付のBI
    2.4.BIだけを見てもわからない
   3.政治哲学的な背景
    3.1.リベラルな平等主義者として
    3.2.「左派リバタリアン」として
    3.3.要素レントの解釈
    3.4.「左派ロールズ主義者」として
    3.5.「資本主義を正当化」する:BIを最大化する=機会をレキシミン化する
   4.「資産としてのジョブ」論:「ギフトの公正分配」
    4.1.「貢献」に応じた分配という説明
    4.2.資産としてのジョブ論
    4.3.「資産としてのジョブ」論に関する注記:標準的な外的資産との違い
    4.4.課税の正当性か、マキシミンか?
    4.5.「リバタリアン」以上に「ロールジアン」なパリース
    4.6.左派リバタリアンにとって「自然の共同所有」は存続している
    4.7.最終的な結論:個人所得への最適課税
    4.8.協業的ヴェンチャーとしての社会
   5.リバタリアンのBI論
    5.1.標準的リバタリアンは「権利崇拝者」に過ぎない
    5.2.財産還元主義:「労働」は「生産」とは限らない
    5.3.「労働」という要素の価値
    5.4.認めるのはあくまでも消極的自由
   6.解説まとめ:現代規範理論における本書の位置
   これからのBI論議のために
   参考文献
   謝辞

 訳者解説2 後藤 玲子
   1.はじめに
   2.日本の生活保護制度とベーシックインカム:就労インセンティブ問題
   3.負の所得税構想とベーシックインカム
   4.ヴァン・パリースのロールズ解釈に対する若干の解釈
   5.経済的定式化を越えて:ロールズ格差原理の再定式化
   6.おわりに
   参考文献
   謝辞

 人名索引

 事項索引

■書評・紹介

◆2009/06/18 http://www.kanshin.com/keyword/1856814

◆2009/07/01 http://d.hatena.ne.jp/rakukana/20090701/p1

橋本 努 2009/08/03 「書評:P.ヴァン・パリース『ベーシック・インカムの哲学――すべての人にリアルな自由を』」,『週刊東洋経済』2009/08/03
http://www.toyokeizai.net/life/review/detail/AC/a842b7708fc66ee08adc11620f0206af/

◆2010/**/** 立岩 真也・齊藤・拓 『(未定)』,青土社 文献表

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■引用

◆第3章 優越なき多様性 Undominated Diversity →非優越的多様性

3.1 拡張されたオークション

 「人々の才能に反比例させるかちで格差付けされた所得移転のシステムこそが、明白ではるかに妥当な代替案なのではないか?」(Van Parijs[1995=2009:97])

 「同額のベーシックインカム以外にはなんの外的賦与も持たない二人の人間を取り上げてみよう。彼らのうちの一方が、肉体的にも精神的にも、他方の人ができる全ての事に加えてそれよりはるかに多くの事をできるとしたら、その二人は彼らが欲するであろう事をする実質的自由を同じだけ享受している、などと誰が言えるだろうか?」(Van Parijs[1995=2009:97])
 「いかなる厚生の尺度も志向することなく、同時に単なる外的賦与の尺度を越えるような、擁護可能な分配的正義の基準を導出することはできるのか? という問いである。いくぶん具体化して言えば、例えば、一部の人がもつような高価な嗜好を許しはしないが、能力の劣る人の特別なニーズには配慮するような、外的賦与の分配方法を整合的に導出できるのだろう。?」(Van Parijs[1995=2009:98])  この問いに対して著者は「できる」と答えることになる。
 「才能のオークション」の紹介→ その不具合の指摘 というふうに論は進む。

cf.Dworkin, Ronald 1981 "What is Equality? Part 1: Equality of Welfare"
 Philosophy & Public Affairs 10:185-246
 reprinted in: R. Dworkin, Sovereign Virtue. The Theory and Practice of Equality, Cambridge: Harvard University Press 2000, pp.11-64.
 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/dworkinr.htm

3.2 ピープ・ショーで働くこと、広場でデートすること

 ラブリーとロンリーの話
 ロンリー:「彼女はその平均以下の才能のおかげで、彼女の稼得能力を平均まで押上げてくれる一括補助金を受け取るのである。[…]ロンリーが余暇を非常に選好することを考えれば、彼女はその乏しい才能を売っていくばくかの追加的所得を稼ぐことを差し控え、このかなり高い[補助金]所得のみで暮らすことを選ぶだろう。」(Van Parijs[1995=2009:103])

 第2のケース:容姿が稼得能力に結びつかない。ので、収入は同じ。しかし、ロンリーは不利。これはオークションでは解決されない。だからよくない。

3.3 無知のヴェール下での保険

 Dworkin, Ronaldの話。
 「ドウォーキンは、ラブリーがモノのように扱われているとか、彼女の自己所有が侵害されているとかいう理由で拡張されたオークションに反対しようとはしたがらない。というのも、そのような反対は、「平等とは別の何かに基礎を置く先・政治的な概念に」依拠しており、よく考えれば、<0104<「資源の平等の制度的根拠とは合致しない」からである。」(Van Parijs[1995=2009:104-105])

 「より多くの天賦の才能をもっていることの結果としてより少ない余暇を強制される人が存在してはならないことも要請されねばならない。」(Van Parijs[1995=2009:104-105])

 「ドウォーキンがわれわれに勧める一つの案は以下のようなものだ。各個人は、自らがどのような内的賦与を持っているかについては無知であるが、その人固有の善き生概念と内的賦与と見なされるあらゆる特性[features]の社会的分布については知っている。そのうえで、それらの特性の有無に備えてどれだけの保険を掛けるかをその人に主張させるのである」(Van Parijs[1995=2009:106])

3.4 ドウォーキンに対する四つの反論

3.5 アッカーマン提案の一般化

 「万人に付与される平等な金額を一律に減額し、「ハンディキャップをもつ」人への補償のための備蓄部分に充当することができる(おそらく、眼球手術のための資金などとして、彼らの内的賦与を増強するために使われるだろう)。包括的付与――すなわち、内的賦与プラス外的賦与――の各ペアを比較して、一方の賦与を他方の賦与よりも選好する人間が少なくとも一人あらわれた時点で、この手続は停止する。」(Van Parijs[1995=2009:120] 下線は本では傍点)

3.6 過小な再分配?

 「この観点から、まず、われわれの基準ではあまりにも小さな再分配しか正当化できないという反論を検討することにしよう。一人の風変わりな人が、視覚障害とは神の恩寵であると考えるだけで、視覚障害の人に対する補償の要求を停止させるに十分なのである。この論難に対処するには、問題となっている選好表が真正のものでなければならないこと、さらに、当該社会の人々にとってなんとか利用可能でなければならないこと、これらを強調することから始めるべきだろう。[…]AではなくBを持つことの影響を知り尽くし、理解している少なくとも一人以上の人間が、彼女の善き生概念に照らして、BはAよりも劣っていくるわけではないと判断することが真である場合にのみ、停止できるのだ。本人たちが自分の語っていることを理解していないという理由で[社会的な]選好表から外される、風変わりな人たちを想定することは間違いなくできるだろう。その理由では外されないとしても、彼らは孤立した部分社会に属しがちであり、彼らの文化世界は他の人々にとって近付き難い(これこそが、他の人々が彼らを風変わりと見なす理由である)ので、彼らの選好表は一般的には利用不能と見なされるだろう。これら二つの条件が満たされるのであれば、すなわち、理解の点でも利用可能性の点でも何の問題もないのであれば――そうすれば「風変わりな人」は残らない――、再分配を縮小するのは何らひどいことではないと思われる。」(Van Parijs[1995=2009:126])

3.7 オルタナティブな戦略

3.8 過大な再分配?

 「ベーシックインカムの最大化は非優越的多様性原理という制約の下で行なわれる必要があるので、この制約条件を満たすのを非常に容易にしてくれる数々の政策にとくに注目せねばならない。(予防医療のような)現物の普遍的給付、(例えば、公的交通へのアクセスといった)ハンディキャップをもつ人々に対する特別な給付、または、(例えば学習遅滞者に対する特別な教育支援といった)ハンディキャップを阻止する特別な給付、さらには、特別なニーズを持つ人々に対する機転の利いた効果的援助の精神を促進すること、これらはごく一部の実例に過ぎない。これが暗に示しているのは、ヘルス・ケアや教育システムの形成をリアル−リバタリアン的な見地から導出するにあたって、経済的効率性のみがその唯一重要な考慮事項ではないということである。」(Van Parijs[1995=2009:137])

付録1 ローマー対ドウォーキン

第4章 資産としてのジョブ

 「寄付または遺産として残されるものの全てが一〇〇パーセントで課税され、全成員に平等に分配されるということです。」(Van Parijs[1995=2009:147])

 しかしこれだけではたいしたことはない、分配されるものは少ないことを認める。しかしそれで終わりではないと言う。

 「注目すべき重要な事実は、われわれの経済構造のあり方からして、資産(asset)の最も重要なカテゴリーは、人々が賦与されているジョブだということです。ジョブは労働と便益のパッケージです。むろん、ジョブが資産として見なされるには、それが供給不足でなければなりません。[…]近年の失業に関するミクロ経済学の発展が明らかにしたメカニズムによって、あらゆる人々が同等の技能を持ち、さらに完全競争の下に置かれていたとしても、ジョブの不足は構造的に生じます。ジョブが過少状態にあるかぎり、ジョブに就いている人々は、ベーシックインカムの正当な水準を押し上げるために、課税されるのが妥当であるようなレント[rent]を不当に得ていることになるのです。」(Van Parijs[1995=2009:147-148])

 「初歩的な料理のレシピから精緻な産業ソフトウェアまで、われわれの生活の物質的標準の大部分――すなほち、われわれの富の大部分――がわれわれの技術によって可能になっていることは十分に明らかである。もしわれわれが、人類が相続したあらゆる技術の価値を、人類が相続したあらゆる資本の価値に加えることができるなら、各人のベーシックインカムをファイナンスするために利用可能となる資源の量は飛躍的に増大するのではないだろうか?」(Van Parijs[1995=2009:169])


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◆訳者解説 齊藤 拓

 「非優越的多様性」という基準:「この基準は大まかに言って、ある社会において、ある個人Aよりも劣っていると満場一致で見なされる別の個人Bが存在しないのであれば、個人間での「平等」が達成されていると考えるものである。」(齊藤[2009:403])

 「たとえ怠惰な遊び人であろうともそもそも稀少な外的資産の均等シェアを専有する資格は持っているのであり、それを放棄した対価がベーシックインカムなのだという点にある」(齊藤[2009:413])

 「〈現実の生産〉と〈人間の労働のみによる生産〉の差を自然の貢献に帰される生産であると規定したら、これらは万人シェアの対象とされる。しかも、〈人間の労働のみによる生産〉がほとんどありえないとしたら、万人にシェアされるべき社会的財産は非常に大きなものになる。ロックの論法は生産の相当な部分の万人シェアを妨げるものではない。」(齊藤[2009:414])

 「人々が社会的協業関係によ全く依存することなしに彼ら自身の才能のみによって生産しうるものは彼らのものとして残さねばならないが、それ以外の部分、すなわち、社会的協業関係の便益は万人にシェアされてよいことになる。現代社会において、この社会的協業による便益が生産全体の殆どを占めることは明らかである。」(齊藤[2009:416])

 「広大な土地や自然資源を所有する企業に雇用されている労働者は、その資源資源自体を使用・用益したり、そこからの収益を(給与として)占有したりするために、「ジョブ」という地位を占有しているのである。企業に勤める研究者<0427<甲氏は、それだけでは何の役にも立たない知識やスキルを持っているが、彼がそれを有効活用できるのは、研究装置や施設といった物理的資本を所有する企業組織のなかに「ジョブ」という地位を有しているからである。また、ある企業で営業を担当しているサラリーマン乙氏が他者の営業担当者よりも多くの売り上げをあげているとして、その売り上げ全てが乙氏の「貢献」であるはずはなく、大部分がその企業の培ってきた営業ノウハウや業界内でその企業が占める位置に因るだろう。また、大したスキルを必要とせず、漫然とルーチンワークをこなしているだけで安定した収入を得ている非熟練労働者丙氏でさえも、長年にわたる経営学の成果によって可能となった労務管理ノウハウによって便益を受けているのである。このようなノウハウは誰もが無料に近い値段で知ることはできるが、それを活用するには生産手段や労働者をまとめる組織を所有している必要があるし、それによって得られた産出増大分の一部を専有するにはその生産手段を所有している組織に属している必要がある。このように「ジョブ」というものは自然資源を直接的に使用・用益したり、自然資源の使用に際してその使用効率を高める知識・技術を活用したり、社会や組織の効率的な運営を可能とする編成方法やそのノウハウを活用したりするための地位なのである。その地位は、それを実際には占有できなかった[…]個人Bが占有していたとしても、個人Bは個人Aや個人Cと大して変わらない貢献を社会的財産に対してなすことが可能であったかもしれない。その地位を得られた個人の「その」労働が生産全体に対してなした貢献はすべてその個人のものであり、その貢献に対する報酬もその個人のみに帰するべきであるかのように映ってしまうのは、われわれの現行の分配のあり方がそうなっているからにすぎない。」([2009b:427-428])

 「人々が社会的協業関係によ全く異存することなしに彼ら自身の才能のみによって生産しうるものは彼らのものとして残さねばならないが、それ以外の部分、すなわち、社会的協業関係の便益は万人にシェアされてよいことになる。現代社会において、この社会的協業による便益が生産全体の殆どを占めることは明らかである。」(齊藤[2009:416])  「「資産としてのジョブ」論は、一言すれば、人々は「ジョブ」という地位を占有することによって社会的財産(の一部)を専有 appropriation しているという説明である。」(齊藤[2009:423])

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■言及

立岩 真也 2006/07/07 「質問(?)」Workshop with Professor Philippe Van Parijs 於:立命館大学

立岩 真也 2007/02/01 「ワークフェア、自立支援・3――家族・性・市場 17」,『現代思想』35-2(2007-2):8-19

 「私は所得の分配とともに生産財と労働の分配があってよいと考える。
 他に、一人ひとりの違いに対応して保障は一律であるべきではないということが一つ。この主題はVan Parijs[1995]でも論じられているが、その論には奇妙なところがある。立岩[2006b]でこのことにすこしふれた。
 そして、いま記したことも含め、社会的分配は、個別主義から逃れることはできないし、逃れるべきでもなく、逃れられるふりをするべきでもないというのが一点。
 そしてもう一つ加えると、やっかいな問題として、私的扶助・扶養、贈与という契機にどう対するかがある。」

◆立岩 真也 2009/07/30 「所有」『環』38(Summer 2009):96-100,

 「最近、P.ヴァン・パリースの著書の日本語訳『ベーシック・インカムの哲学――すべての人にリアルな自由を』(勁草書房)が刊行された。そこでは、いま生産されているものは、生産技術等々これまでの人々の営為の蓄積によって可能になっているものであり、一人ひとりの生産者とされる人はなにほどのこともしていないのだと、そして働いている人は、そうした過去からの蓄積が付着した「職」を、他の人を排除して特権的に、得ることができているのであると言われる。そして、働かない人、働く気のない人も含めた全ての人に「ベーシック・インカム」を、という主張がなされる。
 私は、生産者と職について言われていることはもっともだと考える。彼の主張もわるくないと思う。ただ、このもっともな了解「から」社会的分配を主張することは――このような論の運びが私たちの社会において一定の力をもつことを認めつつ――しないでおこうと思ってきた。「生産者による所有」という図式を基本に置かないところから論を立てた方がよいと考えてきたからだ。世界のほとんどすべてが既にこの世にはいない人たちによって作られたものであることを認めたとしても、その残りの部分については「貢献」の差はやはりある。となると、その差に対応した所有という話にやはり戻されるのではないか。しかし他方、この社会にあって、ヴァン・パリースのような論の運びに説得力があることもわかってはいた。するとどうしたものか。二つの方向の論をなんらの形で組み合わせていけばよいのか。このように考えていくことになる。
 心配なのは、この本にこんな論点があることにどれだけの人が気づくだろうかということだ。気づかれないとしたら、それもやはり、所有についての思考の不在・貧困を指し示しているということになる。」(立岩[2009:100])

◆立岩 真也 2009/09/01 「『税を直す』+次の仕事の準備――家族・性・市場 46」,『現代思想』37-(2008-9):- 資料,

「□『ベーシックインカムの哲学』について・予告
  […]翻訳の作業が始まって五年ほどかかってようやくこの六月に刊行された本にヴァン・パリース『ベーシックインカムの哲学――すべての人にリアルな自由を』(Van Parijs[1995=2009])がある。原著は一九九五年に出されもたので、その題は Real Freedom for All-What (if Anything) Can Justify Capitalism?。私の勤め先の教員の後藤玲子と、同じところの大学院生(を終わりつつある)齊藤拓が訳した。この著書とその著者に対する思いの深い齊藤がまず訳し、それを後藤が点検し修正を指示したという作られた方でできた本である。
  本文は、経済学そして/あるいは(米英系の)政治哲学の書きものや思考法にいくらか慣れていないと、読むのに難儀するかもしれない――私は難儀している。ただ各章の最初に、要するにその章に何が書いてあるのか、何を言いたいのががQ&A、というか、筆者が質問され、それに答えていくという会話の形式で記されているので、それでまずだいたいのところはわかるようになっている。そして、齊藤による長い解説(齊藤[2009b]、それよりさらに長くヴァン・パリースを論じた博士学位請求論文として齊藤[2009c]、他に齊藤[2006][2008][2009a])があり、後藤によるそれより短い解説(後藤[2009])があって、これらは、この書物の本体に書いてあることの全部を解説しているわけではないが、よくわかるよくできた解説になっている。
  ざっと読んでみて、この著者と似たことを考えてきたなと思う部分と、そうして言いたいことは了解するが私は(あえて)違う言い方をすることにしたのだなと思う部分と、かなり強い違和感を感じる部分とがある。そのことについて考えておくことに意義があると思うから、これからしばらく、書いてみる。
  この連載で幾度かこの本に触れたことがある。それは、本の内容を紹介したというより、著者が勤め先に講演でやってくる(やってきた)こと、その折に作ったメモ(立岩[2006a])をこちらのサイトに載せた(今も掲載されている)ことのお知らせのようなものだったのだが、三つ気になることがあってそれを書いたと述べた。
  一つには、(知的能力も含む)身体の差に関わって社会に生ずる差異に対する対応について。この本では第3章「非優越的多様性」がこの主題に関係するのだが、訳書が出てあらためて読んでみてもやはりよくわらかないところが残る。徒労の予感もするのだが、考えてみようと思う。
  対して私(たち)の立場はすっきりしたものである。この社会(市場経済の社会)において生じる差異は――むろんそこで現実には依怙贔屓、偏見等も含む様々な力が働き、小さな差異が大きく増幅されることはいくらでもあるのだが――身体の力能(労働力商品としての価値)の差異に対応し、どうしても生じてしまう。それを市場の内部で解消しようとしてもそこには限界があり、うまくいかない。そこで政治的(再)分配も要請される。また、同じ暮らしをするのに(例えば介助・介護が必要で)資源を他の人よりも多く必要とする人たちがいる。すくなくともその超過分については社会的に支出されるべきである。分配の局面に限れば基本はそれで終わりであり、この差への対応が社会的分配がなされるべき根本的な理由でもある――人々がまったく同じ能力を有するのであれば、社会的分配の必要は少なくなるが、そんなことはありえない。その他の場面で身体に関わってその人が被る幸不幸については、不幸を生じさせる行ないが法的に禁止され強制によって規制されるべき場合もあり、それは適切でないとしても指弾されてよい場合もある。その結果不幸が完全になくなることはけっしてないのだが、それには仕方のないところがある。
  おおまかには以上に尽きると考える。しかし一律のベーシックインカムでは人と人の間の差異に対応することができずよくないのではないかという疑問に応えようとするヴァン・パリースの本の第3章「非優越的多様性」の論の運びはまったく別のものになっている。彼は、同じだけのベーシックインカムを得ている「二人の人間[…]のうちの一方が、肉体的にも精神的にも、他方の人ができる全ての事に加えてそれよりはるかに多くの事をできるとしたら、その二人は彼らが欲するであろう事をする実質的自由を同じだけ享受している、などと誰が言えるだろうか?」(Van Parijs[1995=2009:97])と述べて、「弱者」に対する対応がもちろん必要であると述べて、論を展開していく。そこに展開される議論は不思議で奇妙に私には思える。そしてそれは、いくらかはヴァン・パリースの個性によるところもあるだろうけれどもそれだけでなく、この数十年、おもには政治哲学の領域でなされてきた議論の枠組に規定されたものであり、さらに、次節以降検討しようと思う、生産と所有に関わるより強固な信仰、強固であるがゆえに自覚されることのない「癖」が関わっていると考える。とすれば、それを検討することもたんなる徒労ではない、かもしれない。
  一つには、ベーシックインカムという所得保障策(+第3章に記される差異への対応)だけでいくのか、それ以外の分配も認めるのかという問題である。それ以外とは生産財の所有形態の変更と労働の場の編成の変更である。ヴァン・パリースは基本的にそれ一本で行くのがよいという立場であり、とくに労働政策としてなされているものについては否定的であり、そしてそれには相応の理由も付されている。この部分については齊藤の解説でも紹介されており、齊藤はその主張に共感している(齊藤[2009b:412-413 etc.]。他方、私は三つを組み合わせるのがよいという立場をとる。今度の私たちの税の本は、それだけを読むと、所得の(再)分配だけを支持し主張しているかのように受けとられるかもしれないので、そんなことはないと、序の2「繰り返しすぐにできることを述べる」――立岩[2008b]にすこし変更を加えて収録した――で述べた。

  「市場はそれなりに便利なものだから、あった方がよい。すると、その上で、するべきことできることは三つである。一つは生産財(知識・技術…を含む)の所有形態の変更である。一つには労働の分割(ワーク・シェアリング)など、労働の場での調整である。一つには所得の分配である。この三つめのものを実現する一つの具体的な方法がこの文章の最初に述べたことになる。
  一番目・二番目については、市場の円滑な作動を妨げるから、しない方がよいと言う人がいる。それもわからないではないが、その上でもやはり私は行なった方がよいと考える。理由は幾つかあるが[…]」(立岩[2009b:27])

  ここに続けて述べたことはわずかであり――もうすこし詳しくは立岩[2006b]に収録されている文章で述べている――、論じるべきことは様々あり、論じることの実践的・政策的意義もある。労働運動・労働政策は原則なしにして、ベーシックインカムだけで行こうという主張――それは、現行の労働運動・労働政策に対しても(必然的に、ではないが、多くの場合)批判的・否定的なものになる――をどう評定するか。例えば、『税を直す』の執筆者の一人で独立系(の小さな)労働組合の運動について調査研究し、またその活動に実際に関わってもいる橋口は同意できないだろう。となると、その間?にいる私はどのように考えて言うことになるか。
  もう一つは、「労働の義務」についてだった。ベーシックインカムは無条件給付であるという。働けずに働かないのではなく、働けて働き口もあってしかし働かない人にも給付が与えられることになる。あまり強くそのことを言わない人もいるが、ヴァン・パリースはベーシックインカム主義者の中ではっきりとそれを主張する。他方私は、連載の第12回「労働の義務について・再度」(二〇〇六年九月号)等で、人の生存の権利を人々が実質的に認めるというのであれば、そのこととまったく同時に、その権利を実現するための義務を人々は負うことになる、負うことにならざるをえないと述べた。ただし、その上でも、無条件給付を認めた方がよいと言いうることも述べた。また、所得保障と就労・労働とを強く結びつける――就労のための努力を義務づける、さらには就労を条件とする――「ワークフェア」の政策を是認することはできないと述べ、その理由を、連載第15〜17回「ワークフェア、自立支援 1〜3」(二〇〇六年一二月号〜二〇〇七年一月号)で述べた。
  ではヴァン・パリースの方はどうなるのか。まず、「自由」が何よりも大切にされるべきであるという立場からそれが正当化されるとする。ここでその人が何を大切にするかについては、自由であるとされ、余暇を強く選好する人がいてもそれはそれで認められるべきであるとされる。これだけであればずいぶんと単純な話でもある。しかしそれだけではない。「資産としての職」(Jobs as Assets)という把握があって、さきに紹介した二つの解説でもそれ取り上げられ、肯定的に、とくに齊藤によって肯定的に評価される。著書では第4章が「ジョブ資産」(Jobs as Assets)と題されている。この考え方についてこれから検討していこうと思う。

□「資産としての職」という理解について・序
  まず第4章冒頭の問答のところから。ヴァン・パリースは贈与分については人々のものであるという。

  「寄付または遺産として残されるものの全てが一〇〇パーセントで課税され、全成員に平等に分配されるということです。」(Van Parijs[1995=2009:147])

  しかしこれだけではたいしたことはない、分配されるものは少ないことを認める。しかしそれで終わりではないと言う。

  「注目すべき重要な事実は、われわれの経済構造のあり方からして、資産(asset)の最も重要なカテゴリーは、人々が賦与されているジョブだということです。ジョブは労働と便益のパッケージです。むろん、ジョブが資産として見なされるには、それが供給不足でなければなりません。[…]近年の失業に関するミクロ経済学の発展が明らかにしたメカニズムによって、あらゆる人々が同等の技能を持ち、さらに完全競争の下に置かれていたとしても、ジョブの不足は構造的に生じます。ジョブが過少状態にあるかぎり、ジョブに就いている人々は、ベーシックインカムの正当な水準を押し上げるために、課税されるのが妥当であるようなレント[rent]を不当に得ていることになるのです。」(Van Parijs[1995=2009:147-148])

  私が書いた短文より。

  「いま生産されているものは、生産技術等々これまでの人々の営為の蓄積によって可能になっているものであり、一人ひとりの生産者とされる人はなにほどのこともしていないのだと、そして働いている人は、そうした過去からの蓄積が付着した「職」を、他の人を排除して特権的に、得ることができているのであると言われる。そして、働かない人、働く気のない人も含めた全ての人に「ベーシック・インカム」を、という主張がなされる。」(立岩[2009a])

  齊藤による解説から。

  「「資産としてのジョブ」論は、一言すれば、人々は「ジョブ」という地位を占有することによって社会的財産(の一部)を専有 appropriation しているという説明である。」(齊藤[2009a:423])
  「人々が社会的協業関係に全く依存することなしに彼ら自身の才能のみによって生産しうるものは彼らのものとして残さねばならないが、それ以外の部分、すなわち、社会的協業関係の便益は万人にシェアされてよいことになる。現代社会において、この社会的協業による便益が生産全体の殆どを占めることは明らかである。」(齊藤[2009b:416])
  「広大な土地や自然資源を所有する企業に雇用されている労働者は、その資源資源自体を使用・用益したり、そこからの収益を(給与として)専有したりするために、「ジョブ」という地位を占有しているのである。企業に勤める研究者甲氏は、それだけでは何の訳にも立たない知識やスキルを持っているが、彼がそれを有効活用できるのは、研究装置や施設といった物理的資本を所有する企業組織のなかに「ジョブ」という地位を有しているからである。また、ある企業で営業を担当しているサラリーマン乙氏が他者の営業担当者よりも多くの売り上げをあげているとして、その売り上げ全てが乙氏の「貢献」であるはずはなく、大部分がその企業の培ってきた営業ノウハウや業界内でその企業が占める位置に因るだろう。また、大したスキルを必要とせず、漫然とルーチンワークをこなしているだけで安定した収入を得ている非熟練労働者丙氏でさえも、長年にわたる経営学の成果によって可能となった労務管理ノウハウによって便益を受けているのである。このようなノウハウは誰もが無料に近い値段で知ることはできるが、それを活用するには生産手段や労働者をまとめる組織を所有している必要があるし、それによって得られた産出増大分の一部を専有するにはその生産手段を所有している組織に属している必要がある。このように「ジョブ」というものは自然資源を直接的に使用・用益したり、自然資源の使用に際してその使用効率を高める知識・技術を活用したり、社会や組織の効率的な運営を可能とする編成方法やそのノウハウを活用したりするための地位なのである。その地位は、それを実際には占有できなかった[…]個人Bが占有していたとしても、個人Bは個人Aや個人Cと大して変わらない貢献を社会的財産に対してなすことが可能であったかもしれない。その地位を得られた個人の「その」労働が生産全体に対してなした貢献はすべてその個人のものであり、その貢献に対する報酬もその個人のみに帰するべきであるかのように映ってしまうのは、われわれの現行の分配のあり方がそうなっているからにすぎない。」([2009b:427-428])

  思うに、これらには幾つかの要素が含まれている。そしてその力点は少しずつ違っているようにも思う。そしてその中のすくなくとも一つは、私にとっては馴染み深いものだ。つまり、その人が生産したと言うが、どれだけそのように言うことができるか。そこには過去から現在に至る、様々な人々の営為があり、蓄積された知識や技術がある。とすれば、その生産物をその人が取れるということにはならないだろうというのである。こうした論をどう扱うか、そこから始めて考えてきたところがある(立岩[1997])。そのことについて再度確認してみたい。そしてさらに、時間という要素が入っている。生産物には過去が堆積している。とすればたんに現在の協業の成果――この場合には現在働いている人たちでしかるべく分ければよいということになるかもしれない――というだけのことではないというのだ。そしてさらに、ある人たちが別の人たちを押しのけてその職を得ている、だからその人たちは支払ってよいのだという論点がある。押しのけていることはたしかにありそうだ。だとしてそれはベーシックインカムにとって必須なのか。こうしたことが問われる。次回、どれだけを自分で作ったのか、だからそれはあなたものではないという、このわかりやすい理路を、わかりやすいがゆえに説得的ではあると思いながらも、どうして私は採らなかったのか、それを説明するところから始めようと思う★01。

□註
★01 引用した私の文章は次のように続いている。ただし十分な記述になってはいない。
  「私は、生産者と職について言われていることはもっともだと考える。彼の主張もわるくないと思う。ただ、このもっともな了解「から」社会的分配を主張することは――このような論の運びが私たちの社会において一定の力をもつことを認めつつ――しないでおこうと思ってきた。「生産者による所有」という図式を基本に置かないところから論を立てた方がよいと考えてきたからだ。世界のほとんどすべてが既にこの世にはいない人たちによって作られたものであることを認めたとしても、その残りの部分については「貢献」の差はやはりある。となると、その差に対応じた所有という話にやはり戻されるのではないか。しかし他方、この社会にあって、ヴァン・パリースのような論の運びに説得力があることもわかってはいた。するとどうしたものか。二つの方向の論をなんらの形で組み合わせていけばよいのか。このように考えていくことになる。
  心配なのは、この本にこんな論点があることにどれだけの人が気づくだろうかということだ。気づかれないとしたら、それもやはり、所有についての思考の不在・貧困を指し示しているということになる。」(立岩[2009a:100])

□文献
後藤 玲子 2009 「訳者解説2」、Van Parijs[1995=2009:435-470]
橋口 昌治 2007 「『ニート』議論で語られないこと――なぜ、まだシンドイのか」、『言語文化研究』19-2:61-65
――――― 2008 「偽装雇用の実態と抵抗」、『Core Ethics』4:277-290
――――― 2009a 「働くこと、生きること、やりたいこと――「新時代の日本的経営」における〈人間の条件〉」、『生存学』1:70-83(発行:立命館大学生存学研究センター、発売:生活書院)
――――― 2009b 「若者の労働運動――首都圏青年ユニオンの事例研究」、『Core Ethics』5:477-485(立命館大学先端総合学術研究科)
――――― 2009c 「格差・貧困に関する本の紹介」、立岩・村上・橋口[2009:242-311]
村上 慎司 2007 「経済学における衡平性の比較検討」『コア・エシックス』3: 337-347
――――― 2008 「福祉政策と厚生経済学の架橋についての試論」『経済政策ジャーナル』5-2:55-58(日本経済学会)
――――― 2009 「所得税率変更歳入試算」、立岩編[2009:221-240]
齊藤 拓 2006 「ベーシックインカムとベーシックキャピタル」『Core Ethics』2:115-128
――――― 2008 「ベーシックインカム(BI)論者から見た日本の「格差社会」言説」、『社会政策研究』8:130-152
――――― 2009a 「ベーシックインカム(BI)論者はなぜBI にコミットするのか?――手段的なBI 論と原理的なBI 論について」『Core Ethics』5:149-160
――――― 2009b 「訳者解説」、Van Parijs[1995=2009:307-434]
――――― 2009c 「Philippe Van Parijs のベーシックインカム論とその政治哲学」、立命館大学大学院先端総合学術研究科博士論文(審査中)
立岩 真也 1997 『私的所有論』、勁草書房
――――― 2004 『自由の平等――簡単で別な姿の世界』、岩波書店
――――― 2006a 「質問(?)」http://www.arsvi.com/0w/ts02/2006072.htm、Workshop with Professor Philippe Van Parijs  於:立命館大学

――――― 2006 『希望について』、青土社
――――― 2008a 『良い死』、筑摩書房
――――― 2008b 「繰り返しすぐにできることを述べる」、『神奈川大学評論』61:66-74(特集:「『生きにくさの時代』のなかで――ソリダリティへの眼差し」)
――――― 2009a 『所有」、『環』38(Summer 2009):96-100
――――― 2009b 「軸を速く直す――分配のために税を使う」、立岩・村上・橋口[2009:11-218]
立岩 真也・村上 慎司・橋口 昌治 2009 『税を直す』、青土社
Van Parijs, Philippe 1995 Real Freedom for All-What (if Anything) Can Justify Capitalism?, Oxford University Press=2009 後藤 玲子・齊藤 拓訳『ベーシック・インカムの哲学――すべての人にリアルな自由を』、勁草書房

◆立岩 真也・村上 慎司・橋口 昌治 2009/09/10 『税を直す』,青土社,350p. ISBN-10: 4791764935 ISBN-13: 978-4791764938 2310 [amazon][kinokuniya] ※ t07.

 第2章
 「注08 このことは『現代思想』の連載(立岩[2005-])第15回から第17回(二〇〇六年十二月号から二〇〇七年二月号)「ワークフェア、自立支援・1〜3」で検討した「ワークフェア」についても言える。ここでもレーガンが出てくるのだが、一時期そこで実施された政策がうまくいったということにされ、その政策は広がっていくのだが、その後、実際には有効でなかったことが示される。しかし事態はもう変わっている。そんなことがよくある。連載でワークフェアと労働の義務について書いたことを整理し、それに、小林勇人によるワークフェア政策の紹介と検討(小林[2009])、齊藤拓によるベーシックインカムについての紹介と検討(斉藤[2009])を加え、二〇〇九年のうちに青土社から刊行される一冊の本(立岩編[2009])にするつもりだ。その中で、小林が、最初成功したとされ、やがて失敗したことがわかるが、わかった時には既に他で導入されていたという経緯を紹介してくれるだろう。」
 あとがき
 「本書でもすこしだけ出てきたことだが、ベーシックインカムという案では無条件の給付が主張されるという。そのことと労働とはどのように関係するのだろうか。さきの連載で私もすこし考えてみた。ベーシックインカムについて論文や翻訳(Van Parijs[1995=2009])のある齊藤拓と、米国・英国のワークフェアについて研究している小林勇人が、やはりさきの長い名称の研究科の修了者(小林はCOEのポスト・ドクトラル・フェローでもある)としている。その人たちに書いてもらい、同じ連載でワークフェアや労働の義務について考えた数回の文章をやはり書き直して加えたものが、青土社から刊行される次の本になるだろうと思う(→第2章注8)。」


UP:20090623 REV:20090725, 0811, 0814, 1211, 30, 20100108
ベーシック・インカム  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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