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『セクシャル・ストーリーの時代――語りのポリティクス』

Plummer, Ken, 1995 Telling Sexual Stories: Power, Change and Social Worlds, London and New York: Routledge.
=19980525 桜井 厚・好井 裕明・小林 多寿子訳『セクシャル・ストーリーの時代――語りのポリティクス』,新曜社


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■Plummer, Ken, 1995 Telling Sexual Stories: Power, Change and Social Worlds, London and New York: Routledge.
=19980525 桜井 厚・好井 裕明・小林 多寿子訳『セクシャル・ストーリーの時代――語りのポリティクス』,新曜社  ISBN-10: 4788506440  ISBN-13: 978-4788506442  4515 [amazon]/ [kinokuniya] ※ b n08

■晃洋書房のHP
http://www.shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/books/4-7885-0644-0.htm

■エセックス大学のケン・プラマー氏のHP
http://www.essex.ac.uk/sociology/people/staff/plummer.shtm

■目次
はしがき

第I部 ストーリー・ゾーンに入る
第1章 プロローグ――セクシャル・ストーリーを語る文化
      さまざまなセクシャル・ストーリー――フィールドからの報告
      日常生活のストーリー
      メディアはメッセージである
      調査フィールドからの物語
      学校からストーリーを語る
      物語と関連して――本書の概要

第2章 ストーリーの社会学への招待
      シンボリック相互行為論としてのストーリー
      ストーリーの社会学への問題
      ストーリー・テリングは権力の川を流れる
        1 ストーリーの特性
        2 ストーリーの製作
        3 ストーリーの消費
        4 ストーリー・テリングの戦略
        5 もっと広い世界でのストーリー
      まとめとして

第3章 セクシャル・ストーリーをつくる
      親密なことについての個人的ナラティヴを築く
        「痕跡」を注意深く調べる
          個人的な小道具
          一般化されたコミュニティ
          重要な他者
        語りの戦略
          「動機付け」
          「歴史」、「記憶」、「ノスタルジア」
      セクシャル・ストーリーを読んで消費する
      コミュニティの構築としてのセクシャル・ストーリー・テリング
      セクシャルな物語と社会的世界

第II部 カミングアウトはいたるところで――近代主義者の欲望、危険、回復のストーリー
第4章 カミングアウト、沈黙をやぶり、回復へ――近代主義者の物語の諸例
        レイプストーリー
        「カミングアウト」――レズビアンとゲイのストーリー
        回復の話
      近代主義者のストーリーの一般的な要素
      秘密、境界、カミングアウト
      セクシャル・ストーリーの相違と多様性

第5章 女性の文化とレイプ・ストーリー
      変貌するレイプ・ストーリー
        初期のころ、初期のストーリー
        古典的なレイプ・ストーリー
      レイプ・ストーリーの現代化――あるナラティヴの出現
      抵抗の文化と生き残りのストーリー
      アイデンティティ・ストーリー――犠牲者か、それともサバイバーか
      増殖するストーリー、変容するストーリー
      ストーリーの運命

第6章 ゲイ‐レズビアン・ストーリーの近代化
      カミングアウト――支配的なナラティヴ
      物語を創造する
      ストーリー形成の動態――ポリティクス、コミュニティ、アイデンティティ
      文化の出現、ストーリーの噴出
      増殖するストーリー、多様性の創出

第7章 回復の物語
      回復の物語を語る
        ベストセラーのストーリー――愛しすぎる女たち
        テレビで物語を語る
        よいセックスとドクター・ルース
        せっせとおしゃべり
        グループのなかへ
      性的回復の物語ジャンル
      回復物語の実状
      語りの条件
      結論のようなもの……

第III部 世紀末のセクシャル・ストーリー
第8章 物語とその時機
      時機はずれの無声のストーリー
        沈黙の声/創造されるコミュニティ
      セクシャル・ストーリー・テリングの社会的組織
      バック・トゥ・ザ・フューチャー――歴史、偶発性、ストーリー・テリング
      ストーリーを生み出す
      公的問題、個人的なストーリー、競合する人生

第9章 変化する後期近代のセクシャル・ストーリー
      後期近代主義者のセクシャル・ストーリーの出現?
      ギアを切り換える――新しいストーリーの語り方
      移行するストーリー――古い物語/新しい物語?
      近代の頑強なる支配

第10章 親密性の市民権――セクシャル・ストーリーを語る政治学
      変化する社会的世界の権力
      解放をこえてライフ・ポリティクスへ?
      セクシャル・ポリティクスの新しい社会的世界
      親密性の市民権のストーリー
        「家族」のストーリー
        情動のストーリー
        表象のストーリー
        身体のストーリー
        ジェンダー・ストーリー
        性愛のストーリー
        アイデンティティ・ストーリー
      親密な物語の争い――部族主義から差異へ
      不確実な未来――ストーリーの対話

終章 ストーリーを超えて?――ストーリー・テリングのプラグマティクス
      出来事の真実
      ストーリーの社会的プラグマティクス
        生活におけるセクシャル・ストーリー
        セクシャル・ストーリーとコミュニティの構築
        文化におけるセクシャル・ストーリー
        シンボル体系のなかのストーリー
        結論なし
補論 日本におけるテリング・セクシャル・ストーリー――日本語版に寄せて
      日本におけるテリング・セクシャル・ストーリー?
      三つのナラティヴ
      ポストモダニズムと変わるストーリー
      気にしながらのむすび

訳者あとがき
引用文献

索引


■引用
太字見出しは本論を参照して作成者がつけた。

ホモ・ナランズ
 私たちがセクシュアル・ストーリーの世界に生きているということは、べつに驚くにあたらない。あらゆる社会で、あらゆる形式で、ストーリーが語られるという止むことのない性質は、ますます認められるよういなってきている。私たちは、ホモ・ナランズ(homo narrans)、つまりナレーターおよびストーリーを語る人間(humankind the narrators and story tellers)である、といってよい。社会そのものによって風合いが異なるにせよ。ストーリーの継ぎ目のない織物がいたるところで、人々を離散集合させ社会をなりたたせる相互作用をとおして現れる。(p.8)

セクシュアル・ストーリー
むしろ、ひとつの形態――人々が自分の性生活をストーリーにまとめあげる日常的な社会経験という形態を見てみたい。個人的な経験のナラティヴは、その人のもっとも親密な体験の周辺で構成される。それはライフ・ストーリー、伝記、セルフ・ストーリーと重なっているが、まったく同じというわけではない。ここで論じようとするセクシュアル・ストーリーは個人的なナラティヴであり、毎日の活動と日常生活の戦略のなかに社会的に埋め込まれている。(p.30)

真実とストーリー
もはや人びとはただ単純に、自分たちのセクシュアルな生活を「語る」ことで、そうした生活の「真実」を暴露するのではない。そうではなく人びとは、自分自身を社会的に構成された伝記的な対象に変えるのである。彼らは、真実に関係しているか否かにかかわりなく、親密な自己の物語を構成し、すこし言い方が荒っぽいかもしれないが、でっちあげもする。彼らのストーリーは、ほんとうにある内的な真実を単純に開陳したものとして考えられるべきものだろうか。それとも、彼らのストーリーそのものは、ある特定の時間と場所に規定されてある特有な語らせ方をさせられたものなのだろうか。もしそうであるならば、彼らはどこから「ストーリー」を手に入れるのか。いったんこう述べてしまうと、もはやセクシュアル・ストーリーは、かなりたしかな真実の先ぶれとしてだけ見ることはできないのである。(p.70)

ストーリーのリソース
 それでは、私たちはまさにどこから自分たちのストーリーを得るのだろうか。もっとも明白な答えは、思考、内省、創造性をとおしてストーリーがただ内的に生じるということだろう。これは部分的にはあたっている。しかし、ストーリーはすべて実践的な活動として生じることもまた事実なのだ。毎日の生活に精を出しながら、私たちは文化という道具箱から断片をつなぎあわせ、ついには(しかしおそらくはほんの瞬時のうちに)「私たちのストーリー」へと筋を通すのである。ストーリーは、文化に見いだされるより広範なナラティヴのブリコラージュから引き出された雑多な要素からつくられるといえよう。この意味で文化は源泉の道具箱なのである。(p.74)

ストーリーの組み立てに利用される「痕跡」
利用される「痕跡」のなかでとりわけ重要なものは、個人的な小道具であり、一般化された他者、有意味な他者によってあたえられた手がかりである。ストーリー・テリングの戦略の展開のなかで主要なものは「動機づけ」と「記憶化」である。それらは「創造的契機」をとおしてひとつにむすびあわされる。(p.75)

一般化されたコミュニティ
ジョージ・ハーバード・ミードのことばを借りれば、これは生活にまつわるもっとも抽象的な表現でありイメージである。それはあらゆる種類のコミュニティ・ナラティヴであり、「自己の文法」であり、「虚構の世界」ですらある。虚構も含めて、コミュニティの意味が、性愛生活の物語のさまざまな想像の仕方をあたえるといえよう。(p.77)

ストーリーの構築とフィクション
 おそらく、ストーリー構築を理解するうえでもっとも無視されてきた領域は、もっとも明白な次のようなことであろう。ストーリーがストーリーを増殖させ、虚構の世界が個人的なナラティヴをつくりだすのに役立つということである。ネルソン・グッドマンは、彼の著書『世界製作の方法』のなかで、いかに「小説の世界は、現実の世界のメタファー、それ自体が文字どおりの記述となるかもしれないメタファーであるのか。小説の世界は、そうれが現実と考えられるように現実の世界をつくり、解体し、再びつくりなおす」と述べている。(p.78)

ストーリーと記憶
ストーリーはいったん語られると、より語りやすくなり、もともとの意味とは関係なく、それ自体の自律性をもつようになりやすいものなのではないか。ストーリーは「なんとか無意味にならないようにしのいでいく」というわけだ。「ストーリーの機能的自律性」であり、それによってストーリーは、もともとの源や理屈に関係なく、それ自体の生命をつくりあげていくようになる。意味は、過去のストーリーが繰り返して語られることにある。
 すかも記憶は、個人の特性以上のものになりうる。社会的記憶もあるのだ。(p.85)

苦難・生存・克服のストーリー
 現代社会にはさまざまな種類のセクシュアルストーリーが散乱している。だが、ひとつの主要なパターンが二十世紀の後半になって増殖し、急速に発達してきた。それらは性的な苦難を受け、生き残り、克服したストーリーである。とるにたらなかったことが成長し、広くいきわたった。それらは、語られる結果がどうなるのかという社会変動の行方を予示していた。それに、あらゆるみごとなストーリーがそうであるように、なんどもなんども繰り返されコピーされ借用されてきた。それらは私たちの時代のストーリーなのだ。(p.100)

 苦難・生存・克服のストーリーは個人的なストーリーであって、そもそも性的なものとつながっていると見られる深い痛み、フラストレーション、苦悶について話すことである。話は、いずれ断ち切る必要にせまられる沈黙と秘密から始まる。ストーリーは、行動を求めて語る――何ごとかをしなければならず、また、痛みはのりこえられなければならない。苦難を受け、誰にもいえず、そして頻繁に悩まされる被害感から、セラピー、生存、回復、政治などへと大きな変化へ向かう動きがある。しばしば内なる心にいだかれるのは、エピファニー〔内的な意味世界が変わるほどの人生の刻印となる経験〕であったり、ラディカルなコンシャスネス・レイジング〔フェミニズムで女性が自己を内的な抑圧から解放し、他者と体験を共有することを目的とする意識覚醒のスタイル。サバイバーや自助グループにも継承〕で特徴づけられる決定的な転機であったりする。ナラティヴのプロットは、はげしい苦しみ、沈黙を断ち切る欲求、「カミング・アウト」、「受容」といった流れである。これらはつねに重要な変身のストーリーである。(pp.100-101)

エルスブリーの五つの基本プロット
プロップの伝統をくむエルスブリーが、最近、近代にストーリーに見いだされる一般的なプロットはきわめて限られた数しかないと指摘している。実際、彼はわずか五つの基本的なプロットを指摘する。旅の出発、争いへの参加、苦難の忍耐、目的の達成、安住の地の建設。(p.111)

女性運動の第二の波、レイプ・ストーリー、三つの戦略
 女性運動の第二の波が起きたもっとも初期のころから、女性たちは、私的なことと公的なこと、個人的なことと政治的なことを合体させてレイプを論じてきた。初期の書物には女性の証言が寄せ集められ、初期の集会ではコンシャスネス・レイジングが促された。この新しいストーリーの諸要素は、これまで見てきたように、すくなくとも十九世紀にすでにその存在が認められていた。しかし女性運動の第二の波では、もっとも初期の集会からレイプに大きな関心が注がれた。新しいストーリーを創造するさいの三つの戦略とは、(1)神話の正体を暴くこと、(2)歴史の創造、(3)政治的なプロットをたてること、であった。(p.139)

現代のレイプ・ストーリーとその日常性
現代のレイプ・ストーリーは「私たちのふつうの習俗を映し出す鏡像」として、ますますディスコースに入りこんでいる。レイプは、異様な理由で、特別な状況で、ふつうではない男性が犯した例外的な行為という見方に直接意義が唱えられた。何年ものあいだ、レイプは「隠れた犯罪」であったが、最近になり「知られる」ようになった――急上昇するレイプ犯罪率は、調べられもせず、報告もされていない多くの「暗殺」をもつが、公での議論や関心が増大する度合いに対応している。レイプが統計的にありふれたものになっただけではなく、その分析はレイプがいかに「ふつうであり」「日常的であり」「ありふれた」ものであるか、レイプがいかに日常生活とむすびついているのかを、さらに強調する。(p.151)

伝統的ストーリーから現代的ストーリーへ
 犠牲者としての女性は、女性性をめぐる多くの伝統的ストーリーの謎を解くひとつの主題である。ここで女性は「愛に縛られ」ており、確かに「愛の犠牲者」である。ここでのストーリーでは、女性は、自己否定、男性への迎合、自己の怒りの抑圧、もっと普遍的な男性への服従、「愛しすぎること」というサイクルのなかに位置づけられる。その本格的なストーリーになると、女性は事実上マゾヒストである。対照的に、新しい女性文化、新しい社会的世界が出現したおかげで、アイデンティティが「サバイバー」として新しく築きあげられる。ここでは女性はカムアウトしてサバイバーの世界に入る。その世界では女性の強さと抵抗の新しいストーリーが提供される。新たな意味、正統化、規則が用意され、それによって経験が変容される。フェミニスト文化の多くは、女性を抑圧すると考えられている支配的形態への抗議として組織化されたもので、抵抗文化と見なされるかもしれない。しかし、フェミニスト文化はそれだけにとどまらない。というのも、それらはめいめい自分たちの経験を祝福する過去――女性史――を発見することにも関心を抱いているからである。それを政治分析がまとめあげる。アイデンティティと文化が強くなればなるほど、それらhますます女性の抵抗正統化するとともに、そこにある妥当な差異をも肯定する。「レイプ・ストーリー」は新しいポリティクスの発展に役立つのである。(p.158)

腹話術とカミングアウト
 腹話術。自分自身のストーリーはなくて他人のそれを口にすること。これはカミングアウトの物語を非常に重要なものにする。幼年期に与えられる他者のストーリーを語っている、異性愛的(そして混乱した)アイデンティティから、のちの人生でゲイ・コミュニティに気づくことによって、所与となっているゲイとしてのアイデンティティの強力で積極的な意味を受け入れるようになる。(p.175)

テクストと自分の発見
 多くの人にとって重要な構成要素となるのはテクストの調査である。入手したストーリーを役立てようと入念に調べることは、人が何者なのかを知ることである。戦後すぐに成人を迎えたレズビアンは、しばしば孤独の源泉を細かく調べテクストのなかに自分を発見したと語っている。のちの世代は、ちがうテクスト――いまでは、ますます映画やビデオになっている――を調べている(p.176)

ストーリーとコミュニティ
提案しようとしているのは、――レイプ・ストーリーについてもそうであるのと同様に――ナラティヴが盛んになるには、聞いてもらうコミュニティがなければならず、聞いてもらうコミュニティにとっては、その歴史やアイデンティティや政治をいっしょにつくりあげるストーリーがなければならない。一方――のコミュニティ――が他方――のストーリー――を互いに栄養源にするとともに、されるのである。コミュニティ、政治、アイデンティティ、ストーリーの動態あるいは弁証法が、いま進行している。(p.181)

「社会のマクドナルド化」
 本で、テレビで、グループで、人びとは自分の性的回復の物語を語っている。これらの物語の一般的な特徴を叙述するのはむずかしくない。実際、その特徴のひとつは、単純明快なメッセージをつくり出すということである。それらのメッセージがすぐさまアピールし、ただちに理解されるためには、ふつう、複雑さはこの様式の構成要素であってはならない。それは、リッツァーが「社会のマクドナルド化」と呼んでいることの一部なのである。
 大方のこのようなストーリー・テリングには、明確な共通のパターンがあり、読者は何をそこに見いだすかを明確に期待してストーリーに接近する。おきまりの標準が規範なのである。このジャンルはしばしば新しい問題を認識することによって始まる。「それ」は「最後のタブー」を破り、「最後のフロンティ」を見つけ、「隠された次元」を暴露することである。「新しいことば」の語りが発明されるだろう。ときにこれは臨床的であるかもしれないが、ふつうは受けそうな新しいコンプレックスが世に送り出される<中略>これらの物語のいずれの核心にも個人的なナラティヴがある(pp.217-218)

自助文化のストーリー、個別化、個人化、想像のサポート共同体
 このようなストーリーは、ふつうゲイ文化やレイプ・ポリティクスをめぐるストーリーとは非常に異なっている。というのは、ストーリーはセクシュアルな問題を公の関心にするとはいえ、ストーリーを政治的なものにしないのがまさに自助文化の性質だからである。というより、セラピー文化を組織立てる考えの中核となっているのは、問題の個別化(individualisation)である。自己が問題を生み出し、自己が問題を解決しなければならない。自己が探究され、頂点が極められるべきである。無意識的なもののなかに内面的な問題が隠されている。ほかの二つのストーリーとちがい、セラピー・ストーリーは、政治的な行為や社会運動や社会変化にあまり直接にむすびつかない。そのようなストーリーが、なぜ政治的でありえないかという理由は原理的にはない。(p.221)

実際問題として、ほとんどの回復の物語が政治から離れて個人へ関心を示している。それに、個人化(individuation)していくと、サポート・コミュニティがあまりはっきりしなくなる。ストーリーはもっと小さな、あまり識別もできないグループに「着地」する
 自助文化はいたるところにあり、いろいろな形態がある。たとえばカウンセリング、セラピー、自助グループ、サバイバー・グループ、カミングアウト・ワークショップ、嗜癖更生会といった、はっきりとグループの形態をとっているところがあり、このようなところはみな対面的な出会いのなかで互いに自分たちとストーリーを語るようにしむける。これがおこなわれるときには、そこにはともに語る人びと、輪になる人びと、友好的なネットワークという直接のサポート・コミュニティがある。しかしここで機能しているのは、とても個人的とはいえない想像のサポート共同体である。たとえば、「電話相談」や自助の本などによって、単独の孤立した経験から、たとえなんら対面的な基盤があって知り合ったわけでなくても、類似の問題をもつ他者からなる集合的世界を共有するようになる。(p.222)
「制御できないこと」への不安
 この批判は、「清廉」と「節制」という回復のストーリーに影響をあたえた三つ目の伝統を考慮に入れておらず、私はずっと違和感をいだいてきた。これはたいへん強力な伝統であり、アルコールへの不屈の闘いと禁酒運動の発展によく現れているが、建国の「ピューリタン・ファーザー」やプロテスタントの倫理がゆきわたっていた北アメリカの初期の時代から見られたものである。このことは自助のかなりが、可能性ある自己の解放というよりも拘束、規制、抑制にかかわることを示唆している。実際、根底にある不安――「嗜癖」のメタファーに具体的に表されている――は、「制御的ないこと」への不安なのである。自制がとりわけ重要であると見なされる。したがって回復のストーリーのほとんどは高度に規範的なものである。(p.228)

セクシュアル・ストーリーの聴衆の増加
 この二、三十年のあいだに起こったことは、いろいろな声とストーリーに進んで耳を傾けようする多様な聴衆が一挙に増加したことである――しかも、このような聴衆のなかには自分自身が語り手となって、ストーリー・テリングの集合的コミュニティに加わるものもいる。私がいいたいのは、そうしたストーリー・テリングのある必然的で決定的な「原因」のことではなく、促進条件、おぼつかない親和関係、あてにならない出現にかわるイメージなのである。本、メディア、新しい社会運動による現代のセクシュアル・ストーリーの発展は、ストーリーをとりまく伝統的な境界が聞き手や聴衆によって壊されていく、そうした社会的空間の変化をとおして、おそらく一番よく理解できるだろう。(pp.251-252)

フーコーと関して
たしかに、本書のセクシュアル・ストーリーはフーコーの図式にうまくあてはめることができる。だが、それでもなお、フーコーの説明は多様な形態におけるマスメディアの隆盛を無視しており、個々の瞬間の個々のストーリーの生成のためにはほとんど紙面をさいていない。不思議なことに未分化なのである。(p.257)

セクシュアル・ストーリーが語られる一般過程
ストーリーが語られるとき、私がセクシュアル・ストーリーが語られる一般過程と呼んでいるものを示唆するいくつかのテーマをまとめておきたい。それらにはおおざっぱな順序があるが、その順序をあまりうのみにしないでもらいたい。世界はそのような線形的なものではない。それでも、その順序は、セクシュアル・ストーリー(ほんとうは、どんなストーリーでも)を完全な「成功した」語りとするための、つまり、ストーリーが「その時機を得る」ための、必要条件を示している。このような一般過程は次のとおりである。
 1 想像する‐視覚化する‐感情移入する
 2 明確化する‐声に出す‐公表する
 3 アイデンティティを創出する‐ストーリーの語り手になる
 4 社会的世界/サポート・コミュニティを創造する
 5 公的な問題の文化を創造する(pp.263-264)

語りがリフレクティヴになる
ストーリー・テリングの形式は、ますます自意識的で自覚的になってきている。ある人びとにとって、セクシュアル・ストーリー・テリングはもはや、自分が誰であるか――男性であるとか、ゲイであるとか、サバイバーであるとかすら――を、率直に記述したり発見したりするものではない。たとえば、ある男性にとって、男性であることは、たんに自分がそのように生まれついたという単純な事実ではない。つまり、保守主義者、フェミニスト・シンパ、アイアン・ジョン、社会主義者、反動主義者、ゲイ、黒人、等々の「男性のストーリー」が最近急増していることが、男性のあり方が決して一様ではないことを示している。そのため、人によっては男性であることがどういうことかというストーリーを選択し構築することがますます必要になっている。同様に、クリア・セオリー(queer theory)の全般的な流行が、いまあるホモセクシュアルやゲイのカテゴリーにラディカルな疑問を投げかけている。方策は明白だ。ストーリーを組み立てる、まさにその行為がストーリーの一部になるからである。(p.285)

近代の頑強な支配
いくつかの新しいストーリーができつつあることを一瞥したが、それは依然として希有なことである。実際、前述のストーリーがいかに劇的に変化の徴候を示そうとも、私が聞き、研究してきた物語の大半は、すくなくとも、あたかもそれが権威をもち、真実を語り、明瞭なカテゴリーの存在を信じているかのように語りつづけられている。(p.303)

親密性の市民権
 市民権の既存の三つの領域(作成者注、法律、政治、福祉)に、四つ目がこの世紀末につけ加えられようとしている。それが、親密性の市民権である。これは、市民権についての過去の議論ではあまりにしばしば無視されてきた一連の関心事であり、権利と責任の内容を拡大するものである。私がこれを親密性の市民権とよぶのは、私たちのもっとも親密な欲求、楽しみ、世界のなかの生存のあり方にむすびついたありとあらゆる事柄に関係しているからである。(p.322)

人によっては、秩序と支配、きまりきった処理事項のある世界のきまりきった場所、安定したストーリー、それぞれの自然な位階秩序が目に見えてくずれている。私は将来にはますますそうなると思うのだが、いまや人びとが自分の身体、感情、関係を制御するのか(しないのか)、また代表、関係、公共空間などにアクセスするのか(しないのか)、さらにアイデンティティ、ジェンダー経験、性愛経験について社会的根拠のある選択をするのか(しないのか)などにからんで、意思決定をしなければならなくなっているといえるだろう。ライフ・ポリティクスの一般的な特徴にしたがってすでに概説したように、もはや純粋で単一の青写真が見つかることは期待できない。(pp.322-323)

ストーリーの効果
 プラグマティストの伝統にしたがうと、私たちは新しいストーリーを聞き、かりにそれができるなら、いかにそれらが私たちの生活を変えるのかを予想することが必要だ。私が賛成できないことはたくさんあるものの、リチャード・ローティはプラグマティストの遺産に通じた現代の後継者である。彼は人間の苦難は、苦難の声に耳を傾ける感受性を改善することによって減らすよりほかない、そして、これは「詳細な記述の問題」だと論じている。そうした自己のナラティヴを探すことがほとんど大衆文化の仕事であり、それゆえ、それを軽々しく捨てさるわけにはいかない。(p.353)



*作成者:篠木 涼
UP:20080419
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