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『他性と超越』(叢書・ウニベルシタス)

Levinas, Emmanuel 1995 Alterite et Transcendance, Montpellier: Fata Morgana
=200105 合田 正人・松丸 和弘 訳,法政大学出版局,194p.


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Levinas, Emmanuel 1995 Alterite et Transcendance, Montpellier: Fata Morgana, 183p. =200105 合田 正人・松丸 和弘 訳 『他性と超越』(叢書・ウニベルシタス),法政大学出版局,194p. ISBN-10: 4588007114 ISBN-13: 978-4588007118 2415 [amazon][kinokuniya] ※ 0e/1

■内容(「BOOK」データベースより)
レヴィナス自身が編集に携わった最後の論集。“超越”を起点として、レヴィナス哲学の枢要な概念“全体性と無限”をめぐり展開されるその思考の精髄。
内容(「MARC」データベースより)
著者自身が編集に関わった最後の論集。全体性と無限をめぐる西欧哲学思想史の系譜の中でレヴィナスの位置が示される重要な論考や対談など1967-89年の12論考を収め、その多様な思考の精髄を集成。


■目次
1 もうひとつの超越(哲学と超越 全体性と全体化 ほか)
2 対話の哲学と第一哲学(対話を超えて 私という語、きみという語、神という語 ほか)
3 平和と権利(表象の禁止と「人間の権利」 平和と近さ ほか)
4 対談(哲学者と死 顔の暴力)


■言及
◆森上健作, 2006, 「社会性と暴力――ジグムント・バウマンのモダニティ論/リキッド・モダニティ論」《名古屋大学社会学論集》27:85-99.
(pp88-90)
 バウマンは、そのようなモダニティの思考枠組みのうちで展開されてきた社会学の議論への挑戦/挑発として、レヴィナス的な社会性を社会学のうちに導きいれたとみることができるのではないだろうか。バウマンはレヴィナス的な社会性を引き合いにだし、それによって社会学的な道徳理論の書き換えと、社会学的な他者観の転換を図るのである。バウマンはその社会性のことを「他者のためにあること(being for the Other)(2)」というあり方として表現している。そのあり方とは人間にとっての原初的な条件であり、その内実とは、〈私〉が顔としての〈他者〉に対して非対称的で無条件の責任をつねにすでに負うてしまっているというあり方であり、近さとしての関係であるという(Levinas, 1974=1999, 1995=2001, MH:chap.7)。なぜ〈私〉が〈他者〉に対してそのような責任を負うているのかというと、〈他者〉が無力な存在として〈私〉に曝されているためにほかならない、とレヴィナスはいう。その〈他者〉が平静を装おうとも、有力な人物であろうとも、有限で死ぬべき存在であるという点において〈私〉にその無力さを曝しているのである。そしてその無力さは〈他者〉の顔においてあらわれる。「装われた平静を顔のまったき弱さが突き破り、それと同時に、『死ぬということ』が顔のうちに出来する。・・・頼みの綱もなく、安全性もなく、弱さと『死ぬということ』ゆえに私の眼差しに曝されたこの他者の顔は、私に『汝、殺すなかれ』と命令する顔でもある」(Levinas [1995=2001:109])。このとき、〈私〉は〈他者〉の顔を、何者かとして(たとえば、店員として、上司として、「ガイジン(外人)」として「浮浪者」として、等)のイメージを通して見るのではなくて、死すべき存在という有限性と無力さをたたえたものとして迎接するのだが、そのようなあり方が近さとしての関係なのである。
 この近さとしての社会性についてまずいえることは、レヴィナスの議論における〈他者〉は、コントロール可能な客体からはかけ離れたあり方をしているという点である。それというのも、〈私〉は〈他者〉に対する無条件の責任を決断や判断に先だってつねにすでに負うているからである。そのような場合には〈他者〉は、コントロール可能な対象ではなくて、むしろ〈私〉に容易ならざる応答を迫るものとしてある。
 また、レヴィナスの議論における〈他者〉は、合理性や効率性や確実性という観点からは汲みつくされないあり方をしている。たとえば、〈他者〉に対する〈私〉の責任が無条件であるために、〈私〉が〈他者〉のためにどのようなことをどれだけ果たせばいいのかが不透明である。〈私〉は〈他者〉の自由や意志を尊重し、〈他者〉が〈私〉に求めることのほかには何もしない、という態度には「無関心」の陥穽が待ちかまえている。とはいえ、〈私〉は〈他者〉にとって必要なことをすべて心得ており、〈他者〉がそれを求めなくとも〈私〉はそれを果たすべきである、という態度にも「抑圧」の陥穽が待ちかまえている。それでも、それら陥穽のあいだをジグザグを縫ってすすむほかには、〈他者〉への責任に応答する方途はありえない(Bauman, 1998a:18)。こうしたあり方は、どのようなことを果たすべきかを定める明確なコードが取り決められているような契約的な関係とはまるで異なっている。さらには、〈他者〉に対する〈私〉の責任は、相互性を欠いた非対称的なものとしてあるため、「互恵的な利益を計算することとはなんら共通するものをもたない」(MH:183)のである。こうした点で、社会性は、両義性や計算不可能性や不確実性によって満たされているといえる。それゆえにこそ、社会性は、合理性によって説明することも還元することもできない、道徳性を帯びた関係として現れてくるのだとバウマンは説明するのだろう。
 結論へとすすもう。バウマンはレヴィナス的な社会性をもちだすことによって、世界や人間をコントロール可能な対象、合理性や効率性や確実性に還元可能な対象として客体化するようなモダニティの発想を相対化し、そしてその発想とは別の思考のあり方や、関係性のあり方を示しているのである。あるいは、バウマンは、モダニティの発想によっては見定めることのできなかったような、より根源的な水準にある人と人との関係性へと掘りすすもうとしていた、という言い方もできよう。
 このように、ある意味では神秘的で目的論的でもあるようなレヴィナス的な社会性の議論をあえて導きいれることによって、バウマンはモダニティの思考枠組みからの転回を企てているのである。科学ないしは学問としての社会学が、そのような社会性の議論を扱うことにどこまで意義を認めるかは意見の分かれるところであろう。レヴィナス的な社会性のような関係性は、経験的に論証しづらいものであり、またいくらか神秘的・宗教的な様相を帯びるものでもあり、科学にはいらだちを覚えさせるように思われるからである。実際、ある論者はバウマンの道徳理論に一定の評価を与えつつも、バウマンが「論証することも実証することも不可能な審美的次元に停滞して社会科学の俎上に載ってこない憾みがある」(三上, 2003:20)という点や、「レヴィナスに依拠した独自の神秘主義的他者論に逃げ込んでしまった」(三上, 2003:70)という点を批判している。またある論者は、バウマンが、相互性や互恵性を欠いたレヴィナス的な社会性を導きいれることによって、関係の互恵性によってこそ社会規範が立ち現れてくるとする社会学的な議論と相容れなくなってしまった、と批判する(Junge, 2001)。とはいえ、ホロコースト論で明らかにされたような、モダニティの志向性がはらんでいる暴力性について自覚的であろうとするならば、少なくとも、バウマンの挑戦/挑発は無視できるものではないし、おおいに評価できるものであるといえるのではないだろうか。
(p98)
 (2) ちなみにバウマンは、レヴィナス的な社会性に対して、MH(『モダニティとホロコースト(Modernity and the Holocaust)』)では「他者のためにあること」という表現ではなくて、「他者たちとともにあること(being with others)」という表現を与えていた。「他者のためにあること」という表現はMHの4年後に出版された『ポストモダンの倫理(Postmodern Ethics)』(1993)に見いだすことができる。この著作で、社会性は「他者たちとともにあること」とは明確に区別された「他者のためにあること」として表現されることになる。後者の語法の方がレヴィナス的な社会性のニュアンスに近いように思われるので、ここではMHでの語法ではなく『ポストモダンの倫理』での語法に従って、「他者のためにあること」にしておくこととする。

Levinas, Emmanuel, 1974, Autrement quetre ou au-dela de l/essence, The Hage: Martinus Nijihoff. (=1999, 合田正人訳『存在の彼方へ』講談社.)
----------, 2000b, Alterite et Transcendance, Montpellier: Fata Morgana.. (=2001,合田正人・松丸和弘訳『他性と超越』法政大学出版局.)


*作成:植村要 追加者:
UP: 20080516 REV: 20081115,20090730
Levinas, Emmanuel  ◇哲学/政治哲学(political philosophy)/倫理学  ◇身体×世界:関連書籍 1990'  ◇BOOK
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