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『フェミニズム理論』(日本のフェミニズム2)

編者:井上輝子上野千鶴子江原由美子 編集協力:天野正子
19941013
執筆者 江原由美子・井上輝子・萩原弘子・田中和子・大越愛子・源淳子・
水田玉枝・久場良子・足立眞理子・落合恵美子・荻野美穂
岩波書店,221p.


このHP経由で購入すると寄付されます

この紹介の作成者:藤原和樹(立命館大学政策科学部3回生)
掲載:20020718

[目次]


◆知識批判から女性の視点による近代観の創造へ・・・・江原由美子

■Tフェミニストによる知識批判

◆女性学
 <女の視座をつくる>・・・・井上輝子
◆社会思想批判
ジェンダー 〜コスモロジーと自立の牢獄〜・・・・萩原弘子
◆男性中心主義
 フェミニスト社会学のゆくえ・・・・田中和子
◆哲学への視座
 フェミニズム理論と哲学・・・・大越愛子
◆宗教へのフェミニスト・アプローチ
 女性と仏教・・・・源淳子

■U労働と身体

◆生活資料の生産と生命の生産
 女性史は成立するか・・・・水田珠枝
◆社会主義とフェミニズム
 マルクス主義フェミニズムとその理論的射程・・・・久場嬉子
◆エコロジカル・フェミニズムとマルクス主義フェミニズム
エコロジカル・フェミニズムの地平をさぐる・・・・足立眞理子
◆フェミニズムにおける二つの「近代」
 「近代」とフェミニズム〜歴史社会学的考察〜・・・・落合恵美子
◆身体史からみる「近代」
 身体史の射程〜あるいは、何のために身体を語るのか〜・・・・荻野美穂


 
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◆知識批判から女性の視点による近代観の創造へ・・・・江原由美子

1.はじめに
 フェミニズム理論とはなんだろうか?(p2)
 女性たちが自ら経験したさまざまな社会的経験の把握〜現在の女性のあり方を乗り越えどのような未来を志向するのかという実践的構えをも可能とするような把握〜のために使用される見取り図、ということになるだろう。(p3)
 日本のフェミニズム理論は、様々な具体的経験や現象を読みとくことで、少しずつ作られつつあるのであり、既存の理論体系としてあるわけではないのだから。(p5)

■Tフェミニストによる知識批判

◆女性学
 <女の視座をつくる>・・・・井上輝子

1.はじめに
 かつて私は女性学なるものについて、次のような断案を下してみたことがある。「女性の女性による女性のための学問」というのがそれである。(p31)
 私の女性学にこめる思いは、「女性の女性による女性のための学問」であって、今、これを修正する意思はない。この定義に向けられた批判や疑問に応えることで、「私の考える女性学」を明らかにしたい。(p32)

2.女性学と婦人問題研究
 日本における女性学の源流は、婦人問題研究である。
 従来の婦人解放運動に反旗をひるがえしてウーマンリブが登場したの全く同様に、女性学もまた婦人問題研究に異を唱えざるをえないのである。(p33)

・女性学と婦人問題研究の違い
 婦人とは・・・近代市民社会の充全なメンバーというものを想定し、それと比べて「遅れて」いたり「劣って」いたり、あるいは権利を制限されていたりする女たち。その前に立ちはだかる諸々の社会的障害を除去することが「婦人問題」である。
 女性学が関心を持つのは、「婦人問題」ではなく「女性」である。女性にかかわるさまざまの事象を女性の眼でとらえ返すこと。(p34)

3.女性学の視座をめぐって
 女性学が、、女性がおかれた社会的文化的状況を相互連関的に把握することをめざす学問である以上、当然の筋道として女と男の関係を視野に入れざるをえないはずである。
 問題は、関係をみるかみないかではなく、誰がどのような視点から見るかということである。(p39)
 客観性に近づくためには、自分が女であることや男であることを自認し、女の側から、あるいは男の側から両者のありようを見すえるほかには、方法がない。(p40)
 女たちの歴史や文化を自らの手で掘りおこして、語り伝えることは、女たちが自分の生まれ育った歴史や文化を自らの手に取り返すことである。他者の目からみた意味づけや解釈に依存することなく、自分の目で、自分の言葉で、自分たちの文化に意味を与えることが必要なのである。(p41)
 女性学を女性が担おうとの私たちの呼びかけに対して、揶揄と冷笑をあびせた男たちがいる。この人々は黒人自らの手による、黒人の歴史文化の解明を提起した黒人学に冷笑をあびせるだろうか。(p42)
 女性が女性の側から女と男の関係を見るということ、すなわち女性の視座とはいったいなんであろうか。 
 社会通念化された「女らしさ」は、そのままでは私たちの視座にはなりえない。(p44)
 今、現に生きている女たちの一人一人が、支配的文化の色眼鏡に曇らされることなく、自分の疑問にこだわり、自分の感性を磨き、自分の発想を育てていくなかで、「女の視座」というものが、おのずとほの見えてくるに違いない。(p45)


◆社会思想批判
 ジェンダー 〜コスモロジーと自立の牢獄〜・・・・萩原弘子

イリッチの思想の賛成と批判
1.ジェンダー研究は何のためか
 ジェンダー研究は平和研究のためとイリッチは表明している。(p47)
 イリッチにとって失われた「民衆の平和」とは何か。それは取り戻すべき「民衆の平和」にどう連なるのか。(p48)

2.産業化社会のセクシズム
 イリッチよれば、産業化社会は不可避的、原理的にセクシスト社会である。
 彼によればセクシズムの原因は、産業化によるジェンダーの消失と仕事の中性化、ユニセックス化にある。
 産業化のいかなる時期においても、同じ仕事をめぐる無性別競争が行われたことはない。(筆者)
 産業化社会における経済的セクシズムに理論的理由はなく、あるのは歴史的理由である。(筆者)
 性的差異を前提としない産業社会はない。(筆者)

3.ヴァナキュラーなジェンダーと経済縮小
 ジェンダー差のおかげで男女は競合、相克することなく、相互補完的にともに共同体の生活、文化を形成していた。
 ジェンダーのコスモロジーは人々の生活の細部、認識の深部に及び、男女はひとつの家に住んでいても異なる宇宙的連関のもとに置かれ、別種の空間、別種の時間を生きて、平等とは別物のダイナミックな平和をつくり出していた。
 ジェンダーは文化に内蔵された限界設定機能として働き、その社会の生産の過剰成長を防いでいた。(53〜p54)
 経済縮小によりジェンダー差が深部まで広がりやすい社会に。(p54)

4.世帯に分断されたジェンダー
 イリッチはヴァナキュラーなジェンダーとセックスの断絶を言いたくて両者の間に長い長い過渡期を設定した。(p59)
 断絶を言うための設定が連続を証すという妙なことになった。(p59)

5.ジェンダーはなぜ駄目か
 ジェンダー差を土台とする社会はなぜ駄目か
@ジェンダーの自足性・閉鎖性
 ヴァナキュラーな文化では男女が話すことは滅多になく、通訳可能な理解を共有しないので、相手の領域については相互に無力と沈黙を保ち両性間に単線的な優劣、強弱のランクづけが成立するのを防いでいる。(イリッチ)(p64)
 単純な性差別支持ではないか(筆者)(p64)

Aジェンダーの自立性・拘束性
 ジェンダーが禁止の体系であることは、イリッチがあげる数多くの事例に明らかだ。(筆者)
(p65)
 ジェンダー世界の美しき自律を描くイリッチは克服すべきわれわれの現在を、回復すべき過去として語っている。(筆者)(p68)

Bジェンダーの人為性・宿命性
 ジェンダー分業とセックス(性別)分業に違いはない。強いて違う点をいうなら、イリッチがあげる過去のジェンダー社会のほうが自縄自縛の度合いが大きい。(筆者)(p71)

6.ジェンダー論の解放の課題
 イリッチが描いてみせる「民衆の平和」は、暗喩に呪縛された窮屈な自律と自足の世界である。それは過去をモデルとしているが、だからといってただの懐古趣味と笑って済ますわけにはいかない。よく読めばそこには、われわれの現状が実現すべき理念として書き込まれているからだ。(p76)

 cf.Illich, Ivan


◆「男性中心主義」
 フェミニスト社会学のゆくえ・・・・田中和子

1.はじめに
 おそらく女性解放運動の最も重要な意義は、それが女たちに「名づける力」を与えたところにあるだろう。(p78)
 女性解放運動から生まれたフェミニスト社会学は、他の諸領域でのフェミニスト研究同様、女の視座から状況を再定義し、知の枠組みの変換にせまろうとする実践である。(p79)

2.フェミニスト社会学の社会学批判
 女性解放運動がいくつもの流れに分岐しながらそのいずれもが現代社会の男性中心主義的組織原理を告発するところから出発しているように、フェミニスト社会学もまた、社会学的認識の男性中心主義的偏りへの批判を共通のスタートラインとしている。しかも注目すべき点は、フェミニスト社会学が単に生み出された知識を批判するにとどまらず、知識が生み出される過程自体を問題視し、解剖のメスを入れていることである(p79)

・知識のジェンダーギャップ
・認識主体の男性中心性
・認識対象の男性中心性
・概念枠組みの男性中心性
・方法論の男性中心性
 (p80〜p84)
 社会学的認識の構造化された男性中心主義を明るみに出し、脱中心化する試みにおいて歩調を一つにしていたフェミニスト社会学は、しかし、男性中心主義の克服を目指す戦略においては、異なった二つの方向に分かれていく。(p86)

3.フェミニスト社会学における女性中心化戦略

 フェミニスト社会学の第一の方向性は「女性中心化戦略」と呼ぶべきものである。この戦略においてはこれまで等閑に付されてきた女性の経験と関心を全面的に研究の中心に据え、女性の社会学的可視性を一気に回復することがめざされる。
 この戦略が、単に女性を研究対象とした「女性についての社会学」を蓄積し既存の社会学に付け加えればそれでよしとする態度とは無縁であることを強調しておかなければならない。
 「女性のための社会学」を創り出すという強力な意志に支えられているところに、女性中心化戦略の大きな特徴がある。(p87)

4.フェミニスト社会学におけるノン・セクシスト戦略
 既存社会学の男性中心性への批判から出発する。しかし、男性中心主義をいかに克服するかという「処方」の段階においては、女性中心化戦略とは異なった方向へと進んでいく。
 女性を独立的な範疇として扱うよりは男女両性の関係性に着目し、両性を含みこんだ複中心的な社会的現実像を提示することにより、ジェンダーによって構造化されてしまっている社会学の認識のフレームワークそのものを内側から脱中心化し、社会学をその全体性において非性差別的なものへと変換することがめざされる。(p92) 

5.結びにかえて
 いったいどちらの戦略が選ばれるべき?
 フェミニスト社会学の現到達段階を、私たちがいかに評価するによって異なってくるだろう。
 女性中心化戦略が男性中心的な既存社会学に対する対抗モデルである限り、それは既存社会学の男性中心性を相対化することはできても、それにとって代わることはできない。
 フェミニスト社会学の究極的目標は、社会的現実を男女両性含めた全体性において再構成するノン・セクシスト戦略による社会学のパラダイム・シフトにあると筆者は考えている。(p95)


◆哲学への視座
 フェミニズム理論と哲学・・・・大越愛子

1.序
 思想的可能性を担うものとして期待されている理論のひとつにフェミニズムがある。(p100)
 フェミニズムの思想的意義とは何か、その理論的挑戦はどのようか等の基本的問題を概観し、さらにフェミニズム理論が導入する最も豊穣な哲学的可能性としての、ジェンダー論の意義を論じたい。(p101)

2.フェミニズムの思想的意義とその方法論
 1960年代後半を境にフェミニズムは第一期と第二期とに分かれる。(p101)
 フェミニズムの思想的意義は、男性的世界観や価値観への自己同一化をめざした第一期ではなく、同一化を否定し、異質な視点を自己主張する第二期フェミニズムにある。その最大の意義は、男性中心主義への問い直しという基本的観点を通して、西洋思想パラダイムの相対化の契機を開いたことにある。(p102)

3.フェミニズム理論の哲学的可能性 ジェンダー論
 ジェンダー論は、哲学が従来暗黙の前提として設定していた人間一元主義に対して、抽象的人間ではなく、生物学的性差と文化的性差をあわせ持つ「男性」と「女性」という観点から、従来の哲学的課題を再考してみようとする、フェミニズムが開示した挑発的問題提起である。(p104)
 第二期フェミニズムは、性差はむしろ社会的、文化的要因から由来するとみなして、それを示唆する「ジェンダー gender」積極的意味を与えている。(p104〜p105)
 ジェンダー区別こそが、男性支配の最も精微なシステムであり、そのシステムを解明することが、フェミニズムの理論的作業である。(p105)
 ジェンダー論の問題提起で、哲学的に重要と思われるのは、第一に、従来の哲学的認識の暗黙の前提が再吟味されねばならないという認識論的問題と、第二に、今までの哲学の中にジェンダー論は本当に存在しなかったかどうか、もしそうでないならば、それはどのような隠された意味を担っていたのか、という存在論的問題である。(p105)

4.近代哲学とジェンダー
カントにおいてジェンダー論は、人間中心主義となった近代を支える陰の論理を導き出すための、やむをえぬ作業にすぎない。(p113)
 ヘーゲルによれば、形而上学の生成の基盤には、原理的なジェンダー問題がある。ロゴス形而上学の担い手は男性だが、彼が形而上学主体として屹立していくためには、その対立者としての女性との対立、闘争、征服のプロセスが必要不可欠なのである。(p113)

5.ジェンダー論の開示する地平
 イリガライのいう存在論的女性性は、脱男根化した女の多様なセクシュアリティに基づくものである。だが近代的男根中心的ジェンダー論を内面化した男性のみならず、女性もその問題をまったく忘却しており、自身の存在基盤に無知なまま不安定な生を浮遊しているにすぎない。(p115)
 ジェンダー論のからくりは、フェミニズムにとって主要問題であるばかりか、哲学にとっても自らの自覚せざる構造の認識にとって重要な問題となるはずである。(p116)


◆宗教へのフェミニスト・アプローチ
 女性と仏教・・・・源淳子

○女性抑圧としての仏教
 二十世紀も終わろうとするころになって、やっと女性の視点で宗教を捉えようとする動きがおこりつつある。また、宗教の中でも、キリスト教ではフェミニスト神学などのめざましい動きがあるのに対し、仏教は相当な遅れをとっているといえる。(p119)
 日本の仏教は、最初の出家者に女性を選出している。当時の時代背景に社会的に女性の地位がおとしめられたり、女性を不浄視する傾向がなかったことを示している。(p119)
 日本の仏教は支配階級と結びついた国家仏教となったため、その後出家者を選ぶにしても、彼らの目的にかなう人を選出することになった。(p120)
 国家守護を目的とする仏教は、平安仏教にも引き継がれた。特色は男性中心主義の仏教に強化された。(p120)
 鎌倉期の仏教は、女性や底辺の人々を対象に教えを説く仏教者が現れた。(p123)
 宗祖といわれる仏教者の出現によって女性の心の救いは成り立った。女性がおかれた苦悩の状況を信仰によって切り抜けられたこと、また信仰によって精神的に安定した生活を送った女性のことも忘れてはいけない。(p124)
 歴史が家父長制移行するにつれて、女性抑圧、女性の不浄観が強まってきた。(p124)
 女性として生まれることが女の業にまで拡大解釈され、女性であることが罪なるものであるように変化していった。女性を罪なる存在へ決定していった要因を作ったのも仏教であり、その救いも仏教によるしかないという構造を示している。(p125)
 こうした仏教の女性観は、より強く封建体制を支持し、家父長制度は堅固なものになった。(p127)

○仏教フェミニズムをめざして
なぜ私が今一度仏教をと叫ばねばならないのか。現代においてなぜ仏教が必要なのか。一つは人の心の問題であり、二つには人が真理を知りたいという欲求の問題であり、三つには仏教の中に男女平等の思想を見出すからである。(p129)
 第一の問題は、過去の歴史が物語るように、人類の多くが宗教を求めてきた事実である。(p129)
 人の欲求として真理を知りたいという理由を挙げることができる。(p130)
 仏教は一方で明らかな女性差別がみられる。しかし、仏教の中でもやっと女性の視点をとり入れていこうとする動きが出てきた。だからわれわれは今、仏教を見直そうというのである。(p130〜p131)
 仏そのものが男性でもなく女性でもないという面と、男性でもあり女性でもあるという両性具有的な面をもっているという考え方がある。(p131) 


■U労働と身体

◆生活資料の生産と生命の生産
 女性史は成立するか・・・・水田珠枝

1.男性の歴史と女性の歴史
 支配的な思想は、支配する性すなわち男性の思想であった。このことがまず、女性史、女性解放思想史の成立を困難にする。(p139)
 人間社会には、階級差別と次元のちがうもうひとつの差別、すなわち性差別が存在し、そして女性は、階級支配と性支配の二重の抑圧のもとにおかれてきたことを認めないわけにはいかない。(p140)
 
2.女性史論争
 男性の陰に隠れ、独自の活動を持たない女性は、継続的歴史も持たない(p142)
 男性の陰に隠れた女性の状況こそ女性の「前史」なのだ(p142)
 「前史」とは女性の従属の記録であり、女性が自分の生活の主人になるまでの歴史である。女性唯一の歴史は、受動の歴史、負の歴史の「前史」なのであって(p142〜p143)
 女性という共通の性を持つ人類の半数は、太古から現在にいたるまでの長い時間を、何を目的に生きてきたのだろうか。女性の生活には発展があったのだろうか。あったとすればそれはどういうものなのか。(p144)

3.生活資料の生産と生命の生産
 生活資料の生産と生命の生産とは、不可分の関係にあり、循環しあい、規定し合っているのである。生活資料生産は、性別にかかわりなく、単独であるいは共同で行われるが生命の生産は、一対の男女が協力し、しかも負担の大部分は女性にかかってくる。(p146)
 多産は貧困をもたらす。物をつくりだす男性は尊敬されるが、命を作り出す女性は軽視される。相互依存関係にあるはずの生命の生産と生活資料の生産は対立し、生活資料の生産が生命の生産を、男性が女性を支配することになる。(p148)

4.家父長制

生活資料の生産と生命の生産が、家族を単位としておこなわれるために、生産活動で優位にたつ男性=家長が絶対権をにぎり、唯一の財産所有者となって、家族員の生活を保障するというかたちをとりながら、かれらの権利も人格も労働も、一身に吸収してしまう。(p148)
 この制度のもとでは、女性の経済的、人格的自立の可能性は失われる。(p149)
 男性の状態は、階級関係によって規制されるのに対し、女性の状態は、階級と性の二重の制約を受ける。そして、階級関係を維持する組織が国家であり、両性関係を維持する組織が家父長制なのである。(p149)

5.近代社会と女性
 女性の解放の自覚は、近代にはいり、とくに封建的秩序からの人間開放に触発されて生まれた。ところが、封建的権力および共同体的拘束からの個人の解放を主張した男性は、女性を解放して自分たちと同等の人間にすることを拒んだ。(p152〜p153)
 市民社会が、性支配を解消するどころか、反対に性支配のうえに築かれていることを意味している。(p153)
 近代史のなかで、女性が、男性との距離をちぢめ、自己主張する時期は、家父長制の弛緩の時期と対応する。そのひとつは、封建制のくずれはじめたルネサンス期であり、もうひとつは、十八世紀後半から始まる産業革命期である。(p154)
 産業革命を経過し上昇する産業資本は、女性に対する性的抑圧のうえに階級支配を貫徹し、没落階級は、家父長制の擁護にありしよき日をもとめ、女性への抑圧に、没落の代償をみいだそうとする。(p154)


◆社会主義とフェミニズム
 マルクス主義フェミニズムとその理論的射程・・・・久場嬉子

はじめに 
 マルクス主義フェミニズムはその理論的、思考的基盤を、なによりも市民的−社会主義的伝統においている。(p156)

1.マルクス主義フェミニズムとその市民的−社会主義的基盤について
 マルクス主義フェミニズムは、第一に市民的伝統に依拠するとはいえ、女性の権利の平等の実現を、近代市民社会の延長に展望するのではなく、それをマルクス主義の資本制生産様式の理論によって批判的にとらえ直し、第二に、社会主義的伝統を継承するとはいえ、女性抑圧の根源を階級支配に解消させ、女性抑圧からの解放を、階級解放に単純に同化させることを批判する。(p159)

2.マルクス主義フェミニズムの問題枠組−資本制生産様式と家族
 資本制生産様式という労働力商品化体制は、女性の無償な労働から成りたつ家族を、その成立のための不可欠な契機として位置づけていた。(p163)
 資本主義社会における女性抑圧は、ほかならぬこのような構造的特質に深くかかわっている。資本主義成立のためには、女性を母性イデオロギーによって、「産む性」として家族に結び付け、そして家族の中で行われる労働力商品化体制の成立のために不可欠な、しかし形式的にはこの様式から除外されている労働や生産を、女性総体に専らゆだねておく必要がある。(p163)
 マルクス主義フェミニズムにおいては、生産と再生産の全体のシステムが、つまり「再生産」システムこそが問題となる。(p163)

3.マルクス主義フェミニズムと現代−社会変革の理論の構築をめざして
 今日の資本主義の変容や危機への対応に関しても、マルクス主義フェミニズムと現体制を批判するマルクス主義やエコロジー、あるいは他のフェミニズムとの対話あるいは対決が、不可欠となっている。(p164〜p165)

・社会変革の主体の形成
@社会的生産の責任と、ひろく労働力の直接的再生産責任との二重役割を担う、女性労働者である。(p168)
A労働市場から特殊な形で除外され、周辺部分に追いやられ、したがってやはり資本主義社会のトータルな変革を求めざるをえない一群の専業主婦層。(p168)


◆エコロジカル・フェミニズムとマルクス主義フェミニズム
 エコロジカル・フェミニズムの地平をさぐる・・・・足立眞理子

1.エコロジーとフェミニズム(ヨーロッパと日本)
 ヨーロッパにおいてエコロジカル・フェミニズムという場合、フェミニズムからのエコロジーへの接近という回路を通ってなされています。(p170〜p171)
 日本における、エコロジーとフェミニズムの関係は、70年代以降の、主としてエコロジカルな視点を持つ多くの市民・地域住民運動の興隆の中で、主体的にかかわった層が女性、とくに主婦層であったという具体的な運動のありようから接近したものであるということです。(p171)
 エコロジカル・フェミニズムにおける自然認識もまた、フェミニスト人類学の到達した知の水準に呼応しつつ、自然/文化の二項対立という枠組の解体・そこにある男性中心主義的認識への批判視座を内部化し、自らの近代産業社会批判の軸である、生産力中心主義・現代科学技術の中立性に対する批判と、対応させなければならないでしょう。(p172)

2.マルクス主義フェミニズムのアポリア
(上述により略)

3.エコロジカル・フェミニズムの地平を求めて(マルクス主義フェミニズムを「読む」)
 エコロジカル・フェミニズムは、資本にとって「外部化」されたもうひとつの項、すなわち自然−外的自然としての環境、内的自然としての身体、そして人間と自然の労働・物質代謝過程としての自然領有−を、フェミニズムの側から逆噴射しようとするものであります。(p179)
 エコロジカル・フェミニズムは、これまでのフェミニズムにおいても、周辺化されていた問題を”自然・身体”から逆噴射しつつ、いわば”社会”を、複数の多様な「主体」の共鳴しあう場としてとらえるなかで、新たな女性主体の水位を身体の多様性のうちに発見しようとするものではないかと考えます。(p182)


◆フェミニズムにおける二つの「近代」
 「近代」とフェミニズム〜歴史社会学的考察〜・・・・落合恵美子

3.「母性主義」とは何か

 「母性主義」の理論的骨格は意外に単純だということだろう。基本にあるのは秩序と渾沌あるいは文化と自然という、西洋思想おなじみの二元論である。そして男女の間に本質的な性差を認め、男性性を前者に、女性性を後者に対応させ、後者による前者の批判という反近代主義的な価値評価を付け加えれば、「母性主義」ができあがる。(p184)

4.フェミニズムの歴史社会学
 思想史をふりかえって気づくのは、フェミニズムは「近代」を陰に陽にさまざまに論じながらも、自分自身も近代史の中にどっぷりと埋め込まれているということである。(p188)
 フェミニズムは「近代家族」とともに誕生した。近代社会を構成する公的領域と家庭領域との齟齬が、フェミニズムを生み出したのである。近代社会は「幻想として女性を外におきつつ、内部システムの一部とする」ということの内実は、母性主義的な「永遠の女性」幻想をはぐくむ「近代家族」もまた、社会からの「避難所」なでではありえず、近代社会の半分を支える近代的制度なのだということであった。(p195)


◆身体史からみる「近代」
 身体史の射程〜あるいは、何のために身体を語るのか〜・・・・荻野美穂

1.「身体を歴史的に見る」とは
 西欧型近代化をなしとげた現在の日本社会に生きる私たちもまた、ほとんどの場合すでに近代的身体感覚や価値観、性規範などを根深く内面化してしまっているからであり、もしも私たちがそうした点をあらかじめ自覚せずに過去の社会に向かっていくならば、自らの身体を規準として、異質な社会に生きてきた過去の人々の身体や行動を裁断するという愚をおかすことになりかねない(p202)

2.「性」を持つ身体
 性の違いとそれに由来する体験の違いは人間社会のからくりを理解するための基本的に重要なファクターであるにもかかわらず、伝統的な歴史学ではそのことがほとんど認識されてこなかった。(p205)
 女性史においては、女自身が身体をいかに定義しなおすかが取り組むべき重要な課題となる。(p206)
 女の性と身体は、女を家事育児などの家庭役割に結びつけさらに外の世界への平等なアクセス権をを拒む場合の究極の根拠としてつねに持ち出され、女を男から差異化するための基本的ファクターとして機能してきた。(p208)


……以上……

フェミニズム  ◇2002年度講義関連BOOK
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