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『心をたがやす』

浜田 晋 岩波書店,シリーズ生きる,257p.


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浜田 晋  199405 『心をたがやす』,岩波書店,シリーズ生きる,257p. ISBN-10: 4000038117 ISBN-13: 978-4000038119 2446 [amazon][kinokuniya] ※ m.

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出版社/著者からの内容紹介
精神科医40年.障害者や恵まれない老人を献身的に診続けてきた硬骨の精神科医が,自らの歩んできた足跡を振り返り,生きて行くうえで何が最も大切か,強烈な現代社会批判をまじえつつ,その熱い思いを綴る.

内容(「MARC」データベースより)
精神医療の過疎地である東京の下町に私財を投じて精神科クリニックを開設した硬骨の精神科医が、自らの歩んできた足跡を振り返り、強烈な現代社会批判をまじえながら、生きて行く上で何が大切かを綴る。*

■目次


前編 生きる場と出会い―私の「生」を中心に
 居場所の喪失―街の崩壊の中で、あたりまえに生きる老人たちの強さ―山村の崩壊の中で
 心を育てる場としての家族
 私にとって学校とは
 そして戦争
 戦後―医師への出発
 精神科医への道―医師、看護師、患者との出会い
後編 いのちの基礎にあるもの
 食べる―飢えから食の文化へ
 飲む―いのちの源
 住む―人間到るところ青山あり
 眠る―いっときの死を求めて
 排泄する―糞尿をこやしとする思想
 家事―暮しの重み
 働く
 遊ぶ―はじめに遊びありき
 産む、育てる、教える、病む、ともに生きる―かぎりなき人々との出会い
 生き、老い、ときに呆け、死ぬ―そして祈り

■引用

 「学生時代から、漠然と、精神科へある種の魅力を感じていた。フロイトの無意識の世界など、なんとなくうさんくさく魅力的であった。戦後の混乱期、闇屋をやりながらの学生時代の中、そんなうす暗がりの世界へあこがれていたのであろう。志望に「何科?」と問われると、いつしか「精神科」といつも答えるようになっていった。
 そのロマンを一瞬にして破壊してくれたのが、インターン時代のあの娘の叫びであり、つづく一週間の体験であった。私はうちのめされた。<0082<
 「鍵の中の世界」はほとんど地獄であった。あの臭気、患者たちの悲惨なくらし、そして「医師」の無法さ―― 広い廊下の真中に医師が坐る。電気ショック治療の開始である。屈強の男がいやがる患者を次々とひきずって来て、頭に一〇〇ボルトの電流を数秒ながす。全身の痙攣発作をおこし、無意識になった患者は次々と畳の病室にねかされて行く。「今日は誰が電気をかけられるのか」、大多数の患者は恐怖におののき、遠まきにそれを見ているのである。
 そしてひと仕事終って、通された応接室には、豪華なジュウタン、家具調度品、そしてコーヒー(当時はまだ高価でとても口にできない)などが運ばれて来る。後めたさの中でも、そのコーヒーのうまさは忘れられなかった。
 すでに最新のロボトミーも行なわれていた。脳外科医がやるのではない。普通の精神科医がチョイチョイと手を洗って、頭蓋に穴をあけ、脳にメスをつっこみ、全く手さぐりで「この位でいいか」などと言いながら、実施するのである。モーニッツが一九三五年に始めた頃は、慎重であったようだ。適応症もきちんと決めて実施し、その後も十分にフォローしている。それがわが国に導入され、大学から大精神病院そして末端の精神病院へと流行してゆく過程で、適応症の規準もやり方もきわめてズサンに、ただ患者を「おとなしく<0083<させる手段」として手当たり次第に行われ出す。「もうかるから」と流行してゆく。
 私は、目の前の「精神医療」の現実に、大きな衝撃をうけ、精神科医への道をいったんあきらめた。逃げようとした。しかし今でもあの世界が私の頭の一極に鮮烈に残っている。 「鍵の内の世界」は、私がかつて見た「軍隊生活の世界」、不条理の世界であった。私はそこにある種「権力者」として身をおくことにおそれと戸惑いを感じたのである。」(浜田[1994:82-84])
 →電気けいれん療法/電気ショック精神外科:ロボトミー・…

 「そして私は少しずつ精神医療が面白くなっていった。燃えるものを感じた。
 「日本脳炎後遺症の病理」という仕事をやる一方で、私は「遊び治療」の仕事を始める。二足のわらじである。
 当時の松沢病院は「作業治療」を中心に治療体系が組み立てられていた。たしかに仕事は人を変える。仕事をうばわれると日本人の多くは死んだようになる(もっとも昨今の若い人はちがってきたが)。しかし仕事は一方で人をしばる。仕事の中に埋没すると、個性が失なわれることもある。仕事のできない患者は、落ちこぼれと棄てられることもある。<0096<私はその落ちこぼれ患者に眼をつけた。入院歴三〇年から四〇年、高度欠陥状態にあり、クレペリンが人格の荒廃とよんだ典型的な精神分裂病で、病院の中でも、棄てられていた男五人女五人を集め、中央講堂で、看護者三名と私と一緒に約一年間ほとんど毎日遊んだ。昭和三九年頃である。」(浜田[1994:95-96])

 「ここで私の考えに「治療」とは、ある一定の条件下で、正常人ときわだって異なる行動特性を取り出し、それをねらって、どこまで正常人に近づけることができるか――ということを意味する。
 「皆で一緒に遊ぼうという意識の欠落――状況のいかんにかかわらず鋳型にはまった融通のきかない行動の常同的な繰り返し」を分裂病者そのものの特徴的な行動様式ととらえ、<0100<それを何らかの外的な治療的試みでどこまでなおせるかということである。「治療」とよぶかぎり、それが可能でなければならない。「遊び治療」が果たしてなりたつか? という設問である。
 しかし私たち三人は、一年後絶望していた。「隣りまわし」はすぐとれたが、二、三の患者の固有現象は頑として「治療」に抗し、球は全体として一向に平均に分布することはなかった。あまり強く指示すると、彼らは球をもったまま茫乎として動かず昏迷の状態にまでなった。
 私たちの「治療」によって、かえって病状は悪化したのである。ある看護婦は言った。「この治療法は失敗かもしれませんが、私は分裂病という病気が少しわかったような気がします。新しい道を考えてみましょう」と私を慰めてくれた。」(浜田[1994:100-101])

 「ちょうどその頃忘れられない一人の医師との出会いがあった。小坂英世。昭和四〇年頃である。私より四つ年下。彼は昭和三六年頃から宇都宮を中心に、保健所を拠点とした「地域活動」をすさまじいエネルギーでやり、喧嘩して(彼は行く先々で喧嘩をする才能があった)、栃木から松沢病院へ、大きな登山靴をはいてやって来た。骨格のがっしりした男。射るように人を見て、大声で断定的にしゃべり、声高に笑う。酒を飲んではどぎついY談を得意とする。一方きわめて几帳面なところがあって、定時に出勤してきて(これは松沢病院では稀なこと)、受持病棟へ行ってちゃんと看護婦の引き継ぎに出て、きわめ<0103<て辛辣な質問を発し、私たち大勢の医師が出動する(おおむね一〇時)頃には、もう医局に 引き上げてきて、大声を発している。
 とにかく魅力的な毒をもった男だった。
 昭和四一年、小坂は精神衛生法改正(精神病院入院中心主義から地域精神保健活動へというキャッチフレーズ)にもとづいて精神衛生センターが設置され、松沢を去る。
 そして主として荒川区町屋に小坂の肝煎りで民医連峡田診療所(現在荒川生協病院となり畏友岡田靖雄が働いている)に、精神科ナイトクリニックを開き、松沢の中堅医師が六名交代で診療を始めた。これが私の後半生を決定づける体験となる。
 診察室にいると保健婦松浦光子が「これは先生、こういう家で、家族は……仕事は……こういう状況の中におられます」と社会的背景を語ってくれた。
 一人の分裂病者を診るだけでなく、その人がどんな環境の中でどんな暮しをしているのか――晩年の私の主題への道を開いてくれたのである。もはや「精神分裂病」という一枚岩へのアタックよりも、一人一人の分裂病者の暮しが私の視野にひろがってくる。
 そして私は、松沢病院を去る。
 私を育てはぐくんでくれた松沢村を、苦い思いを残しつつ去ることとなった。<0104<
 昭和四三年の春である。当時わが国は高度経済成長のまっただ中にあり、繁栄への道をひた走る。
 そこに東大闘争があった。

 (3) 再び東京大学精神科教室へ

 私には苦い経験となった「遊び」の仕事は、「分裂病の行動学的研究」として評価され、当時の東京大学教授臺(うてな)弘(もと松沢病院医長)に望まれて岡田靖雄についで東京大学へ移った。
 当時の東京大学は、学生運動の火中にあった。インターン廃止闘争に始まり、医局講座制の改革を旗印に、青年医師たちは異議を申立てた。それは大学の教育のあり方、管理体制への反発から全学に、やがて全国に拡がって行った。はやっていたのが「封鎖」である。
 学生たちは色とりどりのヘルメットをかぶり(三派全学連とよばれたが、そのセクトは複雑に乱れ、方針の違いから内ゲバまで始まる)、やがて角材まで持ち、大学内のあちこちを「封鎖」と称し出入りを禁止した。私も部屋を追われ、脳研の一室に引っ越すことになる。<0105<
 もともと私は、「大学」というところにあまり関心がなかった。教授を頂点とするヒエラルキーやその回診ぶり――大名行列とよばれていた――に象徴されるような封建制度や、私立精神病院との癒着など「おかしな世界だなあ」という思いがあった。
 所詮私は一匹狼であり、本来「組織」を好まない。
 しかし、幸か不幸か、その動乱の中にまきこまれることになる。
 私はここで東大関争の総括を述べるつもりはない。「コップの中の嵐」だったのかもしれない。しかし全く無意味な闘いであっただろうか。そうは思わない。
 少なくとも私の中では大きな変化がおこった。「今日の私」があるのも、その中で私が感じた"あるもの" のおかげであろう。いわば東大闘争の理念を社会の中で実践しようとしたことでもある。そこだけ若干のコメントをしておかねばなるまい。
 私は、当時の学生側に理があったと今でも信じている。
 「社会の中の東京大学とは?」「東京大学がわが国の社会に何をもたらしたのか」「その卒業生が権力構造の中心にいるのではないか」「自己批判」という問いかけは私の胸にも重く響いた。きびしい闘いの中で、私は反芻する。「患者にとって『医療』とは何か?」「社会の中で医者という存在はどういうものか」と。<0106<
 たしかに学生たちのすごいエネルギーには眼を見張らせるものがあった。しかし少しちがう。私たちの時代は飢えとの戦いであったが、当時の学生は「政治」に立ち向かおうとしていた。「泣いてくれるな、おっかさん!」と、東大生はプラカードに書き、安田講堂にたてこもった。勝つも負けるも、もはや良き時代の到来であり、学生運動もまたアメリカから海を渡ってやって来た流行だったのだろう。一種の遊びの季節の到来であった。
 それが本当に生き死にの造反有理の闘いであったなら、安田落城以来急速に衰退して行った運動は何を物語るのであるうか。泰山鳴動してねずみ一匹も出なかった。
 私にはそれどころでない事情もあった。高知の母が病み、送金せねばならないが、東大講師の給与では金がない。加えて闘争で手薄になった病棟(患者が二〇〜三〇人入院していた)を守らねばならなかった。私たち常勤医の三人交代による病棟当直である。やがて病棟派(闘争の主体)が外来派(教授を支持)を追い出してからというもの、看護婦もいなくなり、常勤医に負担がかかる。それに会議、会議の連続。日本人はなぜこうも会議を好むのであろうか。
 私は疲れ果てた。「闘争」もいいが、こんなことで死ぬのはいやだな、という思いが心をよぎる。<0107<
 昭和四四年、「闘争」に疲れ、私は放心状態となって上野から荒川あたりをさまようことになる。学生時代、その青春をすごした上野の地下街のうす暗がりで、私はなぜかほっと安らぎを覚えていた。
 そして東大闘争は学生の完全敗北で終る。私も一種の虚脱状態の中にいた。不安と焦躁といってもよい。その敗北感のうしろめたさの中で、なぜか私は東京下町に強くひかれていったのである。当時、荒川医でエネルギッシュな活動をしていた医師小坂英世と保健婦松浦光子にみちびかれて行くことになる。

 (4) 地域活動のはじめ
 昭和四四年四月、私は隅田川を渡って江東地区に入り、そこで数多くのいわゆる医療放置の悲惨な患者たちの生活を見た。
 今までの私の医療が、患者やその家族にとって何であったのかを――私はいやという程みせつけられる。ある雑誌にこんなことを書く。
 「私は今、はだしで江東地区の路地に立っている。
  どうしようかと途方にくれている。ポケットには何もない。患者に与えてあげるも<0108<のは何もない。患者を助けおこす力もほとんどない。助けおこしたとしても病院に彼らを運びたくない。一生鍵づめにされるか、すっぱだかで放り出されるか、そして今よりもっとひどいところから、またぞろ始めなければならなくなるだろう。今の私は地べたにしゃがんでじっと彼らを見つめるしかない。せめて側にじっとしているだけである。私はもう医者でなくなったのかもしれない。それでよい。そうならなければいけないとさえ思う。彼らと同じ地べたに立つことができるかどうかが、いうならば今後の私の生き方のせめてもの一つの支え――といえば倣慢な言い方になるだろうか」。
 私自身がほとんど患者になっていた。
 そこで私は精神科医としての後半生の生き様への大切な手がかりをつかむことになる。
 昭和四五年四月、私は東大を辞し、小林英世のあとを追って都立精神衛生センターに勤めはじめる。私の中の東大闘争の一つの帰結でもあった。そしてまた出合いは運命的なものであった。」(浜田[1994:103-109]) cf.小林英世

■言及

◆立岩 真也 2011/08/01 「社会派の行き先・10――連載 69」,『現代思想』39-(2011-8): 資料


UP:20110108 REV:20110707
浜田 晋  ◇精神障害/精神医療/…  ◇精神障害/精神医療/…・文献  ◇BOOK
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