『最高のQOLへの挑戦――難病患者ベンさんの事例に学ぶ』
ベンさんの事例に学ぶ会編 19940515 医学書院
■ベンさんの事例に学ぶ会 編 19940515 『最高のQOLへの挑戦――難病患者ベンさんの事例に学ぶ』,医学書院,141p. ISBN: 4260341499 [amazon]/[boople] ※ als. n02.
cf.
◇立岩 真也 2005/01/25 「ALSの本・2」(医療と社会ブックガイド・45)
『看護教育』46-01:(医学書院)
1945 米国シカゴに生まれる
1968 カリフォルニア大学卒業
1974 来日。京都にて日本文化の習得
1978 冷子婦人と結婚。福井県へ転居、焼きものの修業開始
1981 独立して、幸炎窯開窯(以上p.2)
198903 症状を自覚
19890715 ALSと診断される
199003 蚊谷寺に引越
19900421 呼吸不全に陥り、県立病院へ緊急入院
19900522 退院
19920218 胸痛発作。緊急入院
19920220 逝去(46歳)
◆pp.13-14
「ベンさんが左上肢の脱力を自覚したのは1989年3月頃でした。その後、その程度は徐々に進行し、下肢の方にも筋力低下がみられるようになりました。4か月後の7月15日、福井県立病院を受診し、筋萎縮性側索硬化(p.13)症(ALS:amyotrophic lateral sclerosis)と診断されました。この時、ベンさんは診察にあたった宮地医師に告知を強く求めました。
病名を知らされた時、同伴していた夫人もろとも転倒するほどのショックを受けました。
その後しばらくは呆然自失の日々が続きました。当時の夫妻を知っている友人の窪瀬さんは、「もうそれ以上2人で持ちこたえられるような状態ではなかった」と言っています。告知された直後の気持ちをベンさんは日記に次のように書いています。
7月16日
昨日は不安になるような出来事が引き続いて起こった。身辺の整理をすることが大仕事のように思えた。死を迎えるということの現実的な局面に対処しなければならない。
不思議なことだが、健康で長生きできる人たちを羨む気持ちはない。昨日は英語を習いに来る生徒が美しく見えた。彼女たちの顔を覗き込みたくなるほどだった。教えることに集中するのが難しかった。しかし再び恐怖感に襲われた。」
◆pp.18-19
「1990年3月初旬、友人らの協力の下に、ベンさん一家は念願の蚊谷寺への引越を無事に済ませました。しかし、その頃より、呼吸困難が徐々に出現し、日毎に息苦しさは強くなっていきました。このような中で夫妻は、「共同制作活動をしていくことは無理ではないか」との危惧を少しずつ抱き始めました。
4月21日、ベンさんは呼吸不全に陥り、県立病院へ緊急入院しました。当初は、気管切開目的の入院であり、入院期間は2週間程度、と考えられていましたが、結果的に、術直後装着された人工呼吸器を外すことはできませんでした。
予想外の早期の人工呼吸器装着に夫婦は困惑しました。婦人は「こんな器械をつけて焼き物作りはできない」と悲嘆にくれていました。ベンさんは、主治医の説明や、アメリカの友人達の励ましの電話(「呼吸器をつけていても陶芸活動はできる」)を受け、人工呼吸器療法を受け入れました。その後、身体が呼吸器に慣れず不快症状が続き、陰鬱な表情で床上生活を続けていましたが、ベンさんは「長期入院は無意味」と考え、早期退院を希望しました。同時に退院後の介護について、「妻には仕事をおぼえて(p.18)欲しいので、介護専任にならないこと。介護についてはできるだけ他の人の援助を求めたい」と希望しました。
◆「「いかに闘うか」が大切なのだと教えられた
宮地裕文(福井県立病院神経内科医長)」
23
25-26
「四肢の筋力低下にともなうADLの悪化が進むにつれて、彼から提案する形で「呼吸が苦しくなったときにはどうするか」の話し合いを何度となくした。ほとんど彼と1対1の話し合いである。ALSに関する本を多く読み、米国の患者の実態を見聞きするなかで、彼にとってこの問題は大き(p.25)く、正面きって相対してきたのである。「呼吸が苦しくなったら死ぬまでどんな状態になるのか」「気管切開をすると食事や会話はどうなるのか」などの質問が多かった。決して最終結論が出せたわけではない。なるべく実例を挙げて説明するように心がけた。いつも話し合いの締めくくりは、「私の希望を尊重し、受け入れてくれるか」であった。
一般的には、呼吸困難になっても、本人からはめったに「どうするか」の話題は出てこない。担当医も、家族と話し合ってから、その結論に従って本人に納得してもらう方法をとることが多い。
すべての面で自分の意志が中心である彼の姿勢が本来の姿であるかもしれない。主治医としても、彼を説得して一定の方向に導く気苦労はいらなかったし、率直に話し合えたということが強く印象に残った。私自身も彼の希望を尊重し、そのために最大限努力したいと考えていた。周囲では、当然、気管切開レスピレーターも装着する、と思っていたかもしれないが。
26-27
「従来の経験から私たちも、レスピレーターを装着する時期には、会話や食事を自力で行なうことは困難であると判断していたので、彼にこの点で安心感を与えられなかった。こうした状況下で、彼自身は気管切開に対して躊躇する気持が強かった。
呼吸不全が進み、CO2増加による夜間の頭痛や、昼のもうろう状態が出現したために急遽気管切開をすることになったが、後に、米国の姉は反対(p.26)だったと話してくれた。
呼吸不全は予想以上に強度でそのままレスピレーターを装着しなければならなかったが、幸い球麻痺が極めて軽度だったために、食事摂取と会話が自力で十分にできた。会話に関しては、アメリカの専門ナース、メアリー・ベスの指導によるところが大きかった。これは我々にとっても大きな驚きであった。その後の彼の生き方を支える上でも、とても重要な要素となったと思われる。」
◆「2つの尊厳死」広瀬真紀(広瀬病院院長)
ベンさんの事例に学ぶ会編[1994:27-31]
1991年5月?
「*在宅丸1年の記念日。彼の周囲からもれてきたのは「安楽死」。
喋れなくなったら人工呼吸器をはずせ。
主治医としての答えはノー。
その時がきたらどう対処していいか。今は考えない。先送りだ。」([29])
30
「*寒くなって声がでなくなってきた。
安楽死と尊厳死は絶対に区別されるべき言葉である。同級生の弁護士が言う「日本で安楽死は許されない」。
解きようのない主治医に課せられた課題。
* 2年目の冬。全身状態極度に悪化。
今年もソアラは坂道を上がってくれない。
身体のむくみ、心肺機能の低下、そして心臓発作。
彼らは自ら答を出してしまった。永遠に先送りになった私の課題。
その後の彼を、安らぎの眠りのなかでじっと看ることが、私にとって彼の尊厳死になった。
父は、動けるあいだは、目的が達成できるあいだは、抗癌剤を拒まなかった。それが叶ったあと、抗癌剤を拒否した。私は、2年間、同時に2つの尊厳死を看ることになった。
父が死んだ1か月後、彼が死んだ。」
54-56
「b.メアリー・ベスの活動
5月21日の夜、宮崎村のベンさん宅に着いたメアリーさんは、翌朝、病院にいるベンさんに挨拶に行きます。この時、臥床状態で決められたケアを定期的に受けているベンさんに対して、「あなたはプライドを持っている。弱くない。される立場でなく、指示する立場をとった方がうまくいく」とはっきりと言ったそうです(ベンさんより)。22日の午後ベンさんは寝台車で退院しました。
退院翌日(23日)、メアリーさんはカニューレのカフの空気を調節する(抜く)ことにより自然発声が可能であることに気づきました。そして、宮地先生と相談し、「日中の安静時はカフ圧を上げないでおく」という方針がとられました。
それまで、読唇法、電気人工喉頭によってコミュニケーションをとってきたベンさんにとって、このことは大きな喜びでした。しかし、カフ圧を下げれば別の危険があるので、メアリーさんは、空気を入れて圧迫しなくてはならない場合(睡眠時、飲食時、大きな動作をする時)をベンさんに教えました。ベンさんはそのことを理解し、「空気を入れるとき・空気を抜く時」を自分で判断し、人に依頼できるようになりました。(p.54)
また同日(23日)、「人工呼吸器を着けることにより呼吸はむしろ楽になったはず、ベッドにいることはない」と言い、ためらわず車椅子に座らせました。(呼吸器をつけた状態での体動は、蛇管の振動がカニューレ挿入部を刺激するために、患者さんは安静をとりがちですが、メアリーさんは、動かしてはいけない部分、大きく動かさなければならない部分をきっちりと押さえて、巧みな腕さばきで、創部への振動を最小にして、体位変換、トランスファーを実施しました。)車椅子座位の実現は、家族団らんの場を再現することになり、また、屋外(の窯場)へ出ることを可能にしました。
夜間は、ベンさんを部屋で独り休ませ、介護者は隣室でメアリーさんと一緒に休むという方法をとりました。「用事があれば知らせる責任がある」とし、べんさんの枕元に微力で鳴るブザーをセットしました。「人工呼吸器を着けているから目が離せない」という介護者と病人の関係にお互いがならないように注意しました。」
114-115
「彼は、常にこの病気の療養生活にかかる多くの個人負担に憤り、公的な制度が不十分なら、福井県支部自身が経済的な基盤を持ち、対応できる力を持つことを主張していました。
県内や近県から、多くの患者・家族・医療関係者がベンさんの在宅療養の実際を見学にきました。富山の大道さんは、当時入院中でしたが、奥さんと2人の子どもさんがやってきました。ベンさんの在宅の様子を聞き、ビデオに収め「これならやれる」と確信をもって帰りました。そして、数か月後に在宅になりました。小川さんも、同様でした。ベンさん一家と患者家族が一緒に夕食を食べながら、在宅の様子を聞き、具体的な疑問を1つ1つ解決してゆきました。
そのほか、県内の患者家族からの相談の電話は頻回にあり、これは、妻の冷子さんが、多忙な中、丁寧に応対していました。
また、彼は、日本では入手しづらいゴム性のカニューレ接続管やカニューレ装着ベルトをアメリカの友人に頼んで送ってもらい、見学者に提供していました。(p.114)
b.支部活動の広がり
ベンさんが募金で購入した2台の呼吸器は、現在、2名の会員患者さんが1台ずつ使用しています。彼の在宅への挑戦は、彼に続く患者達に大きな影響を与えています。
ベンさん1人の支援から始まった福井支部ですが、今、それぞれ家庭の事情の異なる10名の患者の支援に拡大しました。また、会に入会していない患者家族や関係者も、会の存在を知り、県内だけでなく近県から、情報を求めて相談に来られます。
支部活動は、会員数や予算規模が年々拡大しています。現在、10名の患者会員の内、7名が人工呼吸器を装着しています。そのうち4名は、ベンさんの在宅療養がきっかけで、後に続き在宅に踏み切りました。
一方で、昨年はベンさんをはじめ、5名の患者会員がなくなりました。ベンさん以外は、人工呼吸器を着けていませんでした。その内の数名は、呼吸器を着けると家族に多大な負担をかけるからと、自らの意思で呼吸器を着けることを拒否しました。
この3年間、福井支部では、人工呼吸器の公的助成精度確立を中心に、行政への陳情を行ってきました。今後は、介護手当て制度や難病センターの設置等数多くの課題にも取り組んでゆく予定です。
(小林明子・日本ALS協会福井支部事務局長)」
123-125
「c.なぜ人工呼吸器を着けない自然死が頻発するのか
●手足になってくれる人がいない
幸い頭脳や感覚は正常で、手足になってくれる人がいれば、立派に人間として、いや社会人として通用する。ところが、その手足になってくれる人がいないばかりに、みすみす生命を失う人、自ら生命を絶つ人が後をたたない。家族も介護ができないから、人工呼吸器を着けずに自然死にしてという。医師も、「呼吸器を着けると大変ですよ」と、呼吸器を着けないように指導する。
やっと国産の人工呼吸器もできるようになった。わが国も、もっと手厚い看護・介護があれば、死なずに有意義な人生を過ごせるものをと、残念でならない。
●長期入院になると病院が赤字になる
家で介護できない場合は、病院での生活となる。ALS患者は当然長期入院になる。長期入院になれば病院は赤字になる。看護の手間がかかる、呼吸器を着けて何年も生きられたら困るのである。
病院も赤字まで出してALS患者を受け入れてくれないのは理解できるが、せめて重度障害になる神経難病だけでも、患者が長期入院しても、保険点数が下がらないようにしてもらいたい。診療報酬の改定をするか、筋ジストロフィー症のように措置扱いにしてもらいたい。そうすれば、家族が背負いきれないとき、病院がみてくれるので安心である。(p.123)
家族と社会の二人三脚でなければ、ALS患者は生きていけないのである。
d.「いたずらな延命」とは?
自然死、自然な死とは、人為的な延命を否定する言葉のようだが、医療は総じて人為的なものではないか。極端なことを言えば、薬を与えるのも、人為的に生かそうとしているのではないか。それらをすべて否定すると言うのか。
いや、そうではなく、「いたずらな延命を認めないのだ」というかもしれない。では、「いたずらな延命」とは何か。どこまでが「いたずら」でなく、どこからが「いたずら」なのか。その線をひくのは誰か。誰にそんな権利があるのか。
そもそも、医者は何のために存在するのか。疑問に思うようなことが、この頃身近な所で本当に起こっているのだ。
*
気管切開のときは、手も足も動かず、食べることも話すこともできない。この上、呼吸も器械に頼らなければいけない。何でこんなにしてまでも生きていかなければならないのか。
それに家族に大変な経済的、精神的な負担を負わせることになる。「このまま呼吸器を着けずに死を選ぶのが、家族に対する、真の愛というものではないか。」「いや、頭はおかされないのだから、意志が伝えられる間は、相談相手になれるはず、少しは役に立つのではないのだろうか。」丸太棒のようになっていても、ちょっぴりは存在価値があるのではと思う。
患者は誰も、この時とても悩み苦しむのです。その苦しみは死ぬか生きるかの選択だから、それは筆舌に尽くせない。
お年寄りが、何歳になっても死にたくないように、ALS患者も決して死にたくはない。自殺をする人も、家族を思い、または落胆して死んでいくのである。
どうか生かしてやってほしい。人間として、見てやってほしい。扱ってやってほしいと特に行政や医療福祉関係機関にお願いしたい。」
■立岩『ALS』での引用
「本人がはっきりと説明することを求め、医師がそれに応じた(応じざるをえなかった)少ない例として、ベン・コーエンの場合がある。彼は一九四五年にシカゴに生まれ、七四年に来日、七八年に福井県に移り住み陶芸家となる。
【175】 《ベンさんが左上肢の脱力を自覚したのは一九八九年三月頃でした。その後、その程度は徐々に進行し、下肢の方にも筋力低下がみられるようになりました。四か月後の七月一五日、福井県立病院を受診し、筋萎縮性側索硬化症と診断されました。この時、ベンさんは診察にあたった宮地医師に告知を強く求めました。/病名を知らされた時、同伴していた夫人もろとも転倒するほどのショックを受けました。/その後しばらくは呆然自失の日々が続きました。当時の夫妻を知っている友人の窪瀬さんは、「もうそれ以上二人で持ちこたえられるような状態ではなかった」と言っています。告知された直後の気持ちをベンさんは日記に次のように書いています。
七月一六日/昨日は不安になるような出来事が引き続いて起こった。身辺の整理をすることが大仕事のように思えた。死を迎えるということの現実的な局面に対処しなければならない。/不思議なことだが、健康で長生きできる人たちを羨む気持ちはない。昨日は英語を習いに来る生徒が美しく見えた。彼女たちの顔を覗き込みたくなるほどだった。教えることに集中するのが難しかった。しかし再び恐怖感に襲われた。》(ベンさんの事例に学ぶ会編[1994:13-14])
自分のことは自分で知らなければならない。彼はそう思っていたようだし、医師の側も、西洋の人はそんな人たちであるらしいことを知っていたから、伝えたのかもしれない。彼がその後のことをどのように考えて九二年までを生きたのかについては、右記した本に記されている。[506]でもすこし引用する。」
「医療者の側が勝手に本人の思いを推量し呼吸器の取り外しを推奨していると言いたいのではない。実際に本人が、ある状態になったら外してくれと医師に言うこともある。
【506】 ベン・コーエン[175]の主治医だった広瀬真紀(広瀬病院院長)、一九九一年五月。《在宅丸一年の記念日。彼の周囲からもれてきたのは「安楽死」。/喋れなくなったら人工呼吸器をはずせ。/主治医としての答えはノー。/その時がきたらどう対処していいか。今は考えない。先送りだ。》(広瀬[1994:29])。その後、ベン・コーエンは経管栄養を固辞、苦しみながら経口栄養を維持する。《彼と私との間のさまざまな心的苦労》(広瀬[1994:31])があって、一九九二年二月一八日、胸痛発作、緊急入院。二〇日逝去。」