『生と死の倫理――伝統的倫理の崩壊』
Singer, Peter,1994,Rethinking Life & Death,The Text Publishing Company,Melbourne
=19980225 樫 則章 訳,昭和堂,330p.
■Singer, Peter,1994,Rethinking Life & Death,The Text Publishing Company, Melbourne=19980225 樫 則章 訳,『生と死の倫理――伝統的倫理の崩壊』,昭和堂,330p. ISBN-10: 481229715X ISBN-13: 978-4812297155 2415 [amazon] ※ b be
■内容(「BOOK」データベースより)
「生命」とは何か!?脳死による臓器移植・精子バンクからの人工授精・もはや動物だけではないクローン、医療技術の発達と伝統的倫理の衝突。オーストラリア出版協会賞受賞。欧米では「死んでいる」人が日本では「生きている」。
■内容(「MARC」データベースより)
脳死による臓器移植、もはや動物だけではないクローン…医療技術の発達と伝統的倫理の衝突という、現代の状況に即し、人の「生と死」を鋭く問う。
■目次
日本語版への序文 1
序 5
謝辞 12
凡例 19
第一部 疑わしい結末
第一章 死後の誕生 22
アメリカでの実話 22
ドイツでの実話 25
私たちの選択 31
第二章 どのようにして死は再定義されたか 36
ピンク色でしなやかで、…そして死んでいる 36
「負担は甚大である」――死の判定に関するハーバード委員会 39
反対なき革命 46
脳死――誰がそれを信じているか 51
不徹底な妥協 54
第三章 シャン博士のジレンマ 57
二人の赤ん坊 57
呼吸しているが死んでいる? 62
「上部脳による死の定義」の根拠 66
脳死に反対して 71
事態は進展したか 76
第四章 トニー・ブランドと人命の神聖性 79
りっぱなお題目 79
トニー・ブランドの悲劇 80
生命の質にもとづく判断 89
罪のない人間の生命を意図的に終わらせることの合法性 93
イチジクの葉を捨て去る 95
人命の神聖性を越えて 99
行為と不作為 101
第二部 伝統的死生観の崩壊
第五章 不確実な始まり 101
ペギー・スティンソンの困惑 110
避けられない問題 113
中絶合法化の時代 119
新しい生殖技術と中絶論争 122
中絶論争の行き詰まりを打開する 131
第六章 生命の質にもとづく判断をくだす 137
レーガン政権はどのようにして「生命の質」の倫理を選択したか 137
死ぬための惜置 147
選択的治療停止と乳児殺し 162
第七章 死を依頼する 167
問題 167
解決か 178
どのようにしてオランダで自発的安楽死が可能になったか 180
死ぬ権利のためのこれからの闘争 185
滑りやすい坂を滑り落ちているか 188
戒律を破る 197
第八章 「種の不連続性」という考えを越えて 200
珍しい収容施設 200
誰の臓器なら取ってもよいか 205
神の似姿と宇宙の中心 207
攻撃された西洋の伝統 212
ホモとは何者か 216
人格とは何者か 225
第三部 整合的な取り組み方に向けて
第九章 旧来の倫理に代えて 232
倫理革命の構造 232
戒律を書き改める 235
いくつかの答え 225
生と死に対する新しい取り組み方の基礎 270
訳者あとがき 274
索引 i
注 xvi
参考文献 xxxii
■引用
序
P8
伝統的倫理は喜劇になったが、その喜劇は世界中の集中治療室のなかで多少の違いはあるものの何度も何度も繰り返されている悲劇でもある。一九八九年以来、少なくとも私にとってこの悲劇的な喜劇を象徴しているのは、シカゴに住む二三歳のペンキ職人、ルーディ・リナーレスが病棟に立ち、銃で看護婦を寄せつけないようにしながら、昏睡状態にある幼い息子のサミュエルを八か月間生かし続けていた人工呼吸器を取り外したときの姿である。サミュエルが呼吸器からようやく自由になると、リナーレスは息子を抱きかかえてあやした。それから半時間ほどしてついに息子が死ぬと、銃を下に置き、泣きながら自首した。リナーレスは人命の神聖性を主張する法律と伝統的倫理の両者に背いた。しかし、彼を駆りたてたものは、新たに姿を現しはじめた倫理的態度に一致していたのであって、この倫理的態度は旧来の倫理的態度よりも擁護可能であるし、それに取って替わるはずのものである(4)。
謝辞
P12
過去一四年間、ヘルガ・クースと私は本書で取り上げられた広範な分野についてともに研究してきた。私たちは互いに相手から学んできたので、私たちの考えはいつしか混ざりあい、もともと私自身の考えであったものと彼女自身の考えとを区別するのが今では困難なほどである。本書と彼女の『医学における「生命の神聖性」の教え――一つの批判』とを併読すれば、私がどれほど彼女に負っているかが誰にでもわかるだろう。ほんの一例を挙げれば、生命の神聖性を主張したいと考える人びとが医療倫理学で通常用いている区別――たとえば通常の治療手段と通常以上の治療手段との区別――は「実際には生命の質にもとつく判断がなされているのに、それを偽装するのに一役買っている」という彼女の指摘をおおいに活用した。また第六章では、私たちの共著『その赤ん坊は生きるべきか』を相当利用したし、第七章は、オランダにおける安楽死の実践に関する彼女の詳しい知識に多くを負っている。しかし何にもまして、ヘルガとの知的な親交、そして彼女の励ましがなければ、おそらく私はこの分野の研究をとうの昔にやめていただろうし、本書が書かれることもなかっただろう。
cf.Kuhse, Helga 1987 The Sanctity-of-Life Doctorine in Medicine : A Critique, Oxford Univ. Press. 230p.=20060610 飯田 亘之・石川 悦久・小野谷 加奈恵・片桐 茂博・水野俊誠 訳,『生命の神聖性説批判』,東信堂,346p. ISBN-10: 4887136811 ISBN-13: 978-4887136816 4830 [amazon] ※ b d01 ts2007a
第一章 死後の誕生
PP34-35
医療技術の進歩によって、これまでなら正面から取り組む必要のなかった問題について考えざるをえなくなった。脳の死んだ妊婦の体内にいる胎児の生命を守るために何もできなかった時代なら、生まれる何か月も前に母親が死んでいる胎児の道徳的地位を決定する必要はなかった。生まれつき脳のない乳児が数日中には必ず死んでしまい、しかも臓器移植が存在しない時代なら、「あらゆる《あらゆるに傍点》人間に生存権がある」と言うことは簡単なことだった。生命の価値に優劣があるかと問う必要がなかったのである。医師や科学者の「誰よりも先に次の医学の奇跡を起こしたい」という欲求に、私たち自身までもがいやおうなく駆りたてられようというのでないかぎり、今やこの問いを避けて通ることはできない。科学技術はそれができるなら、それをしよう」という規則を作り出し、倫理学は「それをすることができるとしても、それをしてもよいか」と問う。しかし、この問いに答えようとするときに私たちが拠り所とする倫理は、今ではほとんど誰にも受け入れられていない脆弱な基盤の上に立っている。混乱し矛盾した判断はその結果なのである。
第二章 どのようにして死は再定義されたか
P37
「脳が死んでいれば人は死んでいる」という考え方は、よく言ってかなり奇妙である。世界のなかで、人間だけが生き物であるというわけではない。生き物はすべて最後には死ぬ。そしてたいていの場合、それらが生きているのか死んでいるのか区別がつく。生死の区別は非常に基本的なものなので、人間にとって死であるものはイヌやオウム、エビ、カキ、ドングリ、キャベツにとっても死ではないだろうか。しかし、その場合、共通の要素は何だろうか。古典的な説明によれば、死とは「生命維持に不可欠な体液の流れの不可逆的停止」であった(1)。この説明では、生き物は生命維持に不可欠な体液をもっていると想定されている。それらは血液であるかもしれないし、樹液であるかもしれないし、そのほかのものであるかもしれないが、それらの流れが永久に止まれば、生き物はすべて死ぬのである。
残念ながら、死の伝統的定義は循環論になっている。ある体液が「生命維持に不可欠」であるかどうか、どうすればわかるだろうか。その体液が流れるのを永遠にやめたときに生き物が死ぬかどうかを確かめることによってである。では、その生き物が死んでいるかどうか、どうすればわかるだろうか。生命維持に不可欠な体液が流れるのをやめているかどうかを確かめることによってである。こうして振出しに戻ってしまうのである。けれども、長い間この伝統的定義で十分うまくいっていた。一九六八年になって、ようやく『ブラック法律学辞典』第四版が循環論の難点を免れた次のような死の伝統的定義を載せた。「死 生命の停止。存在するのをやめること。医師による定義では、血液循環が完全に停止し、かつその結果、呼吸や脈搏等の動物的、生命的諸機能が停止すること(2)」。
PP54-56
これまで述べてきた脳死に関する説明が示しているのは、脳死とは方便だということである。脳死という考え方が提案され受け入れられたのは、それによって本来なら無駄にされる臓器を無駄にせずにすみ、治療がまったく利益をもたらさなくなった時点で治療を中止できるからである。この根拠にもとづけば、いくつかの根本的な弱点があるにもかかわらず、脳死という概念が生き残る見込みは高い。ところが、脳死に関する私たちの現在の理解が徹底していない理由が二つある。この場合も、医学的知識と医療技術の進歩がその源因になっている。
第一の問題を理解するには、脳死が一般に「脳の全機能の不可逆的停止」と定義されていることを思い出さなければならない(22)。この定義に従って、すべての脳機能の不可逆的停止を確認する標準的な一組の検査が医師によっておこなわれる。それらの検査は「九六八年にハーバード脳死委員会によって勧告されたものとおおむね変わらないが、何年ものあいだにさまざまな国でさらに洗練され更新されてきた。たとえばアメリカでは、大統領委員会が専門の諮問委員を任命し、なされるべき検査について一致した見解を得た。ところがこの一0年の間に、医師たちは臓器を(場合によっては妊娠を)もっと長期間にわたって維持できるように脳死状態の患者の管理方法を探ってきたのだが、通常の検査が脳死状態が生じていることを示している場合でも、いくつかの脳機能が持続している事実が判明した。脳は第一に感覚と神経システムによって情報を処理していると考えられている。しかし、脳にはほかにも機能がある。その一つが、種々のホルモン(たとえば、日本の医師たちが点滴によって代行することのできた抗利尿ホルモン)を分泌して、いくつかの身体機能の調節を助けることである。今では、標準的な検査では脳死状態にあるとされるたいていの患者の脳から、これらのホルモンのうちのいくつかが分泌されていることがわかっている。さらに、臓器を摘出するために脳死患者を開腹すると、患者の血圧が上昇し心搏が速まることがある。これらの反応が示しているのは、脳がその機能のいくつかをまだ果たしていて、身体の諸反応をさまざまな仕方で調節しているということである。その結果、脳死の法的定義と、脳死の人が死んでいることを確認するさいに医療現場で現在おこなわれていることとが分裂しているのである(23)。
医療現場でおこなわれていることを脳死の定義に一致させることができないわけではない。ところがその場合、人が死んでいると宣告する前に、医師はホルモン分泌の機能を含めて脳のすべての機能を検査しなければならなくなる。そうすると、現在、脳死と宣告されている人のなかには、生きているとみなされ、したがって人工呼吸器につながれて生命維持治療を継続されなければならない人がいることになるだろう。しかもその場合、費用の点でも、家族の悲嘆がさらに増すという点でも、莫大なコストを生じるだろう。また、脳機能の有無を確認するそれらの検査は高額であることに加えて、それ自体時間がかかるので、たとえ結果的に患者の脳がまったく機能していないことが判明したとしても、検査がおこなわれているあいだも生命維持治療を継続する必要がある。さらに、この期間中、患者の臓器が損なわれ、そのために移植に使えなくなるかもしれない。こういった重大な不利益にまさるだけの利益は何一つ得られないだろう。脳のホルモン分泌機能を検査する必要から人工呼吸器に長期間つながれても、誰一人として意識を回復する人はいないだろう。
したがって、医療の実践を変更して、死の定義にそうようにすることはよい考えではないように思われる。脳死の定義のほうを現行の医療現場にそうようにさせるほうがよいのではないだろうか。しかし、脳死をすべての脳機能の不可逆的停止と考えることからいったん離れれば、代わりに何をもってくればよいのだろう。私たちは脳のどの機能が生と死の違いを示す指標だとみなすだろう。そして、そのときの根拠は何だろう。
第三章 シャン博士のジレンマ
PP71-74
上部脳による死の定義への変更がどれほどもっともらしいことだとしても、王立小児病院の合意形成委員会でこの提案が述べられたとき、私はそれを認めることができなかった。そのために、私はめったに組むことのない人たちの側に――つまり、この問題に関して、無脳症児や皮質死状態の乳児から臓器を摘出することに断固反対する人びとと同じ側に――立つことになった。しかし、私のなかの哲学者の部分が実践的改革者の部分と衝突し、哲学者のほうが勝った。私が思うには、全脳死という考え方はすでに多少とも欺瞞であり、医学的事実を装った倫理的選択だった。上部脳による死の定義へと動きだせば、すでに疑わしい欺瞞をさらに押し広げることになるだろう。スティーヴ・キーリーが言っていたとおり、この定義ではうまくいかないだろう――棺桶の蓋が釘で打たれているあいだもまだ心臓が動いている「死体」を誰が埋葬しようとするだろうか。
私のジレンマは、すでにうまくいかなくなっている何かもっと大きな問題を反映していた。しかし、それは何なのか。国際的にはかなりの割合で、全脳死が法律的に人間の死と認められるようになっている。そして、いまや上部脳の死を診断する信頼できる方法がある以上、上部脳の死を死の判定基準とするほうが、全脳死を死の判定基準とすることよりもいっそう《いっそうに傍点》論理的である。上部脳の死という死の判定基準は私たちの誰もが受け入れている死の判定基準よりも筋が通っていながら、同時にまったく馬鹿げてもいる。どうしてこんなことがありうるのだろうか。
合意形成委員会での審議に参加するうちに、私は脳死についてもっと厳密に考えるようになっていた。問題がどこから始まっているのか理解しはじめていたのである。ハーバード脳死委員会は二つの重要な問題に直面していた。回復の見込みがまったくない患者が人工呼吸器につながれていながら、誰もそのスイッチを切ろうとしない。生命を救うために使うことのできる臓器は、潜在的な臓器提供者の血液循環が止まるのを待っていれば役に立たなくなってしまう。委員会はこれら二つの問題を「脳の観察可能な活動が止まった人を死者の側に分類する」という大胆な方便によって解決しようとしたのである。この死の再定義は、その結果が望ましいものであることが明らかだったので、反対論にあうことはほとんどなく、たいていどこででも認められた。それにもかかわらず、それは初めからまちがっていたのである。定義し直すことで問題を解決しようとしてもめったにうまくいくものではない。そして、この場合も例外ではなかった。
全脳死を――そして全脳死だけを――死の指標とみなすべきほんとうに満足のいく理由はなかった。しかし、ようやく今になってこのことが明らかになった。今ではどこの大病院でも脳が完全に機能停止しているわけではない人びとを医師が日常的に死者の側に分類していることがわかっている。「すべての脳機能が停止していないかぎり、人は死んでいない」と私たちがほんとうに信じているなら、このことは次のことを意味するものと理解しなければならない。すなわち、臓器が他の患者に提供されるようにするために、医師は生きた患者から心臓や肝臓や腎臓を日常的に取り出している、ということである。「死んでいると宣告された患者の脳がまだ機能していた」という事実が名のとおった医学雑誌に発表されているのに、私の知るかぎりではその事実が問題になったことはない。では、その事実を報道した新聞の見出しや、その事実に驚いた大衆の反応がどこかにあるだろうか。どこにもないのである。それはどうしてだろう。私の推測では、私たちは死の全脳基準に関する厳格主義者ではないからである。私たちは脳死のもっと厳格な解釈に戻ることに全然関心がないのである。というのは、脳死の厳格な解釈に戻るということは、要するに、ハーバード委員会の出発点となった問題を私たちが解決していないということを意味するからである。強いて言えば、私たちはほんとうはこう考えているのである。「脳の一部が機能し続けていた」という事実があるからといって、その事実が「その患者は意識を回復したかもしれない」という可能性を示唆するのでないかぎり、脳のすべての《すべてのに傍点》機能が停止していようと、一部が機能し続けていようと、そんなことは重要ではないのだと。
では、これに代わる考え方にはどのようなものがあるだろうか。次のような人びとにたいしても死を宣告するべきなのだろうか。すなわち、周囲に機械がなく、ベッドに横たわっているにすぎないときでさえ、暖かくてピンク色でしなやかであるばかりでなく、長期間にわたってその状態のままである――しかも自分で呼吸している《しかも自分で呼吸しているに傍点》――人びとである。『鏡のなかのアリス』に出てくる「赤の女王」のように、毎朝三〇分間、不可能なことを信じる練習をすれば、なんとか信じることができるようになるかもしれない。しかし、信じることができなければ、私たちは擁護できない立場に立つことになる。出発点となった問題に別の仕方で取り組んで、もう一度はじめからやり直す必要がある。
私が合意形成委員会に示した提案は、「無脳症児や皮質の破壊された乳児は法律的に死んでいる」と宣告することができるように死の定義を変えることではなかった。それよりも、無脳症児と皮質の破壊された乳児とを正確に定義したうえで、乳児がそのような状態にあるとまちがいなく診断できれば、生きているそれらの乳児から合法的に臓器を摘出することができるようにするほうがよいのではないか、ということだった。この提案は一人か二人の委員に支持されたが、他の多くの委員を悩ませた。彼らは「人間は生きているか死んでいるかのいずれかである」と考えたがっていた。適切な条件を満たしたうえで死者の臓器を取ることはできるが、人間は生きているかぎり、他のどんな人間ともまったく同じ保護を受ける権利がある、と彼らは考えていたのである。
こうして、委員会は三つに別れた。ある委員たちは、無脳症児と皮質死の乳児は法律的に死んでいると宣告されるべきだと考えていた。別の委員たちは、そのような乳児は死んでおらず、したがって臓器提供者になりえないと考えていた。そして私を含む他の委員たちは、このような乳児は死んでいないけれども、臓器提供者になりうると考えていたのである。
第四章 トニー・ブランドと人命の神聖性
PP79-80
人命それ自体に価値がある――誰もが好んでこう考えたがる。こういった崇高な考えのおかげで、自分がほんとうに重要だと思っていることが制約を受けてしまうことでもないかぎり、人はこの考えをろくに吟味もせず受け入れる。ところがある日、この考えのせいで、明らかに無意味なことや、大きな災厄を招きそうなことをせざるをえなくなっていることに気づく。そこで、かくも安易に受け入れていた人命それ自体の価値というりっぱなお題目をもっとよく検討し、どうしてそんなお題目をそもそも信じるようになったのかと考えはじめる。
P88
ある点で、この問題に対するイギリスの取り組み方は常識そのものだった。マスティル卿が貴族院で述べたように、「アンソニー・ブランドの痛ましい状態と献身的な家族の苦しみは何人の同情をも誘わずにはおかない(8)」。まちがいなくこの同情が、ブランド訴訟を審理した三つの法廷のいずれにおいても裁判官全員に「ブランドの治療を中止してもよい」という同じ結論をくださせた強力な要因だった。すでに恐ろしい悲劇であるのに、今後何十年にもわたって最もグロテスクな方法で引き延ばされるかもしれない悲劇――裁判官全員が探っていたことがこの悲劇に幕を引くための解決策であったことは事実であり、判決文を読んだ人なら誰もこの事実を疑わないだろう。ところが、人の生死にかかわるこれまでの訴訟において裁判官たちが述べてきたことを思い出せば、ブランド訴訟の判決は決定的な二つの点でたしかに新たな境地を開いているのである。ブランド訴訟の判決では、延命するべきであるかどうかの判断について、生命の質を考慮することが認められている。そして、罪のない人間の死を目的および目標とする一連の行動が合法的であると認められている。これら二つの点を合わせれば、次のように言っても過言ではない。すなわち、ブランド訴訟は、イギリスの法廷が「人命の神聖性」という伝統的原則の適用をやめた転換点をなすものである、と。
第五章 不確実な始まり
PP111-112
病院には新生児集中治療室があり、献身的な医師や看護婦が超未熟児の生命を救おうと四六時中働いているのに、廊下の先には産婦人科があって、そこでは救命処置を受けている超未熟児よりももっと成長した胎児にたいして中絶がおこなわれている――どうしてこんなことがありうるのだろうか。
PP127-129
「胚は人間になる潜在性をもっているという事実は、胚の生命を保護する十分な理由になる」という考えにたいして、重大な反論が二つある。私たちは、願望や欲求をもっていたり、苦しむ能力を持っていたりする存在に害を与えることができる。しかし、胚が「定の潜在性をもっているという事実は、これと同じ意味で、私たちがほんとうに胚に害を与えることができるということを意味しない。胚が潜在性を現実化しないなら、そのことがほんとうに意味するのは、ある特定の人間がこの世に生まれないだろうということである。ところが、子どもをつくるかつくらないかに関する決定はすべて、ある特定の存在がこの世界に生まれるか生まれないかに関する決定なのである――もっとも、その存在の正確な本性は、その決定がなされる時点ではまだ確定していないが。
子どもをつくらないと決めることは不正ではない。なぜなら、世界にはすでに十分な数の人間がいるからである。私がある論文で書いているように、世界の人口は二〇一五年までに八〇億人に達するだろうと現在予測されているが、一四〇か国の政府が世界人口のこの増加速度を遅らせようという大規模な計画に同意している(14)。先進国は十分な食料供給を確保しているかもしれないが、地球の生態系には国境がない。アメリカやオーストラリアやドイツの平均的国民は世界の化石燃料と鉱物を、ざらには木材でさえ、インドや中国の平均的国民の数倍消費している。また、先進国の国民一人当たりが地球の温暖化や大気汚染や海洋汚染を助長している割合ははるかに高い。したがって、人口抑制は発展途上国だけでなく先進国でも急務となっている。
「環境的観点、経済的観点、および政治的観点から見て、世界には望ましい数以上の人びとが住んでいる」というこの合意が形成されたのは比較的最近のことである。わずか六〇年ほど前の一九三〇年には、世界には二〇億人しかいなかった。そして、多くの国が人口増加が繁栄に至る道であり、世界の舞台でより大きな役割を演じるための方策であると考えていた。人口増加に対する態度の変化が中絶にたいする私たちの考え方に影響を与えるべきだというということは、期待できることにすぎない。実際に影響を与えるには、「胚もしくはまだ生まれていない子どもの潜在性が子どもを産むことの理由になる」という主張を根本から否定する必要がある。
世界の人口過剰に対する関心を脇へおいて――そうするべきではないが――、実験用の皿にある眼前の胚に目を向けたとしても、「その胚の潜在性はその胚を神聖な人命として扱う理由にはならない」ということの第二の理由がある。研究者は余った卵子と精子を自由に処分してもかまわないが、受精したばかりの胚を捨ててはならないと考えられている。しかし、胚が成長して子どもになるのに必要な幸運と同じくらいの幸運に恵まれれば、一組の卵子と精子もまた子どもになることができる。卵子を受精させて胚にすることは体外受精の過程の「番簡単な部分である。「胚を破壊することは胚の潜在性を損なうことであるから、胚に害を与えることだ」と主張しようとすれば、一組の卵子と精子についても同じことを言わねばならないだろう。新たな人間の生命になる潜在性はどちらにもあるからである。
P131
中絶反対論を形式的な議論として述べれば、次のようになる。
第一前提 罪のない人間の生命を奪うことは不正である。
第二前提 受精の瞬間以降、胚もしくは胎児は罪のない生きた人間である。
結論 胚もしくは胎児の生命を奪うことは不正である。
形式論理の問題として、この議論は妥当である。前提を認めれば、結論を認めなければならない。中絶はたしかに胎児の生命を奪うことであるから、中絶は不正であるということに同意しなければならなくなる。反対に、結論を認めたくなければ、二つの前提のうち少なくとも一つを否定しなければならない
P136
「人間の生命はいつから始まるか」という問題に関して言えば、ノーマン・フォードはこの問題を正しく理解していたと言ってもよいだろう。たしかに、受精後一四日頃になって胚が双子になる可能性がなくなれば、「一人の生きた人間」という個体が存在する。しかし、この点に関するフォードの主張が正しいとしても、それによって「個体としての人間が存在する」ということの倫理的意味も、その時期以降の中絶が正当化できるかということも全然明らかにならないのである。中絶論争の行き詰まりを打開するには中絶反対論の第一前提に目を向けなければならない。そして、「どうして人命を奪うことは不正なのか」と問わなければならない。中絶論争全体を解決する鍵は「この第一前提を疑うことは可能であり、かつ、そうするべきである」ということを認識することである。要するに、私たちはこう問わなければならないのである。「ある生命が人間の生命である」という事実のどこがそれほど特別なのだろうか、と。
第六章 生命の質にもとづく判断をくだす
PP143-144
ここで使われている言葉からこの規則の本質が明らかになる。生命の質へのいかなる言及も注意深く避けられている。代わりに、「生まれつき致死的症状の乳児の死にゆく過程を一時的に引き延ばす」ことができるにすぎないような「無駄な」治療は要求されないとある。「生まれつき致死的症状の」という表現は、「生命とは、性行為によって感染する致死的病気(ターミナル・ディズィーズ)である」という冗談を思い出させる。大規模な頭蓋内出血によって皮質が破壊された乳児や脳幹機能をいくらか保持している無脳症児が、どうして「致死的症状」にあると言えるのだろう。遷延性植物状態の人のように、これらの乳児の生命は、呼吸器によって数年間か、おそらく何十年にもわたって際限なく維持できるのである。平均寿命まで生きられるかもしれない。たしかに、これらの乳児はつねに治療を必要とするだろう。しかし、それなら糖尿病の子どもも同じである。ところが、糖尿病の子どもは「致死的症状」にあるとはみなされない。たしかに糖尿病の子どもと違って、無脳症児や大脳皮質が破壊された乳児は、生きているあいだ中ずっと意識がない。しかし、この《このに傍点》事実にもとづいて治療が「無駄」であると判断するなら、子どもの生命の質の評価にもとついて判断していることになる。すると、明らかに、「人命のなかには価値のあるものとないものとがあると主張する社会倫理を信奉する」ことになる。
PP164-166
乳児殺しがかつて広くおこなわれていた――しかも、現在でも世界の多くの地域でおこなわれている――という事実があるからといって、それが正しいということにはもちろんならない。「誰もがそうしている」という事実から「そうすることは正しい」という結論を論理的に導き出すことはできない。乳児殺しが、厳しい環境のもとに子どもが生まれた場合の人間の自然な反応であると証明されたとしても、だからといって乳児殺しが正しくなるわけではない。それでも次の事実は心得ておく値打ちがある。比較文化論的な観点からすれば、乳児殺しに対する社会一般の道徳観について異例であるのは西洋の《西洋のに傍点》伝統であって、クン族や日本の伝統ではないということである。この事実に気づけば、現代の医療行為としての乳児殺しをもっと視野の広い観点から見ることができる。
この観点に立てば、中絶論争に関しても従来とは違った見方ができるようになるかもしれない。すでに見たように、中絶反対論の強みは「人間の成長は本質的に漸進的である」という事実と、「ある日母親の子宮内にいて、翌日にはその外にいるような存在にとって、誕生は本性上の劇的な変化をもたらさない」という事実にある。医療行為としての乳児殺しが幅広く支持されていることが示唆しているのもこれらの事実である。つまり、私たちは一線を画する場所を見つけようとするよりも、胚から胎児へ、胎児から新生児へ、新生児から幼児へという人間の成長は連続的な過程であり、各段階を分ける明確な線を引くことはできないという事実を受け入れるべきなのである。しかし、人間の道徳的《道徳的に傍点》地位の発展もまた同様であるということをここでつけ加えておいてもよいだろう。
誕生が重要な時点であるのは、母親と赤ん坊との関係は母親と胎児との関係とは異なっているからである。また、母親以外の人びとも今や赤ん坊にたいしては、赤ん坊が生まれる以前にはできなかったような仕方で関係をもつことができるからである。しかし、だからといって、誕生は胎児が生きる権利をもたない段階から、他の誰とも同じ生きる権利をもつ段階へと突然移行する時点だということにはならない。反対に、私がこれまで述べてきた信念とその信念にもとづく行動は、ただ次のことを前提としているにすぎない。すなわち、新生児に対する私たちの態度は、子宮内にいる胎児に対する私たちの考え方と、もっと成長した子どもや成人に対する私たちの考え方との間のどこかに位置しているということである。イギリスの「ライフ」やオーストラリアの「生きる権利協会」などの生命擁護派団体はこの点を理解していなかった。したがって、これらの団体が自分たちの主張をとおそうとして、レナード・アーサー医師を起訴したり、王立小児病院におけるベビー・Mの死因を調査したりするよう求めたとき、医療による選択的乳児殺しが世論や医療関係者や裁判所からかなりの支持を得ていることがただ確認されたにすぎない。キリスト教倫理に対する二千年近くにわたる口先だけの信仰では、キリスト教以前の倫理的態度――すなわち、「新生児は、とくに親に望まれていない場合には、まだ道徳の共同体の完全なメンバーではない」という倫理的態度――を完全に制圧できなかったのである。
医療による選択的乳児殺しが明らかになるにつれて、いま何が起こっているかがいっそう理解しやすくなった。トニー・ブランド訴訟に見られるように、通常の治療手段と通常以上の治療手段との区別に関する実りのない議論はいまや聞かれなくなり、代わりに、テイラー判事が「問題に対する正しい取り組み方」と呼んだもの、すなわち、「治療を受けることによって、子どもがどんな生命の質に耐えなければならないかを判断する」ことがますます公然と認められるようになっている。ベビー・ドウ事件に対するレーガン政権の反応は、「人命のなかには価値のあるものとないものとがあると主張する社会倫理」を新生児に適用する動きを阻もうとする近年の政府による試みのなかで最も周到なものであった。したがって、そのような試みが失敗したことは、誕生という境界線を越えたところでも「生命の神聖性」の倫理が徐々に崩壊していることを雄弁に物語っている。ほんとうに困難な事例にぶつかったとき、当のレーガン政権自身が生命の神聖性にもとづく取り組み方を維持できなくなり、はじめに引こうとした一線から自ら逸脱していることをごまかしきれなくなったのである。レーガン大統領が書いていたように「生命の神聖性」の倫理と「生命の質」の倫理のいずれかを選択しなければならなくなったとき、きっぱりと後者が選択されたのである。
第七章 死を依頼する
PP167-168
胚や胎児にかかわる問題、乳児にかかわる問題、脳がまったく機能していないか、脳幹しか機能していない患者にかかわる問題――これらの問題はすべて「人間」という概念の境界線上にいるような人間にかかわる問題である。そのため、これらの問題に関する論争は「人間であるとはどういうことか」という問題に変わってしまうことが非常に多い。ところがこれとは対照的に、「医師が、意識のある自律的な患者を――その患者からの要請があれば――を殺してもよいか」という問いは、伝統的な「ヒポクラテスの倫理」の中核をなすとしばしばみなされてきたものにたいする真っ向からの挑戦である。たしかに、殺してほしいと患者自身が繰り返し依頼しているという事実がある場合、患者の家族と医師と裁判官は、自ら意思決定できない患者について「生命の質がとても低いので、生き続けないほうがよいのではないか」という決定を迫られることはない。結局のところ、その生命は患者のものである。それなら、患者に十分な情報にもとづいた判断をくだす能力があるかぎり、患者の生命が生きるに値するかどうかについて、誰が患者よりもよく決定できるというのだろうか。患者には、死ぬための手助けを求める権利があるのではないだろうか。また、医師が進んでその手助けをしようとしているなら、法がその邪魔をするべき理由があるだろうか。それでも、患者が死ぬための手助けを求め、医師がそれに応えて患者に致死薬を注射すれば、そこで現におこなわれていることをごまかすことはできない。医師の意図は、トニー・ブランドの場合と同様、明確である。しかし、明らかにこの場合の医師の意図は殺すことであり、死ぬにまかせることではない。したがってこれが、伝統的倫理が生き残りをかけて必死に戦っているもう一つの領域なのである。政治的には、「生命の神聖性」の倫理に対する最も激しい戦いが現在繰り広げられているのはこの領域である。これから述べる実例によって、変革への圧力がどのようにして高まりつつあるか、その一端がわかるだろう。
問題
アメリカ、ミシガン州
「アドキンズは[…]自分がまだ理路整然と考えることができるうちに死にたいと思うようになった。」(169)
カナダ、ブリティッシュ・コロンビア州
「ロードリゲースはこういったことをすべて知ったうえで、死ぬ時期と死に方は自分の思いどおりにしたいと思った。動きまわることができるうちに自殺しようと思えば自殺することもできるが、人生をまだ楽しむことができるうちは人生を終わらせたくないと思っていた。問題は、人生を楽しむことができるうちは人生を終わらせたくないと思っていた。問題は、楽しむことがもはやできなくなるころには、自殺することが物理的に不可能になっているということだった。」(175)
cf.安楽死・尊厳死:カナダ
解決か?
どのようにしてオランダで自発的安楽死が可能になったか
「オランダで安楽死が公然とおこなわれるようになった話の始まりは、よくある状況からである。すなわち、さまざまな能力を失った老女が、ナーシング・ホームで暮らしながら死にたいと思っているような状況である。ナーシング・ホームで働いたことのある人なら、誰でもそのような患者を知っている。そのような場合、医師はたいてい患者が肺炎にかかるのを待つ。」(181)
cf.オランダ
死ぬ権利のためのこれからの闘争
「これまで、多くの重症患者が自らの生命を何とか終わらせることができた様子を見てきた。自分の死に方をコントロールしたいという欲求は、近代民主社会の市民のあいだでますます強くなっている。デリク・ハンフリーの『ファイナル・エクジット〔=最後の出口〕』[…]の販売を禁止しようとする試みがことごとく失敗したという事実は、苦痛なく自殺するために人びとが必要としている情報をもはや隠しておくことができなくなっていることを示している。」(185)
滑りやすい坂を滑り落ちているか
「極端な状況では、非自発的安楽死も少数ながらオランダでおこなわれているように見えるが、調査対象となった期間中に「反自発的安楽死」がおこなわれた例は一つもなかった。本人の意思に反して死なされた人は一人もいなかったのである。」(192)
戒律を破る
PP198-199
オランダでの変化はどこの国の医療にも影響を与えるであろうし、生命の神聖性に対する私たちの考え方にも影響を与えるだろう。オランダの医師たちが直接、意図的に、公然と患者を殺すことができるようになった現在――しかも「天が崩れる」ような大惨事は起こっていない――、行為と不作為とのあいだに細かな区別を設けることは、重箱の隅をつつくようなことであるように見えはじめている。オランダ社会の経験は、次のような重要な問いに私たちの目を向けさせた。「患者の生命の終りに影響を与えるような医学的決定がなされたか。もしそうなら、医師は患者と話し合いをしたか。その決定は患者の意向にそってなされたか。もしそうでないなら、それはなぜか」。
オランダで安楽死がおこなわれているからといって、それをそのまま他の国に持ち込むことは容易ではないかもしれない。とくにアメリカ人は、オランダは高水準の医療と社会保障とを全国民に与えている福祉国家であるという事実を覚えておいたほうがよい。十分な医療を受ける経済的なゆとりがないからという理由で安楽死を必要とする患者は一人もいないのである。さらにオランダでは、誰もが自分のかかりつけの医師をもち、通常は何年もその医師に診てもらっている。こうして医師と患者とは長いつき合いを通じて互いをよく知るようになる――これは他のいくつかの国の医療のあり方とは非常に違った状況である。したがってオランダの制度は、どの国でも採用できるような適切なモデルにはならないだろう。アメリカでは、個人の権利が比較的強調されている一方で、宗教的原理主義者が比較的強い政治的力をもっている。したがって、アメリカの場合、積極的な自発的安楽死を法律で認めることによってではなく、医師に自殺幇助をしてもらう権利を通じて変化が生じる可能性が高いように思われる。しかし何よりも確かなことは、一〇年も経てば――あるいはもっと早くかもしれないが――オランダ以外にもいくつかの国の国民が、オランダにならって自分の死に方をコントロールする方法を見つけるだろう、ということである。
第八章 「種の不連続性」という考えを越えて
P204
この問いに対する読者の答えは、私が述べたこの共同体の収容者について読者自身が抱いたイメージ次第で異なるかもしれない。私は収容者たちを「人びと(ピープル)」と呼んできた。そのとき私は「人びと」という言葉を、話し言葉としての「人格(パーソン)」の複数形として用いた。そして「人格」という言葉で私が心に抱いていたのは、一七世紀のイギリスの哲学者、ジョン・ロックによって与えられた定義である。すなわち、「理性と反省能力とをもち、時と所を異にしても、自分を自分として、同じ思考するものとみなすことのできる思考する知性的存在」である(1)。ところが「人格」は「人びと」と同様に、通常はホモ・サピエンスという生物種の成員にだけ使われているので、私が「人びと」という言葉を使ったために、読者は、私が述べた共同体は知的障害のある人間の共同体のことだと考えたかもしれない。私がヘンクとかゲルトといったオランダ人の名前を使ったので、多分、いっそうそのように考えたことだろう。読者がそのように考えたとすれば、これらの人びとの生命に通常の人間の生命よりも低い価値しか認められていないことはまったく不正であると多分考えたことだろう。そして、彼らが被験者として用いられていると聞かされて、ショックを受け、また強い怒りを覚えたことだろう。
多分、ある読者には私が人間のことを述べているのではないと推測できただろう。それらの人びとの「特別の状態」とは、彼らがパン・トゥログロディテスという生物種の成員である、ということである。彼らの共同体とは、アムステルダムからさほど遠くないアルンヘム動物園で暮らしているチンパンジーの共同体なのである(2)。読者がこのように推測していたとすれば、管理者が収容者たちの生命の価値は通常の人間の生命の価値よりもはるかに低いと考えているとわかっても、さほど驚かなかったかもしれない。また、収容者たちが死ぬかもしれないような実験に使われているとわかっても、不安になることさえなかったかもしれない。
PP222-223
系統的に人間に一番近いチンパンジーはホモではなくパンであり(パン・トゥログロディテスとパン・パニスクスの二つの種がある)、ゴリラはゴリラ・ゴリラという別の属である。そして、サル全体はポンギダエ〔=ショウジョウ〕という科に属している。しかし、この二〇〇年に及ぶ分類法には、人間を他の動物から区別したいという欲求以外には何の根拠もないことを示す今や決定的な証拠がある。テナガザルの二つの種は同じ属に属し、アカメモズモドキとシロメモズモドキにも同じことが言えることについては、すべての分類学者のあいだで意見が一致している。人間とチンパンジーのほうが、テナガザルの異なった種同士やモズモドキの異なった種同士よりも系統的に近い。また、人間とゴリラは、テナガザルやモズモドキの異なった種同士とほぼ同じくらい系統的に近い。ここから引き出されるべき正しい結論はただ」つである。すなわち、動物学における命名法によれば、はじめの名称に優先性が与えられるのだから、要するにチンパンジーの二つの種はホモ・トゥログロディテスとホモ・パニスクス、ゴリラはホモ・ゴリラという名称に変えられるべきなのである。あるいは、ジェアド・ダイアモンドのもっと威勢のいい表現にしたがえば、私たち人間は「第三のチンパンジー」なのである(25)。
PP228-230
地球というこの惑星には人間以外にも人格が存在する。人格としての性質を備えている一番確実な証拠があるのは、現在のところ霊長類である。しかし、クジラ、ぞルか、ゾウ、サル、イヌ、ブタなど他の動物も、時間を通じて自己自身が存在し続けているという意識と理性的に思考する能力とを持っていることがいつか証明されるかもしれない。そのとき、これらの動物も人格とみなされなければならなくなるだろう。しかし、人間以外の動物が人格であるかどうかということが、どんな違いをもたらすだろう。ある点では、ほとんど違いをもたらさない。イヌやブタが人格であろうとなかろうと、それらはたしかにさまざまな仕方で痛みと苦しみを感じることができるのであり、それらの苦しみに対する私たちの配慮は、それらがどれほど理性と自己意識をもっているかということと無関係でなければならない。それでもやはり、「人格」という言葉はただ特性を記述するだけのレッテルではない。この言葉には、ある種の道徳的意味あいがある。法律上、企業が人格でありうるという事実が、企業が訴訟を起こしたり起こされたりすることができるということを意味するのとまったく同様に、私たちが人間以外の動物を人格としてひとたび認めれば、私たちはすぐにその動物に基本的な権利を認めはじめるだろう。
私たち人間が他の動物から孤立した状態は終わった。科学の助けによって、私たちは私たち自身と私たち以外の動物の本性だけでなく、私たちの進化の歴史をも理解するようになった。宗教への服従という束縛から解放されて、今や私たちは新しい世界観をもっている。すなわち、私たちが何者であり、誰と近縁関係にあるのかということ、私たちと他の種との違いが限られたものであるということ、そして「私たち」と「彼ら」とのあいだの障壁が多少とも偶然によって作られたものであるということ――こういったことについて新しい世界観をもっているのである。この新しい世界観を採用すれば、「生きていて、ホモ・サピエンスという種に属しているが、それ以外の種の一部の成員ももっているような能力を欠いている存在」について倫理的判断をくだす方法が永久に変わるだろう。どうして私たちは人間の無脳症児の生命を神聖なものとして扱う一方で、臓器を取るためなら健康なヒヒを殺してもかまわないと思うのだろうか。精神のレベルがチンパンジーとよく似た知的障害者を使ってさまざまな実験をすることは、考えただけでもぞっとするのに、どうして私たちはチンパンジーを実験室の檻の中に閉じこめ、人間の致死的病気を感染させるのだろうか。
新しい世界観には、これらの問いにたいして出された伝統的な答えを認める余地はまったくない。すなわち、「私たち人間は特別な創造物であり、私たちが人間性をもっているというだけで他のすべての生物を無限に凌駕する価値をもっているからだ」という伝統的な答えである。宇宙における人間の地位に関するこの新しい理解を考慮すれば、私たちはこのような伝統的な答えを捨て去り、私たちの倫理の境界線を見直さなければならなくなるだろう。「生き物に関してほんとうに重要な問題は、その生き物が人間であるかどうかである」という考えにもとついた倫理は、すべてこの見直しの犠牲になるだろう。これは、私たちと私たち以外の動物との関係だけでなく、伝統的な「生命の神聖性」の倫理全体に劇的な影響を与えるだろう。なぜなら、「動物が何らかの生存権を持つには、その動物は人間でなければならない」という前提をひとたび捨て去れば、「生存権をもつために動物がもっていなければならない特徴や能力は何か」について検討しはじめなければならなくなるだろう。ところが私たちがそうしはじめると、「ただ生きていること以上のどこかに基準をおけば、人間のなかにはその基準を満たすことのできないものがいる」ということに嫌でも気づかざるをえないだろう。すると、そのような人間に生存権があると主張する一方で、その人間と同じか、あるいはそれ以上の特徴や能力を持っている動物に生存権を認めないことはきわめて困難になるだろう。
第九章 旧来の倫理に代えて
P233-234
コペルニクス以前の宇宙論と同様に、「人命の神聖性」という伝統的な教えは今では重大な困難をかかえている。この伝統的な教えを擁護する人たちは、当然のことながら、この教えにほころびが生じるたびに何とかそれを繕って対応してきた。第一に、彼らは、まだ暖かくて呼吸している身体から鼓動を打っている心臓を取り出して、それをもっと予後のよい患者に与えることができるように、また「自分たちは死体から臓器を取り出しているにすぎない」と自らに言いきかせることができるように、死の再定義をおこなった。第二に、不可逆的昏睡状態の患者から人工呼吸器を取り外す決定は患者の生命の質の低さとは無関係であると自ら納得できるように、彼らは「通常の」治療手段と「通常以上の」治療手段とを区別した。第三に、生命を短縮することがわかっているほど大量のモルヒネを末期患者に与えても、表向きの意図は痛みの緩和なのだから、そのような行為は安楽死にはあたらないと彼らは言い張った。第四に、重度の障害児にたいして「治療停止」を選択し、乳児が確実に死ぬ措置をとっても、そうすることは乳児を殺すことではないと彼らは考えた。第五に、「生命の神聖性」の教えのもっと柔軟な信奉者は、「誕生以前に個体としての人間は存在するようになる」という考えを否定することによって、女性の生命、健康、福利を胎児のそれらより優先させることができた。そして最後に、人間と人間以外の種との違いは種類の違いというよりも程度の違いであるという明白な証拠があるにもかかわらず、彼らは知的障害者と人間以外の動物との比較をタブーとすることによって、種の境界を「生命の神聖性」の倫理の境界として温存したのである。
P235
第一の古い戒律 人命をすべて平等の価値を持つものとして扱え。
P236
第一の新しい戒律 人命の価値が多様であることを認めよ。
PP237-238
私たちが第一の新しい戒律を受け入れるなら、無能症児、皮質死状態の乳児、遷延性植物状態の患者、現行の医学的基準に従って脳死と宣告されている人びとに関する意思決定をなすときに「生命の神聖性」の倫理に生じる問題点が克服される。これらのどのケースでも、ほんとうに重要な問題は死をどう定義するかではない。死の定義の問題がこれほど大きな注目を集めてきたのは、私たちがいまなお古い戒律によって作られた倫理的および法的枠組みのなかで生きようとしているからにほかならない。私たちが古い戒律を捨てれば、その代わりに倫理的に重要な特徴、たとえば楽しむことのできる経験をもったり、他者と交流したり、生存し続けたいという選好をもったりする能力に着目するようになるだろう。意識がなければ、これらはいずれも不可能になる。したがって、ひとたび意識が失われて、回復の見込みがないと確信できれば、ホルモンを分泌する脳機能がまだ残っているという事実は倫理的に重要な事実ではなくなる。というのは、意識がなければ、ホルモンを分泌する脳機能があっても患者の利益にはなり尺ないからである。また、皮質が欠けている場合、脳幹の機能だけでは患者の利益にならない。したがって、こうした患者をどのように扱うべきかに関する決定は、人命はすべて平等の価値をもつという崇高な美辞麗句ではなく、患者の家族や配偶者の意向をよりどころにするべきである。愛する人を失うという悲劇に見舞われたとき、考慮されるべきなのは家族や配偶者だからである。遷延性植物状態の患者が、自分がそのような状態におかれたらどうしてもらいたいかをあらかじめ表明している場合には、それも考慮にいれられるべきである(純粋に死者の願望に対する尊重からそうすることもあれば、人の願望が無視されることはないということをまだ生きている他の人びとにたいして保証するためにそうすることもある)。これと同時に、公的な医療制度のもとでは、医療資源の有限性によって課せられる制限や、臓器移植によって生命が救われる他の患者のニーズも無視できない。
P238
第二の古い戒律 罪のない人間の生命を決して意図的に奪うな。
PP241-243
第二の新しい戒律 決定したことの結果に責任をもて。
新しい戒律は「医師が患者の生命を終わらせる意図をもっているか否か」、「医師が致死薬を注射するのではなく、栄養補給チューブを取り外すことによって患者の生命を終わらせるのかどうか」には注目しない。新しい戒律の主張では、医師が問わなければならないことは「患者の生命を終わらせると予見される決定が、あらゆる事柄を考慮に入れたうえで、正しい決定であるかどうか」である。
「私たちには自分の行為だけでなく自分の不作為――すなわち、私たちがすることだけでなく、私たちが故意にしないこと――にたいしても責任がある」と主張すれば、先の医師のまちがいをきちんと説明できる。つまり、「母親と胎児の両方の死を避けるには砕頭術しかないというときに、医師がローマ・カトリック教会の教えに従って両方を死なせるのはまちがっている」ということの理由をきちんと説明できるのである。ところが、このジレンマにたいする解決法にも支払うべき代償がある。私たちの責任の範囲がある程度限定されていなければ、倫理の新しい取り組み方は極端に多くのことを要求しかねない。世界には餓死の瀬戸際に立たされた人びとがいる一方で、ありあまる豊かさを享受している人びとがいる。ところが、現代のように通信手段と輸送手段が発達した世界では、病人や栄養不良の人が死なないようにするために、私たちにできることが必ず何かある。豊かな国で暮らしている私たちの誰もが衣食住を満たしてなおあまりある可処分所得をもっているのだから、貧しい国の人びとが基本的な衣食住を満たすことのできる生活水準に達することができるように、私たちは今よりはるかに多くのことをなすべきである。そして、思いやりのあるたいていの人びとの意見はこの点については一致するだろう。しかし、責任に関するこの考え方について懸念されることは、どのくらいのことをしなければならないかを考え出せば切りがないように思われるということである。自分がしたことだけでなく、しなかったことについても私たちに責任があるなら、流行りの服を買ったり、高級レストランで食事をしたりすることは、そんなことに使うお金があれば、食べ物が足りずに死んでいく見知らぬ人たちの生命を救えるのだから、不正なことではないだろうか。援助団体に寄付をしないことは現に一種の殺人である、もしくは殺人と同じくらい悪いことである、ということになりはしないだろうか。
私が提唱する新しい取り組み方では、人の生命を救わないことと殺人とは同じだと考える必要はない。殺人に対する何らかの禁止がなければ社会そのものが成り立たないだろう。ところが、困っている人を助けなくとも社会は成り立つのである――もっとも、そのような社会は、暖かみに欠けるよそよそしい社会だろうが。普通は、あなたを死ぬにまかせる人びとよりも、あなたを殺す人びとのほうが恐ろしい。したがって、日常の生活では、人を死ぬにまかせることよりも人を殺すことのほうを厳格に禁止する規則をもつ十分な根拠がある。さらに、生き続けたいと思っている人びとを殺さないよう私たちは万人にたいして要求できるが、見知らぬ他人を援助するために自己犠牲という形であまりに多くを要求することは人間本性の強力で普遍的とも言えるようないくつかの性質に真っ向から衝突してしまうだろう。おそらく、倫理が実行可能なものであるためには、自分自身と自分の家族と自分の友人たちに対する適度な偏愛を人びとに認めなければならないだろう。私たちには自分がしたことにたいしてだけ責任があるのであって、自分がしなかったことには責任がないという誤解のもとになりやすい見解は、いくらかの真実をついているのである。
見知らぬ他人を援助する責任に関するこれらの問題を突き詰めてゆけば本書の範囲をはるかに越えてしまうだろうが、結論がすでに二つ明らかになっている。第一に、殺すことと死ぬにまかせることとの区別は通常考えられているほど明確ではない。私たちが私たち自身をあまり犠牲にすることなく生命を救うことのできる人びとがたくさんいるのだから、生と死に関する私たちの倫理を再考することによって、その人たちのために私たちができることを十分していないという事実をもっと真剣に受け止めるようになるかもしれない。
第二に、殺すことと死ぬにまかせることとの伝統的な区別の少なくとも一部を残すことについてどんな理由があろうとも――たとえば、生存に必要な食べ物を見知らぬ他人に与えないことよりも、彼らを殺すことのほうが悪いことだと主張するどんな理由があろうとも――、その理由が当てはまらない場合がある。すなわち、リリアン・ボイズの場合のように、人が自ら死を望む場合には当てはまらない。また、その死が不作為(たとえば、患者が感染症にかかるのを待って、そのとき抗生物質を与えないこと)よりも行為(たとえば、致死薬を注射すること)によって速やかに苦しむことなくもたらされる場合には当てはまらないのである。
P243
第三の古い戒律 あなた自身の生命を決して奪うな。また、人が自分の生命を奪うことをつねに阻止するよう努めよ。
PP244-245
第三の新しい戒律 生死に対する個人の欲求を尊重せよ。
すでに見たように、ジョン・ロックは「人格」を次のように定義した。すなわち、理性と反省能力とをもち、「時と所を異にしても、自分を自分として、同じ思考するものとみなすことのできる」存在である。この人格概念が第三の新しい戒律の中心にある。人格だけが生き続けることを欲し、将来についての計画をもつことができる。なぜなら、自分が将来も存在する可能性があることまで理解できるのは人格だけだからである。このことが意味するのは、人びとの生命を本人の意思に反して終わらせることと、人間以外の生き物の生命を終わらせることとは違う、ということである。たしかに厳密に言えば、人間以外の生き物の場合、その意思に反して生命を終わらせるとか、その意思に応じて生命を終わらせるなどと言うことはできない。そのような生き物には、こうした問題に関して意思をもつ能力がないからである。自己意識と時間を通じて自分が持続的に存在するという意識とをもつことは、その他の生き物とはまったく異なった種類の生命を可能にする。人格は自分の生命を全体として見ることができるので、人格にとって生命を終わらせることは他の生き物とはまったく違った意味をもつのである。私たちがすることのどれほど多くが未来に向けられているか、考えてみてほしい――教育を受けること、人問関係を培うこと、家庭生活を送ること、経歴を身につけること、貯蓄すること、休日の計画を立てること。したがって、人格の生命を早く終わらせれば、人格の過去の努力の多くを無駄にしてしまうかもしれないのである。
こういったすべての理由から、人格を本人の意志に反して殺すことは、人格ではない生き物を殺すことよりもはるかに不正である。これを権利の言葉に言い換えたいなら「人格だけが生存権をもつ」と言えるだろう(6)。
P245
第四の古い戒律 産めよ殖やせよ。
PP247-248
第四の新しい戒律 望まれた子どもだけを産め。
第四の古い戒律と新しい戒律は本書で論じている問題とどんな関係があるだろう。古い戒律と新しい戒律は人格になる以前の人間の生命の扱いについて非常に異なった見方を与える。
たとえば、研究室にある胚について考えてみよう。「そのような胚を殺すことを不正なものとする決定的特徴は、胚には成人ならたいていもっている特徴をすべて備えた人格になりうる潜在性があるということであり、その特徴のなかには、ネズミや魚をはるかにしのぐ=疋の理性能力と自己意識が含まれる」と言う人がいるかもしれない。しかし、胚が人格になりうるということは、胚が現時点で害を被りうるということを意味しない。胚は願望や欲求をもたないし、もったこともないのだから、胚の欲求に反することをすることによって胚に害を与えることはできない。また、胚に苦しみを与えることもできない。言い換えれば、胚は現時点では、受精以前の卵子と同様、害を被りうるような存在ではないのである。胚が害を被りうるということが意味をなさないとすれば、潜在性にもとつく議論は「新たな人間が存在するよう促進するのはよいことだ」ということを前提しているように思われる。さもなければ、胚に一定の潜在性があるという事実があるからといって、その潜在性を現実化させなければならないということにはならないだろう。
現在、世界の人口は、地球が養いうると合理的に予想される数に達している(あるいは、いずれ間もなくその数に達するだろう)。すでに存在している生き物に胚が害を与えるという理由で胚を殺すことが不正ではないとすれば、胚を殺せばこの世に存在する人格が一人少なくなるという事実も、胚を殺すことを不正なものとはしないだろう。胚の潜在性を中絶反対論の根拠として用いる人は、カルヴァンと同様の主張をしているのである。すでに見たように、カルヴァンは種を大地にまいたオナンの行ないに反対したが、それは「望まれた息子」を殺すことになるからだという根拠にもとついていた。私たちがほんとうに息子を望んでいるとしよう。また、いま息子を妊娠しなければ、今後ずっと息子を妊娠できないものとしよう。その場合には、カルヴァンの反対論は正しいだろう。しかし、私たちに息子があって、もう息子は欲しくないと思っているなら、その場合には、カルヴァンの議論は私たちにはあてはまらないだろう。
P248
第五の古い戒律 すべての人間の生命を人間以外の生命よりもつねに価値あるものとして扱え。
PP250-253
第五の新しい戒律 種の違いを根拠に差別する。
これまでの四つの新しい戒律を進んで受け入れながら、この戒律には疑問をもつ人がいるだろう。そういう人たちは、人間という種に対する偏愛を捨てることと、すべての生き物を平等の価値をもつものとして扱う極端な種-平等主義とを結びつけて考えているのである(11)。私がこれまで擁護してきた新しい倫理学的視点は「すべての人間の《人間のに傍点》生命が平等の価値をもつ」という見解さえ捨てているのだから、私が「すべての《すべてのに傍点》生命はその性質や特徴にかかわりなく平等の価値をもつ」と主張しているわけでないことは明らかである。これら二つの主張――種差別を捨てることと、異なった生物の価値のどんな《どんなに傍点》違いも捨てること――はまったく別のものである。すべての生命の価値の平等を信じるなら、キャベツを畑から引き抜くことと、ドアのベルを鳴らす隣人を射殺することとは同じくらい悪いことだということになる。しかし、種差別を捨てながら、キャベツを引き抜くことはまったく不正ではないと主張し、その一方で「ドアのベルを鳴らす隣人を射殺することはきわめて恐ろしいことだ」と主張する十分な理由を数多く見つけだすことができる。たとえば、キャベツには意識と結びついた神経系統と脳が欠けているから何も経験できないと指摘することができる。したがって、キャベツを引き抜いたからといって、生存し続けたいというキャベツの意識的な選好の充足を妨げたり、キャベツから楽しい経験を奪ったり、キャベツの縁者を悲しませたりすることにはならないし、自分たちも引き抜かれはしないかと心配する他のキャベツに恐怖心を引き起こしたりすることもない。ところが、ドアのベルを鳴らす隣人を射殺すれば、いま述べたすべてのことをすることになるのである。
ドアのベルを鳴らす隣人の射殺が不正である理由になるような事柄を列挙するさい、私は種には触れなかった。ことによると、空飛ぶ円盤があなたの家の前庭に降りてきて、友好的な宇宙人がベルを鳴らすことがあるかもしれない。その宇宙人に生存し続けたいという意識的な選好をもつ能力があれば、それはその宇宙人を殺してはならないことの理由になる。その生きた宇宙人が楽しむことのできる経験をもっていたり、その宇宙人が死ねば悲しむ縁者がいたり、自分もいま殺されるのではないかと心配する仲間がいたりするなら、これと同じことが言える。そこで、あなたの家のドアのベルを鳴らす人格を殺すことを不正とみなすことについて私が今述べた四つのありそうな理由は、あなたの家の庭に入ったボールを取り戻したいと思って隣の家からやってきた女の子の場合とまったく同様に、この宇宙人にも当てはまるのである。種差別の放棄は、ドアのベルを鳴らしたものの種が何であるかということと、それを殺すことが不正になる理由とは無関係だということを意味するのである。
どうして種は適切な理由にならないのだろうか。本質的には、私たちがいま人種や性の違いを排除しているのと同じ理由からである。人種差別主義者と女性差別主義者と種差別主義者の三者は口をそろえてこう言う。「私が属する集団の境界が同時に価値の違いを生じるのだ。もしあなたが私の集団の一員なら――他に何かの特徴を欠いていようと――そうでない場合に比べてあなたは価値をもつ」と。これら三つの立場のいずれもが一種の集団的自己防衛、もしくは集団的利己心を表している。人類の歴史を通じて、私たちは私たちが考慮すべき利害の当事者の輪を、部族から民族へ、民族から人種へ、人種から種へと広げてきた。その輪を人間という種全体に広げてこなかったことは不適切なことであったと今では当然のことのように考えられている。しかし、その輪が依然として恣意的な排他性を秘めていることに私たちは気づいていない。道徳的に重要な点で人間によく似た生き物が、まだその輪のなかに入っていないのである。たとえば、イギリスの裁判官たちが「生命を保護する義務があるかどうかを決定するときに重要である」と最近指摘したいくつかの点に関しては、人間以外の一部の動物のほうが、人間のなかで重傷を負った一部の成員よりも正常な人間によく似ている。イヌには意識がある。痛みを感じることができ、明らかに自分たちの生活の多くの面を楽しんでいる。この点で、イヌはあなたや私とよく似ているが、ヒルズバラ・スタジアムで起きた悲劇の後のトニー・ブランドとは似ていない。別の例をあげよう。他者と交流する能力が私たちの《私たちのに傍点》本質的な一部だとすれば、控訴院が「精神的、社会的、身体的に他者と交流することが永久にできない」と表現したベビー・Cよりも、正常なチンパンジーのほうが私たちに似ているのである。
多くの人は人間《人間に傍点》というより高い地位にこだわりたいのであろう。私たちは人間の《人間のに傍点》権利や人間の《人間のに傍点》尊厳や人間の《人間のに傍点》生命の無限の価値といったことを語るのにあまりにも慣れてしまい、人間《人間に傍点》であること自体が非常に特別なことなのだという考えを容易に捨てようとしない。問題の一部は、まさにこの「人間」という言葉が純粋に記述的な言葉ではないということである。この言葉は単にホモ・サピエンスという種の成員を意味するにすぎない場合もあるが、それと同時にこの言葉には、人間を特別の存在にすると私たちが考える性質が含まれていることがある。これは、『オックスフォード英語辞典』で「人間的(ヒューマン)」という言葉の説明として、「人に固有の、もしくは人に特有の性質や属性をもっている、あるいは示している」と記載されている意味である。
P272
本章で見たように、旧来の取り組み方と新しい取り組み方との違いは、わずか五つの主な倫理的戒律の違いから生じる。実際のところ、旧来の倫理の抜本的な変革を促す根拠はもっと単純で論理的な強制力をもつ。コンピュータの複雑なプログラムの一、二行を書き替えただけでディスプレー上に現れる絵がまったく変わるように、二つの中心的な前提を変えるだけで旧来の倫理を一変させることができる。旧来の倫理の第一の前提は、「私たちは自分が意図的にしたことについては責任があるが、自分が故意に防ごうとしなかったことについては責任がない」というものである。第二の前提は、「人間という種のすべての成員の生命とその生命だけが他の存在の生命よりも保護するに値する」ということである。これらは、先に論じた第一と第五の古い戒律の背後にある前提である。
■言及
◆立岩 真也 1998/03/** 「書評:P.シンガー『生と死の倫理』(昭和堂)」,『週刊読書人』
◆立岩 真也 2009 『唯の生』,筑摩書房 〈U:20,21,59,60,333〉
◆立岩 真也 2022/12/20 『人命の特別を言わず/言う』,筑摩書房
◆立岩 真也 2022/12/25- 『人命の特別を言わず/言う 補註』,Kyoto Books
第1章★02 「シンガーの『生と死の倫理――伝統的倫理の崩壊』冒頭の「謝辞」には以下のようにある。
「過去一四年間、ヘルガ・クースと私は本書で取り上げられた広範な分野についてともに研究してきた。私たちは互いに相手から学んできたので、私たちの考えはいつしか混ざりあい、もともと私自身の考えであったものと彼女自身の考えとを区別するのが今では困難なほどである。本書と彼女の『医学における「生命の神聖性」の教え――一つの批判』とを併読すれば、私がどれほど彼女に負っているかが誰にでもわかるだろう。」「ヘルガとの知的な親交、そして彼女の励ましがなければ、おそらく私はこの分野の研究をとうの昔にやめていただろうし、本書が書かれることもなかっただろう。」(Singer[1994=△064 1998:12])」([64-65])
*頁増補:植村 要・立岩 真也