? マイケル・スミス 『道徳の中心問題』
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『道徳の中心問題』

Smith, Michael 1994 The Moral Problem, Oxford: Blackwell
=20061026 樫 憲章監訳, 林 芳紀・江口 聡・成田 和信・伊勢田 哲治訳, 『道徳の中心問題』, ナカニシヤ出版, 330p. ISBN-10: 477950077X


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■Smith, Michael. The Moral Problem, Oxford: Blackwell, 1994
=20061026 樫 憲章監訳, 林 芳紀・江口 聡・成田 和信・伊勢田 哲治訳, 『道徳の中心問題』, ナカニシヤ出版, 330p. 3990 ISBN-10: 477950077X ISBN-13: 978-4779500770 [amazon]

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■目次
凡例
謝辞
献辞
日本語版への序文
序文

第1章 道徳の中心問題とは何か
  1 規範倫理学対メタ倫理学
  2 今日のメタ倫理学
  3 道徳の中心問題
  4 道徳の中心問題の解決に向けて
  5 要約と今後の展望

第2章 表出主義者の挑戦
  1 記述主義対表出主義
  2 記述主義者が直面する一見明白なジレンマ
  3 非自然主義に対するエアの批判
  4 非自然主義と認識論
  5 自然主義に対するエアの批判
  6 <未決問題の論法>と形而上学的自然主義
  7 <未決問題の論法>と定義的自然主義
  8 道徳概念にまつわる常識的真理とはどのようなものであるか
  9 主観的な定義的自然主義対非主観的な定義的自然主義
  10 道徳概念のネットワーク分析への探究としての定義的自然主義
  11 いかにしてネットワーク分析に欠陥が生じうるのか――置換問題――
  12 道徳の用語のネットワーク分析は可能か
  13 エアのジレンマは回避可能か
  14 要約と今後の展望

第3章 外在主義者の挑戦
  1 内在主義対外在主義
  2 概念的主張としての合理主義対実質的主張としての合理主義
  3 ブリンクの「アモラリスト《による挑戦
  4 アモラリストは本当に道徳判断を下しているというブリンクの主張に対する反論
  5 実践性の要件を擁護する議論
  6 フットの「エチケット《論による挑戦
  7 道徳とエチケットとの類似性に関するフットの主張に対する反論
  8 合理主義者の概念的主張に対するフットの批判への反論
  9 合理主義者の概念的主張を擁護する議論
  10 要約と今後の展望

第4章 動機づけに関するヒューム主義の理論
  1 二つの原理
  2 動議づけ理由対規範理由
  3 ネーゲルからの予備的批判
  4 なぜヒューム主義を信じるべきなのか
  5 欲求と現象論
  6 欲求・適合の方向・傾向性
  7 欲求・適合の方向・目的・動機づけ理由
  8 これまでの議論全体の要約と今後の展望

第5章 規範理由に関する反ヒューム主義の理論
  1 動機づけ理由から規範理由へ
  2 意図の観点と熟慮の観点
  3 価値づけることと欲求することとのいくつかの違い
  4 難問
  5 欲求としての価値づけ――ディヴィドソンの議論――
  6 欲求の一様態としての価値づけ――ゴティエの議論――
  7 欲求に対する欲求としての価値づけ――ルーイスの議論――
  8 信念としての価値づけ
  9 規範理由の分析
  10 難問の解決
  11 要約と今後の展望

第6章 道徳の中心問題はいかにして解決されるか
  1 規範理由に関する事実による正しさの分析
  2 道徳の中心問題の解決法
  3 道徳的事実は存在するか
  4 正しさに関するこの分析によって、合理主義に対する標準的な批判にどのように答えることができるか
  5 結論

原注
監訳者あとがき
参考文献
索引


■引用
 今や私たちは、メタ倫理学の問題がどうしてこれほど多くの上一致をもたらすのか、その理由を理解することができる。メタ倫理学における哲学者の課題は日常的な道徳の実践を理解することである。しかし問題は、日常的な道徳の実践が、道徳判断は互いに正反対の方向に作用する二つの特徴をもっていることを示している、ということである。道徳判断の客観性が示していることは、道徳的事実が存在し、それは状況によって完全に決定づけられているということ、そして、私たちの道徳判断はそれらの事実が何であるかに関する私たちの信念を表しているということである。それによって、道徳問題に関する議論やそれに類することがらが十分に理解可能となる。しかしまた、それによって、私たちが道徳問題にかんしてある見解を持つことと、私たちがするように動機づけられている行為との間に特別の結びつきがあるとどのようにして考えられるようになるのか、あるいは、なぜそのように考えられるようになるのか、まったく理解上可能なままとなる。そして、道徳判断の実践性が示していることは、これとはちょうど反対のこと、すなわち、道徳判断は欲求を表出しているということである。このことによって道徳問題に関してある見解を持つことと、〔その見解に応じて行為するよう〕動機づけられることとの間の結びつきは十分に理解可能になるが、道徳問題に関する議論が何に関する議論であると考えられるのか、また、道徳がいかなる意味で客観的であると考えられるのかは、理解上可能なままとなる。
 こうして、道徳というものがまるで矛盾したものであるかのように見える。というのは、道徳判断を理解するために要求されることは、宇宙に関する奇妙な種類の事実、すなわち、それを認識すれば必ず欲求に影響を与えるような事実だからである(Mackie, 1977)。しかし、人間の心理に関する標準的な見方に従えば、そのような事実は存在しない。道徳判断は、それが目指すいかなることもなしえない。おそらくそのために、私たちはみな反実在論者になるべきであり、道徳的事実が存在することを否定するべきなのである。それどころか、私たちは反実在論と認識説――すなわち、道徳判断は道徳的事実に関する主張をすることを目指しているという見解――とを結合させるべきなのである。言い換えれば、私たちは誰もが道徳に関するニヒリストになるべきであり、道徳の実践はその前提に関する壮大な錯誤に基づいていることを率直に認めるべきなのである。あるいは今やそうするべきであるように思われる。
 これが、私が「道徳の中心問題《と呼ぶものである(Smith, 1989; 1994a)。私の理解では、道徳の中心問題は実際のところ、現代のメタ倫理学における中心的な組織的問題である。道徳の中心問題によって、メタ倫理学の諸問題に関して哲学者たちの間に存在する広範な上一致が説明される。道徳の中心問題というこの問題は、一見明白に矛盾する以下のような三つの命題によって簡潔に述べることができる。(McNaughton, 1988:23も参照)。(pp.16-17)

 一 「私がφすることは正しい《という形態の道徳判断は、客観的事実のことがら、すなわち、この判断を下す主体にとってなすべき正しい行為に関する事実のことがらに関してその主体が持つ信念を表わす。
 ニ ある人が、自分がφすることは正しいと判断するならば、他の条件が等しければ、その人はφするよう動機づけられる。
 三 行為者が一定の仕方で行為するよう動機づけられるのは、その行為者が一組の適切な欲求と目的‐手段に関する信念とを持っている場合に限られるが、信念と欲求とは、ヒュームの言葉で言えば、別個の存在である。

一見明白な矛盾は、次のようになる。一によれば、道徳判断が表わす心理状態は信念であり、信念は、二によれば、何らかの仕方で動機づけと必然的に結びついているのだが、動機づけと結びついているということは、三によれば、欲求を持つことと結びついているということである。したがって、一と二と三の全体から、それぞれ別個の存在である道徳の信念と欲求との間には何らかの種類の必然的な結びつきが存在するということになる。しかし、三によれば、そのような結びつきは存在しない。世界について何らかの状態が成立していると信じることと、その信念が与えられたときに私がしたいと欲求することとはまったく別のことがらである。
 道徳の中心問題という観点からすれば、メタ倫理学の諸問題がどうして上一致をもたらすのかということだけでなく、それらの上一致がどうして現状のような形を取っているのかということも容易に理解できる。というのは、メタ倫理学の諸問題に答えを与える人たちは今や一つの選択をしなければならないからである。彼らが人間の心理に関して標準的なヒューム主義の見方に忠実であろうとするなら、彼らは道徳判断の二つの特徴――客観性と実践性――のうちどちらを捨てるべきか決めなければならない。そしてその上で、その選択を擁護しなければならない。すると、表出主義者たちが第一の命題――道徳判断は信念を表わすという主張――を捨て(Ayer, 1936; Hare, 1952; Blackburn, 1984, 1986, 1987; Gibbard, 1990)、外在主義者たちが第二の命題――道徳判断と動機づけとの間にはなんらかの必然的な結びつきが存在するという主張――を捨て(Frankena, 1958; Foot, 1972; Scanlon, 1982; Railton, 1986; Brink, 1986, 1989)、そして動機づけに関する反ヒューム主義者たちが表出主義者たちや外在主義者たちとは異なって、第三の命題――動機づけは欲求と、目的‐手段に関する信念によって説明されるべきであるが、信念と欲求はヒュームの言葉を借りれば、別個の存在であるというという主張――を捨てている(Nagel, 1970; McDowell, 1978; Platts, 1981; McNaughton, 1988; Dancy, 1933)のを見ても、驚くには当たらない。さらに、これらの理論家たち――表出主義者、外在主義者、動機づけに関する反ヒューム主義者――のそれぞれが、自分が捨てる命題は、他の理論家たちが捨てる命題とは異なって、哲学上の絵空事にすぎず、捨て去られるべき命題であると論じていることも、驚くには当たらない。しかし、今や明らかなことだと思われるが、これらの哲学者たちは、彼らがどの命題を捨てることを選択しようと、彼ら自身が与えようとする理論よりも確実であるように思われるものを結局のところ否定せざるをえないのである(Smith, 1989)。道徳のニヒリズムが姿を現わしても、それはまったく無理からぬことである(Smith, 1993a)。


*作成者:篠木 涼
UP:20080112 REV:20080616
「哲学/政治哲学(political  philosophy)/倫理学」  ◇BOOK
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