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『神は何のために動物を造ったのか――動物の権利の神学』

Linzey, Andrew 1994 Animal Thelogy, SCM Press=20010615 宇都宮秀和訳,教文館,318p.

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last update: 20220725


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■Linzey, Andrew 1994 Animal Thelogy, SCM Press=20010615 宇都宮秀和訳,『神は何のために動物を造ったのか――動物の権利の神学』,教文館,318p. ISBN-10:4764266296 ISBN-13:978-4764266292 [amazon][kinokuniya]

内容(「MARC」データベースより)
神の天地創造は人間のためだけだったのか? 環境破壊による地球の危機、菜食主義者の急増、口蹄疫、遺伝工学の実験動物などは、人間中心・弱肉強食を鋭く告発している。従来のキリスト教倫理を根底から問い直す衝撃の書。

 「私の理解するところでは、動物にたいする現在の暴力と残忍さは、一種の精神的無知に由来している。もし我々が動物にたいして主に胃袋を中心とする考えをもっているとすれば、その理由は、他の存在の生命が神の創造物であることをほとんど理解もしないし、有り難くも思っていないからである。キリスト教神学は多くの面で、道徳的感受性についての新しい運動を理解するのに失敗してきたが、それはまた、神が創造した何万もの他の被造物をより深く理解する力を形成する方法に導く助けともるのである。とくにキリスト者は、キリストご自身の力ある例について考えをめぐらせて欲しい。それは人間の力を行使する、あるいは動物世界を支配する一つのパラダイムとして役立つよう示されたものである。
 要するに、我々は被造物の内部において、仕える種としての新しい道徳的ヴィジョンを必要としている。それは動物だけでなく、我々自身をも人間の暴力と貪欲から救い出すのに役立てるためである。キリスト教信仰は、世界の他の存在をいかに扱うかについて、真に異なった存在――積極的相違――とならなければならない。」(Linzey[1994=2001:6])

 「前章は人間と動物の共同性を強調したが、そのことは人類の独自性にかんする伝統的キリスト教を曖昧にしてしまうまうに思われるかもしれない。動物の権利を主張する者は動物と人間の本当の相違を見ないで、両者を同じ道徳的、あるいは、神学的水準に置いてしまうとよく言わる。実際、動物の権利を主張する多くの者は人間の「独自の要求」に不信をもつのである。これから示すように、ある場合にはその理由が存在するのである。しかし、動物を倫理的に扱うことを支持することは、人間が特別であるとか、独自であるという伝統的なキリスト教的見解を放棄することを要求することにつながるであろうか。私はそのようには考えない。以下において私は、人間は道徳的に優れているとい見解が、善良なる動物の権利の理論にとっていかに中心的であるかということを示してみよう。私は主張する。人間の独自性は奉仕と自己犠牲の能力者として定義される、と。この視点からすると、人間は一人の大司祭にならって、ただ単に自分自身の種のためだけではなく、感覚をもつ全ての被造物のために自己犠牲的祭司性を実行すべく独自に任務を与えられた種なのである。同胞たる被造物のぶために自己犠牲的祭司性を実行すべく独自に任務を与えられた種なのである。同胞たる被造物の呻きと労苦は、創造の癒しと解放における神との協同作業ができる種を必要とする。」(Linzey[1994=2001:93])

■書評・紹介・言及

◆立岩 真也 2022/12/20 『人命の特別を言わず/言う』,筑摩書房
◆立岩 真也 2022/12/25- 『人命の特別を言わず/言う 補註』Kyoto Books

第2章☆11 「『神は何のために動物を造ったのか――動物の権利の神学』より。
 「人間と動物の共同性を強調[する]ことは人類の独自性にかんする伝統的キリスト教を曖昧にしてしまうように思われるかもしれない。[…]しかし、動物を倫理的に扱うことを支持することは、人間が特別であるとか、独自であるという伝統的なキリスト教的見解を放棄することを要求することにつながるであろうか。私はそのようには考えない。以下において私は、人間は道徳的に優れているという見解が、善良なる動物の権利の理論にとっていかに中心的であるかということを示してみよう。私は主張する。人間の独自性は奉仕と自己犠牲の能力者として定義される、と。この視点からすると、人間は一人の大司祭にならって、ただ単に自分自身の種のためだけではなく、感覚をもつ全ての被造物のために自己犠牲的祭司性を実行すべく独自に任務を与えられた種なのである。同胞たる被造物の呻きと労苦は、創造の癒しと解放における神との協同作業ができる種を必要とする。」(Linzey[1994=2001:93])
 そんなに(動物に対して)偉そうではない言説もある。『快楽としての動物保護』(信岡[2020])の著者である信岡朝子は、『現代思想』が肉食主義を特集した号に寄稿した論文でソローの『森の生活』から以下を引用している。
 「人類は進歩するにつれ、動物の肉を食べるのをやめる運命にあると、私は信じて疑わない。ちょうど野蛮な種族が文明人と接触するようになってから、たがいの肉を食べあう習慣をやめたように。」(Thoreau[1854=1995:84-85]、信岡[2022:118]に引用、引用は岩波文庫版、酒本雅之訳のちくま学芸文庫版もある)
 なお、「私は、他の生き物を殺して生きる人間には罪があると感じる。そして同じ訳合いでもって、他の生き物にも罪があると言いたい気持ちがある」(小泉[2022:99])と書く小泉義之(141頁、144頁)が、その文の後にLinzey[1994=2001]を紹介し、そこから引用していることを記しておく。△132」


*作成:立岩 真也 
UP: 20220803 REV:20221229
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