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『再帰的近代化――近現代における政治、伝統、美的原理』

Beck, UlrichGiddens, Anthony;Lash, Scott 1994 Reflexive Modernization-Politics, Tradition and Aesthetics in the Modern Social Order, Polity Press

=19970725 ウルリッヒ・ベックアンソニー・ギデンズ、スコット・ラッシュ著 松尾 精文、小幡 正敏、叶堂 隆三訳 『再帰的近代化――近現代における政治、伝統、美的原理』,而立書房, 397p+11, \3045


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Beck, UlrichGiddens, Anthony;Lash, Scott 1994 Reflexive Modernization-Politics, Tradition and Aesthetics in the Modern Social Order, Polity Press

=19970725 ウルリッヒ・ベックアンソニー・ギデンズ、スコット・ラッシュ著 松尾 精文、小幡 正敏、叶堂 隆三訳 『再帰的近代化――近現代における政治、伝統、美的原理』,而立書房, 397p+11, \3045  ISBN-10: 4880592366  ISBN-13: 978-4880592367 [amazon] [kinokuniya] ※

■紹介
内容(「BOOK」データベースより)
「再帰性」の概念を基軸に、いまの時代の本質を究明。われわれが身を置いているのは、モダニティの終わりではなく、モダニティのさらなる徹底化の過程である。

内容(「MARC」データベースより)
われわれが身を置いているのは、モダニティの終わりではなく、モダニティのさらなる徹底化の過程である。「再帰性」の概念を基軸に、いまの時代の本質を究明。

■目次
はじめに

1 政治の再創造――再帰的近代化理論に向けて――  ウルリッヒ・ベック
   序論――再帰的近代化とは何か?
   リスク社会の自己批判
     省察と再帰性
     不確実性の再来
   サブ政治――個人が社会に戻っていく
     社会形式としての個人化
     政治とサブ政治
   新たなモダニティへの途
     工業社会のより一層の分化
     両義性との付き合い方について――「円卓会議」モデル
     合理性の刷新――コードの統合
   政治的なものの創造
     政治の政治
     国家の変質
     右派左派を超えて?
     生と死の政治
     政治的行為としての職業

2 ポスト伝統社会に生きること  アンソニー・ギデンズ
   変容の諸様相
   獲物に加える侮辱
   神経症としての反復行動――嗜癖の問題
   選択と意思決定
   相補的存在としての自然と伝統
   状況依存的存在としての伝統
   守護者と専門家
   知恵と専門知識
   モダニティにおける伝統
   グローバル化と伝統の排出
   脱伝統遵守
   伝統、言説、暴力

3 再帰性とその分身――構造、美的原理、共同体――  スコット・ラッシュ
   なぜ「再帰的」モダニティか?
   行為作用か?構造か?
     再帰的生産――労働者階級の地位向上
     再帰性の勝者と敗者――(新たに生まれた)新中間階級とアンダー・クラス
   再帰性――認知的か?美的か?
     概念的なものとミメーシス的なもの
     美的なもの、倫理的なもの、エスニックなもの
   「私」、あるいは「われわれ」
     主体性から共同体へ
     ハビトゥス、ハビトゥスを生きるもの、習癖

4 応答と批判
   工業社会の自己解体と自己加害――それは何を意味するのか?――  ウルリッヒ・ベック
     省察(知)と再帰性(自己解体)の区別
     モダニティの自己危害――それは何を意味するのか?
     まとめ
   リスク、信頼、再帰性  アンソニー・ギデンズ
   専門家システムか?状況づけられた解釈か?――無秩序化した資本主義における文化と制度――  スコット・ラッシュ
     制度的再帰性――責任、伝統、真理
     感情の民主制か?民主制の感情化か?
     文化、解釈学、制度の限界
     ポスト・モダニズムと無秩序化した資本主義

訳者あとがき
索引


■まとめ・引用等
太字見出しは作成者による
「……<00xx<……」のような表記は、複数ページにわたる引用のページの切れ目を表わす。「……<0022<……」ならば、先の……部分は22ページ、後の……部分は23ページ。
本書の主要テーマ
1 再帰性
2 脱伝統遵守
3 エコロジー問題にたいする関心

1 政治の再創造――再帰的近代化理論に向けて――  ウルリッヒ・ベック
ベックの再帰的近代化
かりに単純な(あるいは、従来正統視されてきた)近代化が、本質的に、まず工業社会という社<0011<会形態による伝統的社会形態の脱埋め込みと、次に工業社会による伝統的社会形態の再埋め込みを意味するとすれば、再帰的近代化とは、まず、もう一つ別のモダニティによる工業社会の脱埋め込みを、次に、もう一つ別のモダニティによる工業社会の再埋め込みを意味している。(pp.11-12)

私のいう再帰的近代化とは、発達が自己破壊に転化する可能性があり、またその自己破壊のなかで、ひとつの近代化が別の近代化をむしばみ、変化させていくような新たな段階である。(p.12)

《望まれたもの》+《よく目にするもの》=《新たなモダニティ》(p.14)

リスク社会
このリスク社会という概念は、社会的、政治的、経済的、個人的リスクが、工業社会における監視や保安のための諸制度から次第に身をかわす傾向にあるような、そうした近代社会の発達段階を示している。(p.16)

工業社会時代からリスク社会時代へ
工業社会時代からリスク社会時代へのモダニティの移行は、潜在的副作用の様式にしたがって、近代化の自立したダイナミズムの結果、望まれてもいないし、気づかれないままに、強制的に生じていく。工業社会の確実性(進歩に対する合意なり、生態系にたうする悪影響や危険要素の忘却)が、工業社会における人びとや制度の思考と行動を支配しているゆえに、リスク社会という布置連関を生みだしてきたという言い方は、事実上可能である。リスク社会は、人びとが政治討論のなかで、望んだり、拒絶できるような選択ではない。リスク社会は、みずからが及ぼす悪影響や危険要素を感知できない、自立した近代化過程の連続性のなかに出現していく。こうした過程は、工業社会の基盤を<0017<疑わしくさせ、最終的にその基盤を破壊してしまうような脅威を、潜在的にも、また累積的も生みだしていくのである。(pp.17-18)

省察と再帰性
 このようなかたちで近代化の基盤を近代化の帰結と対決させることは、近代化における自己省察という意味での知識の増大や科学原理の適用と、明確に区別しておくべきである。こうした工業社会からリスク社会への自立した、望まれていないし、誰も気づかない移行を、(《省察》と区別し、また対照させるために)《再帰性》と呼ぶことにしたい。この場合、「再帰的近代化」は、工業社会のシステムのなかでは――工業社会の有す制度化された判断基準から見て――対処したり同化したりすることができないリスク社会のもたらす結果に、自己対決していくことを意味している。まさにこうした布置連関が、後に第二段階になると、逆に(公的、政治的、学問的)省察の対象になるという事実は、この省察を欠いた、条件反射的な移行メカニズムを必ずしも明確にしてはいない。まさしくこうした抽象的省察が、リスク社会を生みだし、リスク社会を現実のものにしているのである。(p.18)

リスク問題
 とはいえ、決定的な点は、リスクが増大するにつれて、地平線がよく見えなくなっていくことである。なぜなら、リスクは、何をしてはいけないかを教えるが、何をしたらよいかは教えてくれないからである。リスクが見つかると、逃避命令が優勢になっていく。この世界をリスクにさらされた場所と描写する人は、最終的には行動ができなくなる。重要なのは、リスクを統制しようという意図が一般に浸透し、高まっていくと、結局のところリスクの統制が不可能になる点である。
 とはいえ、この点は、リスクが、たんに意思決定を想定しているだけでなく、個別的にも、また根本的な意味においても、意思決定を最終的に解放するものであることを意味している。リスク問題を、体制問題に変換していくことはできない。なぜなら、体制問題は、いわばリスク問題に内在する多元論によって窒息し、統計学という見かけのもとで、道徳問題や権力問題、さらには純粋な意思決定論へとひそかに変質していくからである。言いかえれば、リスク問題が、「両義性の容認」(ジグムント・バウマン)を必然的にともなくことを、もっと慎重な言い方をすれば、「両義性の容認」を訴求していることを意味している。(p.24)

個人化と再帰的近代化
 生活状況や行動に関する工業社会的カテゴリーにとって代わるのは、空白状態ではなく(個人化理論にたいするほとんどの批判は、まさしくこの点を攻撃目標にしているが)、新たな――も<0031<はや強制的でない、伝統的モデルのなかに「埋め込まれて」(ギデンズ)いない、福祉国家の諸規則にもとづいた――生活の営み方や取り決め方の様式である。とはいえ、こうした新たな生活様式は、一人ひとりを、自己の生活歴やアイデンティティ、社会的ネットワーク、コミットメント、確信等の演技者や、立案者、演出家として想定していく。明確に言えば、「個人化」とは、確信できるものを欠いた状態のなかで、自己と他者にたいする新たな確実性を見いだし、創造することを人びとが強いられるだけでなく、工業社会の確実性の崩壊をも意味している。しかし、このことは、新たな、全地球規模に及ぶ場合さえある相互依存を意味している。個人化とグローバル化は、事実、再帰的近代化という同じ過程の二つの側面なのである。(pp.31-32)

 したがって、「個人化」とは、一般に見いだす個人の生活歴が、選択された生活歴に、「自作自演の生活歴」(ロナルド・ヒツラー)に、あるいはギデンズのいう「再帰的生活歴」になっていくことを意味する。自分がどんな人間であったのか、今はどんな人間か、何を考え、あるいは何をおこなうのかが、その人の一個人としての存在性を組成しているのである。このことは、市民としての勇気や人格とは必ずしも関係がない。むしろ、それは、選択肢が多岐に及び、自分自身の意思決定と他者の意思決定から生じる「非嫡出子」を「ひとまとまり」として制作し、上演するのを強制されていくことと関係しているのである。(p.33)

サブ政治
 旧来の政治理解では、「私生活への非政治的退却」や「新たな内向性」、「心の傷の癒し」と見なされてきたものが、別の面から見れば、政治的なものの新たな次元を求める苦闘の具体的現われとなるのである。(p.42)

政治とサブ政治
 《サブ政治》は、次の二点で「政治」と区別される。まず、政治システムないし協調主義的システムの《外部》にいる行為主体(このグループには、専門的職業従事者集団や職業集団、工場や研究機関、企業の専門技術を有す知識層、熟練労働者、市民運動の指導者、公衆等が含まれる)は、社会計画を立案する舞台に出演することが許されている点である。二つ目に、たんに社会的集合的行為主体だけでなく、個々人もまた、出現しはじめている政治的なものの形成力として、互いに競合していく点である。(p.46)

機能的システム分化
 このように、「機能的システム分化」が革命の別名であるとの認識は、ぜひとも必要である。こうした認識があって初めて、機能的システム分化が工業社会に結果的に何をもたらしてきたのかを問うことの意味が理解できるようになる。現在進行中のシステム分化は二つあり、ひとつは、フェミニズム革命による地殻変動、もう一つは、ベーメのいう「技術的複製可能性の時代における」自然のシステム分化である。思考できないものを思考可能にする仮説として、少なくとも可能性の舞台にもう一つ別のシステム分化をつけ加えることができる。それは、「凡庸」という宿命から、つまり、経済的、軍事的効用性というくびきから逃れ、ただ純粋なテクノロジーだけになることを望むテクノロジーである。(p.53)

テクノロジー
 テクノロジーを、軍事的、経済的効用という脈絡から切り離し、機能的融合状態から解き離し、自律的サブシステムとして確立することは(五三頁を参照)、工業社会の内部で神が定めた封建的秩序を廃止していくのに匹敵することがらである。テクノロジーと技術者が、法と政治の間のグレー・ゾーンをわがもの顔で支配するような状況は、解体、粉砕されていき、テクノロジーの発達とテクノロジーの利用との間で、権力の二分割が今日生じているのである。テクノロジーそのものにたいする是非の評価と、テクノロジーの転換利用にたいする是非の評価が機能的に分けられ、それによって、まず一方では、現実離れした構成主義や自己懐疑、テクノロジーの多元主義が、他方では、経済性の考慮が他よりも低く評価される、新たな交渉機関や媒介機関、民主的共同意思決定を可能にしていく。このことは、かりにこうした企てを空想の世界から現実の場に引き下ろしたいと望んだときに、テクノロジーが――二〇世紀において教育問題がそうであったように――公共の問題として論じられ、公的手段による資金援助がなされるようになったときに、初めて可能になる。このようなことは、問題外の不可能な課題であろうか?いずれにせよ、それは考えられる事態であり、テクノロジー――モダニティの真髄――が、時代遅れの仕方で組織化されていることは、証拠が示しているのである。(p.56)

ラッシュと美的再帰性
 「最後のヨーロッパ形而上学たる芸術のもたらす曲芸的福音」(ベン)という評言は、あるいはニーチェの「ニヒリズムは至福の感覚である」という評言は、広告やビジネス、政治、日常生活のなかに今や浸透し、広く認識され、決まり文句になりはじめている。われわれがニヒリズムの後に結局のところ到達するのは、空虚ではなく、唯美主義である。ポスト伝統社会では、人びとは、技巧と人為との間を綱渡りしていく。堅く編まれたネットワークのなかで、境界や任務、コミットメントをどのように形づくり決定していくのかが、かつては問題であった。つまり、こうした堅く編まれたネットワークが、一方で選択や説明責任、コミットメントを可能にし、同じように他方で、大量生産や将来構想、販売、流行を可能にしてきたのである。ゲルハルト・シュルツェは、こうした事実をうけ、またこの事実を指称するために、「感覚体験社会」という概念を生み出している(そして、この点でシュルツェは、おそらく――思い切って言えば?――技巧的に、人為的に、重要な局部的側面を過度に強調しているのである)。スコット・ラッシュは、こうした考え方を美的再帰性の理論として確立していった。ラッシュは、再帰性の限界問題の追及を、美的再帰性の理論に結びつけて考えている。なぜなら、ラッシュは、美的再帰性を、実質的な「情動的理性」に(かりにこのような単語の連結が許されるのであれば)帰しているからである。この点でラッシュは、省察(知識)と再帰性(自己への適用)を混同している。もちろん私は、大量生産と大量消費とを、それに自己の様式化と社会の様式化とを結びつける、ポスト伝統的連結線としての唯美化の理念を問題にしているのではない。(p.62)

合理性の刷新
 言いかえれば、再帰的近代化とはまた、みずからが用いる秩序カテゴリーを撤廃しだしているモダニティのなかで、両義性の歴史的《所与性》を正当に評価できるような、そうした「合理性の刷新」を、本質的に意味している。(p.65)

規則主導型政治と規則改変型政治
 さきに私は、(政治システムという)公的な標識化された政治と、(自律的サブシステムの政治<0068<という意味での)サブ政治とを区別しておいた。政治的なものが、東西対立を超えて、また工業主義の旧来の確実性を超えてこのように再来したことは、こうした政治とサブ政治の区別を横断するもう一段の区別を、つまり、規則主導型政治と規則改変型政治の区別を強要し、正当化していく。規則主導型政治は、確かに創造的で、非追従的であるが、国民国家(あるいは、われわれの用語で言えば、単純的モダニティ)における福祉国家型工業社会という規則システムのなかだけで機能していくに過ぎない。他方、規則改変型政治は、ゲームの規則そのものを改変するという意味で、二つの問題が存在する。ひとつは、規則システムのスイッチの切り替えであり、もう一つは、どのような規則システムにスイッチを切り替えるべきかという問題である。(pp.68-69)

2 ポスト伝統社会に生きること  アンソニー・ギデンズ
社会科学が新たに取り組むべき課題
 社会科学が新たに取り組むべき課題は、直接結びつく二つの変容領域に関係している。それぞれの変容は、モダニティの最初期の発達に由来するとはいえ、とりわけ今日の時代に入って激化<0107<していった変動過程に対応している。一方で、近代の諸制度がグローバル化過程を介して普遍化していく、近代制度の外への拡大過程を見いだすことができる。他方、前者と直接関連しているとはいえ、モダニティの徹底化とでも称しうる意図的な変動過程を見いだすことができる。これらは、伝統の《排出》過程、つまり、伝統の掘り起こしと問題視の過程である。(pp.107-108)

新たな予測不可能性
人間による自然の社会化が自然界を侵略し、また伝統が消滅するにつれ、新たなかたちの予測不可能性が生じていく。たとえば、地球温暖化を例に考えてみたい。多くの専門家は、地球温暖化が発生していると考えており、おそらくそのとおりであろう。とはいえ、この地球温暖化という仮説を疑問視する人も一部におり、かりに何らかの趨勢を見いだすことができるとすれば、現実の趨勢は、反対の方向に、つまり、地球の気候が寒冷化に向かっているとさえ主張している。たぶん間違い<0110<なく最大限言えるのは、地球温暖化が生じて《いない》と確信することができない点である。しなしながら、こうした暫定的結論は、リスクの正確な予測ではなく、むしろ一連の「シナリオ」をもたらすことになる――このシナリオの妥当性を左右するのは、とりわけ、どのくらい多くの人がこの地球温暖化という主張を信じ、それにもとづいて行動を起こすようになるかである。社会的世界では、制度的再帰性が社会的世界の中心的構成要素のひとつとなっている以上、「シナリオ」の複雑さはさらにもっと顕著になっていく。(pp.110-111)

日々の実験と「専門的知識の置き換えと再専有」
 近現代という全地球規模に及ぶ実験は、近代の諸制度が日々の生活の細胞組織のなかへ浸透してきたことの影響を受けながら、近代の諸制度の浸透と交錯し、またその浸透に影響をもたらしていく。たんに地域共同体だけでなく、個人生活の細々としたことがらや自己概念もまた、時空間の無限の拡大との関連で互いに絡み合っていく。われわれは誰もが、その結果が一般的な意味合いで人類全体に影響を及ぼしていくほどに開かれた《日々の実験》のなかに、取り込まれているのである。日々の実験は、伝統の果す役割の変化を反映している。したがって、地球規模のレヴェルにおいても同じように言えるが、この日々の実験は、抽象的システムの侵食という衝撃のもとで生ずる《専門的知識の置き換えと再専有》という脈絡のなかで、理解していく必要がある。この場合、「専門技術」という概括的な意味でのテクノロジーが、物質的工業技術というかたちでも、また専門分化された社会的専門知識というかたちでも、主導的な役割を演じているのである。(p.112)

伝統
 ポスト伝統社会の諸秩序を生きることの意味を理解するためには、伝統とは何か、「伝統社会」の包括的な特徴とは何か、という二つの問題を検討していく必要がある。伝統や伝統社会という観念は、いずれも――社会学では、これらの観念が社会学の関心の中心にある近現代の時代特性の引き立て役になってきたという事実ゆえに、また人類学では、伝統という観念の中心的含意のひとつである反復性を、ほとんどの場合凝集性と結びつけてとらえてきたために――これまで十<0117<分な吟味をおこなわずに概念として用いられることが多かった。伝統は、いわば前近代社会の諸秩序をひとつにまとめていく接着剤のようなものである。しかし、ひとたび機能主義を排除してしまうと、何が接着剤になっているのかがもはや明確でなくなる。反復性と社会的凝集との間には、まったく何の必然的な結びつきも存在しない。したがって、われわれは、伝統の有す反復性を当然視すべきではなく、それを説明していかなければならないのである。(pp.117-118)

 私は、「伝統」を次のように理解していきたい。伝統とは、記憶と、とりわけモーリス・アルヴァクスのいう「集合的記憶」と密接に関連しており、儀礼を必然的にともない、私が《真理の定式化した観念》と称するものに関係し、「守護者」がおり、そして、慣習と異なり、道徳的内容と感情内容が一体化した拘束力を有している。(p.119)

儀礼
 儀礼は、伝統の有す他のすべての側面と同様、解釈を受け入れざるを得ない。しかし、こうした解釈は、通常、一般の人びとの手に委ねられてはいない。この点で、伝統の《守護者》と、そうした伝統が包含していたり、明示する真理との結びつきを証明していく必要がある。伝統は、「定式的真理」をともない、特定の人間だけしかこの定式化した真理を完全に手にすることができないのである。定式的真理は、言語の有す指示的属性ではなく、むしろの正反対のものに依拠している。つまり、儀礼でやり取りされるのは、遂行的言語であり、したがって、語り手なり聞き手がほとんど理解できない発言や習わしをともなう場合が時としてある。儀礼で用いる慣用句は、それが定式的な性質のものであるにもかかわらずではなく、定式的な性質のものであるがゆえにこそ、真理の媒介装置なのである。儀礼で交わされる言葉は、異議を唱えたり反駁することが何の意味ももたない発話である――したがって、反対意見が生ずる可能性を弱める強力な手段を内に秘めているのである。このことは、儀礼で交わされる言葉が有す強要性にとって、確かに最も重要な点である。(p.122)

伝統は、通常の「理性的探求」とはいわば正反対の真理を想定している――この点で、伝統には、衝動強迫の心理と何か共有するものがある。(p.125)

衝動強迫性
 衝動強迫性とは、広い意味でいえば、過去から脱却できないことである。人は、その人自身が自立していると確信するにせよしないにせよ、自分の知らない運命を演じている。運命という観念は伝統とつねに結びついており、フロイトが運命の問題に専心没頭していたことを知っても、それは格別驚くにはあたらないのである。(p.127)

フロイトが論述をおこなった当時は、伝統がモダニティの及ぼす強い影響のもとで日常生活においてうまく機能しなくなり、強い圧力を受けはじめた時代である。伝統は、記憶のいくつもの痕跡を整合性のある記憶にまとめ上げる堅固な枠組みとなっていた。伝統が消滅していくにつれ、「記憶の跡づけ」は、アイデンティティや社会規範の意味を構築していく上で、より一層問題をはらむものになっていくと同時に、もっとあからさまに外部にさらされていったと推測することもできる。それ以降、かつては伝統がもたらしてきた過去の再構築は、より一層一人ひとりの責任に――さらには、急務にさえ――なっているのである。(p.128)

衝動強迫としてのモダニティ
 衝動強迫としてのモダニティ――それは何を意味し、また言外に何を示唆しているのであろうか?その因果関係をもっと詳細に究明していく必要があるとはいえ、ここではフロイトの場合と同じように、多分に無意識的なものか、当事者が十分理解していないかのいずれかである《感情的反復衝動》という言い方をしていきたい。過去は生きつづけていく。しかし、過去は、伝統というかたちで積極的に再構築されていくというよりも、むしろほとんど因果関係的な仕方で行為を支配していく傾向がある。衝動強迫性とは、社会的に一般化してとらえれば、要するに《伝統主義をともなわない伝統》、つまり、自立性を促すよりも自立性を妨げる反復行動なのである。(p.133)

嗜癖と伝統
 なぜ嗜癖と伝統を対置する必要があるのであろうか?理由は二つある。ひとつは、モダニティそのものの有す衝動強迫的特徴に焦点を当てるためである。この問題について、あとでもう一度立ち戻って考えてみたい。もう一つの理由は、こうした対比をおこなう上でもっと重要な点であるが、嗜癖の問題が、ポスト伝統的秩序の諸特徴を初めて具体的に明らかにしているからである。前近代の社会では、伝統と、日々の行いを型をはめ込むことは、互いに緊密に結びついていた。対照的に、ポスト伝統社会では、行いを型にはめ込むことは、かりにそれが制度的再帰性の過程と連動していかなかった場合、無意味になる。その人が昨日したことを今日おこなうためには、何の論理も道徳的信実性も存在しない。しかしながら、こうした論理や道徳的信実性が、伝統の本質そのものを形づくっているのである。今日われわれが何かに――ライフスタイルの何らかの側面に――嗜癖化していく可能性があるという事実は、伝統の(「伝統的なかたちでの」と付け加えるべきであるし、そうした言い方は見た目ほど逆説的ではない)消滅が広範囲に及んでいることを示しているのである。嗜癖の進展は、ポスト・モダンの社会的世界のかなり重要な特徴であるが、嗜癖はまた、社会が脱伝統遵守ととげていく過程そのものの、「負の指標」にもなっているのである。(p.135)

 反復行動は、「自分たちが承知している唯一の世界」にとどまるための方法、つまり、「相容れない異質な」生活価値や生活様式に身をさらすことを避けるための手段なのである。(p.137)

選択と意思決定
ポスト伝統的秩序の問題に取り組んでいく際に、われわれは、《選択》と《意思決定》とを区別して考えていかなければならない。われわれの日々の活動の多くは、事実、選択を免れないものとなってきた。あるいは、私がさきに表現したように、どちらかといえば選択が責務となってきたのである。このことは、今日、毎日の生活に関するかなり重要な基本的命題である。分析的には、社会活動のあらゆる領域が――必ずしも普遍的ではないが、多くの場合、何<0143<らかのかたちの専門知識の主張にもとづいて演じられていく――意思決定によって左右されるようになったと言うほうが、むしろ正確である。こうした意思決定を、《誰が》また《どのように》おこなうかは、基本的には権力の問題である。もちろん、意思決定をつねの誰かがおこなう選択であり、また、おおむねあらゆる選択は、たとえ最も恵まれない人びとや明らかに権力を欠いた人びとおこなう選択でさえ、既存の権力関係にはね返っていく。したがって、《まさにこの事実からしても》、社会生活が個々人の意思決定にたいし開かれている状態を、多元主義と同一視すべきではない。そうした開かれている状態はまた、権力を媒体であり、階層分化の媒体でもある。(pp.143-144)

伝統とアイデンティティ
 したがって、伝統は、アイデンティティの媒体である。アイデンティティは、一人ひとりのアイデンティティにせよ集合的アイデンティティにせよ、当然意味の存在があって生まれる。しかし、アイデンティティはまた、さきに言及したように、反復再現と再解釈という恒常的過程の存在があって生まれていくのである。アイデンティティとは、時間を超えた恒常性の創出、つまり、過去を予想される未来へと結びつけていくことなのである。一人ひとりのアイデンティティとより広い社会的アイデンティティとの結びつきの維持は、すべての社会で、生きる上での安心感の最も重要な必要条件である。こうした心理的懸念は、伝統が、「信奉者」の側にこうした強い感情的執着を引き起こすことを可能にする主要な力のひとつである。伝統の完全無欠性にたいする脅威は、決して普遍的にではないが、多くの場合、自己の完全無欠性にたいする脅威として経験されていく。(p.151)

専門家と官僚制組織の職員
官僚制組織の職員は、この専門家という言葉をもっと広くとらえれば、たしかに専門家である。しかし、近現代の社会秩序の脈絡において、専門知識は、官公吏の職に比べもっと広く浸透した現象である。専門家と専門的職業従事者を同一視すべきではない。専門家とは、普通の人が所有していない特定の技能なり知識類型を自分のものであると首尾よく権利主張できる人である。「専門家」と「一般の人」は、状況次第の相対的用語として理解していく必要がある。専門知識には多くの層があり、また、専門家と一般の人が互いに出会う所与のいずれの状況においても重要となるのは――所与の行為領域のなかで――その人を相手との「関係」において「権威」にしていく技能や情報の面での不均衡である。(pp.158-159)

伝統と専門知識
 伝統と専門知識を比較した場合、守護者と専門家を比べた場合と同様、重要な差異をいくつか見いだすことができる。それらの差異は、ここで論じている問題との関連で次のように要約できる。まず、専門知識は、伝統に比べ根本的な意味で特定領域だけに通ずるものでなく、また分権化されている。二つ目に、専門知識は、定式的真理とではなく、知識の修正可能性にたいする確信と、つまり、方法的懐疑心に依拠する確信と、結びついている。三つ目に、専門家の知識は、専門分化という内在的過程を必然的に伴っている。四つ目に、抽象的システムにたいする信頼ないし専門家にたいする信頼を、秘伝の智恵によって簡単に生みだすことはできない。五つ目に、専門知識は、高まりを見せる制度的再帰性と相互に影響しあうため、したがって、日常の技能や知識の喪失と再専有という過程がつねに働いている。(p.159)

ライフスタイル
 最も重要な点は、抽象的システムにたいする信頼が、それ自体変化しやすい集合的なライフスタイルの様式と緊密に結びついていることである。伝統的習わしは、それが局域的なもので、そ<0169<の地域に中心を置いているがゆえに、埋め込まれてきた。つまり、そうした習わしは、毎日の型にはまった行いを支えていく規範性に対応するものであった。「ライフスタイル」という観念は、伝統的行為状況に当てはめて、何の意味ももたなかった。近代社会において、ライフスタイルの選択は、毎日の生活の本質を構成するだけでなく、抽象的システムと連動しているのである。ひとたび伝統と絶縁してしまった以上、近現代のすべての制度装置が信頼という潜在的に不安定なメカニズムに依存しているという事実には、根本的な意味がある。プロメテウス的衝動が、とりわけ科学という傑出した権威によって裏付けられて支配していく限り、モダニティのもつ衝動強迫的特質は、多分に人びとの視界から引きつづき覆い隠されてきた。とはいえ、今日生じているようにこうした要素を問題視していった場合、ライフスタイルの様式と全地球規模の社会的再生産のとの符合は、緊張を強いられている。したがって、ライフスタイルの諸々の実践に生ずる改変は、中心となる抽象的システムを徹底的に破壊するものとなりうる。だからたとえば、近現代の経済における消費主義からの全般的な離反の動きは、今日の経済制度にとって極めて重大な言外の意味をもたらしうるのである。(pp.169-170)

媒体としての伝統
伝統に「正真正銘さ」を、つまり「信実性」を付与しているのは、私がさきに述べたように、伝統が未来永劫のために確立されてきた点にあるのではない。また、それは、伝統が過去の出来事をどの程度正確に凝縮しているかとも何ら関係がない。結局のところ、あらゆる社会のなかでも最も<0175<「伝統的な」社会である口承文化においてさえ、「本当の過去」は、かりにこうした言葉に何らの意味があるとすればであるが、実際には誰も知り得ないのである。伝統とは、過去の「実在性」のまさしく《媒体》である。もちろん、記録された歴史を有す社会では、「似つかわしい過去との連続性」を立証していくことは可能である――また、批判的な目をもった歴史家によって細かく吟味していくことができる。しかしながら、こうした連続性が、ホブズボウムの言う意味でどの程度「正真正銘なもの」であるかどうかは疑わしいし、また、重ねて言えば、伝統の信実性とは何ら関係がないのである。伝統の信実性は、儀礼的習わしと定式的真理の結合に依拠しているのである。(pp.175-176)

近現代世界における伝統
近現代世界における伝統は、古いものにせよ新しいものにせよ、次の二つの枠組みのうちいずれかで存続している。(pp.187-188)
@
 伝統は、理路整然と明確化され、擁護されている――言いかえれば、競合する二元的価値の世界において有用性をもつものとして正当化されている。(p.188)
A
 さもなければ、伝統は、《原理主義》になっていく。(p.188)

過去の名残り
 ポスト伝統的秩序では、かつて大規模な伝統とも小規模な伝統とも結びついてきた人工物は、「過去の名残り」という用語の適用範囲を物体だけでなくもっと拡げていくべきであるとはいえ、過去の名残りになりやすい傾向がある。私のここでの用語法にしたがえば、過去の名残りという<0190<言葉は、生きた博物館のいずれの展示品にも適用できる。過去の名残りは、弱体化したり消滅した伝統の残滓として、たまたま残存している物体や習わしでは決してない。過去の名残りは、乗り超えられた過去の標本としての意味を付与されているのである。(pp.190-191)

 過去の名残りとは、決して発達していかない過去の、あるいは、少なくとも現在との因果関係がその過去の名残りにアイデンティティをもたらす重要な要素ではない過去の、記号表現である。(p.192)

 伝統は、明らかに権力と密接に関係している。伝統はまた、偶然性から人びとを守ってもいる。聖なるものは、それが過去に神々しさを注入していくため、伝統の中核をなしていると論ずる人も一部にいる。こうした見方からすれば、政治的儀礼は、宗教的特質をもつことになる。とはい<194<え、むしろ定式的真理こそが、聖なるものを伝統に結びつけている特質と見なすべきであろう。定式的真理は、伝統の有す中心的諸相を、「触れてはならない」ものにし、現在に過去との関係で完全無欠性を授けていくものなのである。記念碑は、ひとたび定式的真理に疑いが差し挟まれたり放棄されてしまうと、過去の名残りとなり、また、伝統的なものは、たんなる慣習や習癖に再び戻っていくのである。(pp.194-195)

価値観の衝突の解消
 分析的に見た場合、いずれの社会的状況や社会においても、個人の間や集合体の間での価値観の衝突を解決するには、四つの方法しか存在しない。それは、《伝統からの脱埋め込み》、敵対する相手との《関係の解消》、《言説》ないし対話、それに《強制》ないし《暴力》をとおしてである。(p.196)

3 再帰性とその分身――構造、美的原理、共同体――  スコット・ラッシュ
ラッシュによる再帰的近代化の理論
私が再帰的モダニティの理論を、その「分身」というかたちで、つまりその徹底した他者性というかたちで展開して<0206<いきたい方向は、三つある。これらの方向は、この論文を構成する三つの要素にそれぞれ対応している。(pp.206-207)

@
まず、再帰的近代化とは、社会的行為者が、つまり「行為作用」が、構造に関して保有する絶えず増大していく力を解明する理論である。それにたいして、むしろ私は、再帰性の新たな一連の構造的条件について論じていきたい。確かに、行為作用により大きな活動の余地をもたらす、《社会》構造のある種の後退を見いだすことができるとはいえ、こうした「自由」で、知識を備えた行為作用の生じうる新たな構造的条件が存在することを、私は論じたい。《情報コミュニケーション構造》が、こうした脈絡のなかで退却しだした社会構造に多分にとって代わりはじめていることを論じていきたいのである。(p.207)
A
この立場は、批判が、ハイ・モダニティの不幸な全体性に《たいする》批判、つまり個別的なもの《による》ハイ・モダニティの一般概念にたいする批判であるという――ボードレールから、ヴァルター・ベンヤミン、アドルノに至る――伝統のなかに位置している。この場合、個別的なものは、美的なものとして理解されており、そのなかには「高尚な芸術」だけでなく、ポピュラー文化や日常生活の美的原理も当然含まれている。(p.207)
B
 三つ目に、再帰的近代化の理論は、個人化の非常に「強力な綱領」になっている。この理論が<0207<描写する事態はベックの「私は私である」という言い方によってもっと的確に表現できる事態であり、そこにおいては、「私」は共同体的きずなからますます自由になり、その人自身の生活歴の叙述を形づくることが可能になる(ギデンズ)。しかし、近代化という、いまだにその全容が明らかでない過程は、フクヤマが歴史の終焉として(とりわけ東ヨーロッパで)予見したような、市場民主制という「私」への収斂を生みだしてきただけではない。われわれは同時に――おそらく以前にも増して――民族浄化運動や、東部ドイツのネオ・ナチのスキンヘッドたち、かつてのソヴィエト連邦の民族独立による崩壊等々の、抑圧されてきた「われわれ」による報復を目の当たりに見ている。(pp.207-208)

社会変動の三段階
問題となるのは、社会変動の――伝統から、(単純的)モダニティ、再帰的モダニティへという――三段階の概念構成である。この見解によれば、単純的近代社会は、近現代の時代特性が完全に発達をとげた社会ではない。単純的モダニティの後に再帰的モダニティが生じていくのである。別の言い方をすれば、この場合、伝統社会は《ゲマインシャフト》に、単純的モダニティは《ゲゼルシャフト》に、そしてその後に続くものは完全に再帰的となった《ゲゼルシャフト》に、それぞれ対応していく。この過程における社会変動の原動力は個人化である。(p.212)

《制度的》再帰性と《自己》再帰性
まず、行為作用が、社会構造による束縛から解放されることで、そうした社会構造の「規則」や「資源」に反映し影響を及ぼしていく、つまり、行為作用がその行為作用の社会的存在条件に反映し影響を及ぼしていく、《制度的》再帰性がある。さらにもう一つ、行為作用がみずからにたいして影響を及ぼしていく《自己》再帰性がある。自己再帰性においては、自己モニタリングが、行為主体にたいする他律的モニタリングにとって代わっていく。(p.215)

再帰的《伝統遵守》
それは、(英米の生産システムのなかに実際に見いだすような)自分にたいしてではなく、《共同体》にたいする自己没入[コミットメント]と責任の倫理という、ロバート・ベラーが指摘する意味での伝統遵守である。この場合、共同体とは、日本の場合は企業であり、ドイツの場合は《職業》[ベルーフ]である。この点は、成人の賃金を若年労働者が生みだすことに反映されている。この再帰的伝統遵守は、個人化の問題ではなく、一連の「実質的な善」によって動機づけられ、「実質的な善」志向の習わしをともなう再帰的《共同体》の問題なのである。そうした実質的善は、アラスデア・マッキンタイアのいう意味での「内的な善」――つまり、たとえば金銭的報酬や権力、威信といった活動に外在する善ではなく、仕事人としての技量や企業の利益といった活動に内在する善――である。これらのチャールズ・テイラーがいう意味での実質的な善はまた、「手続き的な善」とよい対照をなしている。縄張り争いをめぐる作業現場の手続き的倫理や、作業現場の民主制による「理路整然とし<0233<た意思形成」に第一義的に焦点を置くのとは対照的に、作業現場の実質的倫理は、職業なり会社という共同体の《習俗規範》[ジットリヒカイト](特定の、共有された共通の習わしからなる倫理的生活)に根ざし、職工としての技巧や高品質の品物を作ることに主たる関心が注がれているのである。
 こうした伝統遵守と共同体は、ドイツのように労働組合と民主制が十分に確立している場合や、あるいは日本のように権力構造がヒエラルキー的で家父長制的な場合には、それらが抽象的な権力関係を媒介していくという意味で、《再帰的》である。(pp.233-234)

資本の蓄積・情報の蓄積
再帰的モダニティにおいては、資本の蓄積は、同時にまた(次第に)情報の蓄積となっていく。だからたとえば、不変固定資本(ハードウェア)と不変流動資本(ソフトウェア)としての生産手段は、情報化されている。同時に、労働力としての可変資本と生産された商品(消費財と生産財をともに含む)は、情報内容の占める割合がますます重要かつ優勢になっていく。要するに、近代初期において、工業資本の蓄積とそれに結びついた社会構造が初期モダニティの推進力となっていったように、情報コミュニケーション構造における情報(と資本)の蓄積は、再帰的モダニティの推進力となっているのである。したがって、規模が拡大した中間階級だけでなく、再帰的モダニティにおいて地位が向上した(また、格下げにあった)労働<0238<者階級もまた、「歴史の原動力」をなすこうした情報の置き換えにみずからの基盤を見いだしているのである。(pp.238-239)

美的再帰性
概念的象徴、つまり、情報コミュニケーション構造による情報の流れは、確かに二つの方向を切りひらいていく。概念的象徴は、一方で、資本主義的支配のための新たな広場となっている。この場合、権力を、生産の物質的手段としての資本のなかに主として委ねることはもはやできない。資本の代わりに、情報様式という――今日多分に超国家企業と結びついた――権力知識複合体を見いだすことができる。他方、さきに略述してきたように、概念的象徴の流れとその蓄積は、再帰性の条件を形づくっていく。同じことが、「ミメーシス的」象徴、つまり、今日の記号の産出配分構造のもう一つ別の側面をなすイメージや音声、叙述についても言える。一方で、これらのミメーシス的象徴は、文化産業の商品化された知的財産として、典型的なポスト工業社会の権力《集合》に帰属している。他方、ミメーシス的象徴は、例の同じ権力知識複合体にたいする美的批判が普及していくための仮想空間と現実空間を切りひらいている。
 この二つ目の、認知的ではない美的再帰性の契機は、もともと本質的にミメーシス的であり、それ自体、啓蒙思想というハイ・モダニティの伝統ではなく、芸術におけるモダニズムの伝統のなかにまさしく見いだすことができる。この美的再帰性は、部分的にはエスニシティの脈絡や「新たな部族意識」をめぐる争点のなかで、新しく出現する倫理の、同時にまた状況や条件次第の倫理の基盤に転移していく。こうした再帰性の美的次元は、結局のところ今日の消費者資本主義からなる日常生活において「表現主義的個人主義」の基本原理となっているのである。(p.248)

再帰的モダニティの理論の批判性
 こうした再帰的モダニティの理論なり再帰性の理論はいずれも、日常の経験による媒介――概念的なものであれ、ミメーシス的なものであれ――と関係していく限り、再帰的である。再帰性の理論は、その理論が、省察の対象を日常生活の経験からそらし、代わりに「システム」に向けていく場合にのみ、《批判》理論となる。美的再帰性は――文化形態に関するものであれ、経験を積み重ねる個人に関するものであれ――概念的なものではなく、ミメーシス的なものである。美的再帰性は、日常の経験にたいしてミメーシス的に作用していく限りにおいて、再帰的である。だから、美的再帰性は、そのミメーシス的作用の準拠点が、商品や官僚制、生活形態の物象化という「システム」になっていく場合にのみ、《批判的》になる。同じことは、認知的再帰性についても当てはまり、認知的再帰性では、媒介は概念的なかたちをとる。(p.256)

リスク社会と自己
リスク社会とは、「負の財」なり危険状態の分布というよりも、むしろリスクが中心軸となる行動様態について、問題にしているのである。こうした行動様態は、たんに環境との関係性や、仕事、ポーカー遊びだけに見られるわけではない。この点は、ベックとギデンズが述べている生の叙述による自己の構築のなかに具体的に示されており、自己の構築において、確率計算的な規則のあり方がライフコースに物語性を加えていく。このようなリスクを負う確率計算をとおして、われわれは多くの場合、自分自身が「恥ずかしい」状態に置かれていることに、つまり、矛盾に満ち、ばらばらに分裂した自己の履歴のなかにさらされていくことに気づく。同じようなかたちで、われわれは、自分の余暇時間を「享楽的に」計算していく。(p.258)

バウマンと美的批判
 バウマンが示す課題は、結局のところ倫理的なものである。それは、バウマンが最も明確にその考え方を打ちだしているとはいえ、リオタールやローティ、デリダ、レヴィナス、アドルノと<0260<いった思想家と分かち合う課題である。その意図は、美的原理にもとづく倫理を構築し、それをエスニシティの観点から理解していくことにある。この考え方では、ナチスによるユダヤ人大量虐殺を、「概念」の最終勝利、同一性論的、デカルト的モダニティの勝利と解釈している。それは、マルクス主義のような全体主義化した批判運動、カント哲学の定言命令のような先験的倫理学が、ユダヤ人大量虐殺の後には成立し得ないことを暗に意味している。唯一成立しうるのは、明確な否定か、美的批判であり、そこにおいては、倫理学でさえ、《美的倫理》、つまり、非同一性の倫理でしかあり得ない。(pp.260-261)

美的再帰性の反基礎づけ志向
 美的再帰性――アレゴリーとしての、あるいは脱構築としての――は、絶えず反基礎づけを志向している。(p.265)

いずれの事例においても、まず最初、美的主体性による、合理主義的個人主義にたいする反基礎づけ志向的挑戦を、次にまた、いま主流をなす美的主体性にたいする、さらにもっと「何でもあり」[エニイシング・ゴーズ]的な美的主体性による攻撃を、見いだすことができる。いずれの事例においても、まさに諸々の統制形態が、偶然性や両義性の観点から脱構築されていくのである。それ以前の両義性の様式は、統制様式であったことが現実に示され、代わってその両義性の様式は脱構築され、さらにまた、と続いていくのである。(p.266)

回復の解釈学
共同体といういかなる種類の集団にとっても、「われわれ」にとっても、国民社会等の集合的アイデンティティにとっても、おそらく必要なのは、どのような類のものにせよ、決して猜疑心の解釈学ではない。それどころか、おそらく必要とされているのは、「《回復》の解釈学」である。こうした回復の解釈学は、猜疑心の大家(それに今日の職人)と違い、基礎づけを際限なく一掃しようとするのではなく、<0267<共同的世界内存在の存在論的基礎を説明しようとしているのである。回復の解釈学は、疑わしげに、まず初めに実質的な善が、次に手続き的な善が偽りであることを示すのではなく、何らかの種類の共同体倫理の基礎づけとして、基礎の確立した一連の実質的な善の存在を指摘しようとしているのである。回復の解釈学は、ファウスト敵猜疑心のなかで、常習的に「先験的記号内容」を捜し求めているのではないし、常習的に意味を据え置きして、否定しているのでもない。回復の解釈学は、記号評言の自由な動きを不思議に思うのでなく、「われわれ」の存在条件であり、それどころか「われわれ」の存在そのもの《である》共有された意味に接近するために、その記号表現の「下にあるものを」慎み深く「見よう」としているのである。(pp.267-268)

無思考なカテゴリー
無思考なカテゴリーは、何もよりもまず、デュルケムとモースの共著『分類の原初形態』にほぼしたがったかたちの、分類カテゴリーである。デュルケムとモースは、二人の分類の枠組みがアリストテレス的(およびカント的)な論理のカテゴリーであると、述べている。しかし、ブルデューのいう分類カテゴリーは、カントの論理ほどには即座に接近できるものではない。むしろ、ブルデューのいう分類は、カントのいう美的判断を手本に理<0283<解できる「嗜好」というカテゴリーである。今や、ブルデューの『デュスタンクシオン』は、《一見したところ》消費の社会成層分化に関する研究書のように思える。とはいえ、『ディスタンクシオン』は、それにだけにとどまるものではない。ブルデューの『ディスタンクシオン』は、たんに厳密な意味での嗜好の社会学だけでなく、もっと一般的には、われわれの最も直接的な慣習や慣わしのすべての領域に関する社会学である。それは、われわれの、身体に刻み込まれているとはいえ、無思考なカテゴリーの社会学である。要するに、意識的行為の――習慣というカテゴリーにおける――存在論的基礎づけの社会学なのである。(pp.283-284)

再帰的人間科学
 ブルデューの再帰的社会学は、クリフォードやラビノー、マーカス等の「再帰的人類学」にとりわけ影響を及ぼしてきた。そして今日、その理由は容易に理解できる。ブルデューや人類学者たちが用いる意味での再帰性は、認知的再帰性(ベック、ギデンズ)や美的再帰性(アドルノ、ニーチェ)とはまったく異なる領域で作動している。認知的再帰性においても美的再帰性においても、主体は、世界の外側にあるものと想定されており、世界は、主体にたいして(概念的ないしミメーシス的に)媒介されていく。再帰的人類学は、客体主義との断絶を、レヴィ=ストロースや機能主義のいう現実主義との断絶を必然的に含意し、むしろその人の「応答者たち」が形づくる世界との地平の部部的融合を強いていく。それは、ハビトゥスをとおしての学習を、つまり、「ハビトゥスを生きるもの[ハビター]」と同じ帰属意識[ルーツ]の学習を意味し、そこにおいては、真理は、概念的なものでもミメーシス的なものでもなく、共有された習わしをとおして明白になっていく。再帰<0286<的人類学(と社会学)は、われわれがわれわれ自身の概念を、カテゴリーとしてではなく、解釈図式として、先在傾向や志向性として、われわれ自身の習慣として理解していくことを意味している。再帰的人間科学は、われわれの図式とわれわれの応答者たちの図式との間の、翻訳の出現に依拠している。それは、われわれの「概念」が、(偶然西欧が生みだした)もう一つ別の一連の特権的図式に過ぎないことを、われわれが再帰的に理解していくことを、必然的に意味している。再帰的人間科学は、それ自体がまさにもう一つの「エスノメソドロジー」に過ぎないことを理解していく必要がある。だから、この意味の再帰性の概念は、ベックとギデンズの再帰性の概念の対極に位置するものである。ベックやギデンズにとって、再帰性の概念は個人化された、主観‐客観的なかたちの社会的認識に到達するために、生活世界を括弧に入れることを意味する傾向がある。再帰的人類学にとって、再帰性の概念は、主観‐客観的認識を括弧に入れ、認識我をその人の生活世界のなかに位置づけることを意味している。(pp.286-287)

配慮[ケア]
必要なのは、自己が生成していく共同の習わしへの関与に関する観念である。だから、おそらくこの点に関する手がかりは、先験的な主体性なり相互主観性にもとづく倫理ではなく、「配慮[ケア]」に基盤を置く、状況づけられた倫理を提唱するセイラ・ベンハビブの考え方のなかに見いだすことができる。ベンハビブが捜し求めているのは、たとえば、ロロ・メイのような初期実存主義の倫理学者のいう状況主義の倫理でもないし、また一部のフェミニストたちのいう自己視点的な認識にならった、自己視点の倫理でもない。ベンハビブが捜し求めているのは、状況づけられた倫理であり、《習俗規範》のなかに、つまり、世界のなかに堅固に状況づけられた倫理である。(p.299)

工業社会の自己解体と自己加害――それは何を意味するのか?――  ウルリッヒ・ベック
再帰的近代化の基本命題
 再帰的近代化の基本命題は、次のように表現できる。社会の近代化が進めば進むほど、行為の担い手(主体)は、みずからの存在の社会的諸条件に省察をくわえ、こうした省察によってその条件を変える能力を獲得していくようになる。(p.318)

ベックの特徴
私は、ギデンズと違い、またラッシュとは対照的なかたちで、一見明らかに逆説的と思えるかもしれないが、知ではなく非知こそが「再帰的」近代化の媒体であるという命題を主張している。言いかえれば、われわれは、《副作用の時代》を生きており、まさにこの点こそが、日常生活なり政治のなかで方法論的に、理論的に解読し――さらに形成し――ていかなければならないことがらなのである。(p.320)

ラッシュ批判
別の言い方をすれば、ラッシュが再帰的近代化に関しておこなう認知的次元と道徳的次元、美的次元の区別は、ラッシュがもっぱら(多少とも意識的な)省察についてだけ言及し、工業的近代化のもたらす自己適用や自己解体、自己加害という意味での、無意識的な、意図しなかった再帰性のかかえる問題性を誤解していることをまさしく示すものである。
 明確に表現すれば、私のいうモダニティと近代化の示す「再帰性」は、モダニティにたいする省察や、モダニティの自己関連性、つまり、自己準拠性を意味するものではないし、古典的社会学に見るモダニティの自己正当化なり自己批判を意味するものでもない。むしろ(まず何よりも)近代化は、自立した近代化の力によって、意図しなかったり、気づかれないかたちで、それゆえ省察とは無縁なかたちで、近代化そのものを《むしばんでいく》のである。(p.321)

リスク、信頼、再帰性  アンソニー・ギデンズ
人間の知識の発達と自己理解
こうした啓蒙主義の思想家たちは、当時においてはもっともなことであったとはいえ、われわれが人間の集合体としての世界について認識するようになればなるほど、それに比例して世界を我々自身の目的のために統制、管理できるようになる、と確信していた。社会的世界や自然的世界に関して、産出された増大する知識は、われわれがそのもとで生活を送る諸条件についての確実な認識をより一層高め、また、その結果、かつては他の影響力の領域であったものを、人間による支配のもとに置くことができると考えられてきた。
 人間の知識の発達と自己理解との関係は、こうした見解が示唆してきた以上に複雑であることが判明してきた。「大量生産された不確実性」とでも称しうるものが、今日われわれの生活を特徴づけているのである。われわれの生活の多くの側面は、突然むき出しになり、「シナリオ思考」、つまり、起こりうる将来の結果についての仮定法的概念構成によって、もっぱら組み立てられてきた。(p.336)

ポスト・モダニティとポスト・モダニズム
ポスト・モダニティをめぐる論争の多くは、美学なり文化の問題をとおして歪められてきた。しかし、私は、こうした状況に満足できない。私見では、「ポスト・モダニズム」と「ポスト・モダニティ」をはっきり区別しておいたほうがよいように思う。「ポスト・モダニズム」は、建築様式や美術、文学、詩で生じている変化を(かりにそうした変化が起きていると仮定してであるが)指称していると解釈することができる。それにたいし、「ポスト・モダニティ」は、今日の社会的世界に影響を及ぼす制度的変動を指している。私の関心は、ポスト・モダニズムよりもポスト・モダニティの問題にある。私は、こうした制度的転換を指称するために、さもなければこの本のそこここで幅を利かせがちな「ポスト」という言葉をひとつでも避けたい気持ちから、むしろ「ハイ・モダニティ」なり「後期モダニティ」という用語を使っていきたい。(p.357)

ラッシュへの批判
 美的再帰性といったものが存在するのであろうか?私は、実のところそうは思わないし、少なくともこうした表現の仕方はとりたくない。ラッシュが言うような、「認知象徴」から切り離されて機能する「空間における記号の、まったく別個の産出配分構造」が存在するとは、どうしても思えない。私の理解によれば、制度的再帰性は、ほとんどつねに感情と何らかのかたちで結びついている。(p.358)

専門家システムか?状況づけられた解釈か?――無秩序化した資本主義における文化と制度――  スコット・ラッシュ
ギデンズの「親密な関係性」批判とラッシュの「親密な関係性」
問題は、能動的信頼というギデンズの概念を特徴づける媒介性と契約性そのもののなかにある。親密な関係性は、確かに異なる種類の能動的信頼にもとづいているように一<0373<見思える。しかし、自分自身の利害関心をともなう自立した当事者間のこうした暗黙の契約という想定は、親密な関係性をもたらしていかないように私には思える。互いに自立した利害関心をいだく個々人の間の関係性としての能動的信頼はまた、法廷のそれと違わないある種の手続き主義を想定しているように思える。親密な関係性は、シュッツが生活世界の記述のなかで「配慮[ゾルゲ]」と名づけるものに、レヴィナスが、またレヴィナスをとおしてバウマンが《共同存在[ミットザイン]》として理解しようとしたものにもとづいている。能動的信頼は、親密な意味のやり取りからなるこうした相対的な独立した世界にたいする前提条件の、つまり、前判断の絶え間のない創出を、おそらく必然的にともなっている。能動的信頼とは、集合的ハビトゥスの共同的創出であり、分類愛好家たちによる、その人たちの意味のやり取りが基盤を置く無思考なカテゴリーの創出である。選択や自立した利害関心、専門知識という言い方は、親密な関係性が意味するものよりも、むしろ新古典派経済学の世界のほうに近いように思える。(pp.373-374)





*作成者:篠木 涼
UP: 20080926
ケア care個別性/普遍性・親密圏/公共性社会学 sociology 身体×世界:関連書籍 1990' BOOK
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