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『マルチカルチュラリズム』

Gutmann, Amy ed. 1994 ,Princeton University Press
=1996 佐々木毅・辻康夫・向山恭一訳,『マルチカルチュラリズム』,岩波書店


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■Gutmann, Amy ed. 1994 Multiculturalism: Examining the Politics of Recognition,Princeton University Press=1996 佐々木毅・辻康夫・向山恭一訳,『マルチカルチュラリズム』,岩波書店 <295> [bk1] ※

◆立命館大学大学院先端総合学術研究科院生による紹介
 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1990/9400ga.htm

◇Gutmann, Amy ed. 1994 「緒論」 Gutmann ed.[1994=1996:003-035]
◇Taylor, Charles  1994 「承認をめぐる政治」 Gutmann ed.[1994=1996:037-110]
◇Wolf, Susan 1994 「多文化主義と教育」 Gutmann ed.[1994=1996:111-127]
◇Rockfeller, Steven C. 1994 「自由主義と承認をめぐる政治」 Gutmann ed.[1994=1996:128-144]
◇Walzer, Michael 1994 「二つの自由主義」 Gutmann ed.[1994=1996:145-152]
Habermas, Jurgen 1994 「民主的立憲国家における承認への闘争」 Gutmann ed.[1994=1996:155-210]
◇Appiah, K. Anthony 1994 「アイデンティティ,真正さ,文化の存続――多文化社会と社会的再生産」 Gutmann ed.[1994=1996:211-234]


Habermas, Jurgen 1994 「民主的立憲国家における承認への闘争」 Gutmann ed.[1994=1996:155-210]

 「文化的伝統やそこで表現される生の形式は通常、それらが形成する人格構造を備えた人々を確信させることによって、すなわち、伝統を生産的に所有して継続させるよう動機づけることによって再生産される。立憲国家は生活世界のこうした解釈学的な文化的再生産の実行を可能にするのだが、しかしそれを保証することはできない。それというのも、存続を保証することは必然的にその構成員から、彼らが自分たちの文化的伝統を所有および保存するのであれば必要とされるところの諾否を表明する自由を奪い去ってしまうからである。文化が反省的なものとなるとき、自らを維持することができる唯一の伝統や生の形式とは、自らを批判的な検証に委ね、後の世代に対しては他の伝統から学習したり、あるいは改宗したり、他国へと移住したりする選択肢を残しながら、同時にその構成員を拘束するようなものなのである。」(Habermas[1994=1996:185])

 「多文化社会において、生の様式の平等な権利を伴った共存とは、すべての市民が差別を受けることなく、ある文化的伝統の世界の内部で成長し、また自分の子供たちをそのなかで成長させる機械を保証することを意味している。それはありとあらゆる文化に直面して、それを伝統的な形式のままで永続させる機会、あるいはそれを変容させる機会を意味している。それはまた、文化の命令を冷やかに拒否するか、あるいは自己批判的にそれと断絶するかして、伝統との意識的な断絶によって駆り立てられて生きる機会、あるいは分裂したアイデンティティを伴ってさえ生き続ける機会を(p.186)を意味しているのである。近代社会において加速された変化はあらゆる停滞的な生の様式を爆破する。文化は、自己自身を変容させる力を自己への批判と自己からの離脱から引き出す場合にのみ生き残る。法的保証の基礎となりうるのは、各人が自分自身の文化的環境のなかでこうした力を再生させる可能性を保持しているという事実だけである。そして逆にこうした力は、自己自身を孤立させることによってのみならず、外国人や見慣れないものとの交渉を通じても、少なくとも同程度に発達するのである。」(Habermas[1994=1996:186-187])

 「憲法中心の愛国心はその倫理的実質において、政治よりも下位のレベルで倫理的に統合された共同体との関係では、法体系の中立性から離れることができない。むしろ、それは多文化社会のなかで共存するさまざまな生の形式の多様性や十全さへの感受性を研ぎ澄まさなければならない。二つのレベルの統合の区別を保持することが重要である。もしその二つが互いに混同されるのであれば、多数派文化は他の文化的な生の形式の平等な権利を犠牲にして国家の特権を強引に手に入れ、それらの相互承認への要求を踏みにじってしまうであろう。国内の倫理的差異に対する法の中立性は、複雑な社会では国民全体はもはや価値についての実質的な合意によって団結するのではなく、正当な法制定や正当な権力行使のための手続きについての合意によってのみ団結することができるという事実から生じている。」(Habermas[1994=1996:190])


◆立岩真也『自由の平等――簡単で別な姿の世界』(2004,岩波書店)での言及

◇序章・注15

 「[…]/これは「承認の政治」(Taylor[1994=1998]等)、「差異の政治」(Young[1990]等)と呼ばれたりもする事態に関わり、フェミニストによっても多く論じられている。集団としての規定・同一性の肯定性が主張されるとともに、それが他の範疇の人々の排除やそこで規定される属性に回収されるものでない個人の抑圧につながりうることが問題にもされる。そしてそれに分配の問題が重ねられるという具合になっていて事態はなお複雑なのだが、しかしそれでも私は議論がおおまかすぎると感じる。例えばテイラーが持ち出すケベック州でのフランス語の問題についてどこまでのことが言えるのか、言語は他のものとどこが共通しておりどこが異なるのかを考えるといった仕事を一つずつ積んでいくことが必要だと思う。文献だけいくつかあげる。[…]」

◇第6章・注11

「☆11 この最初の選択が与えられるとは、たとえ選ばないことを選べるとしても、新たな選択肢を無視することが認められているとしても、今までのあり方に対して別のものが加わることである。それは押しつけられるのではないにせよ、人の前に示されてしまい、このとき現実はそれ以前とは異なったものになる。選択肢の提示とはそこにいる人にとって侵入でもありうる。このことをどう考えるのか。「文明」が流入してくる、「市場経済」が導入される、米国の農産物が入ってくる、病であるかどうか知らないままでいることもできるが知りたいか知りたくないかは予め聞かれる、等々。もちろんこれらについての疑念の内実はそれぞれについていくつもあり、様々に異なるだろう。それらの中のあるものの流入は侵略であり、選択肢の登場などというものではないという指摘もあるだろう。私は、これらを考えることがとても大切だと考えるのだが、やはり、考えられたものをあまり――例えば、入ってくるのは仕方がないのだ、そこで変容しながら生き延びていくものは生き延びていくのだ、と言っているように読める文章としてHabermas[1994=1996:185-187]があったりはするが――読んだことがない。」

Gutmann, Amy ed. 1994 Multiculturalism: Examining the Politics of Recognition,Princeton University Press=1996 佐々木毅・辻康夫・向山恭一訳,『マルチカルチュラリズム』,岩波書店 <295>

Habermas, Jurgen 1994 「民主的立憲国家における承認への闘争」,Gutmann ed.[1994=1996:155-210] <295,342>

Taylor, Charles 1994 "The Politics of Recognition", Gutmann ed.[1994]=「承認をめぐる政治」,Gutmann ed.[1994=1996:37-110] <294>



UP:20040419 REV:0821
 
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