HOME > BOOK >

『ミシェル・フーコー思考集成VIII 1979-81 政治/友愛』

Foucault, Michel 1994 Dits et Ecrits 1954-1988, Edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Ed. Gallimard, Bibliotheque des sciences humaines, 4 volumes
=200109100 蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝 編『ミシェル・フーコー思考集成VIII 1979-81 政治/友愛』,筑摩書房,461p.


last update:20100407
このHP経由で購入すると寄付されます

Foucault, Michel 1994 Dits et Ecrits 1954-1988, Edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Ed. Gallimard, Bibliotheque des sciences humaines, 4 volumes
=200109100 蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝 編『ミシェル・フーコー思考集成VIII 1979-81 政治/友愛』,筑摩書房,461p. ISBN-10:4480790284 ISBN-13:978-4480790286 \6825 [amazon][kinokuniya] ※

■目次

1979
256 ミシェル・フーコーの序文 大西雅一郎訳
257 十八世紀における健康政策 中島ひかる訳
258 作者とは何か
259 精神のない世界の精神 高桑和巳訳
260 司法のありかた 山上浩嗣訳
261 イスラームという名の火薬庫 高桑和巳訳
262 ミシェル・フーコーとイラン 高桑和巳訳
263 良俗の法 慎改康之訳
264 かくも単純な悦び 増田一夫訳
265 メフディー・バーザルガーンへの公開書簡 高桑和巳訳
266 居心地の悪さのモラルのために 阿部崇訳
267 ミシェル・フーコー 真実の瞬間 慎改康之訳
268 時代を別様に生きること 阿部崇訳
269 蜂起は無駄なのか? 高桑和巳訳
270 周辺の戦略 大西雅一郎訳
271 難民問題は21世紀・民族大移動の前兆だ 宇野邦一訳
272 フーコー、国家理性を問う 坂本佳子訳
273 監獄をめぐる闘争 山上浩嗣訳
274 生体政治の誕生 石田英敬訳
1980
275 序文 大西雅一郎訳
276 序文
277 塵と雲 栗原仁訳
278 一九七八年五月二十日の会合 栗原仁訳
279 あとがき 栗原仁訳
280 フーコー、国家理性を問う 坂本佳子訳
281 ミシェル・フーコーとの対話 増田一夫訳
282 それでも監獄 大西雅一郎訳
283 「ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール」と左翼連合 阿部崇訳
284 黙示録の四騎士と日々の虫けら 千葉文夫訳
285 覆面の哲学者 市田良彦訳
286 十九世紀の想像力 竹内孝宏訳
287 両性具有者と性 蓮実重彦訳
288 ロラン・バルト(一九一五年十一月十二日―一九八〇年三月二十六日) 松浦寿輝訳
289 生者たちの統治について 石田英敬訳
1981
290 第二版への序文 大西雅一郎訳
291 全体的なものと個的なもの―政治的理性批判に向けて 北山晴一訳
292 ロジェ・カイヨワへの手紙 阿部崇訳
293 生の様式としての友愛について 増田一夫訳
294 資料「死刑」、彼らは反対と書いた 大西雅一郎訳
295 性現象と孤独 慎改康之訳
296 思考することはやはり重要なのか 阿部崇訳
297 権力の網の目 石井洋二郎訳
298 ミシェル・フーコー―法律について監獄について、すべてを考え直さねばならない 阿部崇訳
299 精神分析の「解放者」、ラカン 原和之訳
300 代替刑に反対する 大西雅一郎訳
301 処罰するというのは最も難しいことである 高桑和巳訳
302 ピエール・ヴィダル=ナケとミシェル・フーコーの回答 阿部崇訳
303 見聞きすることについての覚え書き 阿部崇訳
304 主体性と真理 石田英敬訳
日本語版編者解説(増田一夫)

■内容

1979
256 ミシェル・フーコーの序文 大西雅一郎訳
 P・ブリュックナー、A・クロヴォザ、『国家の敵』、クレ、ラ・パンセ・ソヴァージュ社、一九七九年、3-4ページ。

「一九七二年は彼にとって長くて困難な道のりの始まりである。彼は、自分自身『国家の敵』の中で話題にしている人々、反体制派と「犯罪行為」との境目にいるあれらの人々の一人となる。彼は徐々に「国家の敵」という恐るべき一そこに分類される人々にとって恐るべき一カテゴリーの中に入っていく。」(本文より)

257 十八世紀における健康政策 中島ひかる訳
 『治療機械、およびに近代病院の起源』、「建築-古文書」叢書。
 一九七六年にフランスで出版された著作の再版(n°168を参照)。ここでのフーコーのテクストには新たなページも含まれている。

無題の文章に続いて「1 幼年期の特権化と家族への医療の普及」「2 衛生の特権化と社会の統制機関としての医学の働き」「3 病院の危険と効用」という章立て。

「公安とは、こうしてわかるように、社会集合「体」の管理すべてである。この「体」という用語を単に隠喩として理解してはいけない。というのも、そこで問題になるのは複雑で多様な物質性であって、それは、個人の「肉体」を越えて、彼らの生活を保証し、その活動の枠組みや結果を構成し、移動や交換も可能にするような、物質的要素全体を含んでいるからである。」(本文より)

258 作者とは何か
 《What is an Author -》一九七〇年、ニューヨーク州バッファロー大学でなされた講演。
 この講演のテクストは『フランス哲学協会会報』所載の講演『作者とは何か』一本『集成』第V巻に収録一とはいくらか違う。ふたつのテクストの異同は第V巻収録のものに記してある。(…)

259 精神のない世界の精神 高桑和巳訳
 (ピエール・ブランシェ、クレール・ブリエールとの対話)、P・ブランシェ、C・ブリエール『イラン 神の名のもとになされる革命』パリ、スイユ、「直接の歴史」、一九七九年、227-241頁。
 クレール・ブリエールとピエール・ブランシェは「リベラシオン」紙のイラン駐在通信員だった。彼らの非常に熱烈な本が刊行されたちょうどその時、ホメイニー新体制下で反体制派の処刑がはじめておこなわれたことが知られた。フーコーは批判に見舞われた。(…)フーコーはこうしたすべての批判に対して、五月十一日の「ル・モンド」紙で応えている(n°269を参照のこと)。

「人は、マルクスと民衆の阿片という語をあいかわらず引用しています。ところで、この一節の直前にある文章は引用されることがありませんが、そこには、宗教は精神のない世界の精神だ、とあるのです。いわば、イスラームは一九七八年には民衆の阿片ではなかったのです。それはまさしく、それが精神のない世界の精神だったからです。」(本文より)

260 司法のありかた 山上浩嗣訳
 「ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール」誌、七四三号、一九七九年二月五-十一日、20-21ページ。
 一九七九年一月三十日放映のテレビ番組『レ・ドシエ・ド・レクラン』への批評。番組では、四十五人の市民が司法の機能について疑義を呈し、法務大臣のアラン・ペルフィットが二時間にわたってそれに答えた。少し以前に国会で死刑廃止法案を棄却していた法務大臣は、一九七六年七月二十八日にギロチンで処刑されたクリスチャン・ラヌッチの審理の再検討に反対する理由を述べた。

「先夜、ほんの一瞬だけ、大臣の穏やかな声が乱暴になった。そのときに彼はこう言っていた。「いずれのせよ、司法は社会保険のようになってはいけない」と。これこそが、来るべき数年間の、司法の経済全体と政治全体の姿を言い表していたのである。」(本文より)

261 イスラームという名の火薬庫 高桑和巳訳
 「コッリエレ・デッラ・セーラ」紙、第一〇四巻、第三六号、一九七九年二月十三日、1ページ。

「「パレスティナの民衆の正当な権利」の要求はアラブの民衆をほとんど蜂起させなかった、ということを認めておく必要がある。あの事件が、マルクス-レーニン主義や毛沢東主義への参照よりもはるかに強力な、イスラームの運動という力動を受け取るとすればどうなるか?逆に言えばこうなる一ホメイニーの「宗教」運動は、仮にパレスティナの解放を目標として提示するなら、どのような効力をもつことになるだろうか?/ヨルダン河はもはや、イランからそれほど遠いところを流れてはいない。」(本文より)

262 ミシェル・フーコーとイラン 高桑和巳訳
 「ル・マタン・ド・パリ」紙、第六四七号、一九七九年三月二十六日、15ページ。(以下への回答。クローディ・ブロワイエル、ジャック・ブロワイエル「哲学者たちは何を考えているのか?」、「ル・マタン・ド・パリ」紙、第六四六号、一九七九年三月二十四-二十五日、13ページ。)
 女性たちが「ホメイニー打倒」を叫んでチャードル着用の義務化に抗議した、テヘランで三月八日におこなわれた女性デモの後、また、イスラーム準軍事集団による反体制派の処刑の後、フーコーは、ホメイニーに盲目的な支持を寄せたと非難された。ブロワイエル夫妻の『中国からの第二の帰還』(Deuxieme retour de Chine, Paris, Seuil,1977)は(クローディ・ブロワイエルの『空の半分』(La moitie du ciel, Paris , Denoel-Gonthier, 1973)が文化大革命を賛美した偉大な書物の一つだったのに対して)毛沢東主義中国に対する左翼知識人の転回をしるしづけたものであるが、夫妻はこの転回の態度を「ル・マタン・ド・パリ」紙で表し、「釈明するようフーコーに強く求め」た。

「私が応えないのには別の理由もある。これもまた原則に関わる理由だ。私は「自分の過ちを認めるよう強く求め」られている。この表現は、また、この表現が指し示している実践は、私に何かを想い起こさせる。いや、多くのことを想い起こさせる。私はそうしたことに抗して闘ってきたのだ。形式や効果が不愉快な賭け事になど、「紙上」でさえ私は加わろうとは思わない。」(本文より)

263 良俗の法 慎改康之訳
 (ナント弁護士会所属の弁護士J・ダネ、「ゲ・ピエ」誌の記者P・アン、G・オッカンガムとの対談、『ディアローグ』、フランス・キュルチュール、一九七八年四月四日)、「ルシェルシュ」誌、第三七号「子供に夢中になる人々」、一九七七年四月、69-82ページ。
 性犯罪と子供とにかかわる刑法典の手直しが国会において進められるなか、刑法典改正委員会は、ミシェル・フーコーの助言を求めることになった。フーコーは、さまざまな解放運動によって互いに対立するような主張を提出されていることに注目していた。(…)

「すなわち、立法者は、自らが提示する措置を正当化するために、「人間の普遍的な良俗を護らなければならぬ」とは言わず、その代わりに、「他者の性現象によって常に危険に晒される可能性のある人々がいる」と言うことになるでしょう。そのような危険に晒されるのは、たとえば子供たちです。つまり子供たちは、自らにとって無縁な大人の性現象、有害となる危険の大きい大人の性現象によって、捕らわれとなる可能性がある者とされます。ここから、傷つきやすい人々という概念、大きな危険に晒された人々という概念に訴えたり、良質あるいは悪質な精神分析が染み込んだ精神医学的ないし心理学的知識に訴えたりする、一つの法制が現れることになります。」(本文より)

264 かくも単純な悦び 増田一夫訳
 「ゲ・ピエ」誌、第一号、一九七九年四月一日、1ページおよび10ページ。

「諸君に東京のシャンティイー〔パリの北方にある美しい城館〕に行く機会があれば、私の言いたいことがわかるだろう。そこでは、ありうべきもっとも不条理なインテリアに囲まれて、名前のない相手とともに、いっさいの身分(アイデンティティ)から自由になって死ぬ機会を求めて入るような、地理も日付もない場所、そうした場所の可能性が予感されるのだ。」(本文より)

265 メフディー・バーザルガーンへの公開書簡 高桑和巳訳
 「ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール」誌、第七五三号、一九七九年四月十六-二十二日、46ページ。
 一九七九年二月五日、七十三歳のメフディー・バーザルガーンは、ホメイニーに組閣を命じられた。同月七日、イスラーム政府の樹立が宣言された。同月十七日、ホメイニーの名を借りた部隊による反体制派の処刑が始まった。一九六五年にイラン解放運動(MLI)を創設し、シャーによって十年の禁錮に処せられ、一九七七年には自由・人権擁護委員会を創設したメフディー・バーザルガーンは、人権擁護派の世俗的な潮流と宗教人たちとを取り結ぶ最高の仲介者だった。ホメイニー派の学生たちが在テヘラン・アメリカ大使を人質に取ったことに反対して、彼は職を解かれた。

「統治は、裁きをおこなうと主張する時には、統治自身を裁きに従わせるというこの義務を、世界中の人間にてらして受け容れなければならない、と私は思います。自分に対してしか釈明をおこなおうとしないような主権原則など、首相は私よりもお認めにならないことと思います。統治するとは、自明なことではありません。」(本文より)

266 居心地の悪さのモラルのために 阿部崇訳
 「ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール」誌、第七五四号、一九七九年四月二十三-二十九日、82-83ページに掲載。(J・ダニエル『断絶の時代』、パリ、グラッセ社、一九七九年、について。)

「というのも、「啓蒙」というものは、その十八世紀末という時代にあって、別に目新しいものでもなければ発明品でもなく、革新でもなければひとつの党派のようなものでもなかったからである。それはむしろ、何やら身近でいてつかみどころのないもの、まさに起こりつつあり、そして過ぎ去りつつあるものだったのだ。そのプロシアの雑誌は、つまるところ次のように問うていたのだ一「何がわれわれに起こったのか?われわれがまさに語り、思考し、為したことにほかならない出来事、われわれがかつてそうであり、また今もってそうであるような何ものか、つまりはわれわれ自身にほかならないような出来事、これは一体何なのか?」と。」(本文より)

267 ミシェル・フーコー 真実の瞬間 慎改康之訳
 「ル・マタン紙」、六七三号、一九七九年四月二十五日、20ページ(M・クラヴェルの死について)。

「彼は言った。「真実を語る義務は、なぜ、年老いた人間の灰と塵と死を、そしてさらに、再生と新たな光とをもたらすのだろうか。真実の瞬間はなぜ、そうした閾にあるのだろうか。」待ちかねている、というのが彼の最後の言葉であった。彼はいったい何を待っていたのだろうか。私がそれを知ることは決してあるまい。」(本文より)

268 時代を別様に生きること 阿部崇訳
 「ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール」誌、第七五五号、一九七九年四月三十日-五月六日号、八八ページに掲載。(M・クラヴェルについて。) 

「われわれの世紀、救済の約束などとうに古びてしまったこの世紀にあって、彼は、待つことに関して独特の流儀を持っていた。彼が「預言者」だったなどと言うのは、物事を理解していなかった連中にすぎない。災厄の時やら解放の時やら、何にもせよ、そうした最期の瞬間を彼は待ち望んだりしなかった。彼は単に「待って」いた、その目的語なしにだ。確信を持って、彼は純粋に待機していたのだ。」(本文より)

269 蜂起は無駄なのか? 高桑和巳訳
 「ル・モンド」紙、第一〇六六一号、一九七九年五月十一日、1-2ページ。

「私の道徳は「反戦略的」だ。つまり、一個の特異性が蜂起する時にはこれを尊重し、権力が普遍的なものに背くなら強硬な姿勢をとる、ということだ。単純な選択だが、難しい仕事だ。というのは、歴史をわずかばかり下方で歴史を断ちもし動かしもしているものにじっと目をこらさなければならず、それと同時に、わずかばかり政治から引きさがったところで政治を無条件に制限すべきものを見張らなければならないからだ。つまるところ、それが私の仕事だ。この仕事をするのが私が最初でも、私が一人でもない。だが、私はこの仕事を選んだ。」(本文より)

270 周辺の戦略 大西雅一郎訳
 「ヌーヴェール・オプセルヴァトゥール」誌、第七五九号、一九七九年五月二十八日-六月三日、57ページ。

「(三) またどのように防衛するのか。現実の違法行為の犯人を起訴することによってか。多分、そうだろう、もしそれが可能ならば。だが、周辺の戦略の方が効果的だ、つまり、恐怖を与えること、見せしめにすること、威嚇することだ。極めて意味深長な言葉で俗に言われるように、「標的である特定の集団」に圧力をかけるのだ。彼らは、流動的で、崩れ易く、不確定なのであるが、いつか、不安を与えるものとなりうると想定されている。すなわち、失業中の若者、学生、高校生、などである。」(本文より)

271 難民問題は21世紀・民族大移動の前兆だ 宇野邦一訳
 宇野邦一によるインタヴュー「週刊ポスト」一九七九年八月十七日号、34-35ページ。

「国家は、自国民に対しても、他国民に対しても生死に関して無条件の権利をもつことがあってはならないのです。国家が生死に対して権利をもつことを否認することは、アメリカのベトナム爆撃に反対することであったし、いまは難民を救済することなのです。」(本文より)

272 フーコー、国家理性を問う 坂本佳子訳
 (M・ディロンとの対談、F・デュラン=ボガート訳)、「キャンパス・レポート」第十二年次、第六号、一九七九年、5-6ページ。(この対談の改訂稿が、「スリーペニー・レヴュー」に掲載された。後出二八〇番を参照のこと。)

「国家が個人の心身の健康に注意を向け始めたときというのは、まさに国家がもっとも大量の虐殺を行い始めた頃と一致しているのです。フランスでは、健康をテーマとした大きな書物が始めて書かれたのは一七八四年のことで、大革命の五年前、ナポレオン戦争の十年前です。この生と死のあいだのかけひきは、近代国家の主たる逆説のひとつです。」
「かつては、わたしたちが理性の世界に生きているなら、暴力からは免れうるだろうと言われたりもしましたが、これはまったく間違っています。暴力と合理性のあいだに両立不可能なことなどありません。わたしにとっての問題は、理性を告訴することではなく、暴力とこんなにも調和しているこの合理性の性質を明らかにすることにあります。わたしは理性と闘っているのではない。理性と闘うことなどできないでしょう。」
「わたしは六〇年代の初めに狂気について大いに書きました一精神医学の誕生についてのある歴史を執筆したわけです。そこで書いたことが歴史学的観点からすれば偏っており、誇張されているということはよく分かっています。たぶんわたしは、自ら展開する論に反するだろういくつかの要素を無視したかもしれない。けれどもわたしの本は、人々が狂気を見るその見方に影響を及ぼしました。そしてそうであればこそ、わたしの本や、そこで展開したテーゼは、今日の現実におけるひとつの真実を含むことになるのです。」(本文より)

273 監獄をめぐる闘争 山上浩嗣訳
 (F・コルコンベ、A・ラザリュス、L・アペールの鼎談)、「エスプリ」誌、一一号、特集「いつも監獄を」、一九七九年十一月、102-111ページ。
 「エスプリ」誌は、監獄についての特集号(「いつも監獄を」)の発刊準備をしていた。フーコーは鼎談に招かれた。だが彼は、編集長のP・ティボーが、「刑務所情報集団」(GPI)(上記特集号の序文を参照)の活動に参加していたときに改革の提案をしなかったことで、自分を非難していることを知る。(…)

「L・アペール一変わったのは六八年ごろだったのではないかと思います。今ではみんな「ああ、おれは人殺しだ、だからといって寒いのはがまんできない」と言うでしょう。」(本文より)

274 生体政治の誕生 石田英敬訳
 『コレージュ・ド・フランス年鑑』、第七十九年次、思考システムの歴史、一九七八-一九七九年度、367-372頁

「「自由主義」という用語で何を理解すべきなのか?私が依拠するのは、歴史の普遍概念および、歴史において唯名論的方法を試す必要に関するポール・ヴェーヌの考察である。かつておこなった幾つかの方法の選択を更新しつつ、私が試みたのは、「自由主義」を、ひとつの理論やイデオロギー、ましてやもちろん「社会」が「自らを表象する」仕方などとして分析することではなく、まさしく、ひとつの実践、つまり複数の目標に向かって、継続的な反省によって自己を制御していくような、ひとつの「実行の様式(maniere de faire)」として分析することである。自由主義はこのとき統治の運用の合理化の原理であると同時に方法として分析されることになる。」(本文より)

1980
275 序文 大西雅一郎訳
 (R・)クノベルスピース、『Q.H.S.:重屏禁室』、パリ、ストック社、一九八〇年、11-16ページ。
 ロジェ・クノベルスピースは強盗の廉で当時拘置されていたが、彼はその罪を否認していた。ルーアンの重罪裁判所での再審により、彼は、一九八一年、八年に渡る投獄を終えて釈放された。彼の起訴を再審理するための委員会には数多くの知識人が集まった。M・フーコーはそれには加わらなかったが、重屏禁室が最近になり監獄内に設置されたことについて彼が書いた著作に序文を付すことを承諾していた。

「重屏禁室にずっと監禁されていたタレブ・ハジャジは去年、自らの独房内で首つり自殺をした。彼は死ぬ間際にこう書き残した、「私はまだ十四、五年こうやっていなければならない…… その年月をずっとこのように過ごすなんて、五年後にはもう我慢できないだろうというのに……
私には十分な卑屈さや抵抗するだけの勇気はない。ならば残るのはタナトス〔死の神、夜の子、眠りの兄弟〕の子宮だ。」」(本文より)

276 序文
 『エルキュリーヌ・バルバン一最近その回想が発明された十九世紀フランスの両性具有者』ニューヨーク、パンテオン・ブックス、一九八〇年、Z-]Zページ、no.287参照。

277 塵と雲 栗原仁訳
 M・ペロ編『不可能なる監獄一十九世紀刑務所システムに関する研究』、パリ、スイユ社、「史的世界」叢書、一九八〇年、29-39ページ(J・レオナールによる論文「歴史家と哲学者一『監視と処罰 監獄の誕生』について」、同書、九-二八ページへの返答)。
 (…)このM・フーコーの論文は、J・レオナールによって指摘されたすべての論点に対して返答している。

「私はレオナール氏がいささか話を誇張しすぎていると考えざるをえない。多くの過ちを想像上の歴史家のせいにすることで、たぶん彼は答えるべき反駁を幾分か安易なものにしてしまっている。とはいえ、自分自身の大まかさに身動きがとれなくなった正確さの騎士に対する風刺というものは、レオナール氏が論争の提案を望んでいる、方法に関する三つの論点を確認するためには十分に理解可能な内容を持っている。そして同様に私にとっても、それは議論の出発点になり得るものであるように思われる。
(1) ある問題に関する分析とある時代に関する研究の違いについて。
(2) 歴史における現実という原理の用途について。
(3) 分析上の主張とその対象の間でなされるべき区別について。」
ということで「問題か時代か ケーキの分け前」「現実と抽象 フランス人は従順であるのか」「対象と主張 戦略の問題」と章立てて返答している。

278 一九七八年五月二十日の会合 栗原仁訳
 M・ペロ編『不可能なる監獄一十九世紀刑務所システムに関する研究』、パリ、スイユ社、「史的世界」叢書、一九八〇年、40-56ページ。
 この会談の発端は、二つのテキストの間で生じた討論であった。つまり、ジャック・レオナールによる「歴史家と哲学者」と、それに対するミシェル・フーコーの最初の返答となった「塵と雲」〔n°277〕である。(…)この会合のテキストはミシェル・フーコーによって校閲されているが、簡明さを図るために、出席した歴史家たちの発言をひとまとめにして、ある一人の歴史家による一連の質問という形態とすることにした。

「なぜ監獄なのか」「出来事化」「合理性の問題」「麻酔効果」という章立て。

「(2)麻痺は麻酔と同義語ではなく、その逆です。行動のぎこちなさが現れてきたのは、かえって問題全体に目覚めたからなのです。それこそ、そこで終わりでないということを意味しています。とはいえ、「するべきこと」は上から予告めいた立法上の権能を持つ改革者によって決定されるべきものではなくて、長年にわたって行きつ戻りつするような意見交換や熟考、あるいは試みや様々な分析といった仕事を通じて決められるべきものであると私には思われます。」(本文より)

279 あとがき 栗原仁訳
 M・ペロ編『不可能なる監獄一十九世紀刑務所システムに関する研究』、パリ、スイユ社、「史的世界」叢書、一九八〇年、316-318ページ(M・アギュロンによる後記に答えて、同書、313-316ページ)。
 一九七八年五月二十日の会合(前項No.278)の際、ミシェル・フーコーのジャック・レオナールへの返答(前項No.277)は、歴史家と哲学者による二つの手法の間にある認識論(エピステモロジー)上の議論を引き起こした。一九八〇年、『フランス革命歴史学年報』誌上のいくつかの論文と上述の会合は『不可能なる監獄…』という題名のもとにスイユ社から刊行されたが、そこには一九四八年革命史学会会長M・アギュロンによる後記と、ここに紹介するM・フーコーによる返答も収録された。(…)

「G・カンギレムの表現を用いるならば、《啓蒙》、それは我々の最も「現在的な過去」なのである。さて、そこで私はアギュロンと彼の共同執筆者たちに一つの提案をもちかけたい。なぜ、十九世紀と二十世紀のヨーロッパにおいて啓蒙が知覚され、思考され、体験され、想像され、懇願され、排斥され、そして再び活性化されたやり方で、大いなる歴史的探求を始めようとはしないのか。それは興味深い「歴史-哲学的な」仕事となり得ることであろう。歴史家たちと哲学者たちとの関係性は、そこにおいて「試される」ことであろう。」(本文より)

280 フーコー、国家理性を問う 坂本佳子訳
 (M・ディロンとの対談、F・デュラン=ボガート訳)、『スリーペニー・レビュー』第一年次、第一号、冬春号、一九八〇年、4-5ページ。(この対談の改訂前のものは『キャンパス・レポート』に掲載された。前出二七二番を参照のこと。)

「アイデンティティの確立は、六〇年代以降、学生たちにとって大きな政治的問題となりました。主体性、アイデンティティ、個性といったものは、六〇年代以降、ある重要な政治的問題を構成していると思われます。アイデンティティと主体性を、政治的、社会的要因によって左右されることのないだろうような本質的で自然な要素とみなすのは、私の考えでは危険なものです。わたしたちは、精神分析家たちが問題にしているような類の主体性というものから解放されるべきなのです。自分自身や自分の振る舞いに関するある種の概念にわたしたちは捕らわれていますが、自分の主体性、自分自身との関係を変えなければなりません。」(本文より)

281 ミシェル・フーコーとの対話 増田一夫訳
 (ドゥチオ・トロンバドーリとの対話、パリ、一九七八年末)、「イル・コントリブート」誌、第四年第一号、一九八〇年一月-三月号、23-84ページ。

「われわれは、ふたたび統治の危機にあるように思われます。人びとが相互に導きあう手段の総体が問いなおされているというのは、もちろん指導し、統治する者たちによっておこなわれていることではありません。たとえ彼らもまた、さまざまな困難を認めざるをえないにしても。もしかするとわれわれは、統治問題を再評価する大規模な危機の始まりにいるのかもしれないのです。」(本文より)

282 それでも監獄 大西雅一郎訳
 「エスプリ」誌、第三十七年、第一号、一九八〇年一月、184-186ページ、「往復書簡」。
 GIP〔監獄情報グループ〕の共同設立者であるジャン=マリ・ドムナックから〔エスプリ〕誌の編集を引き継いだポール・ティボーは、一九七九年十一月号にGIPの役割を批判する記事を掲載していた。彼によれば、GIPは監獄改革のプログラムを提案する力を持ち合わせていなかったのだ。改革主義的なプログラムのこうした欠如の原因は、急進的知識人であるM・フーコーの指導力にあると彼は見なしていた。知識人に対するこのような弾劾は当時、流行していた一つのジャンルであり、ジャーナリストのジョルジュ・シュフェールによっても有名になった。

「(三)我々の原則の一つは、拘留者および、拘留者を取り巻く、社会の辺縁にいる人々すべてが自分の意見を表明できるようにすることであった。GIPの様々なテクストは、不健全な知識人が作り上げたものではなく、こうした試みの成果だったのだ。だからこそ、GIPは自らに改革を提案する任務があるとは決して考えなかった。まただからこそ、GIPは(それは当初から予想されたことだが)、元拘留者らが自分たち自身の運動を組織することができた時に解散したのだ。」(本文より)

283 「ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール」と左翼連合 阿部崇訳
 (J・ダニエルとの対談)、「スピラーリ:ジォルナーレ・インテルナツィオナーレ・ディ・クルトゥーラ」誌、第三期第十五号、一九八〇年一月、53-55ページに掲載。(J・ダニエル『断絶の時代』、パリ、グラッセ社、一九七九年、についてのラジオでの対談からの抜粋。D・リシェ司会による「歴史の月曜日」、フランス・キュルチュール、一九七九年七月二十三日放送。)

「ある雑誌が、読者こそがその雑誌の「下部組織」である、と言ったりしてよいものかどうか疑問に思います。私が「ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール」に対して少しばかり重大な批判をするとするなら、それは、左翼連合〔一九六九年以降の政治体制〕との関わりかたについてのものになるでしょう。政治との関係においてジャーナリズムとジャーナリストが果たす役割のうちで、私が興味深く思っているのは、それが政治の内部で政治的役割を果たすということではない。ジャーナリストがあたかも政治家であるかのように振る舞うことではないのです。肝要なのは、逆に、異なるフィルターを通して政治というものを解読してみることです。」(本文より)

284 黙示録の四騎士と日々の虫けら 千葉文夫訳
 (B・ソーブルとの対談)。「カイエ・デュ・シネマ」誌第六号特別号「ジーバーベルク」、一九八〇年二月、95-96ページ(H=J・ジーバーベルクの映画「ヒットラー、ドイツの映画」について)。
 ジーバーベルクの「ヒットラー、ドイツの映画」の美学はむしろ悪評をもって迎えられた。西ドイツとアメリカでは自己満足的だという悪評が下されたのである。この演出家ベルナール・ソーブルとの対談はスーザン・ソンターグ、ハイナー・ミュラー、ダグラス・サーク、フランシス・コッポラなどの発言とともに、この映画を擁護する一連の動きのなかでなされている。フーコーはジーバーベルクのすべての映画作品名を知っていた。

「ジーバーベルクの力はまさにそこにあると思われるのです。彼は一九三〇年-四五年のヨーロッパで生じた出来事が、まさに黙示録の大騎士の黒い姿にほかならないその瞬間をみごとに浮き上がらせたのです。そしてまた彼は、黙示録の四騎士と日々われわれが目にする虫けらとのあいだに存在する、いわば生物学的な親縁性をしめしたということになるのです。」(本文より)

285 覆面の哲学者 市田良彦訳
 (C・ドラカンパーニュとの対談、一九八〇年二月)「ル・モンド」紙、一〇九四五号、一九八〇年四月六日「ル・モンド日曜版」T、]Zページ。
 クリスチャン・ドラカンパーニュが、「ル・モンド」紙のための本格的な対談をフーコーに依頼する決意をしたのは、一九八〇年一月のことであった。当時、日曜版「ル・モンド」紙の付録は、思想的な議論に少なからぬ紙幅を充てていたのである。これに対して、ミシェル・フーコーは即座に承諾の回答をしたが、一つの原則的な条件を提示したのであった。その条件とは、すなわち、対談は匿名対談にとどまるべしというものであり、彼の名も表には出ず、その名の推測を可能にする手がかりもすべて抹消されなければならないというものであった。(…)

「ひとつのゲームを提案しましょう。「名無しの年」というゲームです。一年間、著者の名を付さずに本を出すのです。批評家たちは、まったく匿名の作品を相手にしなければなりません。思うに、彼らは何も言えなくなるでしょう。また作家たちも皆、本を出すのを翌年まで控えるかもしれませんし……。」
「かつて教育の主要な機能のひとつは、個人の形成は社会における彼の位置の決定をともなうということでした。今日ではこれは次のように理解せねばなりません。つまり教育は、個人が好みに応じて自らを変えることを可能にする、というように。これは、教育の「恒久的」提供が可能であるという条件でのみ可能なことです。」(本文より)

286 十九世紀の想像力 竹内孝宏訳
 「コリエーレ・デラ・セーラ」一〇五巻二二三号、一九八〇年九月三十日、3ページ。

「P・ブーレーズ指揮、P・シェロー演出による百年祭の『指輪』が、これで最期になる五年目のシーズンを終えた。ワルハラが、またしても炎のなかに崩れ落ちたあと、一時間半にもおよぶ拍手。そして数え切れないほどのアンコール。初演の年には怒号があびせられたのだということも、何人もの演奏家が袂をわかってしまったことも、オーケストラや何人かの歌手たちが機嫌を悪くしていたことも、忘れられた。ワーグナーの作品を保護するために行動委員会が組織されたことも、指揮者と演出家の死を要求するビラがばらまかれたり、匿名の書簡が送りつけられたりしたことも、やはり忘れられた。」(本文より)

287 両性具有者と性 蓮実重彦訳
 「アカルディ」誌、第二七年、第三二三号、一九八〇年十一月、617-625ページ。

「以下は、若干の加筆はあるが、米語版『エルキュリーヌ・バルバン一通称アレクシナ・B』の序文である。この版は、補遺として、アレクシナの物語に想をえたパニッツァの短編小説『僧院のスキャンダル』を収録している。パニッツァは、その物語を、当時の医学文献を通じて知ったのであろう。フランスにおいて、エルキュリーヌ・バルバンの回想は、ガリマール社によって刊行され、『僧院のスキャンダル』は、ディフェランス社〔les Editions de la Difference〕からこの総題のもとに刊行された作品集のなかに含まれている。パニッツァの物語(レシ)とアレクシナ・Bの物語(イストワール)との結びつきを私に指摘してくれたのは、ルネ・ド・セカティである。」(冒頭の紹介)

288 ロラン・バルト(一九一五年十一月十二日―一九八〇年三月二十六日) 松浦寿輝訳
 『コレージュ・ド・フランス年報』、一九八〇年、61-62ページ。

「数年前、彼をあなた方の間に迎え入れることを提案したとき、広く世に知られた輝きとともにすでに二十年以上にわたって継続されていた仕事の独創性と重要性のおかげで、私は、自分の要請の支えとして、彼に対して私が抱いていた友情に頼る必要はありませんでした。友情を放念するには及びませんでした。それを語らずに済ませることができたのです。作品がそこにあったのです。」(本文より)

289 生者たちの統治について 石田英敬訳
 『コレージュ・ド・フランス年鑑』第八〇年次、思考システムの歴史、一九七九-一九八〇学年度、449-452ページ。

「本年度の講義は過去数年間「統治(gouvernment)」の概念に関して行ってきた分析を手がかりに行われた。「統治」とは広義の概念であって、人間たちの行動を導く諸々の技術および方法という意味である。子供たちの統治、魂あるいは良心の統治、家の統治、国家の統治、自己自身の統治などと使われる。抗して一般的な枠組みのなかで、良心の検査と告白の問題が研究された。」(本文より)

1981
290 第二版への序文 大西雅一郎訳
 ヴェルジェス(J・)、『司法戦略について』、パリ、ミニュイ社、一九八一年、5-13ページ。
 この著作において、ジャック・ヴェルジェスは、二つの人物形象をもとにして刑事裁判の類型学を打ち立てている。共謀に基づく裁判では、刑事被告人と弁護人は、起訴する側の法律の枠組みを受け容れるのだが、切断に基づく裁判では、刑事被告人と弁護人は、別の正当性の名の下に、当該の法律と司法〔正義〕の正当性にその資格を認めない。投獄中のアルジェリアのナショナリストたちの弁護士であるJ・ヴェルジェスは、自分たちが戦争当事国の人間として扱われることを望んでいるという意志を理論化していた。

「「その過酷さは戦争や貿易以上ではないがそれ以下でもない世界」として、また「戦場」として司法を理解すること、その射程を確定し、あるがままに司法を分析すること、刑事検察局が改めて強行な姿勢を採りつつある現在、これ以上に有効なことがあるだろうか。その最新の形態が治安・自由法として現れているこの政治への唯一の応答は、嘆願口調の考察ではなく、弁護の再武装化にある。法律は決して正しくはない。幸福な過去もなかったし、よりよい将来ないし不安な将来があるのでもない。あるのは生死を賭けた弁護なのだ。」

291 全体的なものと個的なもの―政治的理性批判に向けて 北山晴一訳
 (P.E・ドーザ訳、スタンフォード大学、十月十日及び十六日)、S・マクマラン編The Tanner Lectures on Human Values, t.U' ソルト・レイク・シティ、ユタ大学出版部、一九八一年、223-254ページ。

TとUの2つの章からなっている。
Tでは牧人権力の起源について、Uでは近代国家の形成と牧人権力について論じられている。

「1/社会あるいは文化の合理化の問題を扱うにしてもそれをひとつの全体として扱うのではなく、そうしたプロセスを複数の分野において一それら分野のひとつひとつは狂気、病、死、犯罪、性といった根源的な経験と深くむすびついているわけですから、それぞれ個別の分野において一分析する方が恐らく賢明である。
2/合理化ということば自体がわたしには危険なものに思える。誰かが何かを合理化しようと試みる場合、本質的な問題はそのひとが合理性の諸原理に則っているか否かを調べることではなく、彼がどんなタイプの合理性に訴えようとしているかをみつけることである。
3/啓蒙の時代がわれわれの歴史のなかで、さらには政治工学の発展のなかで極めて重要な段階であったことは確かだとしても、われわれがいかにして自らの歴史のワナにはまってしまったかを理解しようと欲するならば、やはりわれわれはもっと古い時代のプロセスにまでさかのぼって参考にする必要があるのではないか。
以上が、わたしがこれまでの仕事においてとってきた「基本方針」です。(…)これからのわたしの仕事は、「個別化する権力」の問題との関係において個別性の問題一、あるいは、そうですね、アイデンティティーの問題というべきかもしれませんが、そうした問題に向けられることでしょう。」
「政治的権力を人々のうえに行使する合理的な介入形態としてのポリスの役割は、人々の生に小さなプラスアルファを与えることであり、そうすることによって、国家の力を少しばかり強くすることにあるわけです。また、それは、「コミュニケーション」の管理によって、つまり個々人の共同行為(労働、生産、交換、サービス)によって行われるものです。」
「政治批判なるものが国家に対してぶつけてきた不満は、国家が個別化の要因であると同時に全体化の原理でもあるということであったが、このことは非常に示唆に富んでいる。国家とはそもそものはじめから個別化と同時に全体化にも向かうものであったという事実、このことを納得するには、新しく生まれた国家の合理性がいかなるかたちをしていたかを観察し、その最初のポリス政策がどんなものであったかを見れば十分である。国家の反対側に個人とその利害を対置してみたところで、それは共同体とその要求を国家に対置するのと同様にまったく一貫性に欠けたものなのである。」(本文より)

292 ロジェ・カイヨワへの手紙 阿部崇訳
 『ロジェ・カイヨワへのオマージュ』、パリ、ポンピドゥー・センター、《カイエ・プール・アン・タン》叢書、一九八一年、228ページに所収。

「もちろん、常日ごろあなたの御本は熱心に読ませていただいていおりまして(私は「ラマルクの誤謬」について知りませんでしたので、あなたの文章にはすっかり夢中になりました)、あなたと私がやってきた仕事のあいだには一もしかするとこれは私の思い上がりかも知れませんが一何かしら近しいものがあるのではないか、という印象を常々もっておりました。」(本文より)

293 生の様式としての友愛について 増田一夫訳
 (R・ド・セカティ、J・ダネ、J・ル・ビトゥとの対談)、「ゲ・ピエ」誌、第二五号、一九八一年四月、38-39ページ。

「快楽の放棄としての禁欲主義は、評判が悪いですね。しかし、禁欲はそれとは別のことなのです。禁欲とは、自己を変えるために、あるいは幸いにもけっして到達されることのない自己を現れさせるために、みずから、自分自身に対して行なう作業なのです。これこそ、今日われわれが問題とすべきことではないでしょうか。」
「思うに、われわれが努力すべきなのは、ひたすら欲望を解放することではなく、われわれ自身が限りなく快楽を受け入れやすくなるようにすることなのです。たんに性的な出会いとアイデンティティの恋愛的融合というふたつのできあがった定式から逃れ、かつ逃れさせるべきなのです。」
「生の様式は、異なった年齢、身分、職業をもった個人のあいだで共有することができます。それは制度化されたいかなる関係にも似ていない、密度の濃い関係をかずかずもたらすことができますし、生の様式はひとつの文化を、そしてひとつの倫理をもたらすことができるように私には思われます。」(本文より)

294 資料「死刑」、彼らは反対と書いた 大西雅一郎訳
 「ヌーヴェル・リテレール」誌、第五九年度、第二七八三号、一九八一年四月一六-二三日、17ページ。
 政策綱領に死刑廃止を組み入れていたフランソワ・ミッテランの大統領選挙キャンペイン中の電話による世論調査への回答。

「私の考えでは、問題は三つある。刑罰の機能の仕方という問題、精神医学-刑罰という問題、死刑という実際的問題。
最初の二つの問題に答えなければ、問題そのものの解決はありえない。自分が頭を隠しておきながら、その頭を切るかどうかを話題にするのは、ダチョウのような政治を実践することだ。確かに、私は刑務所システム全般の手直しには賛成だが、このシステムは社会システム自身と独立したものではない。したがって、すべてを変える必要があるのだ。」(全文)

295 性現象と孤独 慎改康之訳
 (「性現象と孤独」、F・デュラン・ボゲール訳)、ロンドン・リヴュー・オブ・ブックス、第V巻第九号、一九八一年五月二十一日-六月五日、3ページ、5ページ、および6ページ(この講演は英語で行われた)。

「しかし私は、あらゆる社会にはもう一つ別のタイプの技術があるということに、少しずつ気づいてきました。その技術とはすなわち、個々人が、自分自身によって、自らの身体、自らの魂、自らの思考、自らの行動にいくつかの操作を加えながら、自らのうちに変容をもたらし、完成や幸福や純粋さや超自然的な力などのある一定の段階に達することを可能にする、そうした技術です。このような技術を、自己に関する技術、と呼ぶことにしましょう。」(本文より)

296 思考することはやはり重要なのか 阿部崇訳
 (D・エリボンとの対話)、「リベラシオン」紙、第十五号、一九八一年五月三十-三十一日、21ページに掲載。

「〈社会的なもの〉を現実的なものの唯一の審級として神聖化することから自由にならなければならないし、人間の生活や人間同士の様々な関係において本質的なもの一私は、それを思考と呼びたい一を無価値と見なすことをやめねばならない。思考、それは体系やディスクールの構成体の彼方に、またそのこちら側に、確固として存在するのです。それはしばしば隠れたものであるけれども、常に日常の行動を活性化させている。」(本文より)

297 権力の網の目 石井洋二郎訳
 (第一部、P.W・プラードJr訳、バヒア大学哲学学部での講演。一九七六年)、「バルバリエ」誌四号、一九八一年夏、23-27ページ。
 バヒア大学哲学学部での講演。一九七六年。この講演は二回に分けて発表されている。第一部は「バルバリエ」誌四号、第二部は同じく五号で、いずれも一九八二年刊。ここでは全体をまとめて掲載した。

講演後、質疑応答もあり。

「興味深いのはじつのところ、ある集団、ある階級、ある社会において、権力の網の目がどのように機能しているか、すなわち権力の網の中で各人はいかに位置決定されるのか、そして各人はいかにして権力をあらためて行使し、いかにしてそれを保持し、いかにしてそれを伝達するのか、そうしたことを知ることなのです。」(本文より)

298 ミシェル・フーコー―法律について監獄について、すべてを考え直さねばならない 阿部崇訳
 「リベラシオン」紙、第四五号、一九八一年七月五日、2ページに掲載。

「しかしまた、何が実際に罰せられるに値するのか、ということについても考えなければならない。今日認められているような、法律によって処罰されるべきものと、法律が実際には処罰しないものとの線引きについて考えてみることだ。「風紀」が「紊乱」したり、「良俗」が乱されたりすることのないようにあれほど多くの予防措置がとられているが、その割には、雇用や健康、生活環境や生命が脅かされないためにとられるべき措置の方は軽んじられている……。」(本文より)

299 精神分析の「解放者」、ラカン 原和之訳
 (J・ノベクールとの対談、A・ギツァルディ訳)「コリエーレ・デラ・セーラ」一〇六巻、二一二号、一九八一年九月十一日号、1ページ。

「一九五〇年代、学生の私がレヴィ=ストロースや、初期のラカンのテクストを読んでいた頃に遡りますと、新しかったのは次の点でした。つまり哲学や人文科学が、人間主体の非常に伝統的な捉え方の上で生きていると言うこと、そして場合に応じて、主体は根本的に自由だ、と言う側についたり、主体は社会的な条件によって決定されている、と言う側についたりするのでは不十分だ、ということが発見されたという点です。我々は、一見単純な「私」という代名詞の用法の背後に隠れているものを、一つ残らず解放しなくてはならないということを発見したのです。主体、この複雑で脆弱なものは、語ることの非常に難しいものですが、それなしでは我々が語ることのできないものなのです。」(本文より)

300 代替刑に反対する 大西雅一郎訳
 「リベラシオン」紙、第一〇八号、一九八一年九月十八日、5ページ。

「何世紀にも渡り、死が刑法の頂点に居座ってきたのは、立法者や裁判官が格別に残酷であったからではない。それは、司法が主権の行使であったからだ。この主権は他のあらゆる権力から独立していなければならなかった。実践されることは稀なのに、大いに話題となった。主権は、個人に対する生殺与奪の権利の行使でもなければならなかった。主権が定期的に姿を現す限りにおいては、人々はあえて触れないでいる方を好んだ。/(…)だが、いかなる公的権力も(またそもそもいかなる個人も)誰かの生命を奪う権利はないという原則を提示して、死刑を廃止すること、これこそ重要かつ困難な議論に取り組むことである。そこから直ちに、戦争、軍隊、兵役義務などの問題が浮かび上がってくる。」(本文より)

301 処罰するというのは最も難しいことである 高桑和巳訳
 (アントワヌ・スピールとの対話)、「キリスト者の証し」誌、第一九四二号、パリ、一九八一年九月二十八日、32ページ。

「処罰するというのは最も難しいことです。軍や学校や工場といったあらゆるところで実践されている処罰の全局面について我々の社会が問い糺すというのはよいことです(幸い、工場については特赦法が覆いをわずかばかり持ちあげました)。」

302 ピエール・ヴィダル=ナケとミシェル・フーコーの回答 阿部崇訳
 「リベラシオン」紙、第一八五号、一九八一年十二月十八日、12ページに掲載。
 一九八一年十二月十三日、ヤルゼルスキ将軍はポーランドに戒厳令を布告する。翌十二月十四日、フランスの対外関係相クロード・シェソンは、これはポーランドの内政問題であってフランスは介入しない、と発言した。ピエール・ブルデューとミシェル・フーコーは率先してそれに抗議するアピールを発表、そのなかで、かつて左翼が逸してしまった出会い、とりわけ人民戦線とスペイン共和派との出会いを喚起した。するとフランス政府は状況分析を転換、ポーランド問題は「国際的な重大問題」であるとの姿勢を明らかにする。(…)

「日曜日以来、けっして私のみが感じていたのではなかった憤り、その憤りを報道機関やメディアで表現することがあまりにも困難だったので、今晩、ジョスパン、およびフォーヴェ両氏に対する手短かな回答で満足するわけにはまいりません。ですが、私の考えを展開できる機会と場所とが与えられれば、いくつもの説明をし、いくつもの反駁をおこなう準備があります。」(全文)

303 見聞きすることについての覚え書き 阿部崇訳
 「ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール」誌、第八九三号、一九八一年十二月十九-二十五日号、21ページに掲載。

「いちばん誤った自明の理」「いちばん大きな責任」「いちばん重要な契約」「いちばん強固な申し合わせ」「いちばん安心な地勢図」「いちばん最後の機会」「いちばん美しいアフォリズム」といういくつかの覚え書き。

「一もう続きようがなかったんだよ。臨界点まで達してしまっていたんだ。まぁいずれにせよ、行くあてのない冒険だったんだね。
一どうしてそう言えるの?ポーランドの人々には、あの経験を押し進めて行く力がないからかね?彼らには、自分たちの制度を変革して新しい政体を樹立する資格はないとでも?
一そうは言わないが、つまりロシア人たちがそれを許容できなかったからだよ。
一ほら見たまえ、ポーランドのクーデターは内政問題なんかじゃないのさ。」(本文より)

304 主体性と真理 石田英敬訳
 『コレージュ・ド・フランス年鑑』、八一年次、「思考システムの歴史」講座、一九八〇-一九八一学年度、一九八一年、385-389ページ。

「自己の「関心」および自己の「技術」の歴史はしたがって、主体性の歴史をおこなう一つのやり方ということになるかもしれない。しかしながら、それはもはや、狂人と非狂人、病人と非病人、犯罪者と非犯罪者との間の分割を通しておこなわれるのでもなく、生ける主体、語る主体、労働する主体に場を与える科学的客観性の場の構成を通して行われるのでもない。それは、私たちの文化における「自己自身に対する関係」の成立と変容を、その技術的な骨組みと知と諸効果とともに研究することを通して行われるのである。そのようにして、別の側面から、「統治性」の問題を再び取り上げることができるかもしれないのである。すなわち、(教育、行動指針、精神指導、生の模範の訓示などに見られるような)他者との諸関係と分節された、自己による自己の統治の問題である。」(本文より)

■引用

■書評・紹介

■言及



*作成:橋口 昌治 
UP:20031114 REV:20100407
身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
TOP HOME (http://www.arsvi.com)