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『フーコー・コレクション6 生政治・統治』

Foucault,Michel 1994 Dits et écrits 1954-1988,Edition établie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Gallimard.
=20061010 小林 康夫・石田 英敬・松浦 寿輝 訳,筑摩書房,459p.

last update:20100428

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Foucault,Michel 1994 Dits et écrits 1954-1988,Edition établie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Gallimard,Bibliothèque des sciences humaines,4 volumes.
=19981110-20020325 蓮實 重彦・渡辺 守章 監修,小林 康夫・石田 英敬・松浦 寿輝 編 『ミシェル・フーコー思考集成T-]』,筑摩書房
=20061010 小林 康夫・石田 英敬・松浦 寿輝 編 『フーコー・コレクション6 生政治・統治』,筑摩書房,459p. ISBN-10:4480089969  ISBN-13:978-4480089960  \1470 [amazon] s03

■内容(「BOOK」データベースより)
8年をかけた遺作『性の歴史』全3巻の刊行に並行して、フーコー思想は最後の転回を遂げた。それは、“政治理性批判”というべきものであり、近年になってその全貌が明らかにされてきた。西洋近代の権力は、「人口」を対象として、どのように「治安」維持を図ってきたのか。コレクション第6巻「生政治・統治」は、ドゥルーズが「傑作」と絶賛した「汚辱に塗れた人々の生」や、海外講演「真理と裁判形態」「全体的なものと個的なもの」などを収録する。没後20年を経ていっそうアクチュアルな、フーコー思想が明らかになる。

■編者紹介

小林 康夫 1950年生まれ。東京大学教授
石田 英敬 1953年生まれ。東京大学教授(本巻編集)
松浦 寿輝 1954年生まれ。東京大学教授


■目次

1.真理と裁判形態……西谷修訳
2.〈生物-歴史学〉(ビオ・イストワール)と〈生物-政治学〉(ビオ・ポリティック)……石田英敬訳
3.ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』への序文……松浦寿輝訳
4.社会医学の誕生……小倉孝誠訳
5.汚辱に塗れた人々の生……丹生谷貴志訳
6.「統治性」……石田英敬訳
7.十八世紀における健康政策……中島ひかる訳
8.全体的なものと個的なもの――政治的理性批判に向けて……北山晴一訳
9.啓蒙とは何か……石田英敬訳
10.道徳の回帰……増田一夫訳
11.生命――経験と科学……廣瀬浩司訳
編者解説……石田英敬


■引用

5.汚辱に塗れた人々の生……丹生谷貴志訳

「 こう語る声が聞こえる。あなたはまたもや、一線を超えることも向こう側に出ることも出来ず、よそから或いは下方からやって来る言語(ランガージュ)を聞き取ることも聞き取らせることも出来ない。いつもいつも同じ選択だ。権力の側に、権力が語り語らせることの側についている。何故、この生を、それらが自分自身について語る場所において聞き取ろうとはしないのか? しかし、まず、もし仮にこれらの生が、ある一瞬に権力と交錯することなく、その力を喚起することもなかったとすれば、暴力や特異な不幸の中にいたこれらの生から、一体何が私たちに残されることになったろうか? 結局のところ、私たちの社会の根本的な特性の一つは、運命が権力との関係、権力との戦い、或いはそれに抗する戦いという形を取るということではないだろうか? それらの生のもっとも緊迫した点、そのエネルギーが集中する点、それは、それらが権力と衝突し、それと格闘し、その力を利用し、或いはその罠から逃れようとする、その一点である。権力と最も卑小な実存との間を行き交っ>0210>た短い、軋む音のような言葉たち、そこにこそ、おそらく、卑小な実存にとっての記念碑(モニュメント)があるのだ。時を超えて、これらの実存に微かな光輝、一瞬の閃光を与えているものが、私たちの元にそれらを送り届けてくれる。
 要するに私は、世に知られることなき人々の伝説(レジェンド)のために、これらの人々が不幸或いは激怒の中で権力との間に交わしたディスクール群に発して、幾つかの基礎原基を集めてみたいと思ったのである。」(pp.210-211)

「 私がここに集めた文書は同質のものである。そのため、単調に見えてしまう危険がおおいにある。しかしすべてはそれぞれ調和を欠いて機能しているのである。語られていることとその語り方の不調和。嘆き嘆願する者と彼らに対してあらゆる権力を持つ者との間の不調和。提起される問題の微細さとそこに繰り出される権力の大きさとの間の不調和。儀式と権力の言語と、激怒或いは無力者の言語との間の不調和。それらのテクストはラシー>0227>ヌやボシュエ或いはクレビヨンの方を向くようなテクストである。しかし、彼らとともにそれらのテクストが担うのは、民衆のざわめきであり、悲惨、暴力、《卑小なること》と言われもしたことどもであり、同時代の文学が扱うことのできなかったであろうことどもである。(中略)
 その不調和が消え去る日がやってくるだろう。その日以降、日常の生の水準で機能するだろう権力は、もはや近くて遠く、全能できまぐれ、あらゆる正義の源泉であり、あらゆる誘惑の対象であり、政治的原理であると同時に魔術的力でもあった君主の権力ではなくなるだろう。司法、警察、医学、精神科学といった多様な制度が絡まり合った、より微細で、分化されつつ連続する網目によって権力は構成されるだろう。そして、そこに形成されることになるディスクールは、もはやかつてのような人工的で不器用な古い演劇性を持>0228>ちはしないだろう。観察と中立性からなる言語であろうとする言葉の中に展開されるディスクールが現れるのだ。その日以降、平凡なものは、行政、ジャーナリズム、科学の効率的だが灰色の格子によって分析されることになるだろう。そこでは、彩りきらめく言葉は、それらの格子から少しばかり離れたところにある文学の中に探しに行くほかないだろう。十七世紀と十八世紀、人々は未だ無骨で野蛮な時代に属していて、そこには様々に媒介的な多様な格子は未だ存在しなかった。悲惨なる者たちの身体とその喧騒は ほとんど直接的に、王の身体と儀礼性に直面していたのである。そこにはまた、共通の言葉も存在せず、叫びと儀式性との、そう言いたければ無秩序とそれが従わねばならなかった形式の厳格さとの間の衝突があった。そこから、その政治のコードの中への日常生活の初めての浮上を遠くから見る私たちの眼に、それらの言語は不思議な閃光を帯びたもの、金切り声と緊迫した強度を帯びたものとして現れるのであり、そしてそれは、ついで人々がこうした事物と人間を《事件》、三面記事や事例として捉えるようになると、消え去るであろう。」(pp.227-229)

「監視し、見張り、不意をつき、禁止し、罰するだけのものであるなら、おそらく権力は軽々と容易に解体されるであろう。しかし、権力は人々をそそのかし刺激し生産するのである。権力は単に耳と眼ではない。それは動かし語らせるのである。」(p.230)



啓蒙とは何か[pp.303-361]
カントの『啓蒙とは何か』の検討
(1) ドイツの啓蒙とユダヤ解放運動が、「両者ともに、どのような共通のプロセスに自分たちが依り処をもつものなのかを知ろうとするようになる」(p.364)。
(2) カントは、一つの全体や、将来の成就から出発して、〈現在〉を理解しようとはしない。彼は〈今日〉は、〈昨日〉にたいして、いかなる差異を導入するものなのか、一つの差異を求めるのである。
(3) カントが、どのように〈現在〉についての哲学的問いを立てるのかを理解するために、重要と思われる特徴を抽出する。以下4点


3−1:啓蒙の特徴は脱出にあり、カントは脱出とは「私たちを〈未成年〉の状態から脱却させる過程である」と記す(pp.366-367)。


3−2:〈脱出〉はカントにおいて、両義的である。「カントはそれを、一つの事実として、起こりつつあるプロセスとして性格づけている」が、「同時に一つの使命、義務として定時している」(p.367)。


3−3:「啓蒙は、人間存在の人間性を構成しているものに影響を及ぼす変化のこと」だというカントの答えは、両義性を伴う。カントは、未成年を脱出するためには二つの条件を定め、それらは二つとも「精神的であると同時に制度的、倫理的であると同時に政治的なものだ」(p.367)。
3−3−1:服従に属することと、理性の使用に属することを明確に区別しなければならない(p.367)。
3−3−2:理性はその公的な使用においてこそ自由であるべきであり、その私的な使用において服従させれれたものであるべきだ(p.370)。


3−4:いかにして理性の使用が、理性にとって必然的な形をとりえるのか、諸個人が可能なかぎり厳格に服従しているときに、いかにして知る勇気が堂々と行使されうるのか、という問題が問われる。→自律的な理性の公的で自由な使用は、服従の最良の保証となる(p.372)。


カントの三大批判都と『啓蒙とは何か』の間に結び付きが存在する。「啓蒙」を、人類が、いかなる権威にも服従することなく、自分自身の理性を使用しようとするモーメントであると描いている(p.372)。

フーコーの仮説:『啓蒙とは何か』が批判的省察と歴史についての考察との、言わば連結部に位置する→歴史についての省察、さらに、自分が物を書く〈時〉、その時だからこそ物を書くというその単独な〈時〉についての個別的な分析、という三者を結び付けて考えたのは初めてのことだった。歴史における差異としての〈今日〉、また、個別的な哲学的使命の動機としての〈今日〉、についてのこのような反省こそ、このテクストの新しさだ、と私には思えるのである(p.374)。

カントのテクストを参照することによって、私は、現代性を、歴史の一時期というよりは、むしろ一つの〈態度〉として考えることができないだろうか(p.375)。→ギリシア人たちのいうエートス

〈現代性〉の態度の必然的な例:ボードレール→一九世紀における現代性の最も先鋭的な意識のひとつを認められる(p.375)

ボードレールの現代性の4つのポイント

(1)「一時的なもの、うつろい易いもの、偶発的なもの」であるが、現代性は、時間の流れを追うだけの流行とは区別される。それは、現在性とは、逃げ去る現在についての感受性の事象ではなく、現在を「英雄化」一つの意志なのだ(p.376)。
→「あなた方は現在を軽蔑する権利がない」(p.377)。
(2)遊歩は、「眼を開き、注意を払い、思い出のなかに収集することで満足する」。ボードレールは遊歩の人に、現代性を対置する。→ボードレールの現代性の例=デッサン画家:コンスタンタン・ギース
ボードレールがいう現代性とは、「〈現在〉のもつ高い価値は、その〈現在〉を、そうであるのとは違うように想像する熱情、〈現在〉を破壊するのではなく、〈現在〉がそうある在り方の裡に、〈現在〉を捕捉することによって、〈現在〉を変形しようとする熱情」(p.378)である。
(3)現代性の意志的な態度は、それに欠かすことの出来ない禁欲主義と結びついている。現代的であるとは、過ぎ去る個々の瞬間の流れにおいて、あるがままに自分自身をうけいれることではなく、自分自身を複雑で困難な練り上げの対象とみなすこと(p.379)。
(4)上記の、1、アイロニカルな英雄化 2、現実的なものを変容させるために現実的なものと取り結ぶ自由の戯れ、3、自己禁欲的な練り上げは、社会ではなく、ボードレールが芸術と呼ぶ場所で成立する(p.380)。
フーコーはボードレールの現代性の特徴を、これらボードレール的な現代性の4点によって要約しているのではなく、そうではなく〈哲学的な問い〉が〈啓蒙〉に根差しており、「私たちを啓蒙に結び付けている絆が、教義の諸要素への忠誠というようなものではなく、むしろ一つの態度の絶えざる再活性化なのだ」(p.380)ということを指摘している。→この態度を、〈哲学的エートス〉として特徴づけることができる。


〈哲学的エートス〉のネガティヴな特徴づけ
(1) 啓蒙は受け入れる/拒否するという二者択一を拒否するということを意味している。「弁証法的なニュアンスを導入することなど、この恐喝の外にでることにはならないのだ」(p.381)。
(2) 人間主義のテーマと啓蒙の問題とを混同するような歴史的道徳的混迷主義をも逃れなければならない(pp.384-385)。

〈哲学的エートス〉のポジティヴな特徴づけ
(1)〈哲学的エートス〉は、一つの限界的態度として性格づけることができる。それは、拒絶の態度ではない。ひとは、外と内との二者択一を脱して、境界に立つべきなのだ。批判とは、まさしく限界の分析であり、限界についての反省なのだ(p.385)。
(2)限界に立つことで実行されるこの仕事が、一方では、歴史的調査の領域を開くものであるべきだということ、他方では、変化が可能であり、また望ましくもある場所を把握し、また、その変化がどのようなものであるべきかを決定するために、現実と同時代の試練を自ら進んで受けるべきだ(p.387)。
(3)Q:つねに部分的で局所的な実験にとどまり続けることによって全体的な諸構造に逆に規定されないか?
A1:完全で決定的な認識を断念しなければならないのはその通り。
A2:しかし、無秩序と偶然性においてしか行われることを意味しない。その作業は、固有の賭けられたもの、均一性、体系性、一般性をもつ(pp.388-389)


・固有の賭けられたもの
能力と権力のパラドクスといった技術的諸能力の増大と権力関係の強化とをどのように切り離しうるかということ(p.390)
・均一性
行うことの諸々の様態を組織している合理性の諸形式を対象とするとともに、他人たちが行うことに反応しつつ、またある程度までは自らのゲーム規則を変更しつつ、人間がそれらの実践のシステムのなかで行動するときの自由を対象として扱う(p.390)。
・体系性
如何にして、私たちは私たちの知の主体として成立してきたのか、如何にして私たちは、権力関係を行使し、またそれを被るような主体として成立してきたのか、また、如何にして私たちは、私たちの行動の道徳的主体として成立してきたのか、という体系化である(p.391)。
・一般化
歴史的―批判的調査は、つねに、一つの素材、一つの時代、限定された実践と言説が作り出す一つのまとまりであり、非常に個別的なものだが、西欧社会という尺度において、それらの調査は一般性をもつ(p.391)。→〈問題化〉の諸様式の研究は、一般的な射程を持った諸問題を、歴史的に単独な諸形態において分析するという方法なのである(p.392)。
まとめ
私たち自身の批判的存在論、それをひとつの理論、教義、あるいは蓄積される知の恒常体と見なすのではなく、一つの態度、一つのエートス、私たち自身のあり方の批判が、同時に私たちに課せられた歴史的限界の分析であり、同時にまた、それらの限界のありうべき乗り越えの分析であるような、一つの哲学生活として、それは理解されるべきなのだ。 カントの啓蒙の問いは、一つの哲学態度として理解できる。そしてその哲学態度は、様々な調査の作業に翻訳されなければならない。それらの調査は、技術論的なタイプの合理性であると同時に、諸々の自由の諸戦略ゲームとしてとらえられた諸々の実践の、考古学的であると同時に系譜学的な研究においてこそ、方法論的一貫性を持つことになる(p.393)。

編者解説「啓蒙とは何か(2)」……石田英敬

「 およそ「西欧」の歴史全体を視野に入れ、そのなかで「発明」された「技法」や「政治テクノロジー」から、「認識」の歴史を捉え返し、私たちをとらえている「政治的理性」の批判を実行すること、そうした方法および態度はむしろフーコーにおいては全仕事を通してつねに一貫した戦略であったと考えるべきなのだ。」(p.450)

「「国家」とは、逆説的なことだが、「個人化」の政治テクノロジー抜きには成り立ちえないものだ。「私たちはどのようにして、自分たち自身を、社会として、社会的実体の要素として、国民や国家の一部として、認識するようになったのか」(「個人の政治テクノロジー」、コレクション第5巻408頁)という問いに答えることこそが、「国家」の問いに答えることである。」(p.451)


*作成:石田 智恵
更新:中田喜一, 箱田 徹
UP:20080831 REV:20091226 20100428
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