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『哲学の<声>――デリダのオースティン批判論駁』

Cavell, Stanley, 1994, A Pitch of Philosophy: Autobiographical Exercises, Harvard University Press.

=20080525 中川 雄一訳 『哲学の<声>――デリダのオースティン批判論駁』,春秋社


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Cavell, Stanley, 1994, A Pitch of Philosophy: Autobiographical Exercises, Harvard University Press.
=20080525 中川 雄一訳 『哲学の<声>――デリダのオースティン批判論駁』,春秋社,  327p, 3400 ISBN-10: 4393323092  ISBN-13: 978-4393323090 [amazon] [kinokuniya]

■目次

第1章 哲学と<声>の横領

第2章 反哲学と<声>の質入れ
     形而上学的な声
     異なる哲学をもつ世界
     破壊幻想
     デリダのオースティンと実証主義の賭け金
     弁解の理論の排除――悲劇について
     「不真面目なもの」の理論を排除する
     懐疑論と真面目さ
     コミュニケーションあるいは譲渡をめぐる二つの描像
     何が(どのような物が)伝送されるのか?オースティンが動く
     世界とかかわる言語についての二つの描像
     私が私の言葉に貼りつく――署名についての三つの描像

第3章 オペラと<声>の貸借

謝辞

訳者あとがき



■引用
太字見出しは作成者による
自伝としての哲学
こうした問題には満場一致の解決を期待するのが無理なのであって、私としては、最初の章で、自伝的な仕方でその問題に取り組もうと考えた。そのさい直観的ではあるが次の二つのことが念頭にあった。哲学と自伝のあいだには内的な関連があり、両者は互いが互いを測る尺度になっているという直観がひとつ。もうひとつは、人生には人を哲学へ引きずりこむような出来事が起こるということである。(p.1)

物語のはじまり
 「なぜあなたはそのように読み、そのように書くのか」という問いに対して、「私にはぜひとも哲学が必要だから」と答えたとすれば、それは、「なぜあなたには哲学がぜひとも必要なのか」という問いに対して、「私はこんなふうに読み、こんなふうに書くから」と答えるようなもので、私は問いに答えたことになるだろうか、それとも、答えたことにはならないだろうか。
 ここから私の物語が始まる。ある描像――そこにはだれかが欠けている。行為と待機、能動と受動の中間にあるような曖昧な気分をもつだれかが。静寂と停滞はおそらく放棄された育成(cultivation)を暗示している。理解することや読むことの放棄は「救いの問い」への断念として現れる。(p.39)

「弁解の弁」について
私の直観的な推測を述べるなら、オースティンが忘れたかったことは、言葉を口に出したことに対する弁解の仕方と、行為に対する弁解の仕方とは違うという点であろう。要するに、オースティンの見地からすれば、何かを言うことは――結局(after all)あるいはそもそもの初めから(before all)――かならずしも、ただ単に、一目瞭然に(tranparently)、何かを行なう、わけではないという点を忘れたかったのだろう。こうしてオースティンの弁解理論をパフォーマンティヴ理論のなかにきっちり組みこむことは、結局のところできないのである。それゆえ彼の弁解理論の見地から、パフォーマティヴ理論の根本思想――ある決定的な場面において、何かを言うことは何かを行なうことであるという思想――を見直してみるべきなのだ。(p.173)

「現前性の創出」
拙著『理性の呼び声』を要約するものでもある、この「現前性の創出」という表現がもつここでの意味はほぼ以下のとおりである。すなわち、現前性を創出するということは、われわれ自身からわれわれの規準を剥ぎ取り、そして言語を変容もしくは歪曲して私的所有物と化すことに等しい。あるいは言語を私的所有者へ譲り渡すことに等しい。それはまた言語をひとつの建造物とみなすことに等しい。(p.189)

女性の声への要求
 私がこれまで練り上げてきた考えでは、映画の主題は――映画のなかの二つのジャンルである「コメディ」と「メロドラマ」から判断するならば(私はその新近性をよそで考察している)――、女性の創造であり、教育を受けたい、自らの物語に声をもたせたいという女性の要求である(あるいは、かつてはそうであった)。それを結婚の可能性という形で描くのがコメディである。結婚という選択肢を拒否する形で描くのがメロドラマである。(p.216)

声と役柄
 たとえば私が映画の存在論と呼ぶものを説明するうえで重要なのは、映画という媒体が演劇とは逆に役柄より俳優の地位を上昇させる点である。映画におけるカメラのモチーフは俳優にある。カメラが強調するのは、この俳優は他の役柄を演じることもできる(できた)であろうという点である(すなわち、人間の潜在的可能性、「自己」の遍歴が強調される)。これに対して演劇が強調するのは、この役柄はこの俳優ではなく他の俳優を受入れることもできた(できる)であろうという点である(すなわち、人間のもつ運命的性格、遍歴の各段階における「自己」の合目的性と特殊性が強調される)。オペラの場合、歌手と役柄のどちらに重点があるのかは決定不可能であるように思われる。それどころか、オペラがもちこんだ声と身体の関係についての新たな考え方からすれば、歌手と役柄の関係は二次的である。声と身体の新たな関係においては、この歌手がこの役柄を具体化する(あるいはこの役柄がこの歌手を具体化する)のではなく、この声が、この人物、この分身、この登場人物、この仮面、この歌手のなかに居場所を見いだす――こういってよければ憑依する――のである。原則的にその声は役柄から影響を受けない。(p.221)

ジュディス・バトラー
1993年のパネル・ディスカッション「パフォーマンスとパフォーマティヴィティ」でのジュディス・バトラーとティモシー・グールドの基調報告についての短い考察のなかで↓

一方バトラーは、差別語(hate speech)のもつ暴力とそれを抑止する(つまり絶対的な「発言」の自由を否定する)ために行使される政治的暴力とに焦点をあてながら、例外なしに「発語媒介行為的な」それを超えるような事例を論じる。これはいわば言葉の分業である。私は本書において、人間の言葉が二つの力――ニーチェの比喩を使うなら、人を縛りつける力と傷つける力――によって特徴づけられるという事実は何を表すのかを問題にしていないことに気づかされた。もっとも、暗黙的には問題にしていたのだが。(pp.280-281)

トーマス・クーンは、『科学革命の構造』のまえがきでカヴェルに言及している。


*作成者:篠木 涼
UP:20080625
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