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『<男らしさ>のゆくえ――男性文化の文化社会学』

伊藤 公雄 19930903 新曜社,214p. 1751


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■伊藤 公雄 19930903 『<男らしさ>のゆくえ――男性文化の文化社会学』,新曜社,214p. 1751 千葉社4895

紹介:神保広武(立命館大学政策科学部3回生)
掲載:20020716

はじめに
T <男らしさ>の神話とその解剖
第一章 <男らしさ>の戦後社会史
第二章 <男らしさ>の現在 〜男たちはどこへ向かえばいいのか
1. はじめに
2. <男らしさ>のジレンマ
3. 女を「怖がる」男たち
4. マスメディアのなかのリブ
5. 「半時代的女差別」?
6. 男はなぜ「自立した女」が怖いのか
7. 疲れ始めた男たち
8. 男たちはどこへ向かおうとしているのだろうか
9. 新しい男性像の模索
第三章 <男らしさ>と近・現代社会
1. はじめに
2. 文化のなかの「男」と「女」
3. 歴史のなかの「男」と「女」
4. 近代社会と男性支配
5. 戦後日本社会のなかの「男」と「女」
6. 男性問題の90年代へ
U <男らしさ>のゆくえ
第四章 <男らしさ>の革命と挫折 〜イタリア・ファシズムにおける性と政治
第五章 <男らしさ>の重荷 〜チェーザレ・パウェーゼの生と死
第六章 男の性もまたひとつではない
1. はじめに
2. 男という課題
3. 男性問題の時代
4. 男性研究の開始
5. <男らしさ>からの解放/<男らしさ>への解放
6. 「ひとつ」にすること/「ひとつ」にされること
7. 男の性もまた「ひとつ」ではない

はじめに

「男の時代」が崩壊しようとしている。
 男たちは、自分たちの性支配の崩壊に気づき始めている。ただ、気づいてはいてもその事実を認めたがらない。なぜなら、怖いからだ。自分のすがりついてきた<男らしさ>の神話が失われることが怖いからだ。男たちはこの事実から目をそらそうとばかりしている(p3)。男性性の危機の時代。男たちの未来にはどのような選択があるのだろうか。

T <男らしさ>の神話とその解剖

第一章 <男らしさ>の戦後社会史

 →戦後の日本の<男らしさ>像の変貌を、メディアに映し出された男たちの姿を材料に

考察
@禁欲する男〜吉川英治『宮本武蔵』
 武蔵的な精神主義は日本の男たちにとって、<男らしさ>のモデルの一つの典型。
 「禁欲」は<男らしさ>のキーワードの一つ。1960年代、『巨人の星』に代表される
 少年の「スポ根」ものブームには、武蔵に共通する禁欲と修養の称賛がつきまとう。
A男の負い目〜吉田満『戦艦大和の最期』
 「生還は、われらが発意にあらず、僥倖の結果なりとみずからを慰むるも、なお一
 抹の後ろめたさ消えやらず/われら救われたるは正しきか」(『戦艦大和ノ最期』)
 この負い目の気分、後ろめたさの感覚は、軍服から背広へと着替えて戦われた戦後の
 やみくもの経済戦争において、それを精神的に支えたエネルギーでもあった。
B征服する男〜小島信夫『アメリカン・スクール』
 敗戦によりその性的シンボルである「力」の争いにおいて挫折を味わい、日本の男
 たちはひどい自信喪失と不安感にさいなまれている。そんな負けを負けを認めたく
 ないために逃げ続ける男、傲慢な男を描写。
Cタフな男〜石原裕次郎『嵐を呼ぶ男』
 ヤクザとの喧嘩で手に傷を受けた裕次郎は「なぜ逃げなかったの?」と問う恋人役
 に向かって、「逃げる?冗談じゃねえ。俺は一度だって人に後ろを見せたことがねえ
 んだ」(『嵐を呼ぶ男』1957、日活)彼はそれまで日本映画にはあまり見られなかっ
 た、ちょっと荒っぽくて単純でしかも闘争心あふれるアメリカ型の<男らしさ>モ
 デルを日本に提供した。
D不器用な男〜高倉健『昭和残?伝』『網走番外地』シリーズ
 無愛想で無口な一匹狼。この時代に青年時代を送った男たちの一つの理想の男性像。
 自分の想いを素直に吐露したり感情をあからさまに表現することは男らしさの世界
 に生きる彼には禁止されている。この不器用さが<男らしさ>の一つの価値として
 称賛された。しかし見方を変えると高倉健を通して描かれている「男の世界」とは、
 言語や感情による自己表現が基本的に否定された世界→その背後には自分の弱さ、
 傷つきやすさを知られたくないために感情表現を抑制しようとする男の心理の動き
 が存在。自分をさらけ出すことで「その程度の男だったのか」と思われるのが怖い。
 この不器用さが男と女のコミュニケーションの大きな障害になっており、男のしん
 どさの原因になっている。
E明るい男〜加山雄三『エレキの若大将』
 高倉健が失われようとしていた伝統的な<男らしさ>を表現することで男たちの心
 をひきつけたとすれば、若大将加山は。それまであまり日本人になじみのなかった
 タイプの<男らしさ>の表現者であった。しかし、この若大将の姿は明るいだけで
 内容がない(ように見える)、豊かさを実現した現在の日本の男の子たちの姿に重
 なって見える(p28)
F少年同性愛〜70年代、少女マンガの世界
 基本的に男性編集者の統制や指導のもと男性が描いてきた少女マンガを女性みずか
 が描くようになる。こうした少女マンガにおける性をめぐる問題関心の背後には、
 明らかに60年代末から沸きあがってきた自立と解放を求める女たちのうねりが存在
 している(p30)
Gセクシーな男〜沢田研二「危険な二人」
 70年代から80年代にかけて、男たちは「愛される」ために外面に磨きをかけるよう
 になっていく。沢田研二=ジュリーの登場は、それまで一方的に「見る」性だった男
 の、「見られる」性への転換を象徴するものだった。こうした愛玩してもらうことを
 望む男の出現は、「内的世界」を重視する伝統的な<男らしさ>が切り崩されていく
 課程の開始でもあった(p32)。
H未成熟な男〜山口百恵「プレイバックPart2」
 1978年のこの曲の登場は一つの事件であった。「男への従属から自由になった女」・
 「主体性を持った女」がここには歌われている。この歌でヒロインの視線は、「去年
 の人」と比較しながら恋人と思われる男を「観察し」「値踏み」している。「見つめ
 る(値踏みする)男」と「見つめられる(値踏みされる)女」という従来の構図の
 逆転が開始されている。
Iひ弱な男〜80年代<ロリコン・コミックス>
 「おたく」などと呼ばれたマニアたちの間で80年代を通して人気が高かったのは
 幼女に対するレイプやサド・マゾ的行為などを題材とした、いわゆるロリコン(ロ
 リータ・コンプレックス)ものであった。その背景には80年代を前後して生じた、
 男の子と女の子の関係の変化が存在していると思われる。
 「支配的な性」としての<男らしさ>の神話と現実の自分自身のひ弱さというジレ
 ンマが男の子たちを「より弱き異性」、「よりコントロールしやすい異性」としての
 幼い少女たちへと向かわせた、というのは考えすぎであろうか(p42)。
J「主夫」の誕生〜村上春樹『怪傑!ハウスハズバンド』他
 「男は外、女は家」などの男女役割固定型の社会であった風向きが変化し始めてい
 いる。
 「ハウス・ハズバンド宣言」(ジョン・レノン)
 『主夫としての私の生活』(マイク・マクレディ 伊丹十三訳 1983学陽書房)
 『怪傑!ハウスハズバンド』(村上春樹 晶文社 1984)
 『お父さんゴハンまーだ』(はしだのりひこ 教育資料出版会 1986)

 ポスト・フェミニズム時代の男たち
 抑圧的で差別的な<男らしさ>の神話は、女たちを苦しめてきたのと同様に男たちにも重い鎧を強制してきた。この神話に縛られることで、男たちは他社との競争に勝利することを強いられ、つまらぬメンツに追い立てられてきた。男たちの現在の苦悩の背景にはいつでもこの<男らしさ>の呪縛が控えている。
 古くさい<男らしさ>の神話を批判的に乗り越えながら、「フェミニズムを通過したあとの時代」における新しい<男らしさ>の生き方を構想することが今ほど問われている時期はない(p53)

第二章 <男らしさの>の現在〜男たちはどこへ向かえばいいのか

 →現代社会における<男らしさ>の危機の諸相をさまざまな角度から考察

〇はじめに
 とくに近代産業社会成立以後の歴史は、女たちにとって性による差別と抑圧の歴史としてあった。しかし今、性の領域における抑圧者である男たちは男として背負わされてきた役割に疲れ始めている。
〇<男らしさ>のジレンマ
 男は、男である自分が男女の関係において主導権をとるべきだ、と思い込んでいる。そしてそれが幻想と分かると、自分のアイデンティティそのものが崩れてしまうと感じるほどの打撃をうけることになる・・・(妻の収入や地位が夫のそれを上回ったときなど)
 男たちの抱き続けてきた<男らしさ>の神話に、今ひびが入りつつある。70年代以後女たちは公然と性による差別と抑圧への糾弾の声をあげ始めた。
〇女を「怖がる」男たち    →
〇マスメディアのなかのリブ  → 「アンチ・フェミニズム」
〇「反時代的女差別」?    →
  『女性学とその周辺』(井上輝子 勁草書房 1980)
  『女性解放という思想』(江原由美子 勁草書房 1985)
朝日新聞や各週刊誌は女性解放運動を冷やかして報道
  「婦人参政権亡国論」石川達三
           →家族制度の中で、女はある意味で犠牲者であったが同時に、
           家族制度によって女は保護されていた(p63)
〇男はなぜ「自立した女」が怖いのか
 女性解放運動はこれまで男たちが抱いてきた「女」イメージを崩壊させた。「男にとっては女は母性のやさしさ=母か、性欲処理器=便所か、という二つのイメージに分かれる存在」(『週刊サンケイ』田中美津1971・2)であった。それまで支配・依存の対象としてよりかかっていた存在が変化を開始したことへの戸惑いを男は持つ
 女たちが、「自立」や「解放」を求め、「ひとつではない性」を追求し始めた現在、男もまた、自分の固定化された性のあり方そのものを解体していく作業にとりかからなければならない時代が始まろうとしている(p72)
〇疲れ始めた男たち
〇男たちはどこへ向かおうとしているのだろうか
@ 伝統的な男役割への固執
A 従来の男役割からの逃避→1、違う性へと自分を変える道
               (ゲイ・意性装趣味者など)
              2、男性至上主義の道
(女との関係から自己を疎外)
〇新しい男性像の模索
 家事労働の積極的分担を引き受ける人や、専業「主夫」の道を選ぶという人々が現れ始めている。男の意識そのものを変革しようという作業を開始したという意味で極めて重要な意義をもつ。しかしこのような新しい男のモデルを生み出し、それを実践するためには、男の育児休暇などさまざまな問題がある。男と女の新しい関係を作り出すためにも、社会・経済的諸制度の変革から、労働観・生活観などの意識や文化の側面での根本的な変革が求められる(p79)

第三章 <男らしさ>と近・現代社会

 男性優越主義が歴史のなかでどのように形成されまた変容してきたのかについて考察。
 とくに近代社会の成立という人類史的な変貌を軸に、それまでの男と女の関係がいかに変貌したか、1970年前後にその兆しが見えた近代産業社会からポスト産業社会への歴史的変化が今後の男と女の関係においてどんな影響を与えることになるのか

〇近代社会と男性支配
 前近代の安定し調和してした社会は、近代産業社会=資本主義の登場により終わりを告げた。それまで生産・教育などを自足的に担っていた「家」は、生産は工場へ、教育は学校へという具合に、持っていた機能をより専門的な「家庭外」の機関へと譲っていく。「家」に専門的な機能として残されたものは「労働力の生産と再生産」(子供を生み育て、外の労働で疲れて帰ってきた夫をリフレッシュさせること)ということになった。男の肩には女・老人・病人といった、一言でいえば賃金を受け取らない者すべてに対する経済的責任という重荷がかけられた。こうして、男=外(生産労働)、女=家庭(家事労働=再生産労働)という性に基づく分業は徹底されていった(p89〜90)
〇戦後日本社会のなかの「男」と「女」
 戦後、ファッションや生活全般を通してモノセックス化、ユニセックス化(『メンズ・ノンノ』などの男性ファッション雑誌の流行など)が進行し、最近では男女間のはっきりとした区分が失われつつある、といわれる。この変化の背景には1970年前後を境に登場した産業社会から「ポスト産業社会」への変化の波と、それに伴う労働の質の変化という、歴史における大きな転換点えおめぐる問題が控えていると考えられる。
 工業中心社会の終焉とポスト産業社会=労働のソフト化・情報化への突入によって、これまでの性による分業は、崩壊を開始しようとしている(p95)
〇男性問題の90年代へ
 性におけるボーダーレス化=モノセックス化の進行のなかで、いかにして古くさい<
 男らしさ>をまさに<男らしく>、つまり冷静にしかも潔く安楽死させるかが今を生きるわれわれにとって重要な課題とならざるをえない(p98〜99)

U <男らしさ>のゆくえ

第四章 <男らしさ>の革命と挫折〜イタリア・ファシズムにおける性と政治

第五章 <男らしさ>の重荷〜チェーザレ・パウェーゼの生と死

 この二つの章では男性問題という視点から、筆者自身のもう一つのテーマでもある
 20世紀のイタリアにおける政治文化という課題について書かれているので、今までの問題とはだいぶ内容がそれるが、「<男らしさ>の革命」とさえ呼ばれるファシズムの時代における性意識の問題を、文学作品や作家論という視点から考察している。

 ファシズムは「性」という視点から見れば、明らかに<男らしさ>の革命であった。勇猛さ、力の誇示、権力への意志、それらは「戦争」という概念と強く結びついて男たちを魅了した。自らの性に対する誇りを強く抱かせたのだ。戦後の無規制状態のなかで、いっそうの不安と焦燥のうちにあった男たちのアイデンティティは、ファシズムのうちに示された<男らしさ>のイデオロギーと深く親和しあったといえる(p119)。
 <男らしさ>の革命としてのファシズムは、産業化の生み出した<男らしさ>の神話と男たちの現実との間の矛盾を、<男らしさ>のイデオロギーの充満する世界(戦争)へと彼らを連れ込むことによって解消しえたかに見えた。しかしそれは、真の解消であったのか。男たちにとってファシズムは、<男らしさ>の過剰な強調によって別の新たな問題を生み出しはしなかったのか(p122)

※ファシズムを生きたイタリア作家、パウェーゼの生涯(p136〜162)

 女を支配すること、所有すること、しかもその一方で彼女たちに依存し受け入れてもらうことは、パウェーゼにとって、また<男らしさ>の革命でもあるファシズムの時代に生きる男たちにとって、さらにいえば近代社会における男たちの大部分にとって、「義務」ともいうべきものでもあった。男と女の関係における所有と支配という強迫的理念は、まるで憑き物のように常に男たちにまとわりついていた(p159〜p160)

第六章 男の性もまたひとつではない

〇はじめに
〇男という課題
 そもそもこの本で論じようとしている<男らしさ>(<女らしさ>)とは何なのだろうか
 『ハイト・リポート男性版』(シェアー・ハイト 中央公論社 1982)
                   ↓
 「男は強くなければならない。競争に打ち克たなければならない。攻撃的でなければならない。女を守り彼女らをリードしなければならない。責任をまっとうせねばならない。おしゃべりであってはならない。感情を表に出してはならない。ましてや泣いてはならない・・・・。」とし、「力・権力・所有」の三つの要素で男を定義
〇男性問題の時代
 女たちが、これまで狭い領域に固定されてきた選択の枠組みを拡大するためには、性別役割分業をはじめとする社会の枠組みを変える必要がある。男は仕事中心のライフ・スタイルを変えなければならない。それは長期的に見れば、男にとっても悪いことではない。「男が変わる」ということは過労死や単身赴任、長時間労働に苦しめられている企業戦士の男にとって自分を取り戻す契機になるはずだからだ。
 つまり、「男性問題の時代」がはらむ意味は、男たちが古い<男らしさ>の鎧を脱いで
 <自分らしさ><人間らしさ>を求める必要があるということである(p172)
〇男性研究の開始
〇<男らしさ>からの解放/<男らしさ>への解放
 女性の積極的雇用をすすめるための叫び―だが、離婚のとき、子供が必ず母親に引き取られてしまう裁判に関しての叫びはない(p184)。
 男たちもまた、性的に差別され、また男としてのアイデンティティの確保に悩んでいる(p185)
〇「ひとつ」にすること/「ひとつ」にされること
〇男の性もまた「ひとつ」ではない
 一つ一つの「ひとつ」に、世界の無限の多様性を閉じ込め、、多様性と差異を抑圧する社会に私たちは生きてきた。「女」という「ひとつ」のくくり方とともに、「男」というくくり方もまた、近代社会においては、前近代社会以上に固定的な性のあり方として私たち「男」の前にあった(p193)。
 もちろん、こうした「ひとつ」から自由になるための作業が、私たちの認識を形づくってきた、社会的・日常的実践そのものの見直しや、それを支えてきたさまざまな社会的・経済的・文化的な制度的枠組みの変更を伴わねばならないことはいうまでもない(p195)
 重要なのは、「男」「女」という「ひとつ」でくくられたアイデンティティや関係性を突破すること、つまり、あらゆる意味で「ひとつ」にしない、「ひとつ」にされない、という柔軟で断固たる覚悟だろう。それをポスト・フェミニズムの時代、脱男性社会を生きるための「倫理」と呼んでもいいだろう(p197)

 ……紹介者によるコメントは本人の希望により省略……



メンズリブ/男性学  ◇社会学(者)  ◇WHO
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