『国立療養所における重心・筋ジス病棟のあゆみ』
あゆみ編集委員会 編 199306 第一法規
■あゆみ編集委員会 編 19930621 『国立療養所における重心・筋ジス病棟のあゆみ』,第一法規 md. n02h,
◆http://ci.nii.ac.jp/ncid/BN15808369
■言及
◆立岩 真也 2018 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社
■引用
◆大谷藤郎 1993 「はじめに」,あゆみ編集委員会編[1993:8-20]
◆近藤文雄:「筋ジスと障害児の夜明け」、あゆみ編集委員会編『国立療養所における重心・筋ジス病棟のあゆみ』(第一法規出版,1993年)8-12頁
「仙台にある肢体不自由児施設、整肢拓桃園の園長高橋孝文先生の紹介で、止むなく引き受けたと言うのが実情であった。…現在の豊かな日本の立派な病院に勤務する医師や職員のためへ当時のつつましい社会的背景を少し説明しておく必要があろう。
昭和35年と言えば、我が国が漸く戦争の荒廃から立ち上がり、どうにか戦前の生産水準を超えようとした頃であった。民心にも多少のゆとりが見え始めた年代だった。国立病院、療養所は軍や医療団の病院を△008 引きついだもので、団体は大きいが、朽ちかけたバラックが建ち並ぶ殺風景な病院であった。
その頃、国療の統廃合の問題がもち上がり、全国的な再編成の計画がたてられていたが職員組合や地元の猛反撃に道い、腰くだけになっていた。その中で、私の勤めていた玉浦療養所と西多賀療養所だけは何の波澗もなく統合が完了して、私は西多賀に移った。玉浦は全国唯一のカリエス専門病院であったが、私は統合に当たって、身動きのできない患者が多いから、是非とも不燃性の病棟を建てて欲しいと条件をつけた。それが認められて、国療で初めて鉄筋コンクリートの病棟ができた。統合を実現するためにはそのくらいの無理は通さねばなるまい、と本省も肚をくくっていたのであろうが、その裏には、当時厚生省担当の主計官、鳩山威一郎氏の一方ならぬお計らいがあったのである。西多賀と鳩山氏との関係は昭和31年に遡る。その頃厚生省は結核予防法を改訂して、結核児童等の療育の給付に関する制度を創設しようとしていた。それを側面から援助するよう我々の所にも依頼があったので、カリエスの子の親の会会長 今野正己氏はこの時とばかり必死になって関係方面を説いて廻り、鳩山氏にも度々陳情したのである。今野氏の長男がカリエスのため下半身麻痩を起こし、玉浦に入院していたが、氏はその実情を涙ながらに訴え、鳩山氏も激しく心を動かされ予算がついたのであった。もし、今野氏の働きがなかったら、あの法律は実現しなかったであろうと、関係した代議士が言っていた。それ以来、鳩山氏は西多賀に格別の関心を持っていて下さったのである。
玉浦から西多賀への移転が終わってほっと一息ついた頃、高橋園から電話があった。筋ジスで困っている一家があるから西多賀その頃、国療の統廃合の問題がもち上がり、全国的な再編成の計画で引き受けてくれないか、と言うのである。私は筋ジスのことは何も知らなかったが、治療法もなく、全身の筋肉が痩せ衰えて死を待つだけの病気だということは知っていた。そこで、治療法もない患者を入院させ△009 ても意味はない。それこそ、肢体不自由児施設に収容すべきではないか、と答えた。高橋園長は、もっともだが、肢体不自由児施設は収容力が不足していて、厚生省からは筋ジスよりも治療効果の期待できる他の疾患を優先収容するよう指示されている、と知らされた。私は困った。とにかく、酷い事情だから一度両親に会ってくれ、と言うので会うだけ会ってみましょうと言うことになった。ところが会ってみて驚いた。この夫婦には3人の男の子があり、その3人とも筋ジスだった。転勤で九州から仙台へきたものの、どこの病院も学校も受け入れてくれない。その上、当時の保険制度では3年以上同じ病気で保健医療は受けられないようになっていた。もし、私が断ったら一家心中でもしかねないような状況であった。私は考えた。治療法のない病気の子を入院させるのは、医療の面だけを考えるなら無意味である。しかし、国立の病院は国民の幸せを守る仕事の一翼を担っているのである。治療はできなくても入院させるだけで、この一家には大きな光明が与えられるのだ。その上、西多賀にはベッドスクールという、寝たきりのカリエスの子のために、病室へ先生が来て教えてくれる学校がある。入院すれば学校にも行けることになり、友達もできるから、今までの孤独の生活に比べればどれだけよいか分からない。偏狭な理屈にこだわって断るより、入院させるほうがはるかに国民のためになる。私は肚を決めた。
よろしい、入院しなさい。ということで、上の2人が入院し、一番下の子はまだ歩けたから家から幼稚園に通うことにした。その下の子が今仙台で「ありのまゝ会」を経営して、凄い活躍をしている富也君である。
西多賀療養所は筋ジスの子を入院させるという噂が伝わると、各地から同病の子の入院申込みが続いた。私にはもう断る理由はなかった。結果、筋ジスの数は次第に増えて、10名、20名、最終的には140名にまでに膨れ上がった。4、5名のうちは私も大して気にしなかったが、△010 ニう大勢となると次第に不安な気持が頭をもたげてきた。こんなにたくさんの子が私1人を頼りにし、信頼し、病気を癒してくれると思って見つめているのである。その私が、筋ジスに対して指一本触れるこデできないと知ったら何と思うだろう。私は自ら播いた種によって窮地に立たされたのである。
「先生、ぽくの病気癒るの。」回診の時黒ちゃんが訊ねた。拙嵯のことで私は言葉にっまった。みんなが思っていることを彼が代弁しているのである。私はしどろもどろになって、「ううん、先生の言うことをよく聞いて、しっかり治療したらだんだん良くなるよ。」私はまっかな嘘をっいた。訊ねた彼自身、筋ジスについて薄々知っているようだった。親の会の今野氏の話では、新しく入院した子に対して先輩の子が、rお前の病気癒らないんだぞ。」と教えていたという。教えなくとも、2・3年もするうちに、自分の体はよくなるどころか悪くなる一方だということに気付くし、年上の子を見ると自分よりずっと不自由で、将来の自分の姿をそこに見出すのである。いやでも子供が総てを知る時がくる。
黒ちゃんの言葉は私の胸にぐさりと突き刺さったまま私はどうすることもできなかった。彼は朗らかなやんちゃ坊主だったが、寝たきりになった頃から貝のようにロを閉ヒ、彼の顔から笑いが消えていった。私が西多賀を去ってから数年後、彼が亡くなったことを知った。彼は私の答えをどう受けとめていたのであろうか。
ベッドスクールは彼らに希望と勇気を与えたことは確かであった。これからがぼくの第二の人生だ、と最初に入院した弘之君は作文に書いた。私は、短い彼らの命があるうちに、できるだけ多く楽しい思いをさせてやりたいと思った。せめて一度でもよいから、やっぱり生まれてきて良かったと思ってくれたらと願った。
幸い、私はスタッフに恵まれていた。土浦以米重狂り身劃さbでさぬ患者の世話をすることに馴れた、優しい思いやりの心に溢れた職員△012★
…私は彼らをできるだけ外に連れ出すよう奨励した。家にも極力帰る機会を設け、海や山へ、そして街頭へ出かけていった。飛行機にも一度は乗せてやりたいという願いは、いつも慰問にきてくれる麻田機長が、全日空の主脳を説き伏せて実現した。」
「水上勉氏の「拝啓総理大臣殿」(『中央公論』昭和38年6月号、中央公論社)以来、急速に重症児問題が国内でクローズアップして、国療でそれを引き受けるという方針が固まっていったようである。」(近藤[1983:15])
◆長野準* 1983 「重症心身障害児(者)病棟を開設して20年の回想」,あゆみ編集委員会編[1983:21-23]
*国立療養所南福岡病院名誉所長
「国立療養所が重症心身障害児を収容するようになったのは、たしか時の国立療養所課長加倉井氏が、「拝啓総理大臣殿」(『中央公論』昭和38年6月号、中央公論社)という作家の水上勉氏が発表された一文を見、国立療養所で重症心身障害児と筋ジストロフィーを引き受けようとされたのだということを聞いている。水上氏の一文は、何の罪もないのに脳性麻痺を始め肢体不自由と知能発育不全の複合障害児としてこの世に生を享けたものへの切々たる訴えであったと思う。」(長野[1983:21])
加倉井駿一井:kotobank
「昭和期の官僚 厚生省公衆衛生局長。生年大正9(1920)年5月11日 没年昭和49(1974)年6月7日 出生地茨城県 学歴〔年〕慶応義塾大学医学部〔昭和20年〕卒 経歴昭和21年茨城県衛生課に勤め、予防課長、25年厚生省に入り、医務局、保険局、大臣官房企画室、公衆衛生局を経て37年鳥取県厚生部長、40年厚生省医務局国立療養所課長、44年大臣官房参事官、45年大臣官房統計調査部長、47年公衆衛生局長となった」
◆谷淳吉* 1993 「私と筋ジストロフィーとの出会いとかかわりの中での回顧」,あゆみ編集委員会編[1983:33-35]
*国立療養所東高知病院院長
「また、強調したいことは[…]世界に類例のないすばらしい療育体系の整備と人材の育成、研究の結実がみられつつあることである。」(谷[1993:35])
◆篠田實* 1993 「20年の回想」,あゆみ編集委員会編[1983:41-44]
*元国立療養所八雲病院長(現私立函館保健所長)
「当初は八雲には当然のことながら結核の患者さんも入院していたが、それと別棟に筋ジスの患児を収容することができ、そのうえこれ程多くの神経筋疾患を一度に診察することができ、聊か興奮したことを思い出す。勿論初めての経験でもあり、診断不明の症例も多くあったが。」(篠田[1993:41])
「研究班から頂く研究費も私共にとって大いに励みになっていた。当時療養所が地方医務局を経由して配布される研究費はかなり少なかったようであるが、筋ジストロフィー関係の研究費はそれに比し遥かに多く、そのため一般に交付される研究費は辞退した程であった。」(篠田[1993:43])
元国立療養所松江病院名誉所長
◆山田憲吾 1993 「厚生省心身障害研究「進行性筋ジストロフィー症の成因と治療に関する臨床的研究」の歴史と動向の概要」,あゆみ編集委員会編[1983:48-65]
*元徳島大学長
「国立療養所への患児の収容は異例とも言えるほどの速さで実施された。これは、厚生省当局と進行性筋萎縮症児親の会のなみなみならぬ熱意と努力に負うものと考えられるが、その頃の旺盛な経済成長下に澎湃として沸き起こりつつあった福祉への目覚めがその背景をなしていたことは否めない。そして、患児の収容は弥縫策ながら結核療養所の遊休病棟を整理し、これを転用することになった。
これは、世界に例を見ない我が国特融の今日的発想とも云える。しかしながら、長年にわたり結核症、殊に肺結核の治療に専門的に取り組み、そのように訓練され組織されて来た国立療養所が、未経験もさる事ながら、全く異質の疾患、筋ジストロフィーなる難病に対処しなければならなくなった訳で、当初は少なからざる戸惑いのあったことは否定し得ない。
ともかく、当事者の熱意と努力によって速やかに克服せられたことは美事と言う外はない。」(山田[1993:50])
◆北浦雅子 1993 「「最も弱い者の命を守る」原点に立って――重症児の三〇年をふりかえる」,あゆみ編集委員会編[1993:59-65]
*「全国重症心身障害児(者)を守る会」会長
□「時代的背景には、作家の水上勉光生が公開質問状「拝啓総理大臣殿」(『中央公論』昭和38年6月号、中央公論社)を発表、障害児問題の問題提起をして下さり、マスコミも次々ととりあげて社会的にクローズアップされたことがあり、更に、森繁久彌さん、伴淳三郎さん、秋山ちえ子先生方の「あゆみの箱」の運動などがありました。そして重症児が長い間陽の当たらないところで生きてきたことが暖かい支援を呼んで、私どもの守る会は昭和39年6月13三日に発足しました。」(北浦[1983:61])
◆
「国立療養所への筋ジストロフィー児の収容は、異例とも思われる早い速度で実施に移された。これには、厚生省当局をはじめ、発足した親の会の並々ならぬ努力が大きな力になっていることは言うまでもない。しかし、すでに知られているように、昭和三八年六月中央公論に「拝啓 池田総理大臣殿」という題で公表された作家水上勉△282 の文章、およびそれによって澎湃としておこった日本全体の福祉への目覚めが大きな影響をもっていたものと思われる。」
◆あゆみ編集委員会 1993 「編集後記」,あゆみ編集委員会編[1993:211]
編集後記によると、この本刊行の計画が立ったのが一九八九年、ようやく原稿がそろって刊行されたのが九三年。当初は『重心・筋ジス二〇周年記念誌』という題で企画され、発案者は国立療養所課長金森仁作、編集委員会として「重心協(東京都)、筋ジス協(鈴鹿)、事務局(下志津)の病院長等」と書かれ、「全国重症心身障害協議会、全国国立療養所筋ジス施設長協議会、全国重症心身障害児(者)を守る会、日本筋ジストロフィー協会の方々、並びに関係各位のご協力に感謝申し上げ」(あゆみ編集委員会[1993:211])
■発刊に寄せて
昭和39年3月16日、日本筋ジストロフィー協会の前身である全国進行性筋委縮症児親の会が当時の小林武治大臣にこ同疾患の対策実施を申し入れ、この陳情に対して、厚生省は、同年5月6日に「進行性筋萎縮対策要綱」なる筋ジストロフf一対策の基本方針を発表した。また、それまで民間の施設にその療育・指導を委ねていた重症心身障害医療も、同じ時期に国が行うべき重要な施策として位置づけられ、以降筋ジストロフィー、重症心身障害患者の医療を国立療養所が担うことになった。
これらの対策の収要な柱としては、「病床の確保」のほかに「研究の推進」がある。それぞれの疾患の発生原因の解明、治療法の開発、療養と看護あるいは地域ケアの手法に関する研究等が昭和43年から開始されており、これまで大きな成果を挙げてきている。さらに、昭和51年には国立武蔵療養所神経センターを設置、また、昭和61年には同センターを国立精神・神経センターに改組して、我が国におけるこれら疾患の研究の拠点としての整備を図ったところである。今後ますます研究が進展し患者及びその家族の方々の医療・福祉の向上に寄与することを願ってやまない。
今般まとめられた本書は、長年患者及び家族と苦楽を共にしてきた俊英なる臨床家、研究者、看護・介謾にたずさわった方々、さらには家族会の方々の執筆によるものであり、これまでの筋ジストロフィー、重症心身障害医療の歩みを適切にまとめられたものであり、まことに時宜を得たものである。本書を手にした多くの方々が、これまでの歴史の重みを感じつつ、また本書が、21世紀に向かっての新たな課題の解決の一助になることを期待したい。
厚生省保健医療局長
谷 修一△(1)
■発刊のことば
筋ジストロフィーの国立療養所への受け入れは昭和39年から開始されている。昭和39年5月に国立療養所西多賀病院と下志津病院にそれぞれ20床、10月には、国立療養所八雲病院、鈴鹿病院、兵庫病院、原病院、徳鳥病院、石川原病院にそれぞれ10床ずつ、合計100床の整備が行われた。その後も年次計画に従い昭和54年までに2500床の整備を行っている。病床の確保とあわせ、昭和50年から7カ年にわたり27ヵ所の作業療法陳整備を行い、また、在宅患者の支援のために昭和51年からデイケア棟の整備が開始されている。
一方、国立療養所において仞めて重症心身障害児を受け入れたのは昭和41年である。その当時の国立療養所は、予防医学の普及、化学療法・外科療法の進歩の結果、ようやく結核患者の減少が見られた時期であった。そこで、重症心身障害児の受け入れのため、厚生
省において年次計画を策定し、同年には国立療養所八雲病院、秋田病院、新潟病院、下志津病院、長良病院、福井病院、松江病院、香川病院にそれぞれ40床、西多賀病院、足利病院には80床、合計480床が整備された。その後、昭和50年まで整備は続けられ、現在の病床数でもある8080床体制の確立が図られた。また、昭和51年には在宅における患者支援のために緊急保護事業を実施するとともに、昭和54年からは患者の成人化に対応した病棟整備を行ってきたところである。
この問の医師、看護婦等の医療スタッフ、研究者並びに患者家族の方々の御苦労、御尽力は並々ならぬものであったことが推察される。数年前、関係者の間から、これまでの経緯をまとめてはどうかとの意見が出されたことから本書が生まれることとなった。
今般、このような服症心身障害、筋ジストロフィー医療の第一線で患者とともに歩んできた方々の執筆により本書が生まれたことは、△まことに意義深いことである。
これからの重症心身障害、筋ジストロフィー医療の発展を心から祈念して発刊のことばと致したい。
厚生省保健医療局国立病院部長
田中健次
■目次
発刊に寄せて ……………厚生省保健医療局長 谷修一
発刊のことば ……………厚生省保健医療局国立病院部長 田中健次
第1編 四半世紀の回想
第1章 夜明け
1 はじめに ……………3
財団法人藤楓会理事長 大谷藤郎
2 筋シスと重症時の夜明け ……………8
元国立療養所西多賀病院長 近藤文雄
3 重症心身障害児(者)病棟を開設して20年の回想 …………21
国立療養所南福岡病院名誉院長 長野準
第2章 重症心身障害児(者)病棟の回想
1 重症心身障害児(者)のあゆみ …………24
国立療養所足利病院院長 中村博志
2 20年の回想(主として重心関係) ……………29
国立療養所奈良病院名誉所長 岩田真朔
第3章 筋ジストロフィー病棟の回想
1 私と筋ジストロフィーとの出合いとかかわりの中での回顧 ……………33
国立療養所高知病院長 谷淳吉
2 筋ジストロフィー症のあゆみ …………37
国立療養所東埼玉病院名誉所長 井上満
3 20年の回想 …………41 △iii
元国立療養所八雲病院長(現市立函館保健所長)篠田實
4 ”思い出” …………45
元国立療養所松江病院名誉所長 中島敏夫(故人)
5 厚生省心身障害研究「進行性筋ジストロフィー症の成因と治療に関する臨床的研究」の歴史と動向の概要 …………48
元徳島大学長 山田憲吾
6 筋ジス病棟開設の回顧 …………56
国立療養所宇多野病院名誉所長 城鐵男
第4章 患者を抱えて
1 「最も弱い者の命を守る」原点に立って――重症児の30年をふりかえる …………59
社会福祉法人全国重症心身障害児(者)を守る会会長 北浦雅子
社団法人日本筋ジストロフィー協会前理事長 河端二男(故人)
第5章 行政のあゆみ
国立療養所における重症心身障害、筋ジストロフィー対策について …………70
政策医療課
第2編 治療および研究のあゆみ
第1章 重症心身障害児(者)
1 研究全般 …………81
国立療養所西鳥取病院副院長 吉野邦夫
2 薬物療法 …………87
国立療養所静岡東病院 福島克之
〃 静岡東病院長 清野昌一
3 感染・予防 …………93
国立療養所長崎病院 馬場輝美子
4 看護一般 …………98
国立療養所下志津病院名誉所長 森和夫
国立療養所下志津病院 赤松ひで子
5 生活指導と教育 …………103
国立療養所再春荘病院 高橋美登利
6 重症心身障害児病棟医としての15年を振り返って …………109
国立療養所南九州病院 畠中裕幸
7 動く重心 …………114
国立療養所琉球病院長 松本茂幸
8 リハビリテーション …………120
国立療養所七尾病院長 松島昭廣
9 最近の諸課題 …………126
国立精神・神経センター武蔵病院長 有馬正高
第2章 筋ジストロフィー症
1 筋ジストロフィー研究の曙 …………131
岡崎国立共同研究機構 生理学研究所名誉教授 上橋節郎
2 厚生省筋ジストロフィー研究 昭和43年〜昭和52年まで …………136
国立精神・神経センター神経研究所長 杉田秀夫
3 国立精神・神経センターができてから …………144
国立精神・神経センター名誉総長 里古栄二郎
4 第3班の研究を中心に …………150
国立療養所中部病院名誉所長
名古屋人学名誉教授 祖父江逸郎 △iii
5 第4班の研究を中心に …………156
国立療養所束埼玉病院名誉所長 青柳昭雄
6 筋ジストロフィーjl箘:の現状と未来像 ……………163
国立療養所宇多野病院長 西谷 裕
7 在宅ケア ……………171
国立療養所筑後病院長 岩下宏
8 看護一般 ……………182
国立療養所西多賀病院 菅原みつ子
9 生活指導・教育 ……………187
国立療養所松江病院 黒田憲二
10 リハビリテーション ……………192
国立療養所徳島病院長 松家豊
11 栄養 ……………198
弘前大学医学部 木村恒
12 最近の諸問題 ……………205
国立療養所兵庫中央病院副院長 高橋桂一
編集後記 あゆみ編集委員会 ……………211△iv
■■■第1編 四半世紀の回想
△001 △002
■■第1章 夜明け
■はじめに
財団法人藤楓協会理事長 大谷藤郎
◇大谷藤郎 1983 「はじめに」,あゆみ編集委員会編[1983:8-20]
私か筋ジストロフィー(筋ジス)・重症心身障害児(重心)とにかかわり始めたのは昭和47年8月、国立療養所課長として就任してからです。また、同じ頃、国の難病対策3本柱の制度化にも参画しました。当時は病陳整備計画が比較的順調に進み、国としての筋ジス・重心対策が軌道にのりだした頃でした。国が筋ジス・重心児童に対して本格的に取り組み始めたのは今から20年前のことですので、これ以前の患児、並びに家族の苦労には計り知れないものがあったことでしょう。彼らのために国は何をしてきたか、また、今何か問題になっており、その解決のために今後何をしなければならないか。そんなことを20年
誌の総論ということで述べてみようと思います。
(1)重心を中心として
重症心身障害児の療育は、昭和38年7月の事務次官通知によって開始されました。その対策推進は当初遅々としたものでしたが、昭和39年、重症児の親が全国的な組織として、「全国重症心身障害児(者)を守る会」を結成し、その影響で40年代に入って加速度を増して参りました。当時結核患者の減少で、その国としての役割の転換が迫られていた国立療養所が、重心対策の一環を担うことになり昭和41年から年次計画を立てて病棟整備を行ってきました。八雲、西多賀、秋田、新潟、足利、下志津、長良、福井、松江、香川の各療養所にそれぞれ40△003 床、計480床を整備し、国立療養所として初めて重症心身障害児の療介医療を開始したのです。その後、昭和42年度に560床、昭和43年度に880床、昭和44年度に960床と毎年整備を重ね、私が国立療養所課長であった昭和50年には8080床に達し、現在に至っています。
ベッド数を増やすだけではなく、医療スタッフの強化もなされ、元来の国療の定員よりもはるかに多くの人員配置がなされました。すなわち、40床単位で医師、看護婦の他に保母、児童指導員、理学療法士、心理療法士、栄養士など多様なスタッフを配置する方式がとられました。これは重心というその患者の特殊性を配慮したものです。スタッフの充実を計るだけでなく、現在に至るまで職員の研修などを通じて、その医療の内容を高めていっています。
また、研究面にも力を入れ、昭和42年度に418万円の研究費が国立療養所で初めて予算化されたのを皮切りに、昭和43年には国立療養所重心障害共同研究班が編成され、徐々にその研究は大型化しました。また、昭和49年には1500万円に及ぶ研究費が厚生省児童家庭局の科学研究費から出されるようになりました。昭和53年から開始された国立武蔵療養所神経センターの神経疾患委託費も、国立精神・神経センターの設立に伴い昭和62年度からその名称を精神・神経疾患委託費と変更し、研究費も増額され、益々活発な世界的な研究がなされるようになりました。
法制度上も昭和42年から重症心身障害児施設が児童福祉施設として正式に児童福祉法の中に規定されました。医療費も国が8割、都道府県が2割を公費負担するとしています。
私が国療を担当した後も、昭和51年には在宅における重度心身障害者を支援するために、国立療養所を入所患者のみならず、在宅患者に対しても開かれたものとしたり、また昭和54年度からは養護学校の義務制を敷き、重心児でも義務教育が受けられるようになるなど、様々努力がなされて参りました。△004
しかし、問題はまだまだ山積されております.患者の年長化に伴い、介護がたいへんになったこと、成人病を併発したり、家族も老齢化してきたこと、また、職種の比率が均一化されたため、職員配置もアンバランスとなり、病棟機能が落ちてきたこと等々、そして、武蔵療養所にモデル的に設置された「動く重心」のその後などの問題も残っています。これらの問題に対して今後、例えば重症度別病棟を作り、職員の傾斜配置や職種比率の見直しを計ったりして、病棟機能を上げること、施設ごとに特色を持たせ、機能分担を計ること、などの対策を考えて行こうとしております.
(2)筋ジスを中心として
筋ジス専門の病棟がなく、肢体不自由施設にも入所できず、2、3の大学病院等でしか受け入れてもらえなかった時代の中で、昭和39年、「全国筋萎縮症親の会」の発足に伴い、専門施設を作る運動が起こってきました。国は直ちに対応し、同年10月から国立療養所で進行性筋萎縮症患者、特に児童を対象とした専門病床を設け、これら患者の療育を開始しました。昭和41年7月7日、厚生省の局長会議において、これら患者の収容対策としては、機能障害の中等度および重度のものを収容することとし、昭和39年から昭和45年度までの7年計画で国立療養所に2020床の進行性筋萎縮症専門病床を整備することとしました。この計画は着々と進行し、昭和54年には2500床が整備され、現在に至っています。
なお、私か昭和47年に国立療養所課長に就任して、まっ先に手をつけたのが、国立療養所の第2次特別整備10か年計画、またそれに平行して、難病病床整備10か年計画でした。第2次特別整備10か年計画はそれまでに大蔵省から認知されていたのですが、私が就任して新たに難病病床整備計画を上のせすることには難色を示された経過はありましたが、ともかく認められました。難病病床整備計画は重心、筋ジス△005 はもちろんのことその他の重症筋無力症などの神経筋疾患から老人リハビリまで含めたものです。この2つの10か年計画によって国政療養所の建物は全国的に一新されたのですが、肝腎の医療の内容の改善はどうなったでしょうか。現役の人に頑張ってもらいたいものです。
職員も重心児と同様に40床単位で、医師、看護婦、保母、児童指導員、理学療法士、栄養士等の職員が配置され、また国療に人所した筋ジスの患児たちは当該施設に併設されている養護学校または養護学級において義務教育が受けられるよう教育にも配慮がなされました。
進行性筋萎縮症児の療育については、昭和40年11月の事務次官通知「進行性筋萎縮症にかかわる児童に対する療育について」に基づいて昭和40年10月1日より実施されましたが、昭和42年8月の児童福祉法の一部改正により、これら児童についても児童福祉法上の肢体不自由児として処遇されることとなり、重症心身障害児の場合と同様に国立療養所への治療等の委託の制度が設けられました。
また、昭和44年度からは成人用の病室も作られ、年々その人院患者も増加するようになりました。
研究分野についても昭和39年から医療研究助成補助金として150〜200万円が出されて研究が行われていましたが、昭和43年から2000万円の特別研究費でもって沖中東大名誉教授を中心とした研究班が本格的に研究を始め、昭和41年からは国立療養所も研究に参画し始
めました。その額も少しずつ増額され、昭和46年には国療を中心に臨床社会学的研究班(班長 山田恵吾徳島大学整形外科教授)が設立され、昭和49年にはその研究費は3800万円に達し、基礎的研究を沖中班が、臨床的研究を山田班が担当し、研究は2本立てで発展を続け、神経疾患委託費を経て現在の精神神経疾患委託費(6億円)となったわけです。
このように国として、施設、研究等の面で筋ジス患者さんのために支援してきたわけですが、問題はまだ数多く残されています。例えば△006 その1つに患片さんの成人化が挙げられます。昔は子供のうちに亡くなっていたこの病気も医学医療の進歩で寿命が延び、20歳を超える者が多くを占めるに至りましが。成人化に伴う筋ジス患者の生きがい対策は当面の課題でしょう。作業療法棟の整備で対処してはきましたが、まだまだ十分であるとは言えないのが現状です。
現在の設置去、総定員法等の枠内では難しいものが多々ありますが、これも今後真剣に取り糾んでいかなければならない問題でしょう。
また患者さんの重症化も深刻な問題です。患者さんの高齢化に伴い、重症者の占める割介が年々多くなってきております。レスピレーター、その他モニター等の医療機器の整備の必要度が増しており、国としても早急に対策を政てていかなければならなくなってきています。
さらに人院患者のみでなく、QOL(生命の質)という観点に立てば、在宅ケアー、それを支援する中問施設の制度的成立が必要です。たしかに私の現役時代には病院の病床を拡張する、質を向上させることが至上命令でしたが、これからは地域社会において普通の人間として、ノーマリゼーションの立場にたってケアを行うこと、そのためには可能ならば、在宅ケアとそのための支援の制度化、またそれらの拠点として中間施設の建設を考えるべきでしょう。中間施設には様々なバターンがあって、病院と福祉施設の中間の収容施設、ナイト・ホスピタル、デイセンター、ハーフウェイ・ハウスなどなどですが、いずれもQOLに最点を置き、医療はそれを援助するという姿勢を持つものです。在宅患者や中問施設のケアにも国は目を向けていかなければならないでしょう。
以上厚生省OBとして問題提起という形で述べてきましたが、現在も本省の現役の行政官達がこれらの問題に対して取り組んでいるところです。今後の彼等の活躍を期待して筆を置きます。△007
■2 筋ジスと重障児の夜明け
元国立療餐所西多賀病院畏 近藤文雄
筋ジストロフィーと言い、重症心身障害児と呼ばれる子供ほど重い十字架を背負った子は少ない。社会から見捨てられ、僅かに肉親や少数の先覚者の手によって細々と守られてきた彼らの命を、医療が真正面から引き受ける決断をしたことは、日本の社会福祉の歴史の中で特筆すべき一頁であった。ここで初めて彼らの人権が、市民権が認められたと言えるからである。
戦後、物質生活が異常な速さで膨張して、社会のバランスが崩れようとしている現在、そのカウンターバランスの役割を、この重度の障害者対策が果たしている、と見ることもできる。何の力もないように見える彼らが、懸命に社会のバランスを支えているとしたら、何とも皮肉な話ではある。
(1)筋ジストロフィー
国立療養所西多賀病院に筋ジス患者が初めて収容されたのは、昭和35年の春だった。それも、仙台にある肢体不自由児施設、整肢拓桃園の園長高橋孝文先生の紹介で、止むなく引き受けたというのが実情であった。現在の豊かな日本の立派な病院に勤務する医師や職員のために、当時のつつましい社会的背景を少し説明しておく必要があろう。
昭和35年と言えば、我が国が漸く戦争の荒廃から立ち上がり、どうにか戦前の生産水準を越えようとした頃であった。民心にも多少のゆとりが見え始めた年代だった。国立病院、療養所は軍や医療団の病院△008 を引きついだもので、団体は大きいが、朽ちかけたバラックが建ち並ぶ殺風景な病院であった。
その頃、国療の統廃合の問題がもち上がり、全国的な再編成の計画がたてられていたが職員組合や地元の猛反撃に遭い、腰くだけになっていた。その中で、私の勤めていた玉浦療養所と西多賀療養所だけは何の波瀾もなく統合が完了して、私は西多賀に移った。玉浦は全国唯一のカリエス専門病院であったが、私は統合に当たって、身動きのできない患者が多いから、是非とも不燃性の病棟を建てて欲しいと条件をつけた。それが認められて、国療で初めて鉄筋コンクリートの病棟ができた。統合を実現するためにはそのくらいの無理は通さねばなるまい、と本省も肚をくくっていたのであろうが、その裏には、当時厚生省担当の主計官、鳩山威一郎氏の一方ならぬお計らいがあったのである。西多賀と鳩山氏との関係は昭和31年に遡る。その頃厚生省は結核予防法を改訂して、結核児童等の療育の給付に関する制度を創設しようとしていた。それを側面から援助するよう我々の所にも依頼があったので、カリエスの子の親の会会長 今野正己氏はこの時とばかり必死になって関係方面を説いて廻り、鳩山氏にも度々陳情したのである。今野氏の長男がカリエスのため下半身麻痺を起こし、玉浦に入院していたが、氏はその実情を涙ながらに訴え、鳩山氏も激しく心を動かされ予算がついたのであった。もし、今野氏の働きがなかったら、あの法律は実現しなかったであろうと、関係した代議士が言っていた。それ以来、鳩山氏は西多賀に格別の関心を持っていて下さったのである。
玉浦から西多賀への移転が終わってほっと一息ついた頃、高橋園長から電話があった。筋ジスで困っている一家があるから西多賀で引き受けてくれないか、と言うのである。私は筋ジスのことは何も知らなかったが、治療法もなく、全身の筋肉が痩せ衰えて死を待つだけの病気だということは知っていた。そこで、治療法もない患者を入院させ△009 ても意味はない。それこそ、肢体不自由施設に収容すべきではないか、と答えた。高橋園長は、 もっともだが、肢体不自由児施設は収容力が不足していて、厚生省からは筋ジスよりも治療効果の期待できる他の疾患を優先収容するよう指示されている、と知らされた。
私は困った。とにかく、酷い事情だから一度両親に会ってくれ、と言うので、会うだけ会ってみましょうということになった。ところが会ってみて驚いた。この夫婦には3人の男の子があり、その3人とも筋ジスだった。転勤で九州から仙台へ来たものの、どこの病院も学校も受け入れてくれない。その上、当時の保険制度では3年以上同じ病気で保険医療は受けられないようになっていた。もし、私が断ったら一家心中でもしかねないような状況であった。
私は考えた。治療法のない病気の子を入院させるのは、医療の面だけを考えるなら無意味である。しかし、国立の病院は国民の幸せを守る仕事の一翼を担っているのである。治療はできなくても、入院させるだけで、この一家には大きな光明が与えられるのだ。その上、西多賀にはベッドスクールという、寝たきりのカリエスの子のために、病室へ先生が来て教えてくれる学校がある。入院すれば学校にも行けることになり、友達もできるから、今までの孤独の生活に比べればどれだけよいかわからない。偏狭な理屈にこだわって断るより、入院させる方がはるかに国民のためになる。私は肚を決めた。
よろしい、入院しなさい。ということで、上の2人が入院し、一番下の子はまだ歩けたから家から幼稚園に通うことにした。その下の子が今仙台で「ありのまゝ会」を経営して、凄い活躍をしている富也君である。
西多賀療養所は筋ジスの子を入院させるという噂が伝わると、各地から同病の子の入院申込みが続いた。私にはもう断る理由はなかった。結果、筋ジスの数は次第に増えて、10名、20名、最終的には140名にまでに膨れ上がった。4、5名のうちは私も大して気にしなかったが、△010 こう大勢となると次第に不安な気持が頭をもたげてきた。こんなにたくさんの子が私1人を頼りにし、信頼し、病気を癒してくれると思って見つめているのである。その私が、筋ジスに対して指一本触れることができないと知ったら何と思うだろう。私は自ら播いた種によって窮地に立たされたのである。
「先生、ぽくの病気癒るの。」回診の時、黒ちゃんが訊ねた。咄嗟のことで私は言葉につまった。みんなが思っていることを彼が代弁しているのである。私はしどろもどろになって、「ううん、先生の言うことをよく聞いて、しっかり治療したらだんだん良くなるよ。」私はまっかな嘘をついた。訊ねた彼自身、筋ジスについて薄々知っているようだった。親の会の今野氏の話では、新しく入院した子に対して先輩の子が、「お前の病気癒らないんだぞ。」と教えていたという。教えなくとも、2・3年もするうちに、自分の体はよくなるどころか悪くなる一方だということに気付くし、年上の子を見ると自分よりずっと不自由で、将来の自分の姿をそこに見出すのである。いやでも子供が総てを知る時がくる。
黒ちゃんの言葉は私の胸にぐさりと突き刺さったまま私はどうすることもできなかった。彼は朗らかなやんちゃ坊主だったが、寝たきりになった頃から貝のように口を閉じ、彼の顔から笑いが消えていった。私が西多賀を去ってから数年後、彼が亡くなったことを知った。彼は私の答えをどう受けとめていたのであろうか。
ベッドスクールは彼らに希望と勇気を与えたことは確かであった。これからがぼくの第二の人生だ、と最初に入院した弘之君は作文に書いた。私は、短い彼らの命があるうちに、できるだけ多く楽しい思いをさせてやりたいと思った。せめて一度でもよいから、やっぱり生まれてきて良かったと思ってくれたらと願った。
幸い、私はスタッフに恵まれていた。玉浦以来重症の身動きもできぬ患者の世話をすることに馴れた、優しい思いやりの心に溢れた職員△011 が中核にいた。彼や彼女らは玉浦の総婦長、六郷光子さんが育ててくれた人々だった。彼や彼女らは、毎月のように、心のこもった催しを工夫して楽しい一刻を過ごし、病気のことを忘れさせてくれた。名物の仙台の七夕見物やクリスマスイヴには、私自身が子供のようにはしゃいだのを思い出す。
私は彼らをできるだけ外へ連れ出すよう奨励した。家にも極力帰る機会を設け、海や山へ、そして街頭に出かけていった。飛行機にも一度は乗せてやりたいという願いは、いつも慰問にきてくれる麻田機長が、全日空の主脳を説き伏せて実現した。子供たちは自分の病院を上空から眺めることができたのである。
職員の努力は束の問の喜びを子供たちに与えることはできたが、年とともに加わる不自由さと、死の渕に向かってずるずる滑り落ちていく恐怖を前にして、彼らの心の中にはいつも鉛色の雲が垂れこめていたに違いない。
昭和39年に厚生省は国療に筋ジス患者を収容する方針を決めたと、国療の所長会議の席で尾崎局長から発表された。エレベーターの中で局長といっしょになった時、「西多賀ではもう20名ほど収容していますよ。」と言ったら、「おお、もうやっているのか。」と笑っておられた。
厚生省が筋ジス収容に踏み切ったのは、伊藤忠の徳田篤〔正:篤俊〕氏の働きかけが大きかった。同氏は令息の筋ジスで苦労なされ、志を同じくする親御さんたちと、「日本筋ジストロフィー協会」を創設されたのであった。発足後間もない頃、徳田氏は西多賀へ視察にこられ懇談する機会を持った。さすが大会社の部長さん、大変立派な方で私も大いに期待していたが、健康上の理由で早く会長を退かれたのは返す返すも残念であった。
私は一体どうしたらよいのか。医者としては、世界中どこへ行っても癒せない病気だから仕方がないではないか、と開き直ることはできる。しかし、私は医者である前に人間である。人間としては、私に託△012 された100人を越える難病の子を、何もせずに見捨てることがどうしてできよう。非力な私にも、何かできることがあるのではあるまいか。
陂らを根本的に救うには病気を癒すこと以外にはない。今、その治療法はないが将来きっと発見されるに違いない。とすれば、それを1日も早く実現するために効果的な手段を講ずべきである。それを推進する手伝いくらいなら今の私にもできるはずだ。いや、私がそれをやらねばならぬ。日本中にそんなことを考える人間は他にいないんだから。
筋ジスの本態を究め治療法を開発するためには、近代科学の粋を集めた一大研究所を作らねばならぬ。幸い、今の日本には金もある。人材もいる。もし、どこかの国で治療法を開発するとすれば、日本こそその最高の条件を備えた国ではあるまいか。それは日本に課せられた歴史的使命である、と私は考えた。
私はその旨上司に中言したが、てんで取り合ってくれなかった。意見は途中で止まって上層部にまで伝わらないのである。余りにも非常識な話だったから、取り継ぐ人間の見識が疑われることを恐れたのであろう。
昭和41年、園田さんが厚生大臣に就任されてすぐ、西多賀を視察に来られた。私は大臣に、他のことはどうでもよいから、筋ジス研究所を作って欲しいとお願いした。大臣は、それはもっともだ、鉛筆の走り書きでよいから計画書を出せと言われた。その場で書くこともできなかったので、後日、極めて杜撰な計画を提出したが、恐らくそれも大臣の手許までは届かなかったであろう。
そのうち、西多賀の医師たちは、こんなにたくさん筋ジスのいる所は世界中にあるまい。我々の手でできる研究から始めようではないか、と言い出した。私は渡りに船と、数名の医師と薬剤師でチームを作り、東北大の菊地吾朗教授の指導をうけて、生化学的な研究から始めた。そのための器材と人員を要求した所、それ程余裕があるのなら、と薬△013 局の定員を1人削られた。
それはそれとして、この程度の研究ではどうにもなるものではない。当初考えた通り、一大国立の研究所設立の運動を早く起こさねばならないと考え、私は国立病院長という束縛を脱し、国会に請願する道を選んだ。
ちょうどその時、3年がかりで搬影していた柳沢寿男監督の筋ジスの記録映画「ぽくのなかの夜と朝」が完成した。私はそれを持って、昭和45年に郷里の徳島へ帰った。この映画を兄せて市民に筋ジスを理解してもらおうと思ったのである。私は生活のために小診簾所を閧く傍ら、柳沢監督とともに研究所設立運動の主体となる「太陽と緑の会」を結成した。
柳沢氏は全国をとび廻って各地に青年を中心とする運動母体を作り、西多賀ワークキャンパスに入園していた患者の榊枝清吉氏は、自宅が東京にあったので、不自由な体を押して、せっせと厚生省や大蔵省、その他関係方面に陳情して廻った。大谷局長はいつも温かく迎えてくれ、1人で立ち上がれない彼をだき抱えて立たせてくれた。斉藤邦吉厚生大臣ともすっかり顔染みになった彼は、木戸御免でつかつかと大臣室に入り、大臣も、おおまた来たかと肩を叩いて迎えてくれるのが常だった。
映画会、講演会、街頭での訴え、キャラバン隊による九州及び東海道巡回等、あらゆる手段を尽して署名を集めた。全国の運動は順調に進み、昭和48年4月には25万の署名を携えて全国の代表が国会に請願した。国会議事堂では、自民党から共産党に至るまで、超党派で玄関に出て歓迎してくれた。両院の社労委員会は全会一致で請願を採択、政府に送付された。次いで同年9月、八田貞義代議士の紹介で田中角栄首相に陳情したが、首相は言下に、必ず作る、この予算は枠外と何回も秘書官に念を押された.翌日の自民党の機関紙自由民報には第一面トップに大見出しで、首相100億円で研究所を作ると約束、と出てい△014た。その後総理府の「政府の窓」にも、総理大臣と斉藤厚生大臣が、100億でも200億でも出そうでは々いかと話し合われたという記事が出ていた。
これで我事成れり、と私は感涙にむせんだが、その後は私が期待したように話はすすまなかった。そして、昭利53年にやっと研究所ができ上がった時には、その名は神経センターなっていて、筋の字すら見当らなかった。その上、建築費も10億円に満たぬ少額であった。
とはいえ、その筱研究所は徐々に強化され、杉田先生か神経研究所の長となられ、ジストロフィンの発見によって、筋ジスの本態究明、治療法開発への道が開かれようとしていることはこの上ない喜びである。後は、研究者の先生方のご健闘を祈るばかりである。
(2)重症心身障害児
西多賀病院に重症児を収容するようになったのも、高橋先生の働きかけが発端であった。昭和39年頃だったか、東北大学学での抄読会の後、階段の踊り場で私は高橋先生につかまった。西多賀で重症児を引き受けてくれないか、というのである。藪から棒の話に私はびっくりして、そんなこと、とても、と答えたのを憶えている。
高橋先生は長年肢体不自山児施設を経営してこられたから、重症児施設の必要性を痛感し、厚生省関係の情報も早くからキャッチしておられたのである。後から聞いた話だが、もし払が断ったら、先生自身か拓桃園を辞めてでも重症児施設を作ろうと考えておられたのであった。
それきり私は重症児のことを忘れていたが、水上勉氏の「拝啓総理大臣殿」『中央公論』昭和38年6月号、中央公論社)以来、急速に重症児問題が国内でクローズアップして、国療でそれを引き受けるという方針が固まっていったようである。それでも私は筋ジスをやるのだから、と冷淡な態度をとり続けていた。その中、厚生省が国療の中の△015数施設を選んで説明会のようなものを開いた時、私も呼ばれて出席した。話を聞くうちに、担当課長が大変心を痛めておられる様子が分かった。無理もない。今まで結核ばかり扱ってきた国療で、水と油のように違う重障児の世話ができるだろうか。したがって、引き受けてくれる施設があるだろか、と心配しておられるのである。
本来なら、患者が激減した国療は閉鎖して、新たに重障児施設を作るべきである。統廃合計画はその意味も含んでいたのであろうし、現にアメリカでは結核療養所は次々に閉鎖されていた。それが日本ではできないのである。そこが合理主義のアメリカと義理人情の支配する日本の国柄の違いであり、東西文化の特性が窺えて面白い。何れにしても落ちつく所に落ちつくしかないのだが。
とにかく、厚生省としては遅疑逡巡してばかりはおられないので、国療にそれができるかどうかの結論を出す前に、見切り発車せざるを得なくなっていたようである。西多賀にやれという命令は一言もなかったが、私には課長の苦しい立場がよく分かった。そして、いつまでもそっぽ向いてはおられないような気がしだした。
考えてみれば、西多賀はカリエスや筋ジスの治療で寝たきりの患者の世話をすることに馴れていたし、ベッドスクールで子供の扱いにもある程度習熟していた。また、日頃病弱児に接する職員の態度の優しさや細かい心くばりから見て、重障児を引き受けても何とかこなせそうに思えた。したがって、国療で重障児を引き受けるとしたら、西多賀をおいて他にない。その西多賀がいつまでも知らぬ顔をしているのは余りも酷い。筋ジスと二兎を追うようにもなるが、この際、西多賀を小児専門の病院に切替えてもよいではないか、という考えが閃めいた。私は全職員を集めて意見を聞いたが反対するものはいなかった。
そこで私は療養所課長に会って、西多賀は重障児をやらせて頂きます。もし、他の施設が引き受けないようだったら、600床全部お引き受けしても結構です、と申し上げた。課長は飛び上がるように椅子から△016立ち上がって、有難うございますと、深々と頭を下げられた。これには私の方が面食らってしまった。
大きなことを言ってはみたが、もとより私に十分な経験も自信もあった訳ではない。昭和30年頃、親しくして頂いていた全社協の藤村哲氏が糸賀先生の江近学園へ行って重障児の仕事をするという話しを聞いて、思い切ったことをするものだなあと感嘆したことがある。それが今度は自分の身にふりかかってきたのである。誠に不思議なめぐり合わせであった。
さて、どうしたらよかろう。医療については文献もあることだし、医者はこれから勉強すればよい。看護婦も患者の肉体を生かしておくために必要な知識や技術は一応持っている。一番問題になるのは、ものも言わず食事も自分で摂れない攝れない寝たきりの子を直接世話する看護要員に優れた人材が得られるかどうか、ということだった。重障児施設の成否はこの点にかかっていると考えた。小林提樹先生も、この問題では随分ご苦労なされたようであった。
私は資質の優れた職員を確保する方策について考えた。その点、仙台は有難い所だった。高橋先生が長年育ててこられた、重障児の親やボランティアのグループがあった。重障児を西多賀に収容すると決まった時、彼らは積極的に行動を起こしたのである。
東北大学教育学部の阿部幸泰君、東北福祉大学の後藤親彦君など、市内の各大学の男女30名ばかりに看護婦が加わって研究会が発足した。彼らは定期的に会合を重ね、文献を調べ、意見を交換し、実地の見学もして知識を蓄積していった。彼らは西多賀で働くことを前提に真剣さに溢れた学習をしていた。私も時々顔を出して意見を述べたが、何よりも彼らの純粋さに打たれ、これならいける、と自信を固めたのであった。
病棟の基本的な設計は本省から示されていたが、細かい点についていろいろ討議した。特に重要な浴槽についてはギプスで模型まで作っ△017 て検討した。小林先生においで項いて教えを乞い準備は着々と進行した。
私は、初めて重障児に接する職員のために手引書が必要だと考えた。本来なら本省が作って配布すべきものではあるが、本省監修ともなれば拙速とは行かないので、自分の責任で作ることにした。ちょうど都合よく、東北福祉大学の高根君がそれに関連した卒論を書いていたので、彼に手引書を作ってもらうことにした。文献をあさり、研究会の成果もふまえて手引書はでき上がった。その内容は、専門的な知識技術よりも、福祉の理念、重障児の考え方に重点をおいた。具体的な知識に乏しかったためではあるが、まず基本的考え方をしっかり掴んでおいて貰えば、後は徐々に実践の中で付け加えていける、と考えたの
である。実践的、具体的なことについては、後で第2集を出したし、昭和59年には、20年の経験を集大成して出版した阿部君の「重い障害を持つ子どもへの援助のために」という本に詳しく述べられている。
これで準備は完了した。研究会のメンバーは職員となって新しい病棟に大挙して乗りこんで来た。彼らの気持は、大げさに言うなら、訓練に訓練を積んだ宇宙飛行士がスペースシャトルに乗りこむ時のような緊張感と、半分の自信と半分の不安を持っていたに違いない。
重障児病棟の滑り出しは極めてスムーズであった。
心配した他の国療の間でも、最終的に重障児は引っ張り凧となり、国会議員まで動かしてのぶんどり合戦が始まった。こんなことになるのだったら、私の出るのではなかったのに、という気もしたが、今さら止める訳にもいかなかった。地元としては是が非でも西多賀にと強く働きかけて80床が割りあてられたのであった。
重障児対策が今日の状態までに発展するについては、「全国重症心身障害児を守る会」の果たした役割りは実に大きかった。厚生省と緊密な連携をとりながら高い理想を崩さず、忍耐強く一歩一歩踏みかためていったのである。それを可能にしたのは北浦会長ご夫妻並びに幹部△018 の方々の偉れた人格、識見の賜ものであった。この種の団体の中で際立って美事な連営ぶりである、と私は思っている。
私も守る会の専門委員として暫く仲間に加えて頂いていたが、筋ジスの仕事を完結させるために途中から降りたのは今でも申訳なく思っている。
(3)コメント
この20年間余の筋ジスと重障児の施設の発展ぶりには眼を見張るばかりである。量的には、筋ジスにおいてはもう十分と言える程の収容力を確保した。重障児においても、十分とは言えないまでも、当初から見れば夢のような充実ぶりである。
問題は質である。いつまでも、草創の時の高い理想を持ち続け、すべてを、障害者の幸
せという唯一最高の目的に結集して運営していく姿勢を堅持しなければならない。それは直接的には施設職員の肩にかかっているが、その周辺にいる保護者、行政、市民の問題でもある。もっと広く言うならば、日本という社会の倫理的レベルや日本人の価値観が問われる問題でもある。
我々は初めに、より、よい住まいを、よりよい衣服を、よりよい食事をと求めていった。それはもう、十分とは言えないにしても必要最低限は満たされている。そして、障害者の幸せはそれだけでは達成されないことも知っている。
物質的な基礎の確かな西欧の施設の子供にも、極貧に近いマザーテレサの施設の子供にも、幸せになるチャンスと不幸になるチャンスはある。幸せは物質的に豊かな所にだけあるものでは決してない。
近代的管理をしている養鶏場や牛や豚の飼育場のことを考えてみよう。清潔な畜舎、計算し尽くされた飼料と管理は、動物を育てるには理想的といってよい。しかし、鶏や家畜は結局喰われるために大切に△019育てられているのである。彼らは幸せの根本を奪われているのである。
人間は目的そのものであって、他の目的を達成するための手段として使ってはならないことは、カントの言をまつまでもない。
我々は障害者をなぜ守ろうとするのか。それは彼らを愛するからであり、彼らの人格と命の尊厳さを感ずるからである。それなくして、彼らが職員の生活の手段となるだけに経るなら、家畜の飼育と変わる所はない。
私は障害者福祉の一番の基本は、いやもっと広くいうなら人問の行為の基本は、人間の尊厳さを真底から自覚する所にあると思う。そうすれば自分を大切にするのと同等に他人も大切にしたいと思うであろう。人間を利用価値で量ることをしなくなるから、障害者を差別することもなくなる。生産性の高い人間と低い人間を人権的に差別することもなくなるであろう。
障害者の喜びを自分の喜びとし、悲しみを自分の痛みと感ずる職員の姿は美しい。そこには最高の人間関係がある。それは愛である。佛の布施である。そこには、与えるものと与えられるものの区別のない、 ̄体的な関係があるだけである。
施設の質とはそんな所にあるのではあるまいか。△020」
■3 重症心身障害児(者)病棟を開設して20年の回想
国立療養所南福岡病院名誉所長 長野準
昭和44年、重症心身障害児施設として当院に現在の”こばと”第二病棟の40床が建設されたのが最初であったとを想いだしている。
ちょうど、私が当時の屋形原病院院長に大学から赴任して来て2年目であった。東も西も解らない全国でも年少の院長であったし、当時重症心身障害児がどんなものか、成人の呼吸器を専攻して来た私には皆目見当がっかなかった。厚生省として国策医療の一環ということと、重心病棟を開設すれば、本病棟も4階建てで進めようという、時の今井地方局長の慫慂に乗せられたのか、とにかく開設に踏み切った。開設準備として看護婦、同助手あるいは新職種の児童指導員、保母が配属される等して、病院の建設とともに暗中模索の中で準備に入ったことを想いだす。この時大きな原動力になったのは現九州がんセンター
の宮村トシ子看護部長(当時重心婦長)、現宮崎東総婦長の堀田潮氏(当時重心婦長)の力が大きかった。
このように国立療養所が重症心身障害児を収容するようになったのは、たしか時の国立療養所課長加倉井氏が、「拝啓総理大臣殿」(『中央公論』昭和38年6月号、中央公論社)という作家の水上勉氏が発表された一文を見、国立療養所で重症心身障害児と筋ジストロフィーを引き受けようとされたのだということを聞いている。水上氏の一文は、何の罪もないのに脳性麻痺を始め肢体不自由と知能発育不全の複合障害児としてこの世に生を享けたものへの切々たる訴えであったと思う。△021
医学の目ざましい進歩は、まず抗生物質を乍み出して結核を含む各種の伝染病あるいは感染症の類を克服しつつある。また免疫学の進歩は今まで難病とされたもののいくつかの病因解明を迫っている。がんに対する挑戦もすさまじいものがある。このような様相をみれば21世紀に向けて国民の疾病構造は人きく変わりつつあることを認めるざるを得ない。その中にあって残るのは、新生児100人に1人の先天性異常児の出生であろう。誰しも健康な子孫を残したいのは当然であるが、1人の障害児のため一家の苦悩は如何ばかり大きいか、障害児の両親でなくては解らぬものである。正に造物主のいたずらとしか言えないと私はかねがね思っていた。したがって、社会、特に国が手を伸ばして少しでもその苦悩を分かつのは、福祉国家として当然と思われる。
国立療養所における重心児施設が開設して本年で20年以上にならんととしている現在、全国に80施設、8080床におよぶ整備は、我が国の児童福祉、障害者福祉の歴史において特筆すべきものであり、世界的にも類をみないものであるといってよいのではなかろうか。このような実績は、重症心身障害児医療行政および直接関わってきた病棟の職員のなみなみならぬ献身的努力があったればこそ、今日に至ったのであると思う。
重症児の療育は、国立療養所にとって、当時は全く新しい領域であったが、当院では開設時から現鳥取大学脳神経小児科教授の竹下研三氏ならびに現上越教育大学教授黒川徹氏(当時九州大学小児科神経グループ)の協力を得て障害児の医療を進めることができたのはなによりであった。また、医療機関としての医療の他に、療育という生活指導、保育、訓練などはすべてが手探りの状態で始められ、数多くの貴重な経験を積み重ね未開拓の領域を切り開いてきている。治る疾病の治療、看護には明日かあるが、重症心身障害児の療育には希望を失いがちである。しかし、病棟に勤務する職員の顔は明るく、国立療養所
の病院機能の一部門として、重症児の医療の充実に向けて努力してき△022 ている。聖職者としての顔の輝きすら垣間見ることさえある。
かつて幼児として入って来たものは、20歳以上に達して心身障害”者”になりつつある。今日、重症心身障害児施設は、重心児の成人化問題を含めて、多くの解決すべき問題を内包していることも否定できないが、療育の内容を吟味し変容にも対応して行くことに努めなければならない。呼吸不全センターを併設する当院では、地域の医療機関から呼吸管理を要する重心児が人院してきており、慢性の呼吸不全を有する重症心身障害児の入院医療に国立療養所の重心病棟が担う役割は大きいと思われる。
本院の重心病棟は、この20年の実績を踏まえて、小児科医長の管理下においているが、小児免疫の権威、柴田瑠美子博士を中心として重症心身障害病棟の機能を発揮し、地域のニーズに応えていくようにしている。
今後も、医療と福祉との接点として国が援助の手を差し出さなければいけないことは確かである。△023
■■第2章 重症心身障害児(者)病棟の回想
■1 重症心身障害児(者)のあゆみ
国立療餐所足利病院長 中村博志
◇中村博志 1993 「重症心身障害児(者)のあゆみ」,あゆみ編集委員会編[1983:24-28]
昭和30年代に小林堤樹氏らにより問題提起がなされた重度の重複障害児に関しては、昭和36年に島田療育園に初めて運営補助のための研究費がついたことに始まり、昭和38年7月の事務次官通達によって重症心身障害児(者)に対する療育が開始された。しかし、この対策はなかなか進まず、昭和40年当時は全国で民間施設6施設536床に過ぎず、さらに多くの施設の設置が必要であった。
当時、国立療養所は結核の減少にともない、その体質の転換が求められていた。そこで、昭和41年度からは年次計画で病棟の整備を行いその療育を開始した。
この段階における国立療養所の重症心身障害児(者)に対する療育の開始は、本来国立療養所がそれまで結核患者という慢性疾患患者に対する政策医療を担ってきたという性格からも、国立療養所としてふさわしいものと考えられた。この事は、その後の国立療養所における難病対策など政策医療を担う国立療養所の性格づけに大きな影響を与えたと言えよう。
昭和41年にはまず八雲、西多賀、秋田、新潟、足利、下志津、長良、福井、松江、香川小児病院の10の国立療養所の各病院にそれぞれ40床(西多賀、足利は80床)計480床の整備が行われ、国立療養所としての重症心身障害児(者)に対する療育が開始ざれた。
昭和42年8月の児童福祉法の改正を機に、同8月29日次官通達によ△024 って全国16500床の内、国立療養所で10351床を昭和49年までに整備することが決定された。しかし、その後の調査等により、その整備計画は手直しされ、現在の8080床となった。
ちなみに、昭和64年11月現在の国立療養所重症心身障害児(者)病棟は、定床8080床であり、入院患者数は7,695人であり、他方公法人立重症心身障害児(者)施設の施設数は64で定床は平成元年2月現在で6750床、入所者数は6473人である。
したがって、国立療養所における重症心身障害児(者)施設全体に対する比率は60%を超え、他の福祉施設における国の役割以上に重要な位置を占めていると言えよう。
重症心身障害児(者)に対する療育は昭和38年の事務次官通達により初めて行政レベルに乗ったが、昭和41年5月の事務次官通達により、国立療養所において重症心身障害児療育を行うことが認められた。重症心身障害児施設が児童福祉施設として正式に児童福祉法に規定されたのは昭和42年8月の児童福祉法の一部改正によってであった。
しかし、国立療養所における重症心身障害病棟は児童福祉施設とはせず、都道府県知事が重症心身障害施設への入所の措置に代えて、国立療養所の当該児童の治療等を委託することができる(委託病棟)とされた。
この後、昭和42年には帯広、釜石、福島、西甲府、東長野、静岡東病院、西奈良病院、原、山陽荘、東高知、再春荘、宮崎などの12ヶ所の国立療養所の各病院に新規に病床が開設され、他に2ヶ所の病院が病棟増設を行ったため、この年度だけで560床が新設された(合計22ヶ所、1040床)。
さらに昭和43年には八戸、米沢、晴嵐荘、富山、医王、鈴鹿、南京都、青野原、和歌山、西鳥取、束徳島、南福岡、束佐賀ら新規に13ヶ所の国立療養所の各病院が重症心身障害病棟を開設し、他に9ヶ所の病院が各1病棟を増設した。これにより、新たに880床のベッドが確保△025 され、総計で35ヶ所、1920床となった。
昭和44年には岩手、宮城、西新潟、天竜、愛媛、福岡東、西別府の7ヶ所の各病院が新規に、他に14ヶ所が増設し、新たに960床が開設され、総計では42ヶ所、2880床となった。
昭和45年には小樽、翠ヶ丘、神奈川、南九州の4ヶ所の新設と17ヶ所の増設により200床が新規に、680床が増設され、総計で46ヶ所、3760床となった。
昭和46年には千葉東、東松本、南岡山、肥前、長崎の5ヶ所で240床が新規に、さらに640床が増設され、総計で51ヶ所、4640床となった。
昭和47年には岩木、西群馬、精神・神経センター武蔵の3ヶ所に160床が新設され、さらに480床が増設され、総計で54ヶ所、5280床となった。
以上、国立療養所において次々と重症心身障害病棟の整備が行われ、昭和50年になると当初の計画通り全国80ヶ所に202病棟(8080床)が完成された。
このようなハード面での整備状況に合わせて、人的面での整備も急速に進められ、他の国立療養所病棟に比較してはるかに多くの人員配置がなされるようになった。特にその療育而での特異性から人員配置では医師、看護婦、理学療法士、心理療法士、栄養士などに加えて、児童指導員、保母などが配置された。そして、昭和42年3月の人事院規則改正により、重症心身障害児病棟に勤務する職員に対して特別の俸給の調整額がつけられるようになった。
その間、幅広い障害児(者)に対して行われた重症心身障害児(者)病棟の開設に関して、その後の重症心身障害児(者)病棟の運営にかなり影響を与えたものとしていわゆる「動く重症心身障害児問題」がある。すなわち、それまでの福祉制度において取り残された身体症状は比較的軽度であるが、知能障害の他に多動、問題行動などの各種精神症状を有するいわゆる「動く重症心身障害児」の問題がそれである。△026 児童福祉法の改11モに基づき、寝たきりの重症心身障害児(者)については一応その対応が確立されたが、昭和38年の次官通達において対象とされた問題行動や高度の行動異常を有する精薄児(者)の処遇が問題とされた。厚生省もこれらの対象児の親や守る会の提言を受けて、厚生省心身障害研究においてこれら対象者の処遇についての検討を始めた。また、これらの問題行動児はある意味では精神科的医療の対象児でもあるために、国立療養所における精神病棟の一部を活用して療育を開始することとなった。しかし、これらの事業はある意味では多
少の問題点を包含しつつ行われたためもあり、その後の国立療養所重症心身障害児(者)療育のために若干の問題を残したと言えるし、また、今後の検討課題でもある。
また、重症心身障害療育が少しづつ進んでいく課程で特筆すべきものとして、昭和54年における養護学校設置義務と親の就学義務問題であろう。これは俗に重い障害児における全員就学制度と言われているものである。これらの動きはそれまでの各種障害児に対しての教育行政の遅れが、障害児に対しての教育の考え方自体の変化にともなって一気に吹き出したものであり、どのような障害児においても教育が必要であるとの立場から昭和54年から実施に移されたものである。この事により、一応どの様な重度な障害児においても学校教育への道が開かれたことになる。多くの国立療養所重症心身障害児(者)病棟においても、それ以前から小児慢性病棟に入院している学童への学校教育を行っていた関係もあり、これにともなって重症心身障害児(者)に対しての学校教育が導入された。しかし、これらの制度の導入により、それまでの療育の不足が学校教員の増加によってかなり改善されたことは評価しうるが、これまた別の問題を抱えることとなった。なぜなら、重症心身障害児(者)教育は本来特定の年齢段階において行うことがかなり困難であると考えられ、このため、学校教育というある年齢を限って教育を行うことが果たして適当かどうかという基本的問題△027 があるからである。
そして、児童福祉法改正から20年余たった現在、公法人立施設では21歳以上のものは既に2/3を超えているのに対して、国立療養所重心協議会実態調査委員会による昭和62年における実態調査資料では18歳以上の年長者は7429例中3910例(52.8%)であり、すでに半数を上回っているとはいえ、公法人立施設とはかなりの差がみられている。しかし、年長化の傾向は国立療養所重症心身障害病棟においても今後進んで行くものと思われ、遠からず公法人立施設と同様な傾向を呈するものと予想される。国も既に以前からこの年長化対策に取り組んでおり、第一次計画で昭和54年度から昭和56年度にかけて、さらに第二次計画として昭和57年度から昭和64年度にかけて、年長化に対応した病棟整備として予算要求を行ってきた。今後さらに重症心身障害児(者)のライフサイクルを考えた場合、国立療養所重症心身障害病棟の役割がどの様に位置付けられていくかの検討が必要であろう。
以上、これまでの国立療養所重症心身障害病棟がたどってきた道のりの主要な部分について述べたが、最後に今後の国立療養所重症心身障害病棟のあるべき姿について述べてみたい。まず、挙げなければならないことは、全国80ヶ所の重症心身障害病棟の連携であろう。別に述べられているごとく、最近の重症心身障害病棟における研究は以前のものとはかなり異なり、充実したものとなりつつある。今後も国立療養所重症心身障害病棟の特色を生かして、横の連携を強めて療育内容の向上に努めていくべきであろう。また、かなりの装備を備えた医療機関として地域における中心的療育機関としての役割が求められて
いる。△028
■2 , 20年の回想(主として重心関係)
国立療養所西奈良病院名誉所長 岩田真朔
◆岩田真朔 1993 「20年の回想(主として重心関係)」,あゆみ編集委員会編[1983:29-32]
▼昭和39年頃の事と思うが、東大阪の多分八尾市あたりだと記憶するが、「70歳位の男の老人が35歳位の重症心身障害児(重心)の子供を長い間看護していたが、寄る年波で自分は何時死ぬかも分らない、自分が死んだらこの子がどうなる事が分からない、誠に不愍な事だと思い、子供を殺して自らは井戸へ投身自殺する」と言うショッキングな事件が起きた。たまたまこの時厚生省から療養所に重心病棟を作りたいから有志の所長は申し出よとの通達が来ていたので早速申し出た。
全国で有志の所長全部が厚生省へ集められ、一応の教育が終わってから東京都の療育園を見学に行った。私は重心の子供を見るのは初めてであったので一驚を喫した。かかる子供の看護を昼夜の別なく長期間行ったら親は疲労困憊するのは当然の事である。かかる患者は国立癡養に収容して採算を度外視して、治療、看護すべきであると痛感して重心病棟を作ることにした。▲当時重心の子供は県知事が身許引受人になって入院させるということであったので、奈良県の奥田知事さんの所へも頼みに行って何分の応援をお願いに行った。
重心病棟を作るにしても土地の造成をしなければならない。本省へ行って加倉井課長さんにお願いしたら、土地の造成費を出す事はできないから大久保の自衛隊へ行って整地して貰ったらどうですかと言われ、自衛隊に整地して貰った療養所の名前を一々挙げて事もなげに言われたので、奈良へ帰ってから大久保の自衛隊へ行ってお願いしたが、あっさり断わられてしまった。万事休してしまって最後に天理教本部△029 へ行き、中山正善真桂さんに事情を話してお願いしたら快く引き受けて下されホッとした。ブルドーザーに運転手をつけて2週間貸して下され整地は終わった。
昭和41年度は工事で終わり、42年の4月開設に漕ぎつける事ができた。この時特筆大書しなければならない事は、奧田知事の好意によって県の予算から109万円が施設費として療養所に寄贈された事である。また、開所式には本省や医務局は勿論のこと係官が出席されたが、県からは奥田知事自ら出席されて岑上花を添えて盛大に開かれた事である。
50床の収容患者の割り当てが本省から米たが、それによると奈良県が25、大阪府が5、大阪市が5、京都府が5、京都市が5、神戸市が5という事で奈良県以外は建設に対して何等努力する事もなく、できたものを分け取りする様で釈然としないものがあった。1ヶ月位で50床を満床にする事ができた。患者の大部分は周産時の事故によるものであったが、中には母親が開放性結核患者で小学校1年生の時に結核性髓膜炎に羅り治療が不完全で遂に重心患者として残ってしまい母親が自殺してしまった子もあった。
また重心の女の子を連れて来た妊娠している母親が、「自分は少し骨盤狭窄がある由で医師に勧められたが手術をしなかったらこんな子が生まれてしまいました。今度はどうしたらよいでしょうか。」と尋ねられたので、今度は必ず帝王切開をしなさいと手術の安全性などを説いて励ました。半年位してから丈夫そうな男の子を連れて米て、有難うございましたと母親に感謝された事もあった。重心病棟をバンビ病棟という名の発案者は足立豊彦博士であった。
次いで更に50床の重心病棟を作ろうと計画していたら、奈良の市役所から思いがけない苦情が持ち込まれた。それは今度の50床(西バンピ病棟と言う)の病棟の敷地は第二阪奈道路の都市計画道路の敷地だから使ってはならないとの事である。それから療養所と市役所との問△030 に約1ヶ年に川lる困難な交渉が始まることになった。都市計画法と言う法律は乱暴な法律で、持iモの全然知らない内に道路を作るときめてしまって図面を作ってしまって、これを不動のものにしようと言うのである。幸いに毎日新闘が療養所の立場に同情し、重心病棟が必要な事を盛んに書いてくれた。余談だが、療養所と薬師寺の間には万葉時代から有名な勝間田沼という池があって、この池に薬師寺の塔が映る景色はよく旅行案内にも写真が出る景勝の地であるが、第二阪奈道路は療養所の山を削って勝間田池を埋めて薬師寺の南に観光バスを持って来ようというもので、推進派の市会議員5名ばかりにバンビ病棟で私は吊し上げを食った事があった。いろいろ交渉の末、市役所は第二
阪奈道路を北へ5m引き、療養所は西バンビ病棟を南へ5m引く事にて妥協が成QIして病棟を作る事が出来たが、このために西バンビ病棟の南側の松林がなくなり民家の2階から病棟がまる見えになってしまった。県会議員の谷井さんが病棟の南に植木を寄附して下さったがなかなか大きくならなかった。
この第二阪奈道路も実行の段階になって住民の間に猛烈な反対が起こり、生駒山を越して砂茶屋まで米てから南北2つの道に分かれて、療養所や薬師寺の方には来なくなってしまった。
西バンビ病棟ができて療養所の重心病棟は束バンビ病棟と合わせて100床になった。−もし第二阪奈道路の問題が起きなかったら150床に、なったにと思うと今でも残念でならない。
そのうちに青野原や京都療養所にも重心病棟ができる様になり、各府県毎の入院患者の割り当ては自然消滅した。
昭和55年定年退職して名古屋へ帰る時市役所へ挨拶に行ったら、都計課の役人が第二阪奈道路の計画は廃止になった訳ではないと言っていたから今後とも油断してはならない。
なお参考のために古代遺跡、勝開田池にかかわる万葉集の歌を記しておく。△031
新田部親王に奉る歌 詠人知らず
勝間田の池にわれ知る蓮〈ハチス〉なし
しか言ふ君が髭〈ヒゲ〉なきが如し△032
■■第3章 筋ジストロフィー病棟の回想
■1 私と筋ジストロフィーとの出会いとかかわりの中での回顧
国立療養所東高知病院長 谷淳吉
◇谷淳吉 1993 「私と筋ジストロフィーとの出会いとかかわりの中での回顧」,あゆみ編集委員会編[1983:33-32]
私が前任地の国療刀根山病院で診療・研究に10年程従事していた時、ちょうど、出張の機会を与えられて、アメリカのワシントン郊外にあ
るN.I.H.の国立心臓研究所の細胞生理・代謝の研究部門に留学して、再び同院に帰って米たのが、昭和38年であった。その前年に渡辺三郎先生が亡くなられ、山口寿先生が後任院長として就任しておられたが、しばらくして、山口院長に呼ばれ、「刀根山病院が厚生省からの要請もあって、進行性筋ジストロフィーの研究の一翼と診療を担うことになりそうだが、君、やってくれないか。」ということであった。
当時、私は細胞の膜構造と関連したタンパク合成能の仕事を手がけていたが、国立療養所の一医師として、この基礎科学領域での研究を、特定の疾患と結びつけて追究したいという漠然とした夢を頭の中で画いていた。とくに、それまで本症について深い認識や経験をもっていたわけではない。私自身もいろいろ考えてみた末、意を決して山口院長に承諾の返事を申し上げたことが、今も鮮明によみがえってくる。
このような偶然の機会から、刀根山病院の中で、昭和39年から手探り状態で、同院の内科のみならず、循環器科、呼吸器科、外科、整形外科、薬剤料、臨床検査料および活発な研究活動をつづけていた脂質生化学、病理、細胞培養などの研究室の先輩、同僚、後輩の仲間たちとともに、勉強会を開き、討論や意見調整を行いつつ、一歩一歩、小△033 規模ながら外来・入院の診療と病因論的研究のスタートを切ったわけである。
仕事が進められてゆく過程で、畏期療育児の教育の問題、ホスピタリズムの対策、療育環境のハード・ソフト両面からの整備・改善の問題、介護する職員に頻発する腰痛対策や本症児(者)のケアのシステムの統合化、パラメディカルスタッフの病院の組織上の位置づけなどの懸案が続出してきた。どの一つを取り上げても簡単に解決できる問題ではなかったが、同じ施設内の職員相互の協力ばかりでなく、国療の職員が職種、立場、考え方の違いを乗り越えて懸命に知恵を出し合いながら実践を進めていった結果、当初には、とても考え及ばなかった程、整然とした療育体系、在宅者対策、研究機能の質の向上、さら
に、地域社会からの暖かい対応が組み上がってきたことに、私は非常に大きな感銘をうけている。この国立療養所の全国を一丸としたネットづくりの要として、並々ならぬ御尽力、御苦労を頂いたのは徳島大学の山田恵吾先生を始めとする諸先生方である。また、現場で、本症児(者)の幸せを念じ、各国療職員が、一つの目的を目指して、力を結集していった熱意と情熱に、国の政策医療の遂行に必須の本質を、私たちは肌に強く感じとったことが印象的であった。私は、昭和46年に、本省国立療養所課の御配慮で、英国、スウェーデンなどヨーロッパ各国の筋ジス療育体制や社会からの支援の実態などの調査のために出張させて頂いた。このことは、私にとっては、その後の思考の上で、大きな示唆を与えて頂くことになり、大変有難いことであった。その時分から、日本でも、デイケアの概念や在宅者援助対策、訪問検診事業などが次第にクローズアップされてきたように思われる。
昭和47年に、本省国立療養所課が中心となって「進行性筋萎縮症と療育」という国療職員を主対象としたガイドブックを療養所課の課長補佐の技官方や国療の関係者らが、東京に泊り込みで、編集に当たったことも、今から思えば、筋ジス施策遂行の上で、足並みを揃えるた△034 めの最仞のまとまった一里塚になったように感じている。
研究班の発展の経緯については、他の多くの御執筆の先生方の御記載に譲るとして、療介現場における国療職員が、肩を組み、臨床研究、基礎研究、疫学、リハ、栄養、教育々どあらゆる分野に分かれて、それぞれ整理された分科会活動やプロジェクト研究を鋭意積み重ねて、その資質を高めつつ現在に至ったことに、嬉しさと誇りに似たものを感じるのは筆者のみではあるまい。
また、▼強調したいことは、江橋先生を始め旧冲中研究班の大勢の先生方および日本筋ジストロフィー協会の御理解、御支持と厚生省の療養所課、母子衛生課などの歴代の担当官の皆様方の御指導のもとで、山田先生、祖父江先生、井上先生、西谷先生、青柳先生など多くの班長の先生方に受けつがれて、世界にも類例のないすばらしい療育体系の整備と人材の育成、研究の結実がみられつつあることである。▲私たちは、国立療養所の医師として、未熟ではあるが、組織づくり、維持、活性化に向かって、研究班の良方としても仕事をさせて頂き、体制整備のイニシエーションの段階で、お手伝いすることができたことに喜びを感じている。同時に、いつも変わらない暖かい御指導や御協力を頂いた多数の関係の皆様方に心から感謝申し上げたい気持で一杯である。
昨今の筋ジス関係5研究班の総合班会議や、各班の研究発表会に出席するにつけ、この20年余の間のたゆみない努力の積みかさねと、ピンと張りつめた班員の先生方の気概に、ただただ敬服するばかりである。
このような筋ジスに対応した研究体制や療育の仕組みが整備されてきた過程と、その構築に払われた様々の角度からの気配りと、ねばり強い努力が、政策医療として取り上げられている多くの他の疾患に対するシステムづくりの上に役立つことも期待したいものである。
筋ジストロフィー対策の、さらに大きな実りをひたすら祈念して欄△035 筆したい。
■2 筋ジストロフィー症の歩み
国立療餐所東埼玉病院名誉所長 井上満
井上満 1993 「筋ジストロフィー症の歩み」,あゆみ編集委員会編[1983:8-20]
この度、全国国立療養所筋ジス施設長協議会、国立重症心身障害協議会の院長諸先生方の総意にて、昭和42年の児童福祉法改正以来、20年以上にわたる筋ジス並びに重心の歩んだ道を記録に残したいとのことで、私にも依頼がありました。誠に結構なことであり早速筆をとったわけであります。
ところで▼国立療養所が、筋ジス、重心患児者を収容するに到った経過は、結核患者の減少に伴なうこともありましたが、もっとも大切なことは、国の政策として、世界に先駆けて行った難病忠者の筋ジス、重心の解明に収り組んで。大々的に国の施設に収容し、同時に研究しようとした医療のあリ方であり、誠にすばらしいことと私は思います。とはいえ、個々の施設においては、この筋ジス、重心を受け入れることは、決してなま易しいことではなかったはずです。各施設でも充分に検討されたことであったと思います。
私達の療養所でも、今まで結核を主として取り扱っていた関係で、これらの難病を収容することに対しては、多くの意見も出されましたが、職員の熱意と努力によりおかげで開棟することができましたが、専門医師の確保と看護婦のこれら患児者に対してどの程度に理解して集まってきてくれるか、内心心配でしたが、結構この難病患児者に進んで立ち向かう多くのスタッフがいることを知り、心強く思った次第です。▲
当院では、こういうわけで昭和45年10月より開棟し始め、昭和46年△037 40床、昭和48年40床、昭和55年40床の成人病棟と計160床を増床致しました。
次に研究のことですが、昭和39年に国が筋ジス・重心の施設を設けてより、初め僅か8施設において療謾に関する研究が行われ、更に昭和43年には厚生省特別研究費により、筋ジストロフィー症の臨床社会学的研究として研究が続けられ、昭和46年からは心身障害研究補助金により、進行性筋ジストロフィー症の成因と治療に関する研究が、徳島大学教授の山田憲吾班長のもとに行われ、参加施設も国立21施設、大学3施設、収容患者数も1800名と大幅に延びて参りました。
その間に筋ジストロフィー症の看護基準、筋ジストロフィー症の心理特性とそのケア、筋ジストロフィー症の食事基準の小冊子を発刊しております。山田班は昭和52年度まで行われましたが、昭和53年度より厚生省神経疾患委託費により、筋ジストロフィー症に関する研究組織が4班に分かれました。
すなわち、
第1班 筋ジストロフィー症の基礎的研究
東京大学医学部第一薬理学教室教授 江橋節郎班長
第2班 筋ジストロフィー症の病因に関する臨床的研究
虎の門病院冲中記念成人病研究所長 三好和夫班長
第3班 筋ジストロフィー症の臨床病態及び疫学的研究
名古屋大学医学部第一内科教授 祖父江逸郎班長
第4班 筋ジストロフィー症の療謾に関する臨床社会学的研究
国立療養所松江病院長 中島敏夫班長
翌54年度より
第5班 筋ジストロフィー症の動物の生産開発に関する研究
実験動物中央研究所長 野村達次班長
が参加しました。
私達国立関係として最も関心の深い研究は、第4班の療謾に関する△038 研究であり、次に第3班の臨床病態及び疫学的研究でありますが、第4班ク)中島班は昭和54年度迄行われましたが、その後は私井上が班長となり、12月初めに行い、演題数は150課題が常に出され活発な討議がなされました。
これが実際に患児者の日常の療謾に移され、患児者の延命も研究前よりは数年延びたことになり、研究の成果がたちどころに見られたと言ってもよいと思います。
この研究結米は3年毎に、国に設けられた評価委員会にかけられることになっておりまして、勿論第4班も、委員会において評価を受けましたが、その結果はかなり厳しい批判を受けたこともあります。
すなわち第4班は医師、パラメディカル等スタッフが多くてまとめるのに苦労があるが、立派な仕事もしている。 しかし新鮮味に欠けるところもあるようだとのこと。また個々の成果を生かす方法も考え、プロジェクトをつくることも必要なのではないか等と言われました。
このことに関し私達も幹事会において、次期の研究班会議の演題の選択にはかなり神経も使いましたが、結局各施設より出されるテーマを尊重し、パラメディカルの意欲をできるだけ燃やさせる為にも、演題の削減は極力避ける結米、そのように一部新鮮味に欠けるようになったものもあったと思いますが、全体に非常に立派な成果を得たものと考えております。’
また指摘された一つ一つを生かす方法として、機器開発部門の中でも、種々のアイデアが生まれていますが、例えば普通の車椅子から、次に電動車椅子の改良、対外人工呼吸器の改良、ベッドの改良、その他多数のすばらしい機器が開発され、全国で利用されております。更に目だたない用具等数えきれない程のものが研究の中より生まれました。これらのものを一堂に集め展示し、常に供覧できるルームを設けたら、よかったのではないかと思う次第です。
また評価委員の中で筋ジス患児者の自殺の問題がどうなのかとのこ△039 とが話しに出ましたが、私は皆無であると答えました。これは考えて見ると、自殺が起こらないのが不思議と思う程ですが、現在まで起こっていないのは、実に家族、病院、学校が一体となり、励まし合い、努力した結果であり、患児者は明日への希望を常に期待しているからであろうと思います。この希望を何と言ってもたやすことなく、一刻も早く良き治療法を発見すべく、私達は努力すべきであります。
幸い基礎研究において今回遺伝因子の解明を見たとのことはすばらしく、今後治療方法も早められると思いますが、なお期間はかかります。その点私達療護の研究は直接患児者に明日から役立つものですので、更に医師、パラメディカルー体となって、研究をすすめなければなりません。幸い当院青柳昭雄院長が続いて療謾の研究に、取り組んでおります。先生に大いに期待致している次第です。
■3 20年の回想
元国立療餐所八雲病院長(現市立函館保健所長) 篠田實
◇篠田實 1993 「20年の回想」,あゆみ編集委員会編[1983:41-44]
私の筋ジストロフィーの児との初めての出会いは、インターンの時小児科病棟の回診の時であった。回診の度に患児は奇妙な立上りの姿勢を見せていた。所謂Gowers' signであった。
卒業後小児科医局に人ってしばらく経って、国立八雲療養所が国の方針に従って筋ジストロフィーの患児を収容し療育すると話を聞き、その後まもなく私共の医局に小児科の医師の派遣の要請があり、私共が筋ジストロフィーの患児の医療に携わることになったのは昭和40年以後だったと思う.すでに八雲では昭和39年9月頃より患児の収容を開始していた。
しかしその時点まで北海道における患児の実態や疫学調査等が行われておらず、病棟数の整備の凵処をたてるためにもその必要性が考えられ、その後2〜3年にわたって患児の調査のために夏休み期間を利用し、北海道内を八雲の官用車で隈なく走ったことも思い出される。児童相談所、保健所、国立関係の医療機関に患児に集って頂き診療にあたり、昭和46年までに神経原性筋委縮症も含めて約280名を対象として考えを得〈ママ〉、それらをもとに3病棟120床を整備することができた。
当初は八雲には当然のことながら結核の患者さんも入院していたが、それと別棟に筋ジスの患児も収容することができ、聊か興奮したことを思い出す。勿論初めての経験でもあり、診断不明の症例も多くあったが。
この経験を大切にするため、私共の医局では何人かでグループを組△041 み、どの医師もできるだけ共通の考え方で診療できる様心掛けた。
その頃すでに八雲では血清CPKの測定が江橋先生の燐を測る方法。で測定されており、デュシェンヌ型では上昇が必発であり、診断のきめ手と考えられたため検査技師は積魂こめて測っていたことを記憶する。(当時はCPKの測定は殆ど他の病院ではなされていなかったので、他の一般病院よりの依頼も随分あり、検査技師も張り切って測ってあげていたようであった。)
昭和47年夏私が大学より八雲に勤務することなり、若い小児科の医師と共に赴任し、それを機会に結核専門医も転任したこともあって結核の患者さんには他の療養所に移って頂き、筋ジストロフィー、重症心身障害児のみの体制として出発し、その年11月には吏にもう1人の小児科医師の仲間を得、やっと何とか診療体制を整えることができた。
神経筋疾患については当時すでに形態学的には組織(酵素)化学時〈ママ〉方法、電子顕微鏡による研究が極めて多くの知見をもたらしていたので、それらを基礎として研究をすすめたいものと考え、まず組織化学を行うため、事務の方にお願いしてクリオスタットを購入すべく翌年の予算に組み込んで頂き、翌年早速クリオスタットを手に入れ、ATPase染色を手始めにいろいろな染色を試みた。
記録によると昭和48年頃は徳島大整形の山内教授の山内班に属し、その年の発表はATPaseの染色による研究を報告している。
研究には医師3人は勿論、薬剤師2名、検査技師3名にも仲間に入って頂き互いに知恵を出し合って進めた。看護婦、児童指導員にもそれぞれの分野で必ずテーマをもって研究してもらった。
筋ジストロフィーを含む神経筋疾患の形態学的研究には電顕は欠かせないものであるが、私共の如き小さな施設には到底手に入らない高嶺の花のような存在だと思ってはいたが、地方医務局、本省で話をする際、手に入らなくてもとも〈ママ〉という考えで、いつも私共のところに電顕が欲しいという希望を述べて回った。△042
ところがある時当時の療養所課災であった大谷課長よりのお話として、国立多摩研究所にある電顕が買い替えの時間になっているのだがまだ十分使用できるから、もしそれでよければその電顕を八雲に移してもよいとの話。それで一度東村山まで出掛けて見てくるようにとのことになり、喜び勇んで多摩研まで出掛け、人きな図体の電顕と、それで撮ったいろいろな写真を見せて項き、是非とも譲り受けたい旨の返事をした。ところが八雲に運んでくる段になって、一度分解して整備をする必要があること、八雲までの輸送にも費用がかかり、合計1000万円近くの費用がかかるということになり、それなら新しく買った方
がよいのではないかということなり(当時小型の電顕は1000〜1200万円程で購人できた)、大谷課長の計らいでとうとう新品を手に入れることができた。その頃丁度病院の管理棟が新築されることになっており、そこにうまい具合に電顕室も作ることができ、本当に嬉しかった。
かくしていよいよ皆で筋ジストロフィーの研究をしようということになり、病院全体が研究班での発表を目標に研究に励んだ。
研究班から頂く研究費も私共にとって大いに励みになっていた。 当時療養所が地方医務局を経由して配付される研究費はかなり少なかったようであったが、筋ジストロフィー関係の研究費はそれに比し遥かに多く、そのため一般に配付される研究賞は辞退した程であった。
研究のテーマは前にも述べた通り主として形態学的なものが多く、組織化学時研究もいろいろな酵素で行ってみたがCPK染色だけはどうしてもうまくいかなかったことを覚えている。
昭和51年より北大薬学部の宇片理生教授(現東大薬学部教授)の御指導のもとでサイクリックAMP、GMP、DBH等の測定を行い、筋ジストロフィーと対照との比較、運動負荷時の反応、病期との関係、ノルアドレナリン注射後の変化、昼夜の対比等について検討した。
昭和52年にはKearns-Shy症候群の筋電顕でミトコンドリヤの変化や美しいクリスタの写真をとることができ、電顕の威力をしみじみ△043 と感じたものである。
昭和53年より臨床病態・疫学の研究班と心理障害の研究班に分かれたため更に研究が拡大された。
形態学的研究は引続き行われ、主なものをあげると、先天の剖検例、筋緊張性ジストロフィーの筋組織、フリードライヒ病の末梢神経の電顕像、先天型の遺伝・疫学、緩徐に進行する筋ジストロフィーの検討、ウルリッヒ型先天性筋ジストロフィーの剖検例、デュシェン型の成人後の形態学時〈ママ〉研究および口腔形態等についての研究を行った。
コメテ・イカルの研究については看護部門では直接看護の現場の問題を取り上げ、生活指導、意識調査、外泊前後の連動能力の変化、遊び、移動器具PCS記録の慢性疾患への適用j、避難用具、排泄用具、親子関係の調査等、指導員は昭55年頃までデュシェンヌ型の知能についていろいろな角度からの検討、57年よりターミナルケア、先天型の言語指導に取り組み昭和60年頃まで継統した。
研究班での出会いは素晴らしく、全国の神経学、病理学、リハビリテーション医学等の専門家のお話を聞き、ディスカッションすることができ、素人だった私共にとっても大いに裨益された。 また心理障害の研究班では児童指導員たちのすぐれた研究の発表も忘れられない。病院全体が研究班における発表のため一丸となって頑張ったことも思い出である。研究費もいろいろな面で本力に有難いかった。有効に使わせて頂いたものと思っている。
いずれにしろ過去20年闘の筋ジストロフィーの診療、そしてささやかな研究であったが研究させて頂いたこと、多くのすぐれた研究の仲間との出会いは何にもまして大きな収穫であった。その大切な思い出を胸にひめて20年の回想としたい。△044
■4 ″思い出″
元国立療養所松江病院名誉所長 中島敏夫(故人)
◇中島敏夫 1993 「″思い出″」,あゆみ編集委員会編[1993:45-47]
昭和53年の3月、国立療養所所長会議のため上京して国立療養所課に挨拶に行った時、課長北川定謙先生(前保健医療局長)から、次年度の国立神経センター発足に伴って筋ジスト研究班の再編成が行われ、その第4班として「療護に関する臨床社会学的研究班」の設置が決まった。ついては、貴君にその班長を引き受けて貰いたいとのことでした。思いもかけ々い大変な役川を仰せつかりその任に耐えられそうにないと思いましたが、ぜひにとのことでお受けしました。しかしながら班長としての重責を全うすることができるかどうか人きな不安がありました。
−‘つには、山田憲吾先生(当時、徳鳥大学)が10年以上に亘って育てて来られた「進行性筋ジストロフィー症の臨床的研究」(山川班)の実績を汚してはならない、またその実績に基づいてさらに新しい業績を積んでゆく責任があること。二つには神経センター設立に対する家族、関係者の熱い期待に応えることができるだろうかということでした。昔も今も関係者の一致した願いは「病気の解明」ということですが、当時その願いは神経センターの設立という大事業に全て凝縮されていたと思われ、したがってセンター設立後の研究のあり方に強い関心が注がれていましたが、筋ジス研究班がその期待に応えることについてのお手伝いが私にできるだろうかということでした。
このような状況の中で「療護に関する臨床社会学的研究班」(通称、中島班)は船出をしました。研究班の運営については、当然のことな△045 がら山田班の「心理障害生活指導研究」(河野、鈴鹿病院)、「療謾機器開発研究」(野島、愛媛大学)、「看護研究」(松家、徳島大学)、「栄養研究」(木村、弘前大学)の4部会をそのまま引き継ぐことになりました。また幸いなことに、プロジェクト・リーダーも山田班から引き継いで同じメンバーでスタートさせて頂くことができまして、このことは班長としての私に大きな勇気づけとなり以後の班長業務に邁進する大きな力となりました。
中島班第1回の班会議の日程が最終的に昭和54年3月10日〜11日と決定したのが53年末の幹事会においてでした。以後松江病院内においては、筋ジス関係職員は勿論のこと病院を挙げて班会議の準備を進めました。全国規模の研究会の事務局ということもあり、当時の職員には大変なご苦労をかけました。第1回の東京(星薬科大学)での班会議の運営には万難を排して精一杯取り組んだつもりですが、田舎者故に参加の皆様には何かとご迷惑をおかけしたことを申し訳なく思っています。しかし第1回班会議の経験は、次の班会議を山陰の田舎町松江でと考えさせる契機となりました。
プロジェクト・リーダーの先生方、運営幹事の先生方、また班員である院長先生方のご理解を得て、第2回の班会議を松江市で開催したのが昭和54年12月1日〜2日でした。初めての地方開催のため病院総掛かりで準備万端手落ちなくと精一杯の努力をつくし、幸い班会議としての目的はほぼ果たされたと自負していましたが、いろいろとご不便がありましたことについては深くお詫び申し上げます。ほっとする間もなく、次回班会議への準備を開始しました所私か不注意のため体調を崩し、第3回の班会議のお世話をすることができなくなってしまりました。今でも、そのことを思うと申し訳ない気持ちで一杯になります。しかしながら後を受けて頂いた井上先生(東埼玉)が以後の研究班を素晴らしく発展させて頂いたことで私は安堵させて頂きました。
短い期間のお世話の中でこれといった前進もなく責任を感ずること△046 ばかりでしたが、しかしその間の班会議の研究発表の中に、発表者は勿論、全国の国立療養所や各大学の現場における筋ジスの療謾に対する愛情溢れる取り組みを今までより一層強く肌で感じることができたことは、以後の私の医療、更には人生にとって大きな財産となりました。今でこそQOL(quality of lite)の保証やノーマリゼーション(正常化)という思想は当たり前な考え方として世の中に受け入れられつつありますが、これらの思想の光駆的な実践活動であり研究活動となったのが、まさに山田班とそれに続く第4班の研究活動ではなかったかと思います。その意味で現在へと続く療青の流れの中で僅かでも貢献できたことを幸せに思っています。
第4班の名称も研究の推進に合わせ、そのニーズに沿った名称に変わったと聞いていますが、「療護班」の持つ基本的な研究目的には、山田先生が52年度研究報告書の序に述べられている「本研究の特徴としては……………患者の療謾については物心両面から手厚いアプローチを試み、全人的立場から陂らに生き甲斐を与えるよう努力してきた事、更に、多彩な基礎的研究を通し、常に病因論との接点を求め、臨床の実際に還元し得るよう心を砕いたこと……。」の精神が脈脈と生き続けていると伺っています。派手さのない地味な研究活動ではありましょうが、この研究活動が患者の日々の生活に生き甲斐を与えるものであることは人切なことだと思います。療護課担当の皆様のご健闘、ご活躍を期待致します。
▼最後に私の班長在任中ご指導、ご教示を頂きました国立療養所課の諸先生方、研究班活動におけるプロジェクト・リーダーの先生方、また日筋協の役員の方々を始めとするご父兄の皆様に心より御礼を申しあげますとともに一日も早く筋ジスの病気の解明がなされることをお祈り致します。▲
■5 厚生省心身障害研究「進行性筋ジストロフィー症の成因と治療に関する臨床的研究」の歴史と動向の概要
元徳島大学長 山田憲吾
◇山田憲吾 1993 「厚生省心身障害研究「進行性筋ジストロフィー症の成因と治療に関する臨床的研究」の歴史と動向の概要」,あゆみ編集委員会編[1993:48-55]
進行性筋ジストロフィー(以下筋ジスと略)症患者は、全国で約6000人、うち、児童患者(多くは予後不良)は約2000人と言われている。国は、昭和40年来、国立療養内に専門病棟を設けその対策に従事している。
主題の上掲や〈ママ〉研究班は、これら国立療養所を主体とした臨床的研究班である。これら施設の参加と関連大学を加えたきわめて多数の研究協力者によってその事業が発展させられて来た。
研究対象は施設患者が主であるが、在宅ケア中の児童や成人等も舍まれている。
周知の通り、筋ジスはその成因が明らかでなく、したがって本能的〈ママ〉療法も確立されていない。
いずれにしても、骨格筋の退行変性を主徴とする進行性筋疾患である。
これらは、臨床症状、経過や予後、および遺伝形式によって概ね次の3型に分類される。
@デュシャンヌ型(小児型、仮性肥大型)、A顔面肩胛上腕型、およびB肢帯型である。その発生頻度は@が約85%、Aが約5%、Bが約10%である。特徴は@が男性小児が罹患、進行性で予後きわめて不良であり伴性劣性遺伝である。Aは思春期頃から発症、性差なく、経過△048 予後はさまで悪くない常染色体性優性。Bは@とAの中問、性差なく、予後ははまちまちである。常染色体性劣性とされる。
いずれにせよ、その臨床像は多彩であり、医学研究の対象としては魅力的な疾患である。
ところが、患者当人にとっては、成因は不明、治療法も未確認ということになれば、名状すべからざる不安に苛まれるのも無理からぬことであろう。殊に、デュシヤンヌ型にあっては次第に体が不自由となり活力を失うと共に多感な青年期に自己の終焉に直面しなければならぬという宿命があり、悲惨の極みというほかはない。患者当人はもとより、これをめぐる家族にとっても、長期にわたる精神的、肉体的さらに経済的苦悩は想像を絶するものがあろうかと思われ、時には家庭崩壌につながりかねない態のものがあった。それ故、本症はきわめて重大な社会問題を内蔵している。
ところで、本研究事業開始当時の国内情勢は誠に波瀾に富むものであった。 昭和20年、日本は敗戦の苦杯を喫し貧窮の極に陥ったが、不屈の国民的努力によって急速に立ち直った。
経済白書31年版は「もはや戦後ではない」と誇らかに宣言したが、これを機に空前の経済成長期に突人した。かくして、貧困の申し子結核は激減し、その専門施設たる国政療養所にもその空床が目立つようになった。ここにおいて、国は体外障害たる結核など感染症の制圧に成功し、厚生行政上一大転機が訪れたことをバネに、考想〈ママ〉の飛躍を試みたかと思われる。そして、体内障害たる筋ジストロフィー症(専ら遺伝子障害)対策に乗り出した。これはきわめて困難な課題ではあるが、画期的な事業であり、福祉に対する清新な参入を意味するものと考える。
昭和39 (1964)年、たまたま全国進行性筋萎縮症児親の会(現在の日本筋ジストロフィー協会)が結成され、時の厚生大臣に対し哀情を訴え、国家的見地から対策を樹立するよう要望した。この陳情に対し△049 厚生省はきわめて好意ある態度を示し、同年5月には進行性筋萎縮症対策要綱を発表した。
これに則り、昭和39年9月にはこれら疾患患者収容に関する最初の打ち合せ会が徳島市で開かれた。出席者は、厚生省から国立療養所課長ほか2名の担当官、徳島大学からは医学部長ほか数名の関連研究漸、各地の医務局長、次長あるいは専門官、担当(予定)施設としては、八雲、西多賀、下志津、鈴鹿、刀根山、兵庫、原、石垣原、徳島の施設長、事務長などが出席し熱心に協議した。徳島が最初の会議開催地として選ばれた理由については詳らかでないが、筋ジストロフィー症について比較的高水準の研究を行っている学者が基礎臨床の各面にその実績を蓄積しつつあり、研究活動に小廻りがききやすいという地理
的条件が考慮されたためかも知れない。
ともかく、国立療養所への患児の収容は異例とも言えるほどの速さで実施された。これは、厚生省当局と進行性筋萎縮症児親の会のなみなみならぬ熱意と努力に負うものと考えられるが、その頃の旺盛な経済成長下に澎湃として湧き起こりつつあった福祉への目覚めがその背景をなしていたことは否めない。そして、患児の収容は弥縫策ながら結核療養所の遊休病棟を整理し、これに転用することになった。
▼これは、世界に例を見ない我が国特有の今日的発想とも云える。しかしながら、長年にわたり結核症、殊に肺結核の治療に専門的に取り組み、そのように訓練され組織されて来た国立療養所が、未経験もさる事ながら、全く異質の疾患、筋ジストロフィーなる難病に対処しなければならなくなった訳で、当初は少なからざる戸惑いのあったことは否定し得ない。▲
ともかく、当事者の熱意と努力によって速やかに克服せられたことは美事と言う外はない。
当初、潤沢とは言えぬ研修費をやりくりしながら研究会や講習会、見学会に参加し、全国的な研究班会議などにも大方は手弁当で出張し、△050 知識技術の習得や学術交流に努力した。
思えば、本研究発足当初の8施設、100床から現在の27施設、2500床への発展は正に驚異的とすら言えるものであるが、この上とも〈ママ〉、切磋琢磨し、その対処に遺漏なきことを期すべきであろう。▼ともかく、筋ジストロフィー症なる単一症患を対象として、かくも多数の国立療養所が協同し、このような大規模な研究を遂行したのは、我が国独自の研究体制で、世界に例を見ない研究組織と思われる。そして、各国立療養所は関連の医科系大学と密接な学問的、また人的連携を保ちながら診療と研究を進めることができたのも誠に頼もしいことであった。▲
以下において、筋ジストロフィー症の臨床的研究の推移について簡単に述べることにするが、この大要は年毎に発行される成果報告書に掲載されている通りである。すなわち、昭和43(1968)年に厚生省特別研究費制度が創設され、医療行政上緊急に解決を要する研究課題の一つとして「進行性筋ジストロフィー症の成因と治療に関する研究」が採用され、この方而の最高権威者冲中重雄先生を主任研究者(班長)に決定、この下に研究班組織が結成された。共同研究者は筆者を含め専ら大学等におけるこの領域の研究者であった。翌昭和44年に至り、国立療養所を中心とする進行性筋ジストロフィーの研究は「臨床社会学的研究」として、冲中班の分担研究課題に取り入れられ、筆者山田は冲中班長よりその世話を一任されることになった。これを契機として国立療養所における筋ジストロフィー研究は一段と鼓舞され活気を帯びることになった。この頃、たまたま学園紛争が世上を風靡し、その風当りは特に大学に強かったが、国立療養所にはさしたる影響はなく、研究業務はほぼ平常通り続行できた。厚生省「特別研究」は昭和45年をもって3年問の研究業務を終了することになり、この研究は昭和46(1971)年度に至り「心身障害研究」に移行させるという特別な配慮が与えられ、「進行性筋ジストロフィー症の成因と治療に関する臨床的研究」(班長 山田憲吾)として大型研究プロジェクトに成長し△051 た。そして、この臨床的研究は基礎的研究の冲中班と唇歯輔車の関係を保ちながら平行してその研究事業を推進することになった。この研究の協力者は、医師、薬剤師、看護婦、保母、児童指導員、機能訓練士、栄養士、ケースワーカーなどパラメディカルスタッフを舍む多彩な構成であるが、積極的参加が推奨され、毎常報告の信頼性が厳しく評価された。通常年2回の班会議、数回の幹事会が開催され、進んで参加することを各人の誇りとしていた。研究課題の発表は次のような8サブテーマに分け、各々に専門部会長を置き分科会形式で活発な報告と検討を行った。即ち、その大要は以下の通りである。@機能障害進展過程の分析(湊治郎、西多賀):躯幹、および四肢の変形発生、およびその進展過程が精しく検討された。また、心機能に関しては詳しい電気生理学的分析に加えて剖検所見との対比も行われた。その他、脳波、筋電図学的立場からも検討された。A病態生理学的研究(三吉野産治、西別府):◆躯幹変形の呼吸、循環に及ぼす影響について協同研究、骨盤傾斜や咬合障害の様相、心機能については、心電図上の右室優勢所見が心筋の左室後壁の退行変化の表現であるとの知見に加え、機能的、解剖的所見が集積され、これらの関係が一層明確にされた。その他、骨格筋の筋電図学的研究、生検筋の組織化学的研究、骨格筋や心筋の電顕的研究もある。さらに末梢循環動態や深部反射に関する解明、保因者についての臨床検査所見の発表などもあった。B心理障害、生活指導の研究(習田敬一、兵庫中央):知能や情緒問題について多彩かつ豊富な研究がある。方法論的問題も含めてこの方面の発展が
期待される。また、人間関係や社会性について、職員対患者関係、病棟内の集団構造、在宅患者実態、親子関係等が詳しく分析された。また、遊びについては、患児の社会性発達、集団指導の有用性が指摘され、読書問題も検討された。その他、病棟運営に伴う諸問題やホスピタリズムの構造とその対策についても研究された。C機械器具の開発研究(野島元雄、愛媛大学):野島の「ばね付膝関節装具とその軽量化△052 研究ならびに上肢介助用フィーダの研究があり、車椅子については動力化の研究がある。その他、車椅子生活に便宜を与える各種介助用器具の工夫がある。特に埼玉式フィーダー、西別府式ターンテーブル、徳大式簡易三連車椅子、西多賀式着脱車椅子、刀根山式電動車椅子については増加試作研究を予定している。D看護に関する研究(松家豊、徳島人):◆躯幹、四肢の変形発生予防対策や日常生活動作の介釛に関するきめ細かな研究があり、四肢肢や肺機能の訓練やベッドサイド研究がある。また、衣類やその管理に関する研究のほか、看護の省力化に関するいろいろな工夫もある。さらに看護管理面の改善に関する種々な研究が行われつつある。E栄養に関する研究(木村恒、弘前大):血中遊離アミノ酸レベルの研究、あるいは至適体位の研究、さらに体重に及ぼす諸因子の研究がある。F生化学的並びに基礎的研究(谷淳吉 刀根山):生化学的手法による水分量や糖代謝の研究、さらに生検筋のアイソザイムの研究などがある。このほか、筋ジスマウス肝や筋芽細胞に関する実験的研究がある。これらは、病因、発症機転の究明、臨床経過、予後判定、さらに保因者検出等につながる研究で、冲中班研究と共軛するものもある。G特定研究、疫学(河野慶三 鈴鹿):熊本県、鹿児島県、沖縄県について疫学的研究が行われた。病棟問題とその改善に関する研究、あるいは興味ある症例や特殊検査についての報告がある。
以上は本症の臨床的研究を基盤に積み上げられた研究の基本的枠組みであるが、1緋ij研究者、サブテーマDの部会長松家豊氏並びにEの木村恒氏はそれぞれの経験に考察を加えて「進行性筋ジストロフィー症の看護基準」、並びに「進行性筋ジストロフィー症の食餌基準」をそれぞれ昭和52年3月、および昭和54年1月に本研究班の名において出版し、各方面の要望に応えた。ご努力多とさるべきものと考える。
顧みれば、昭和39(1964)年筋ジストロフィー患者の最初の収容施設たる8国立療養所を中心として発足した研究会が、昭和41(1966)△053 年に「進行性筋ジストロフィー症に関する臨床ならびに疫学的研究」として厚生省国立療養所中央協同研究(班長 山口寿、刀根山病院)が形成されたのが、我が国における公的研究の発端と思われる。さらに、昭和43(1968)年に創設された厚生省特別研究に「進行性筋ジストロフィー成因と治療に関する研究」(班長 冲中重雄 虎の門病院)が採用された。誠に時宜を得た処置と思われる。翌昭和44 (1969)年に至り冲中班長は上記の国立療養所の研究を「臨床社会学的研究」として、その分担研究に位置付け、協同研究者たる筆者にその世話を一任された。特別研究は研究の年次進行により昭和45(1970)年に一応終了したが、昭和46(1971)年に至り冲中班研究は心身障害研究に移行、これに伴って「進行性筋ジストロフィー症の成因と治療に関する臨床的研究」(班長 山田、徳島大学)も同時に心身障害研究に移行、基礎的研究の冲中班と並んで本症の臨床面に関する大型プロジェクトを担当することになった。
研究事業の概要は上述の通りであるが、その責任は極めて重く、十分にその思いを尽くし得たとは思わないが、昭和52(1977)年に至り第2次3年継続の最終年を迎えることとなり、昭和53年度の成果報告書提出をもって終止符を打つことになった。思えば、昭和39年来足かけ15年間の長きに亘り筋ジストロフィー研究に参画させていただき、大過なく責め果たし得たことは誠に幸福であり、協同研究の方々に心からなる感謝を捧げる。バトンを後任に波し心安らかに退くことにした。
進行性筋ジストロフィー症の成因と治療の究明の道は遠く厳しいように見えるが、悲観するには当たらない。明確とは言えないまでも、解決法がほの見えつつあるようで、これが向後の研究者を鼓舞している。ところで、我々の協同研究者木村恒氏の生存期間の調査によれば、最も不良とされるデュシヤンヌ型について、その平均寿命が昭和41年から昭和45年の5ヵ年間に比べ、昭和46年から昭和49年の4ヵ年問の△054 それは、平均して2.8年間延びていることを明らかにした。
これが、本研究の成米と速断できないにしても、患者の福祉は〈ママ〉若干は寄与できたかと思われ、密かな喜びを感じている。この上とも患者の生命の質を高めることができれば、研究者として冥利に尽きることであろうとも考えている。向後の発展を期待してやまない。
この問、厚生省当局並びに日本筋ジストロフィー協会から戴いたご支援並びにご助言に深甚の謝意を表する。
なおまた、我々のが力及ばず、本研究進行中惜しくも夭折された患者各位に対し、哀悼の誠を捧げ、謹んでそのご冥福を听る。
■6 筋ジス病棟開設の回顧
国立療養所宇多野病院名誉所長 城鐵男
◇城鐵男 1993 「筋ジス病棟開設の回顧」,あゆみ編集委員会編[1993:56-58]
国立療養所宇多野病院名誉所長
▼昭和43年5月私が貝塚千石荘から宇多野病院に転任して間もなく、筋ジス親の会から陳情があり、宇多野病院に是非筋ジス病棟を開設して欲しい旨のかなり熱い要望があった。
地元出身代議士さんのお言葉添えもあり、厚生省当局からはすでに昭和39年5月筋ジス対策要綱が発表されており、諸般の情勢から筋ジス病棟開設は避けられないものとの判断に傾いていた。
しかし永い間結核専門病院として結核治療に専念してきた医療陣を始め一般職員にとっては政策医療とはいえ、筋ジス病棟開設など青天の霹靂のように受けとられたことも無理からぬことで、その説得にかなりの時を要したことはむしろ当然であった。
現実にはすでに下志津、西多賀病院では筋ジス収容は開始されていた。(国立療養所史結核篇276〜297頁参照)
筋ジス病棟には養護学校がつきものである。学校の経営主体は国府県市立などあるが、宇多野の場合は京都市が経営主体と決定され、現在小中高校を擁して立派な市立鳴滝養護学校が隣接している。
校舎の建設工事が病棟よりも大幅に遅れたため、当初は病室の一部を臨時に代用教室として使用してもらい、教育に支障なきようにしたつもりである。
病院と学校とは互いに命令系統が異なるため時折現場で職員間にとまどいが生ずることがあるので、互いの連絡を密にして業務のスケジュールを決めなければならないことがよく分かった。△056
発足当初はたびたび地元新聞社の取材があり、病院側が計画実施したクリスマスやお餅つき行事などが新聞に出る時はいつも「筋ジス学級」のタイトルが冠せられるので、病院側の職員から不満の声があがることしばしばであった。
こんなことから病院と学校との間に連絡協議会が設置されたことは当然のことで、以後運営が円滑に行われた。
筋ジス病棟で人院患児死亡第1例が出た時のことであった。お葬式当日養護学校では先生方が葬儀に参列されたが、病院側は誰も参列しなかった。当然患者家族からは病院は冷淡との声が聞こえてきた。結核療養所では患者が死亡した時は葬儀に参列することは普通行われていない。しかし学校教育の場では、一生徒の死は一大事で先生学友の葬儀参列は習慣となっていて、病院と全く異なっている。いくら説明しても親達から納得してもらえなかった。
しかし後日別の患者が死亡した際、剖検が行われ、忠児の心筋標本の顕微鏡的病理診断所見を担当医から親御さん達に報告説明を申し上げたところ、子供の死因についてかくも詳細な検査をして頂いたことに対して、深い感銘と謝意を表わされたことがあった。学校の先生の役割と病院医師の役制が初めて実感を以って豁然と理解されたようで、病院は冷たいなどの声は消滅したようであった。▲
宇多野病院筋ジス病棟は昭和45年7月竣工し、筋ジス病棟初代専任医長として京大整形外科から笹川総逸君が着任され46年1月から病棟は開設された。しかし同年2月笹川医長は勤務中不幸にも急性心臓死の不慮の死を遂げられた。誠に不幸なことであった。
京大病理学教室で剖検が施行され原因の究明が行われた。後日厚生省から公病死の認定を頂いてホットした事であった。
後任の主治医がすぐに来てもらえず、約1年間私が病棟の主治医を兼務したわけであるが、今から考えると汗顔の至りである。
翌昭和47年2月国、y京都病院から小児科の吉岡三恵子医長が着任さ△057 れ、私は主治医の責任を解除された。
▼筋ジス患児達のまなざし、表情を観ていると彼等が小さい哲学者のように思えてくる。養護学校の先生の話では、誰かが死んだ場合、次の番は誰だということが彼等の間で日常の会話の中で噂されるらしい。少年として死を考える彼等が哲学者のように見えるのは当然ではなかろうか。▲
昭和42年頃から現宇多野病院々長の西谷裕博士が、京大勤務中の頃から「ミオパチー研究班」を組織され、臨床病理各方而から教室の枠を越えて研究者に呼びかけて、京都府下の筋ジス患者の検診を実施され、府下の筋ジス患者の実態が概ね把握されていたようである。
これらのことは宇多野病院の筋ジス病棟開設に大いに役立った筈である。
宇多野病院の新しい転換、近代化は筋ジスからスタートしたといってもよく、これを端緒として臨床と研究を柱とする病院の将来構想が生まれ、現時点に到達したことは幸いであった。国立医療機関としての使命達成を願い、かつ祈るものである。
■■第4章 患者抱えて
■1 「最も弱い者の命を守る」原点に立って――重症児の30年をふりかえる
社会福祉法人全国重症心身障害児(者)を守る会会長 北浦雅子
◇北浦雅子 1983 「「最も弱い者の命を守る」原点に立って――重症児の30年をふりかえる」,あゆみ編集委員会編[1983:59-65]
国立療養所の重症心身障害児病棟が設置されて20余年。私どもの全国重症心身障害児(者)を守る会も、平成五〈ママ〉年結成29年目となりました。昭和30年当時からみますと、重症児福祉の充実は、施設対策、在宅対策、年金などの制度面も含め誠に目を見はるものがあります。
国立療養所筋ジス・重症児病棟の四半世紀に当たり、この30余年の歴史を回想するとき、各方面にわたる多くの方々にご理解ご支援を賜ったことに心から感謝申し上げております。
(1)守る会の30年
▼私の次男は昭和21年に福岡で生まれました。生後7ヵ月目に種痘を接種したために半身不随、ちえおくれ、言葉もない重症児となってしまいました。当時、こうした子供たちの施策は皆無でしたので、親の愛情だけでひっそりとすごしておりました。この子が14歳の時東京へ帰ってきて、小林提樹先生にめぐり会ったのが、私にとり大きな転換点となりました。私たち親は当時「自分か死んでしまったらこの子はどうなるだろうか」という不安で一杯でした。小林先生が毎月1回開いて下さる「両親の集い」の例会の時は、親同志ひそかによりそってこのことを話し合っていました。その時、先生が重症児のための施設△059(島田療育センター)を計画されているのを知り、50床の施設が完成した時、親同士でよろこび合ったことを忘れることができません。
しかしこの施設を運営するためには、何とか国の援助を得なければならないと、小林先生のあとについて、議員会館、大蔵省、厚生省へと、初めての陳情活動を行いました。昭和36年のことです。
その時の国の姿勢は、社会の役に立たない重症児に国の予算を使うことはできない、というものでした。私たちは「どんなに障害が重くても、子供は真剣に生きています。また親にとってはこの子も健康な子も、その愛情には少しも変わりはありません。しかし親の力には限界があります。どうか国の力で守って下さい」と何日も歩き、ようやく国家予算400万円が研究委託費として計上されました。たった400万円ですがこのお金は、それまでの国の姿勢を変えさせた、非常に大きな意味があるものでした。▲
ところが国の予算がついたことで、今度はこの施設は児童福祉法の適用をうけ、18歳以上は入れないと決められてしまったのです。自分が死んだあとは施設に、と思っていた親は「結局自分たちはこの子と一緒に死ぬほかない」と、本当に眠り薬を買いこんでいたものです。その時周囲の方たちが「親の会を作りなさい」と励まして下さり、そうした方々の陰に陽にのご支援を頂いて結成されたのが「全国重症心身障害児(者)を守る会」です。(者)とあるのは、児も者も一緒にという願いがこめられています。また会の結成準備のある日、NHKの記者がみえて「守る会というけれど、重症児を守ろうなどという人はい
ないのではないか」と言われたのです。私たちは「社会で一番弱いこの子の命を守ろうとする心は、社会的弱者の老人、障害者、子供たちの命を守ることにつながるのではないでしょうか。最も弱いものを切り捨てるとき、その思想はその次の弱い者を切り捨てることにつながる。私たちは重症児を守る運動を、親の利己的な考え方でなく、社会の方々にこの心をひろげることを願ってすすめているのです」とお話△060 しし、漸く「時の動き」にとりあげて下さいましたが、これは今日まで守る会運動の原点となっています。
それまでの国の福祉施策は、障害の軽度の、社会復帰できるものから充実させてくる方向でしたが、重症児が我が国の障害者福祉を「最も弱いもの」から、と発想の転換をとげさせたことは、大きな意義があったと思います。「重症心身障害児の親の会」とせず「守る会」としたのは、こうした願いがこめられたものでもあるのです。▼また時代的背景には、作家の水上勉先生が公開質問状「拝啓総理大臣殿」(『中央公論』昭和38年6月号、中央公論社)を発表、障害児問題の問題提起をして下さり、マスコミも次々ととりあげて社会的にクローズアップされたことがあり、更に、森繁久彌さん、伴淳三郎さん、秋山ちえ子先生方の「あゆみの箱」の運動などがありました。そして重症児が長い間陽の当たらないところで生きてきたことが暖かい支援を呼んで、私どもの守る会は昭和39年6月13日に発足しました。
▼翌40年の第2回大会の折、親の涙ながらの訴えに、佐藤総理の代理として出席されていた当時の橋本官房長官が、用意の祝辞をわきに置いて、善処をその場で約束して下さったのも、忘れられない光景です。この大会の数日後、総理大臣官邸で重症児問題の懇談会を開いて下さいました。国立療養所の重症児病棟の構想が生まれたのはこの会からです。当初昭和41年の大蔵省予算内示は120床でしたが、復活折衝で480床まで認められ、こうして国立重症児病陳が誕生したのです。
また佐藤総理の生命尊重論に基づいて急速に施設が増えた時期もあり、現在全国で国立8,080床、民間約7,358床となっています。▲
私どもの運動も、施設の数の増加とともに、運営面では指導費や職員の俸給面の改善などもとりあげ、間口を広げたら次は奥行きを深めるという形に展開してまいりました。
その間、あゆみの箱の募金を「在宅の子たちのために使って下さい」という大変有り難いお申し出を頂き、そのお金を基礎に他の多くの△061 方々のご協力ご支援を項き、世田谷区の国立小児病院の横に「重症心身障害児療育相談センター」を昭和44年に建てることができました。現在本部事務局もこの建物にありますが、これもはじめ「とても運営できっこない」と言われたものでしたが、ここに子供たちが生きている限り、これは続くんだ、という信念で今日まで運営しております。
ここを拠点として、在宅の子供たちの診療、通園、通所、家庭訪問や巡回療育相談、緊急一時保護を行っております。
これら重症児をめぐる環境の変化のなかで特に大きなものの一つは、昭和54年(東京都では49年)の養護学校就学義務制の実施で、このことは特に在宅の重症児のあり方を変えたといってもよいでしょう。当初は、こんなに重い障害児に学校教育とは…との反論もありましたが、先生方のかかわりの中から子供たち一人ひとりの芽を見つけ、きめ細かい教育を実施して下さり、お母さんも安心して子供を学校にゆだねるようになりました。それだけに、義務教育を終了したあと再び家にとじこもるようになったのでは、せっかく教育のなかで伸びてきたものも後退してしまう、という不安が強く出され、守る会では7〜8年前から「重症児の学校卒業後の生きがいの場を」という要望をしていました。
一方、そうした重症児をめぐる流れの方向をしっかり見極め、地域で独自に通所施設を実践するところも出てきました。横浜の「朋」、あるいは世田谷区の「三宿つくしんぽホーム」(守る会が運営を委託されている)などです。更に東京都では昭和63年より「重症心身障害児通所事業」を実施、同年「みどり愛育園」が、平成元年重障児センター20周年という記念すべき年に守る会の「あけぽの学園」がその認可をうけました。現在東京都としては平成12年度末までに15施設。定員300名を目標に整備計画がすすめられています。
親の方も、最終的には入所施設があるという安心感とともに、養護学校やこうした通所施設に支えられて、親が元気なうちはできる限り△063 在宅で介てたいという願いをもつようになりました。これらの背景のなかで国としては在宅対策の一環として重症心身障害児通園モデル事業を計画、平成元年度予算で5ヶ所(民間施設に併設)が実現しており、また平成五年度から小現隕の通園事業を全国で五力所実施することを決定しました。
ノーマライゼーションの思想のもとに在宅指向のお母さん方が急増し、通園の要望はますます強まってきています。本会としては、この事業がさらに全国各地に根付くことを希望しています。特に岡立療養所に在宅のための通園、通所事業の併設を5〜6年前から要望していますが、その実現は郢しく、一部の医師や職員の方々の重症児の生きがいを求めての個人的な善意で各地で行われていますが制度につながりません。
国立療養所の経営改善の問題や総定員法などにより在宅にまで手をさしのぺられないということも良く理解できますが、現在の社会の流れをしっかり見つめる時に、旧体制を守っていても大きく飛躍出来ず、かえってて国立療養所のあり方を問われてゆくのではないかと心配しています。
施設に人所している親の方々とは、自分の子だけ助かれば良いという狭い考え方でなく、在宅の重症児にも愛をかける心になった時にはじめて、人所しているわが子の療育の向上にもつながるのではないかと親同志で反省し、語り合っています。こうしたことから、私どもは国際障害者の年に、会員の方々とともに「親の憲章」を制定しました。親の生き方、親のつとめ、施設や地域社会とのつながりなど、もの言えぬ子供に代わって、正しい意見の言える親になりましょう、と常に自戒しています。
国立療養所重症児病棟におかれましても、早期発見、早期治療、在宅援護事業として通園、通所事業を実現して下さることを切に願っています。△063
(2)心の輪を広げよう
重症心身障害児(者)は、からだが不自由、知恵も遅れ、自分の意志を表現することも困難です。それだけに、この子供たちにかかわる親、職員の方々、ボランティアの方々に、重症児をより理解していただくとともに、ある意味での哲学、思想が大切だと思います。
私たちは、重症児から「生きる」「いのち」とは何か、と問いかけられ、その本質を見つめさせられています。本会ではこうした思いから、指導誌「両親の集い」に「いのちを問う」の対談シリーズの連叔を計画しました。遠藤周作、曽野綾子、壇ふみ、日野原重明、柳川邦男、大熊由紀子の各界の先生方がこのシリーズにご協力をいただき、素晴らしい対談を実現でき感謝しています。この度これを『いのちを問う』(中央法規出版)という一冊の単行本として出版することとなりました。
人として生まれたものは、いずれ死を迎えることになります。難病や末期ガンの患者、老人など、人生の終末を迎えたとき、残された時間を充実させ、納得し、安らかに死を迎える、そういう豊かないのちの燃焼こそが幸せだとしみじみ思うのですが、重症の子供たちは、その姿そのものを、私たちに見せています。
この重症児の対策が、思いやり、やさしさのある療育が行われてこそ、私たちの人生の豊かさがあると思います。最近、厚生省の障害福祉課長さん方も、重症児を起点として、社会の意識改革をと言って下さるようになりました。価値観の転換や視点を移すということは、医療、看護、教育の中でも重要なことと思っていますが、このような思想ややさしさの心の輪が社会に広がることは、重症児とともにみんなの幸せにつながるという、本会創立の頃の理念に再び呼び戻され、初心を大切にして、親の方々と手を取り合い、職員の方々と車の両輪となって頑張ってゆきたいと思います。
今後とも国立療養所重症児病棟の院長先生をはじめ職員の皆様のお△064 心添えを心からお願い致します。△064
■2 20年余の回想
社団法人日本筋ジストロフィー協会前理事長 河端二男(故人)
◇河端二男 1993 「20年余の回想」,あゆみ編集委員会編[1983:66-69]
『社団法人 日本筋ジストロフィー協会』の前身である『全国進行性筋萎縮症児親の会』が結成されたのが昭和39年3月。
その代表者達は、厚生大臣ほか関係局課長に対して『進行性筋萎縮症患者救済対策について』陳情を行い、国会には衆参両議院議長宛、その請願書を提出した。
当時の全国会員数は583名であった。
厚生省は、これを受けて、39年5月には『進行性筋萎縮症対策要綱』をただちに定め、発病の原因及び治療法研究に着手するため、国立下志津療養所、国立西多賀療養所内にそれぞれ20床の専門病床を設けることを発表した。
更に同年の6月は国立原療養所、8月には国立療養所石垣原病院、国立療養所刀根山病院、国立八雲療養所、国立徳島療養所、9月には国立療養所鈴鹿病院に増設を決定し、昭和39年度は、全国8ブロックに8療養所計100床の専門病床が指定されたのである。
一方、8月末には大蔵省に、昭和40年度の進行性筋萎縮症対策費として、厚生省児童家庭局関係13,804千円、医務局関係98,462千円の計112,266千円の概算要求を出したが、0査定となり、12月末、厚生大臣等の復活接衡の結果、児童家庭局関係10,612千円、医務局関係5,425千円計16,037千円の予算成立をみたのである。
厚生省、施設関係者による対策協議会ももたれ、治療研究に対しては共同研究班(班長東大名誉教授沖中重雄教授)を発足し研究を結集△066 し、専門病院への患者の人院および治療費、増床、増設等の対策が協議され、昭和40年度には300床の増床と専門施設の増設がはかられ、専門病院人院患者には、児童福祉法を適用し、療育医療制度がとられたのであった。
かくしてスタートした政府の進行性筋萎縮症対策費は年々増額され、昭和42午には児童福祉法の改正が行われ、重症心身障害児対策とともに、進行性筋萎縮児・者対策は確立されたのである。
協会も、昭輻13年2月には社団法入日本筋ジストロフィー協会の認可をうけ、全国8ブロックの地方本部、47都道府県支部の組織をもつ団体となった。
日本自転車振興会の療育相談事業の補助金をうけたのも昭和43年度からで、全国的な規模で無料検診、訪問検診、集団指導を実施し、患者、家族の療育指導に研究班とともにあたっていった。
やがて、この協会が実施していた事業は、昭和47年に開設した社会福祉法人全国心身障害児福祉財団にひきつがれ、各障害児団体を網羅する広範な規模で、全国のネットワークがつくられ、今も継続されており、各団体にとっては有意義な事業となっている。
▼現在、筋ジス病床をもつ病院は全国で27ヶ所、ベッド数は2,500床にまで達しているが、この病床もその歴史的経過をみると、いろいろな形があって、厚生省が関係方面と協議して設置したものが圧倒的に多いが、なかには、筋ジス協会の地元の保護者たちの要望でできたものもある。後者としては、埼玉の東埼玉病院、柏崎の新潟療養所、京都の宇多野病院、福岡の筑後病院等がある。▲
近頃は在宅対策の充実、医療の進歩等の原因で、これら療養所内でも空ベッドがふえて、多少疾病名のかわった患者たちが入所している状態であるが、国立療養所の将来方向を今後検討していくうえで、この筋ジス病棟の取り扱いなどは重要な問題を提起している。
国立療養所の年次的整備とともに、在宅対策の充実強化がはかられ、△067 筋ジス患者とその家族の処過は一応の安定をみたが、協会創立当初よりの大悲願である発病原因の追求、治療法の解明は残念ながらまだ明確なものが得られていない。しかし20余年にわたる研究成果としていくつかの発病原因と治療法に結びつく発表が、去年、今年となされて
いることは朗報である。
思えば、昭和43年度、厚生省関係当局すらも、まさかと思っていた特別研究費5千万円が国家予算として計上され、うち2千万円が、「筋ジストロフィー症の成因と治療」の研究費にあてられ、厚生省筋ジストロフィー研究班に支出されたのである。この2千万円は当時の研究費としてはまさに破格ともいえる額で、この研究費が国立精神・神経センターをつくり、筋ジスの発病原因発見とその治療への萌芽となったのである。
研究費は当初、大臣官房の科学技術参事官の所管であったが、その後、児童家庭局毋子衛生課にうつり、国立神経センター設立を契機として同センターの所管となった。
この間の推移をめぐっては、なかなか面白いこともあったが、これはまたの機会としたい。
筋ジス研究費は、ここ数年2億円を超し、5つのそれぞれの班も充実し、精神・神経センターの中でも光彩を放っており、この研究班は日本のみならず世界の注目する研究チームで、昭和63年3月には筋ジストロフィー症の原因(筋細胞膜)をつきとめ、平成元年3月には保因者の筋肉細胞の抗体検査法を開発するなど、研究成果を世界に発表したのは周知の通りである。
私たちの筋ジストロフィー症との闘いは20数年の長きにわたるもので、この運動の歴史は、実に敗北の連続であり、屍をつみあげた歴史でもあった。
ゆく年も、くる年も、年々300人前後の患者たちがむざむざ命を散らしていったが、その屍の多くが、研究班に提供され。遺体の解剖は研△068 究促進に大きく貢献しており、患者たちの生きた「あかし」ともいえよう。
協会創立以来、例年5月に開かれる全国大会には、全国津々浦々から、今年こそはと希望をもって集まってくるが、まさに期待をうらぎられた悲しみと、無念やるかたなき大会であった。
しかし、研究がすすみ、医学が進歩し、昨日までの闇がようやく晴れて、前途が期待できる今こそ、筋ジストロフィー症と宿命的な出会いをもった私たちは、自らの手で、全力をあげて、この筋ジストロフィー症の追放、撲滅にいどみ、一日も早く患者・家族の明るい笑顔をみ、協会の解散をのぞむものである。
■■第5章 行政のあゆみ
国立療養所における重症心身障害、筋ジストロフィー対策について
★★
政策医療課
1。重症心身障害対策
昭和40年9月に行政管理庁が厚生省に対し提出した「医療機関に関
する行政監察の結果に基づく勧告」において国立療養所について改症
心身障害児(者)の収容施設として10ヵ所を整備すべきであると提、l・
した。これを受けて、昭和41年の厚生省事務次官通知により国政療養
所において重症心身障害児の療育を行うこととされ、まず10施設480床
が整備された。これが国立療養所における:飛心医療に関する施設整備
の始まりである。一方、同じ昭和41年には、中央児童福祉審議会から
重症心身障害児施設を児童福祉施設として法律上確立するよう意見具
申がなされ、昭和42年には児童福祉法が一部改正され、重症心身障審
児施設は児童福祉施設として法定化されるとともに岡立療養所は都道
府県知事が重症心身障害施設への入所の措置に代えて治療等を委託で
きる委託病床として位置付けられるようになった。
その後も毎年、施設整備が続けられるのであるが、昭和45年に障害
者実態調査が行われ、また昭和50年5月からは重症心身障害児病床数
の増加に伴い、都道府県及び指定都市別の委託児(者)数の割当の調
整が行われるようになったこともあり、昭和50年までの80施設8,080床
で国立療養所の重心病棟の整備を一応終了し、現在に至っているわけ
70 第1編 四半世紀の回想
-
である。また昭和5卜目こは在宅における吸度心身障害児(者)を支援
するために、旧、・・l療養所においても緊急保護事業を実施することにな
、リ、11吋l療養所の鄙C,、医療は人所患者のみならず、在宅患者に対して
も開かれたものに々9てい9た。さらに収心の寿命の延長や成人患者
の所斑人所による人所忠噺の高齢化の問題に対応して、成人化対策と
して、昭和5,1印・度より、ド成元価度まで病棟の増改築等が行われた。重
症化対策として、、卩成2年度から病棟の増改築等を行っている。また、
身体障害は比較的軽叭:であるが、知能障害の他に各種の精神症状を伴
い、特別な処巡の必要な、いわゆる「動く服心」については昭和46年
頃から国41精呻療養所に収容を開始していたのであるが、昭和59年度
からは動く・Ti兄4j策としての病棟増改築等を実施する専門病棟整備も
行われた。
こうした幣備等に什い、人院患者数は年々増加しており、平成3年
度の剥1111吋l療養所の患一礼刮査では、゜・R心の人院患者数は最も多い
7.710Kである。 11卩・l療養所における吸心医療の比重は大きいが、最近
ではいくつかの新しい問題点が出てきており、今後の対応が注目され
ている。そのひとつとしては、さらに年長化か進んでいることにより
義務教育終j’餃の療育の充実が求められていること、体重の増加や脊
椎・関節の変形・拘縮により介護:叺が増大していること、新規患者の
入所が困艱になり在宅の患噺の緊急的な療育需要に対応できないこと
も少なからず兄受けられる。
研究而においては、まず昭和43年度に国立療養所重症心身障害共同
研究班が編成され、「爪l症心身障害の成閃と病態生理」等の研究を行っ
た。この研究班は、昭和44年度からは特別研究費補助金による「脳性
小児まひの成閃と診|析に関する研究」の一部を分担していたが、昭和
伍年度には研究班令体が児竜家庭局の心身障害研究へ発展したのに伴
い11卩yl療養所の分担も人峰!化していった。
これとは別に昭和46年度から国立病院特別会計療養所勘定にも新規
第5章 行政のあゆみ 71
に重症心身障害に関する特別研究費が認められ、臨床研究の促進が図
られた。
心身障害研究における重心の研究は、その後も継続・大型化され、
現在「心身障害児(者)の医療療育に関する総合的研究」の分担研究
として国立療養所班である森班では、「重症心身障害児・者の医療療育
の質的向上に関する研究」というテーマで主に種々の実態調査、治療・
看護・介護についての検討といった日常療育に直接かかわるような臨
床研究を行っている。
また、昭和53年から開始された国立武蔵療養所神経センターの神経
疾患研究委託費でも多くの発達障害関係の研究が進められたきたが、
昭和62年度からは国立精神・神経センターへと発展したのに伴い名称
を精神・神経疾患研究委託費と変更し、現在「重度重複障害児童の疾
病構造と長期予後に関する研究」における臨床研究を中心に「発達障
害関係研究班」として合同のシンポジウムを行うなど、基礎研究との
連携を取りながら広範囲の研究が進行中である。今後とも障害児(者)
のために研究の推進とその成果が期待されるところである。
2。筋ジストロフィー対策
昭和39年3月16日に「全国進行性筋萎縮症児親の会」が時の厚生大
臣小林武治及び医務局長尾崎嘉篤に陳情を行ったのに対して厚生省は
5月6日に進行性筋萎縮症対策要綱を発表している。この時の主な内
容は以下のようなものである。
(1)収容及び治療について、各担当施設は協力大学と連絡を密にして
収容患者の選定、治療方針の確立に遺憾なきようにするとともに学
齢期にある者に対しては教育の機会を与えることとする。
(2)本病は病期、病勢によってはリハビリテーションの対象となるの
で該当患者には積極的にリハビリテーションサービスを行うことと
する。
72 第1緇 四半世紀の回想
-
(3)研究は治療と同様に人学とMり」して積極的に推進することとする。
剛医療賞は国々:療養所人所費等取扱細則によ1川呆険診療費の100分
の80とし、療育医療の適応については今後検討すること。
(5)親の会とは連絡を密にしてこれを育成すること。
これにより11吋l療養所での筋ジスの本格的な病棟整備が始まったの
であるが、まず5 Jjに国政西多賀療養所と国立療養所下志津病院に試
験的に&20 床を設け、10月には他の6施設を加えて合計100床を整備し
た。その筱、昭和5が|二までに27施、没2,500床が整備され現在に至ってい
る。
制度llの基盤となる筋ジスの療育の給付については昭和40年の事務
次竹通知で実施されるようになったのであるが、昭和41年の中央児童
福祉審議会の意兄只・申ではさらに、(1)進行性筋萎縮症の児童福祉法
上のJkり扱いを明確にすること、(2)進行性筋萎縮症児の病床を増設
すること、(3)進行性筋萎縮症の発症予防及び治療のための方法を究
1りjすること、といった3点が提'aされた。これに対して昭和42年には
児礎福祉法の一部が改正され、重心と同様に国立療養所は委託病床と
して位置付けられることとなった。なお、当初は筋ジスの成人患者の
入院が問越となっていたにもかかわらず、児童を中心とした受け入れ
であったために、昭和44年からは成人患者に対しても措置費が出され
るようになり、従来からある筋ジス病棟内に成人用の病室を設けて収
容が開始された。そして、こうした政策医療を進めていくうちに、従
米比較的短命であった患児の生命が延長されるとともに学齢期を過ぎ
た患者が次第に増加し、また成人患者の入院も増えたため、新たに患
者の成人化問題が生じ、それに対する病棟増改築等による施設整備が
行われるようになった。まず、学齢期を過ぎた患者に生きがいを与え
るための生活指導や作業療法を行うため、昭和50年から作業療法棟が
整備された。また、昭和55年からは入所者の高齢化に対して重心と同
様に成人化対策病棟整備が開始された。これとは別に昭和51年からは
第5章 行政のあゆみ 73
一一一
在宅患者の支援を目的としてデイヶア棟の整備が開始され、また在宅
重度心身障害児(者)保護事業では国立療養所もその役割を批うこと
になり、重心と同様に筋ジスの医療も地域に開かれたものになったの
である。
こうした歴史の中で入院患者数は増加し続けていたわけであるが、
ここ数年は横ばいかむしろ減少する傾向も見られており、平成3年度
の全国国立療養所の患者調査では、入院患者数は1.918人である。これ
には出生数の低下以外にも種々の要因があると思われるが、それらに
ついては筋ジスに対する適切な療育形態を含めて研究班で分析・検討
されていくべき点であろう。
筋ジスの研究は昭和39年からの医療研究助成補助金に始まるが、国
立療養所においては昭和41年からこの一部を分担して研究が行われた。
その後、昭和43年から45年にかけては特別研究補助金で冲中東京大学
名誉教授を中心とした研究班で研究が続けられたが昭和44年からは国
立療養所を中心とする研究は臨床社会学的研究として分担研究課題に
取り入れられ徳島大学の山田憲吾教授にお世話いただくことになった。
昭和46年からは重心と同様に筋ジスの研究は児童家庭局の心身障害研
究費として大型化されたわけであるが、昭和48年には基礎を中心とし
た冲中班と並び臨床を中心にした山田班が研究分担を行うようになり、
これを契機に国立療養所における筋ジスの研究費は急速に増大してい
った。昭和53年からは神経疾患研究委託費が開始されたが、筋ジスの
4班はその中心をなすものであり、基礎的研究、病因に関する臨床的
研究、臨床病態及び疫学的研究、療護に関する臨床社会学的研究が行
われた。その後昭和54年からのモデル動物に関する研究と合わせて5
班が編成を変えながらも継続しており、現在は最近の遺伝子工学等の
技術を利用した病因究明を始め、遺伝・疫学、心不全・呼吸不全対策、
介護、医療機器開発などについて様々な業績をあげているところであ
る。
74 第1編 四半世紀の回想
1:(f
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なお、lll佰I引完・療養所総合1矢学会においては、両疾患とも昭和41
年度(第21川)から演題発表が始められ、昭和43年度(第23回)から
は収症心身障害児・筋ジストロフィー症分科会として一つの独立した
分科会となった。年々演題数が増加し、現在では分科会の中にさらに
細分化されたセクションがあり、毎年各施設から多くの発表が行われ、
ますます充実したものになっている。こうした研究成果についても単
に発表にとどまらずに、全国の国立療養所の日常の臨床の場に積極的
に還元されることを希望したい。
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第5章 行政のあゆみ 75
々
国立療養所における重心病床の設置状況
鬪顫名
施設名
病鰍
都逍府豺
施設名
病咏ミ数
都道府豺
施設名
卯咾
北海道
青 森
岩 手
宮 城
秋 田
山 形
福 島
茨 城
栃 木
群 馬
埼 玉
千 葉
神奈川
新 潟
長 野
帯 広
小 樽
美 幌
八 雲
岩 木
八 戸
岩 手
釜 石
南花巻
宮 城
西多賀
秋 田
山 形
米 沢
福 島
翠ヶ丘
晴嵐荘
束宇都宮
足 利
西群馬
東埼玉
千葉東
下志津
神奈川
新 潟
西新潟
犀 潟
東長野
束松本
120
120
40
120
80
80
120
80
80
120
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120
80
120
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120
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80
120
120
120
80
120
80
120
80
山 梨
富 山
石 川
岐 阜
静 岡
愛 知
三 重
滋 賀
福 井
京 都
兵 庫
奈 良
和歌山
島 根
岡 山
広 島
小 諸
西甲府
北 陸
富 山
石 川
七 尾
医 王
長 良
天 竜
静岡束
富 士
中 部
東粘!謾
豊橋東
静 澄
鈴 鹿
紫香楽
福 井
北 潟
南京都
兵庫中央
青野原
西奈良
松籟荘
和歌山
松 江
南岡山
賀 茂
原
80
120
40
160
40
40
80
120
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160
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40
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鳥 取
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徳 島
香 川
愛 媛
高 知
福 岡
佐 賀
長 崎
熊 本
大 分
宮 崎
鹿児島
沖 縄
東 京
合 計
西鳥取
山陽荘
柳 井
東徳島
刪削便
愛 媛
南愛媛
東高知
福岡東
南福岡
大牟田
束佐賀
肥 前
長 崎
再春荘
菊 池
西別府
宮 崎
日 南
南九州
琉 球
III傀抻・啀丿
武 蔵
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160
120
80
160
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160
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120
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120
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16C
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76 第1編 四半世紀の回想
国立療養所に
おける筋ジス病床の設置状況
郎道府県名
施 設 名
病床数
北 海 道
,? 森
穴 城
秋 目|
埼 |ミ
T一 低
抻 余 川
新 潟
石 川
岐 lい一
三 収
京 部
人 阪
兵 庫
余 良
鳥 根
広 島
徳 鳥
福 鳥
長 崎
熊 本
人 分
宿 崎
鹿 児 島
沖 縄
東 京
介 計
道 北
八 雲
岩 木
西 多 賀
道 川
東 埼 玉
ド 志 津
箱 根
新 潟
医 王
長 良
鈴 鹿
宇 多 野
刀 根 山
兵 庫 中 央
四 奈 良
松 汪
原
徳 島
筑 後
川 棚
吋 春 荘
西 別 府
営 崎 東
南 九 州
沖 縄
旧立拮か神経センター
武 蔵
27 施 設
40
120
80
160
40
160
140
80
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80
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80
80
80
40
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80
80
2,500
第5章 行政のあゆみ 77
-−
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第2編
治療および
研究のあゆみ
lj耳
/
4●
1
研究全般
重症心身障害児(者)
国立療餐所西鳥取病院副院長 吉野邦夫
はじめに
重症心身障害児者(以下T収心児と略)は元来、既存の精薄施設や肢
体不自山施設では療育V難で、かっ一般医療でも十分対応できない、
谷問にいた重度の重複障害児の一群であった。その内容とする精神遅
滞や連動障害、てんかんなどはそれぞれの分野で多年の研究や診療の
歴史があったが、改めてこの困難な一群に熊点をあてて医療や教育、
訓練を始めようとした時、きわめて準備不足でいわば手探りで始めら
れたとaつてよい。従って重心の研究も一部の先駆者や研究者を除き、
十分な研究体制や学問的意識があったわけではない。 20年を経た今日、
夥しい研究成果が重られてきたが、これはひとり国立療養所の成果と
いうよりも、大学病院、研究機関、公法人立重心施設あるいは関連施
設などの協力、援助や交流の結果であり、国立療養所としてはやっと
今日全国規模で研究を支えていく体制が、質的量的に整いつつある。
そこで、ここではこうした研究の今日的地点を概観したい。
(1)疫学、成因
重心児の発生率は、定義や対象年齢、資料源など研究方法により、
違った数値があげられている。小児を対象とした岡山の調査では0.99/
1000人、横浜は0.77、鹿児島で0.69、東京で0.68としている。他方、
全人口を対象にした場合、愛知で0.25、鳥取も0.24としている。小児
第1章 重症心身障害児(者) 81
では概ね0.7〜0.9/1000人程度と思われるが、40歳以卜。の年長重心者が
少ないことで全人口比が低いと考えられる。
成因や基礎疾患は多様であり、これを出生前一周生期一周生後一不
明に分けて入所者の成因をみると、昭和54年で27.4 − 39 。7 − 28 。0-4.9
%、昭和61年で25.7―41.5―27.9 ―4.9%が報告されている。これまで
原因の最主要のものは周産期障害であることを示している。周産期医
療や小児医療の進歩でたとえば核黄疸の激減と低出生体重児の生存、
あるいは中枢感染症の減少や急性脳症の生存、レッド症候群や新しい
代謝疾患など診断能力の向上などで、重心に限らず障害児の成因は変
化してきているが、在宅障害児が多い今日、十分な実態報告はなされ
ていない。
(2)病理学的研究
重心児の脳病理学的研究は多くの報告があるが、ことに室伏、森松
の精力的な研究が特筆される。脳病理所見は、萎縮病変、嚢胞病変、
奇形病変、変性病変に大別され、それぞれの成因から病的プロセス、
病理的特性、臨床との関連が検討されてきた。さらに最近は、脳特異
蛋白やシナプス発達など新たな技法を用いて、病理病態に迫る試みが
なされている。
また一般病理としては、死因となる呼吸器感染や消化管出血などの
ほかに、心奇形、腎奇形、腸回転異常、巨大結腸、性器異常、また内
蔵や内分泌腺の萎縮が報告されている。
重心の年長化に伴ない、悪性腫瘍や成人病の併発、あるいは老人性
変化も話題にあがっている。
病理学的研究は重心の医学的研究の根幹をなすもので、今後もさら
に研究の発展が期待されるが、反面どこでも容易に検査できるわけで
はなく、貴重な症例が十分な検索をされないこともある。このことか
ら重心施設と病理検査が可能な機関とのネットワークづくりが求めら△082れている。
(3)臨床的研究
朮心児の臨床的研究は、多方面にわたって多数の研究報告がある。
重心でもっとも問題となるてんかんや感染、療育訓練、あるいは食事
や便秘などの看謾上の研究については別項にゆずる。
3-1 神経学的研究
収心児の運動麻痺や脳神経幀域の異常などの古典的神経徴候をまと
めた研究が散見されるが、この分野の研究は概して少ない。病理所児
との対応を検討した報告が初期にはあるが、扱近はCTやMRI、あ
るいは電気生理学的検査との相対を検討したものが多い。 ABRや眼
輪筋反射は病巣診断のみでなく、重症度の補助的意昧で頻用される。
垂心児の手もみ動作や常同行為などの行動に注目した研究も2〜3
みられる。
重心児の臨床経過を追跡し、しだいに機能低下する例を重度化因子
や退行の視点で検討した報告があるo癡育や合併症とくにてんかん、
あるいは薬物が関与することが多いo
3―2 呼吸機能
重心児の呼吸機能の異常は生命予後にも影響する重要なテーマで、
これまで多くの研究報告があるoこの問題は慢性炎症や狭窄、痙性や
胸郛変形によ第1亶 重症心身障害児(者) 83
J
られている。
3−3 嚥下機能および消化器障害
嚥下障害も重要なテーマとして研究報告がなされている。レ線学的
方法やさらにビデオの併用により、誤嚥の診断、嚥下連動(過程)の
異常、食物形態や体位との関係、空気嚥下など、詳細な検討がすすめ
られている。
消化器の障害は嘔吐、吐血がもっとも多く、食道下部〜胃のびらん、
潰瘍、胃食道逆流現象、横隔膜裂孔ヘルニア、呑気などが証明される。
下部消化管の問題としては便秘やイレウスがあり、消化管回旋位置異
常や巨大結腸、蠕動低下などが見出される。それぞれに薬物や看護的
対応あるいは外科的治療がおこなわれるが、重心の消化器障害として
その病態解明や整理がまだ十分とは言い難い。
3-4 循環器、自律神経
重心児の心機能を検討した報告は少ないが、25%に心電図異常があ
るとする報告がある。
自律神経検査として、心拍数変動、R-R間隔、起立負荷による血圧
や脳血流量変化、皮膚温調節などの研究があり、臨床的な病態把握や
日常生活への応用が志向されている。
3−5 栄養および生化学的研究
重心児の栄養学的研究は、重要なテーマでありながらも研究報告は
多くない。必要カロリーを年齢、体格、移動度から算定することは基
本的に同意されながらも、栄養学的評価がまだ十分検討されていない。
重心に多い貧血から血清鉄、フェリチンの検討や、血清蛋白ことに
レチノール結合蛋白を栄養の指標とする研究がある。また、経鼻栄養
のなかに銅欠乏から免疫異常をおこす報告があり、注目されている。
内分泌の研究には、性ホルモンや成長ホルモンの分泌異常の報告や、
甲状腺ホルモンに関する研究がある。
重心児の基礎疾患としての代謝異常に関して、診断、治療、病態生
84 第2編 治療及び研究のあゆみ
化学的研究が散見される。時代とともに内容も豊富かつ多彩になり、
人学や研究機関の専門家との交流がより一層活発になると思われる。
3-6 その他
・拓tこ、児の病的骨折やクル病、骨軟化に関連し、MD法による評価診
断や、活性ビタミンDによる治療が報告されている。
尿路系感染も日常よくみられる合併症で、残尿、膀胱一尿管逆流な
どが検討されている。尿NAGが重心児では高頻度に高いとする報告
がある。
垂心児の歯科学的研究も重要な課題で、う歯、歯周囲炎、咬合不全、
顏泊i口腔形成異常などの種々の病態と基礎疾患、病態生理、日常生活
能、薬物などとの関連や、治療指針が詳細に検討されてきている。
(4)死亡原因
収心児の死亡率についてはまだ詳細な研究はない。最近の国立療養
所に入院中の垂心児の死亡率調査では、年平均3%の数値が報告され
ている。男女比ではやや男性に高く、10〜15歳、ついで5〜10歳で高
し丶とし`うO
入院患者に比較して、在宅の死亡率が高いとする報告も見られる。
感染、誤嚥一窒息、消化管出血、心不全が主要な死亡原因としてあ
げられ、またけいれん重積も報告されている。窒息の中には突然死が
含まれており、検討すべき重要な問題である。また最近は気管切開後
の気管出血や年長者の悪性腫瘍も報告され、新たな課題を投げかけて
いる。
またアテトーゼ患者では特有の重篤な入所後反応が知られている。
心理的契機から高熱を発して死亡するとされているが、詳細なメカニ
ズムは不|リjである。
おわりに
第1章 重症心身障害児(者) 85
重心の医学的研究の現状を概観したが、いまだ未解決の問題が山杖
みの状態と言える。
重心の研究は、用語上の混乱や基礎疾患が異なること、対象課題が
多様で多岐にわたることなどから、かつては単発的であったり表層的‘
であったりしたが、20年の歴史の中でしだいに本格的で体系化の方向
に向かいつつある。研究者のネットワーク作りや研究システムが進み、
その医学的成果が重心児の医療福祉に十分役立てられることを期待し
たい。(紙面の都合により文献は省略したが、脳と発達、重症心身障害
研究会誌、厚生省心身障害研究報告書、厚生省精神・神経研究委託費
(三吉野班)報告書、江草安彦「重度・重複障害療育の基礎」(中央法
規出版)、国立療養所課監修「重症心身障害ハンドブック」(社会保険
出版社)、岡田喜篤「重度・重症心身障害」(臨床心理学大系、金子書
房)を参考にした。
86 第2緇 治療及び研究のあゆみ
2 薬物療法
国立療善所静岡東病院
国立療餐所静岡東病院長
之 一
克昌
島野
福清
(1)重障児がてんかんを重複する頻度
収症心身障害児・者(以下、J重障児)の中に占めるてんかんの出現
頻度は報告によって異なるが、42.2% (浜本ら、1969)、61.0%(長畑
ら、1975)、63%(国立療養所静岡東病院)にわたる。いずれも一般人
川での有病率(約1%)に比べて著しく高率である。
引;Q児の枠組みは処遇llの困難度から定められた行政上の概念であ
るから、その背景には脳性麻痺をはじめ、脳炎・脳症の後遺症状態、
染色体異常、先天性代謝異常などの様々な基礎疾患を持つ患児が含ま
れている。重症度による一眼障児の分類からみると、合併するてんかん
の頻度は、。取障児が高いI型とII型において高く、アテトーゼ型の脳
性まひが口夲をなすVやでは低い(表I)。
(表1)重症度分類とてんかんの合併率(国立療養所静岡東病院、1987.11)
爪症度分類 症例数 てんかんを合併するてんかんを合併しない
り・‘ り・・ n・.‘ り・・
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j・ 拜’1・ 1’
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I I−−晶 I
介計
7 Qり {}D n乙
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147
68 (70%)
20 (60%)
4(26%)
1 (50%)
93 (63%)
29 (30%)
13 (40%)
11 (74%)
1(50%)
54 (37%)
第1章 重症心身障害児(者) 87
(2)てんかん類型
国立療養所静岡束病院に入院中の重障児147名のうち、てんかん発作
を有する93名のてんかん類型をみると、続発生全般てんかんが74名(約
80%)を占めている。脳波に遅い棘徐波を示し、現在もしくは過去に
複数の発作型が同時に存在していたレンノックス・カストー症候群の
範疇にはいる症例は4例である。
(3)重障児の抗てんかん薬治療
重障児では抗てんかん薬の血中濃度/投与量比が一般てんかん患者
と異なり、・個人差が大きい。かつ副作用を訴えることができないため
に、より有効でより副作用の少ない抗てんかん薬治療を行うために、
血中濃度の測定は重要である。
当初は、多剤併用治療が主体をなし、抗てんかん薬はフェノバルビ
タール、フェニトイン、プリミドン、プロミナール、アセタゾールア
ミド、カルバマゼピン、バルプロ酸、ジアゼパム、クロナゼパム、ス
ルチアム等の薬剤のいずれか数種が併用されていた。そのために薬剤
間の相互作用により、個々の薬剤が有効血中濃度に達しにくいのみな
らず、副作用ばかりが強く表われていた症例も稀ではなかった。
てんかん発作を有する重障児93名のうち、68名(73%)は発作型診
断に基づいた抗てんかん薬の調整により発作がほぼ抑制されてきた症
例である。抑制された発作型は、全般性強直間代発作が最も多く、そ
の他には非定型欠神発作、一部の全般性強直発作、焦点運動発作、二
次性全般化けいれんであった。
(4)難治てんかんについて
厚生省の「重症心身障害児におけるてんかんの診断と治療に関する
共同研究」(1982、-1984) "によると、参加8施設に入院している合計
866名(1982)の重障児のうち、長期の抗てんかん薬治療にもかかわら
88 第2緇 治療及び研究のあゆみ
L_
(表2)重症度分類と難治てんかん(厚生省心身障害共同研究、1982)
I 型 II 型 V 型 IV 型 計
抻継学的障害
檳抻遅滞
てんかん類型
統発性令般てんかん
レンノ ックス症侯俳
部分てんかん
分類不能てんかん
計
酊乂 ‥支
1 1
爪暇
O【`.` 9】9】
4
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中等度 重 度 中等度
重 度 中等度 中等度
8 1 2 1
1 n/ム
42
n/″ n/` O O
4
n0 0乙 1 0
11
QU O
`kU Qり
・」D `j
106
ずてんかん発作が抑制されていない症例数は計106例(12.2%)、・うち
ほぽ半数のものが1歳以下にてんかんを発病していた(表2)。
以上から、重障児の約半数に何らかのてんかんが重複し、そのほぽ
5分の1がいわゆる難治てんかんに属するものとみなされる。これら
の難治症例が示す発作型は、全般性強直発作が最も多く(68%)、つい
で全般性強直間代発作(35%)、失立発作(11%)、ミオクロニー発作
(10%)の順であった。欠神発作(5%)と複雑部分発作(4%)はき
わめて少ない。発作症状を確認し難いためであろう。
(5)重障児のてんかん治療の現状
これらの難治てんかん症例はすべて多剤併用治療の下にあったが、
その血中濃度をみると、バルプロ酸とカルバマゼピンについてはほぼ
半数が至適濃度に達しておらず、その傾向はフェニトインではとくに
著しく、治療有効濃度は下限値に達していない症例は全体の4分の3
近くにのぽっていた。他方、フェノバルビタールはこれと逆の傾向を
示し、中毒症状の発現濃度を越えている症例は全体の3分の1を占め
てし丶y;こ1'‘1)O
-
第1章 重症心身障害児(者) 89
これら難治てんかん症例に対する抗てんかん薬の投与量は的確に設
定されておらず、多くは至適血濃度に達しておらず、フェノバルビタ
ールだけが過剰投与されていたものと言える1.4’。
とくに寝たきり重障児では、てんかん発作に酷似するがてんかん性
ではない疑似発作との鑑別が問題となり、発作時の状況を把握するこ
とが大切である。驚愕反射(ミオクロニー発作や短い強直発作に類
似)、連合反応(強直発作に類似)やアテトーゼ等の不随意運動(自動
症ときには強直発作に類似)は睡眠時には見られず、なんらかの行動
を始めようとする緊張時に発現しやすい。このような非てんかん性の
不随意運動がてんかん発作と見誤られて、多量の抗てんかん薬が投与
されている場合も稀ではない。
またこれとは逆に、真のてんかん発作が疑似発作と見誤られている
場合も少なくない。睡眠中の軽い強直発作が「夜泣き」と見なされ、
非定型欠神発作が注意集中困難・不活発として見過ごされ、強直発作
の重積が「つっぱり」と見誤られ、失立発作が運動まひによって単な
る転倒と見なされていた場合などもある2)。
この際には、多剤併用治療を整理し単剤治療に切換えることによっ
て過度の鎮静状態から開放され、疑似発作が軽減・消失する場合が多
い。重障児のてんかん薬物治療の際に留意すべき問題である。
(6)重障児のてんかん医療への提言
重障児の中のてんかんの出現率はおよそ50%と兄なされ、精神遅滞
児に比べてさらに高率である。そのうち難治てんかんは約5分の1を
占め、続発生全般てんかんが主体をなす。重障児の重症度が著しいほ
ど難治てんかんの占める割合が高くなる。医療・看護・療育・機能訓
練上の困難度は著しく加重されるから、人員配置へのさらなる配慮が
望まれる。
これら難治てんかんの薬物治療は必ずしも的確に行われているとは
90 第2編 治療及び研究のあゆみ
・丶
XJ
兄なし難い。 しかし問題点に気付き薬物選択と投与量を見直したとこ
ろ、たとえば収症度が高い児であってもてんかん発作は改善されるこ
とが多い(表3)。
(表3)重障度分類と難治てんかん(国立療養所静岡東病院、1987.11)
引;Q度分類 てんかん合・併例 難治例 発作の改善例
り..り..り‘.リ・・
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68
また収障児では真のてんかん発作と疑似発作との鑑別診断が問題と
なる。医帥・行護者・脳波検査技師に研修の機会を設けることが望ま
れる。
てんかん発作が抑制されると、児の問題行動、たとえば、不機嫌、
注意集中困難、易怒性、多動などが改善される場合がしばしばみられ
る。療育・教育職を含めた研修活動をすすめる必要がある。
参考文献
1)藤原建胼、宮腰稚子、第1章 重症心身障害児(者) 91
o
発作予後を中心にして。第39回国立病院療養所総合医学会。抄録。
3220
4)宮越雅子、掛川紀夫、鷲坂昌史、清野昌一(1981) >1(症心身陣害児の抗
てんかん薬治療一血中濃度測定−。昭和55年度厚生省心身障害研究報
告、40-44-
92 第2編 治療及び研究のあゆみ
3 感染・.予防
国立療餐所長崎病院馬 場 輝美子
収症心身障害児(以ド「重障児」と略す)は健康小児に比べて感染
に罹患しやすく、また重篤になりやすいことはよく知られている。戦
後の医学史の中にあって感染と予防に関する進歩は非常にめざましく、
現在は人方の感染症に対しての治療と予防は確立されているとはいえ
ども、これまでは感染と予防との職いであったと言っても過言ではな
い。収障児医療においても、まずは感染に対する治療と予防対策で費
やされている。そこで、この20年の歴史の中で、先輩諸兄らがなして
きた研究の足跡を振りかえってみたいと思う。 しかし、残念ながら私
の手元には厚生省心身障害研究報告書は昭和53年以降しかないので、
この12年間について述べてみたいと思う。
まず、感染と予防に関する課題をみると、大きく7つに分けられる。
即ち、I)重心棟の溶連摎トブ菌’緑膿菌について、II)重障児のイ
ンフルエンザ・ワクチン接種・HB抗原の伝播について、IH)重心棟
の感染症流行について、IV)重障児の易感染性と免疫について、V)反
復性慢性気管支炎について、VI)尿路感染症について、VII) HB肝炎
についてであり、以下それぞれについて述べる。
まず、I)について、昭和50〜53年の山陽荘病院からの研究では、
重障児の咽喉ぬぐい液をくりかえし培養し、溶連菌・ブ薗・緑膿菌の
追跡をしている。これらの菌は消長変化ないし菌交代現象が著しいた
め、外部からの菌の侵入阻止対策をすべきといっている。更に、重障
児の緑膿菌の保有率は高く、年々増加の傾向にあり、特に、慢性気管
第1章 重症心身障害児(者) 93
支炎・植物人間状態では連続分離される確率が高く、予防対策として
専用器具にすべきとしている。現在の医療では当り前の如くなってい
るが、私白身、重心棟には何故こんなに緑膿菌が多いのかとびっくり
したものである。
II)について、まず、昭和50年小樽病院で麻疹ワクチン接種による
抗体価の変動と体液性免疫と細胞性免疫の経時的変化を比較し、免疫
獲得が確認された。さらに、昭和47年より昭和57年まで西別府から11
南病院と引きっづき大々的に研究されている。即ち、インフルエンザ
ワクチンは体重相当の接種量を決め、1週間隔で2回接種、その後、
1ヶ月毎に抗体価測定し、その結果アルミ沈降ワクチンより水性ワク
チンの方が抗体価の上昇は良好で副作用も殆ど認められなかった。さ
らに、その後、接種回数を3回にすることによってブースタ効果を期
待したところ、抗体価上昇はより効果的で、また持続期間も長く、服
障児のワクチン接種は危険も少なく、効果的であるとしている。HB
ウィルスについては、毎年水平感染が増すということに注目して、そ
の伝播経路の調査をし、その結果、唾液の媒介によって感染しやすい
ことを証明している。即ち、唾液への血液混入によることが原因で、
Carrierの患児の唾液ではHBs抗体は31%を認め、唾液の潜血(十)
では73.5%、(−)では12.9%の陽性率であった。そして、唾液のとり
あつがを考慮することによって、その後の病棟での水平感染はみな
かったという。
V)重心棟の感染症の流行と予防対策についてII)と多少重なるが、
昭和52年より南福岡病院で数年間精力的に検討されている。インフル
J二。ンザでは昭和46年の流行時、2例の死亡を経験したことから、毎年
インフルJ二。ンザワクチンを接種することによって、その後大きな流行
発生をみないという。また麻疹゜風疹’ムンプスも同様にワクチン接
種を行い、発生を全くみず、風疹抗体は7年間、麻疹抗体は5年間追
跡し、抗体価持続は良好であったという。昭和51年再春荘病院から流
94 第2編 治療及び研究のあゆみ
iit
行性耳ド腺炎、陽性腸炎、嘔吐゜下痢を伴うかぜ症候群、伝染性膿痂
疹、かせ症峡胖、麻疹、水痘の流行状況について報告している。感染
源は職a・而会者’外泊者のいずれかが病・陳に運んでおり、予防及び
軽症に経過するためには感染源の撲滅、感染経路の遮|析、個体の抵抗
力の増強が人切であるとしている。昭和59年の神奈川リハビリテーシ
ョン病院からの報告では施設内感染流行にHemophilia influenzaと
Oppo tunislic infection (いわゆる[l和見感染]である緑膿薗について
は興味深く解説しで`る。即ち、インフルエンザ薗は慢性呼吸感染症・
中耳炎・副鼻腔炎などの起炎菌で、慢性化する傾向があり、適切な抗
生物質により一時軽快しても投り・を中|llすると再発する例が多い。ま
た、慢性化する症例には緑膿菌感染症‘`移行する傾向か強いとし、施
設内調査でこれを報告して9る。その予防対策としては6つの方法で
実施しており、特に根本的には川路の清浄化にあるとし、日常の医学
的配慮として漢方薬療法をとり入れているという。
IV)さて、利昭兜の服症化に易感染性があり免疫と伴って昭和50年
頃より数多く報告されている。昭和50年南九州病院からBCG接種後
の経年的ツ反とlf11清免疫グ゜プリンと風疹抗体を測定し、重症児の細
胞性免疫機能は11五常と思われると個測している。その後、昭和53〜55
年に長崎病院からの報告では、好中球機能検査をChemiluminescen-
ce、NBT遠元能、Phagocytosis、免疫グロブリンについて検討して
いる。即ち、易感染児や感染罹患時異常値がみられたが、炎症刺激に
対する顆粒球付着能と走化能では直接の関係が見出せなかったとして
いる。昭和53年、54年原病院より発熱と免疫グロブリンについて、さ
らに補体の免疫反応であるC3、C,を測定し、補体活性化に障害がある
ことを示唆している。昭和55年山陽荘病院からは免疫グロブリンと自
律神経機能の関係で、免疫グロブリン値は一般に高値を示し、副交感
神経緊張亢進を示す者が多かったとしている。千葉束病院では発熱状
態と罹患傾向について検討。また、昭和59〜61年に下志津病院より免
第1章 重症心身障害児(者) 95
疫グロブリン値、末梢リンパ球のE-rosette形成率、s-lg保イf細胞
数、リンパ球幼若化反応、好中球遊走能、T-Cellサブセット及び遅延
反応について検討され、その結果、これまで報告されているのと同様
に、重障児での個体免疫反応は正常に保たれていると結論している。
V)重障児はよく呼吸感染症に罹患しやすく、また重症化する。そ
こで、昭和51年より5年間にわたって下志津病院より重障児のえん下
障害から始まって、反復性慢性気管支炎について検討されている。即
ち、咽頭食道造影によって気管・気管支吸引が高率にみられ、そのた
めに反復性気管支炎を生じやすく、細菌学的には緑膿菌が最も多く、
次いでクレブジェラであり、いわゆる日和見感染が過半数を占め。特
に、経管栄養児に緑膿菌検出率が高いといっている。
VI)発熱の一原因である尿路感染症については、昭和53年より千葉
東病院より長期にわたり、こつこつと追跡検討されている。尿培養に
始まり、発熱との関係で尿路感染症は1/3を占めると、そして膀胱造影
で残尿像を86%に認め、その予防対策として、陰部の清潔、十分な水
分摂取、用手圧迫排尿、反復例には予防投薬が必要であるとしている。
また、潜在性慢性尿路感染症の検出目的のため尿中NAG測定をした
ところ、抗痙変剤投与群に高値を示すという興味ある結果を得ており、
更に今後期待する。
VII)最後に昭和62年に障害児施設におけるB型肝炎等感染症の取り
扱いに関する研究が報告されている。これまで数多くのB型肝炎につ
いての報告はあるが、施設全般に大々的に実態調査をしたものはなく、
この研究によりかなり確立されていくものと思われる。
以上のように、重心棟を担当する医師達によって、時には精力的に、
時にはこつこつと重障児に対する感染・予防の研究がなされてきた。
今回、この12年間の報告書に目を通してみて、自分が知りたいと思っ
ていた問題の解答がたくさんなされており、改めて頭の下がる思いが
した。今後こうした研究成果が埋もれることなく、重障児の医療に役
96 第2編 治療及び研究のあゆみ
丶●●
μ
立てるよう、現在の収心肺担当医及び後輩の人達がこれらの報告書を
大いに活川されることを切望致します。
第1章 重症心身障害児(者) 97
-●●
4 看護一般
国立療餐所下志津病院名誉所畏森
国立療餐所下志津病院赤 松 ひで
夫
制子
j」
重心療育施設の看護に関して
重心療育施設の看護に関する研究をまとめるに際し、そのテーマの
重大さを考え、先達の膨大な努力の集積の、ごく一部の記録として残
されている、「国立病院・国立療養所総合医学会講演抄録集」に目を通
すとき、それらの研究成果をまとめ、現場に生かす必要性を、より一
層痛感した。
しかし、各種看護関係学会等の資料の収集、分析調査等を考えると、
責任をもった対応は不可能と判断し、テーマから外れ、編集の目的に
添うものとは成り得ないと思うが、総合医学会の内容を中心に、その
概要を述べたいと思う。
(1)総合医学会重心関係の講演演題に関して
国療下志津病院において重心児収容が始まったのは、年度末も近い
昭和42年2月末で、国療他施設もほぽその前後から50年ころにかけて
開設されている。 42年秋の第22回総合医学会において、はやくもリハ
ビリテーション分科会に、重心関係一般演題11題が兄られ、その中で
看護に関係すると思われるものが6題(収容・看護経験に関する2題、
病棟の勤務・業務に関する2題、食事関係2題)の記録が残っている。
「重症心身障害ハンドブック」(社会保険出版社刊)の「重症心身障
98 第2緇 治療及び研究のあゆみ
L
害児療介の幡史(初代島叩束:育園長・小林先生執筆)」の中で「開設国
立施設においては、試行跡誤の嘆きが聞かれ。これではならじと、島
川療介園を職れの養成研修の場として提供した」と述べている。
現をも、ド志津病院の収心病陳職輿として活躍している当時からの
人の話でも、数名の看護婦が島|||療育園で2週1剖の研修を受けた後、
週に1名ずつの患者を受け入れ、家族から、家庭での子供の健康面1
日常生活・行動範I川・障害の程度・保=青・介護方法などについて情報
を得ながら、次の患者を受け入れていったという。
当時の試行錯誤状態の中で、一一日も早く:重心児の療育看護技術を身
につけようと懸命に努力された様子が偲ばれる。その意欲が、開設早々
の次年度の学会発表をもたらしたので、その内容も、重心児の入院生
活で最も重要であり、恭本的な看護業務でもある食事介釛他、当面的
な演越がみられることは、`li然のことと思われる。
この食’抔介釛ないし訓練関係の演題は、22回(42年)〜43回(63年)
の総合医学会演題の収心関係石護部門(看護婦発表と思われるもの)
のトータルで最も多く、近年特に多く兄られる。ともすれば慣れにし
たがって単調になると思われがちな介助作業が、実は重心児にとって
は、蛾も重要な生活のかたちであり、人との触れ合い(人問関係)で
あり、反応(発達の11j°能性)を感じ取らしめる場であることを考えれ
ば、また当然の現象だとaえよう。
看護部門演題の年代別特徴をみると、
40年代は、食事・排泄・陂服工夫・看護一般等が多く見られる。
50年代には、新たに異常行動に関するものが加わり、54年には養護
学校の義務化に伴い、新たに教育と療育に関する問題が、またAD L
に関するものがみられる。
60年代では、家族関係・年長化に関するものが多くみられるように
なった。
令期間を通し、垂心関係看護部門(看護婦発表とみられるもの)の発
第1章 重症心身障害児(者) 99
表数は、600題近くを数え、その他シンポジウム、看護共同研究班の発
表など数多く発表されている。
演題のテーマを、分類に問題はあるが、具体的に多い順にあげてみ
ると、
食事介助ないし摂食(離乳含む)訓練、排泄訓練、看護(ADL)、
疾患別看護例、看護方法、家族への働きかけ、川具の工夫、異常行動、
感染症、経管栄養、川腔清拭、便秘、陂服のJI人、動く収心児、自傷
行為、業務の検討(タイムスタデー含む)、義務教介、栄養(所要量・
バランス)、摂食訓練(川唇マッサージ)、病棟温度環境、乍理的発達、
睡眠、看護(反応の乏しい児)、看護体制、記録、療育キャンプ、環境
変化、呼吸訓練、生活指導、抑制法、流涎対策、療育評価、おむつ(か
ぶれ対策を含む)、拒食、発達関係、発熱、病棟構造、訪問指導、防災
訓練、異食行動、外泊、勤務体系、検温、腰痛関係、事故、臭気、身
体測定、成人化、体位交換、[1光浴、病棟管理、歩行訓練、浴榊、そ
の他、看護相談、患者の受け入れ、言語訓練、与薬等々非常に多岐に
わたっている。
この多様性は日常普段の看護業務の多様性を反映したものとjえよ
う。
また基本的には、一般患者の看護でも同じことが言えるが、収心児
の看護では特に患児個々の症状に適合した介釛・指導・看護が必要で、
その多様性が、食事関係など同一演題の多さに現れるものと思われる。
(2)重心看護研究のまとめと研究成果の生かし方について
重心看護研究については、上記の総合医学会をはじめ各種の学会、
院内の発表会等に発表されている。記録の収集は困難を思わせるが、
いずれにせよ、看護研究の内容については、重心児収容施設のベテラ
ン看護婦構成の研究班によって、それも相当長期にわたる時問をかけ
てでも、調査分析を行い、まとめて頂きたい。
100 第2編 治療及び研究のあゆみ
具体的には「、我症心身障害ハンドブック」が51年に、「重症心身障害
児療介ハンドブック」(社会flt1険出版社刊)が59年に発刊され、又各施
芯:毎の「収症心身障害児(者匚看護マニュアル)等に研究成果は生か
されているとおもうが、より一層の充実を願うものである。
怛、にして、62年度から厚生省児童家庭局障害福祉課所管・心身障
害研究班に石・護部門も加わり、昭和63年から本格的に動き出して、現
在「重症心身障害児(者)行護マニュアル」の見直しについて(年長
者への対応を含めて)検討し、より良い「看護マニュアル」作りを目
指しており、大いに期待されるところである。
(3)看護研究発表の意義について
繁雑にして多・忙な、日常の看護業務の中で看護研究を行うことは、
大変なことである。
しかし文字通り日進月歩の、医療の進歩の中で、医療チームの一員
として、看護職員もその責任を果たさなければならない。
他の診療部門に比べれば、重心医療は日も浅く、加えて難病疾患で
ある。
他の職種とよく協力すると共に、療育での看護婦の果たす役割を自
党し、看護の質の向上、特に専門知識を深めると共に、看護の立場か
らの療育技術の向上に努めることは、業務の一部であり、多忙を理由
に放棄してよいものではない。
知識技術の向上のために、日常の業務遂行に研究を組み込むことは
有効な方法であり、看護技術を科学として発展させる上で、必要なこ
とと考える。また、この研究結果を適当な場に発表することは、仕事
に励みを持たせる重要な役割を果たしていると思う。
国立病院・国立療養所総合医学会が、この発表の場として果たして
きた役割は、実に大きなものがあったと思われる。
第1章 重症心身障害児(者)101
(4)看護マニュアルについて
重心関係の療育を進めてゆく上で、看護部としての問題の一つに、
看護職員の配置の問題がある。各職種ともに新任者の配置に当っては、
それなりの研修が年度当初に行われているが、看護部の場合、職員数
も多く、健康管理、処遇の公平、中途退職の発生等の管理運営上の理
由から、他職種に比し、中途における勤務交代が多くなる。この場合、
重心看護の経験者が、必ずしも配置されるわけではなく、重心療育に
ついての専門的研修の必要性が、高くなる。
主として病棟婦長および先任職員が担当するが、研修内容に落ちが
あっては事故の発生につながりかねない。これを防止する上で、前述
の「ハンドブック」「マニュアル」に基づき進めることが大切である。
また時々は、職場において自分たちが充実させた、「マニュアル」等を
中心に検討会等を行うことは、看護の質の向上、および事故防止の上
で有効なことと思われる。
102 第2編 治療及び研究のあゆみ
−J.
5 生活指導と教育
国立療養所再卷荘病院高 橋 美登利
生活指導や救育担当職員として各施設とも開設当初から指導員、保
ほが配;;Qされていたが初期にはほとんど生活介助に追われ、わずかな
時間を利川して少数の児にだっこや歌、お話をしたりしていたのが実
状であった。
しかし、`li l刀の混乱が一応落ち着くと、医療のみの場ではなくて生
活の場でもあると・考え、ベッドから床へ、床から戸外へと生活の場を
広げ、同時に人間としての発達の芽を求め、援助してゆこうとする試
みが軌道に求りはじめた。多くの施設で、いわゆる゛設定保育″とし
て生活介助以外の関わりを持つ時間を捻出し、こどもをグループに分
けて遊びを舍むさまざまなはたらきかけをしたり、また、食事、排泄、
史衣といった日常生活動作の改善を目標とする生活指導も少しずつ実
施されるようになった。
(1)生活指導
生活指導は個人を対象とし、多くは一定期間の集中的な訓練プログ
ラムを組み、精力的に訓練を行なうので、指導はマンツーマンで行な
うことがほとんどである。従って、訓練対象者の選定や訓練の実際に
は常にマンノ`゛ワーの不足が問題となり、これは現在でも変わらない解
決困難な悩みである。
毎年の総合医学会に生活指導に関する研究は数多く発表され、厚生
術心身障害研究その他にも多くの事例や研究の報告があるが、主な項△103 目について簡単に述べる。
1-1 食事指導
食欲は人間の本質的な欲望であり、排泄や史衣に比べると比戟的と
りかかり易い指導項川である。食傴指導の川的は摂食機能訓練と社会
的な食事作法訓練の二つに人別される。
前者はより基本的な訓練であり、川腔機能の訓練のみでなく姿勢や
呼吸機能も関与する最も服要なものである。摂食機能が未熟で、叭嚥性
〜吸引性肺炎に罹患しやすい児にはチューブ栄養は簡単で安令ではあ
るが、何年経過しても発達は期待出来ず、悪影響も少なくはないので・。
幼少期からの川腔機能訓練が奨められるようになった。朕嚥のある妃
に、口腔ネラトン法は極めて良い訓練法であるとされ、バングード法
の利川も報告されている。また、座位姿勢で食事をすることの利点が
広く知られるようになり、介助困難な児に対する姿勢保持の工夫も多
廴丶。
これに対して、手で食物を口に連ぶことや食器を持つこと、スプー
ンや箸を使うことなどは、ヒトとしての食事動作や作法を訓練するも
のである。
座位をとらせ、手を添えての介助から次第に自立行動の出現を待つ
のであるが、スプーンを持つこと、それを川まで運ぶこと、スプーン
で食物を掬うことの順に困難な課題であり、指導もこの順で|'いI/:を促
してゆくことが必要である。訓練期間は佃人差があり、数力月で、自立
するものから年単位の訓練を要するものまである。重度精薄全盲児で
自立した例を経験している。運動障害があれば補助具を工夫する必要
があI廴最適のものを整えることで自立もしくは改善が可能であるこ
とが多い。手を洗い。あいさつをしてから食事をするなどの、より高
度の課題についてもグループを作って実践され、かなりの成果がある・
また食事場所をベッドでなく、部屋も変えて一定のテーブルにするこ
となどもかなりの施設で実施されるようになっている。
104 第2編 治療及び研究のあゆみ
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1`2 排泄(主として排尿指導)
排泄の自他こは食I』1指導に比べてより人きい熱意と強力な指導が必
変である。
収障児ク)排illl:行効は。@完令介釛A定時誘導Bサインを出すので介
助してトイレで排泄させるCほぼ自立(排泄前にトイレに行くが簡単
なか助か必要)D完令rl、I・:の5つの段階がある。@はおむつ使用、B
@Dぼンツム則ま失敗の程度によりおむつかパンツとなる。
わずかでもふ謡を持つ児ではそれまでの生活がどうであれ、排泄を
意味するコトバを教えることは可能であI圦于告したり、排泄の有無
を職員が尋ねて歙助してトイレにj吏れて行くという形でパンツで生活
するようになる。歙助か最小限で済むように、 トイレの構造や位置の
工人が研究されている。
トイレまでの移動は出来るがトイレでの排泄の意味が理解出来ない
と思われる児に対して、・li初はほとんど排泄時問調査と定時誘導が実
施されていたが、次第にオペラント技法によるトイレットトレーニン
グプグラム適川事例が多くなった。排泄後の即時強化のために排尿
fell機か考案され、良い成績をあげている。
1-3 更衣指導
衣服の杵|厦は運動障害に対する機能訓練の意味もあり、より高いレ
‘^`゛ルの日常生活動作であり、やや軽度の障害児で上肢の随意運動があ
る程度‘11能な児が対象となっている。訓練はより困難であり、長期間
を要するが、社会的な称賛を理解する児にとって自分で更衣が可能と
なっだ時の笑顔は素晴らしい。簡単な下着に足を通すことから教えて
り)くが、動作をきめ細かなステップに分け。順を追9て繰り返し教え
ることが必要である。
1-4 問題行動について
病棟内で`は自傷、他者への傷害をはじめ、物を投げる倒すなどの危
啖を招来する行動、圖棟、異食、奇声、夜間不眠、排泄物を9じる等`
j1ぷ ]廁沮4こ心障jだ肥(j行) 105
さまざまな゛非常識的″な行動が問題視される。
人切なことは、「問題行動」を、行動自体を改めるか制|混すべきもの
と職員が工夫すべきものとに|)く別してとらえることである。 |:lj題行動
の中にも容認i・f能なものではないか、他の行動に転化することが出米
るのではを考えなければならない。こうして、問題が問題でなくなっ
たり、行動自体が消失したりする経験は多い。|川題行動そのものに対
して最近心理リハを合む行動療法が応川されている。問題行動が多い
として、||中ずっと榻つきベッドで過ごさせたり児の自山を抑制した
りすることはあくまで最終的な手段である。
以上、重障児の生活指導のうち代表的な項日について簡単に述べた
が、生活指導の中には病棟内|'nlをめざすものと、生理的なIIモしい機
能の獲得をめざすための指導があること、また、いずれの場介もただ
一入の思いつきや努力では成果があがらず、熱意と愛帖をもって煢職
員が根気強く長い期間続ける必要があることをあらためて強調したい。
(2)教育
2-1 病棟内での教育的関わりについて
前述の設定保育の時間がこれに充てられるわけであるが、当初は通
常の保育|刹と同じような、お話。歌、リズム遊び、散歩、スライド映
写といったものが多かったようである。重度の肢体不自111はあるが言
語を持ち、文字を読解出来る児が混在し、それらの児には言語や文字
を十分に取り入れた保育時問が設定された。意思衣示の補助具を丁大
した事例も多く報告されている。
前言語段階の児に対して、発達段階の詳細な評価と細分化が試みら
れ、次第にはたらきかけも変化している。漠然とした膏〜触刺激やり
ズム遊びも、感党受容や統合、操作、連動との結合など、ねらいを明
確にするようになっている。遊共、教具の工夫はめざましいものがあ
り、やや軽度の障害児には色や形の弁別から、さらにサインとしての
106 第2編 治療及び研究のあゆみ
」
二'卜を歿俳させようとすることもある。
グループ指導で、集団への参力||を[|標とし、指示に従って同じ行動
をとれるまでになった実践報告があり、心理リハの技法を用いて、異
常行動や緊張の軽減をみた事例もある。
もちろんマンパワー不足の悩みは生活指導と同様であり、しかも直
接的な効米が表れ難いllに専門性の問題もあり、担当職員の苦労はな
みなみならぬものがある。さらに、このように実践がなされても、そ
れが&施設の少数例の実践に留まり、すべての施設で実施されること
は少なく、系統的なマニュアルとしてもまだ完成されたものは無い。
今後は発展とともに普遍化を期待したい。
2-2 学校教育について
すべての児敬に学校教育の機会が与えられるとして、昭和54年度か
ら巾障児にも学校教育の門が開かれちょうど10年が経過した。
ほとんどの収障児は養護学校へ入学するが。毎日の授業は病棟から
学校'`、竃下校する通学と、病棟内への訪問教育がある。この区別はそ
の地方の教育行政のありかたにより決められるようで。全般的に、授
業時間は一一人一日2時間を越えないことが原則のようである。ただ、
突際の教師の関わりは訪問通学の差よりも各施設、各学校間の差が大
きい。
異なる組織の職員が同じ児に関わるために医教連携は大きな問題で
あり、病棟内でも|]課が変化し、学令児と学令超過児との差別をどう
したらなくせるかなど真剣な話題であり、教育の効果についてさえも
導入当初は疑問をもつものもあった。
学習内容は54年当初とはかなり異なってきたようである。始まりの
挨拶、季節の歌、簡単な身体運動を導入とすることなどはあまり変わ
らないが、個別の課題授業はかなり工夫され変化している。ごく重度
の児についてみると、触ること、聴くこと、視ることなど感党を使う
ことが上手になり、さらに操作することや比べること、選ぶことの学
第1章 重症心身障害児(者) 107
‘!
y
1
習へ進む。そしてこれを基礎として病棟でのll常乍活動作自体も向上
してゆくようである。 もちろん知的レベルの高い児には相当した学習
課題が設定されている。
病棟サイドからみて羨ましいのは、授業時間のほとんどを・一一-人の教・
師が一人の児に関わっていること、種々の教材、教具が1匸友され製作
されていることで、それだけでも現在の就学年令児は幸福であると思
えてならない。
108 第2緇 治療及び研究のあゆみ
-
6
重症心身障害児病棟医としての
]L5年を振り返って
国立療善所南九州病院畠 中 裕 幸
11肘||推年・5川、=新しい伺1、病陳の開設に伴い、それまでの大学病院
から国・Iyl療養所に御枇話になることになった。
それまでは、収症心身障書児に接したこともなかったのでショック
の連続であった。 7
まず、脳性麻痺を知らなかった。そこで脳性麻痺に関する教科書に
凵を通すことにしたが、書いてあることが1回読んだだけでは理解で
きなかった。何回も読み直したように思う。整形外科的知識も乏しい
ことを嫌というほど昧わった。
そのうち、人院兜が発熱し食事をしなくなると、小児科医であれば
テギキと炮;;’aし平常の状態に速やかに戻すようであった。小児科医
の助けを借りずに自分でやると、意に反し、しばしばより重篤な状態
にさせることがあり慌てることもあった。今でこそ、重症心身障害(以
下重障児と略す)を持つ親の方々や家族の人達と少しは打ち解けて話
せるようになったが、何をどう話せばよいのか当時は皆目わからなか
った。
:収障児や苦悩する親の前では、まったく無力の医者であることを痛
感させられる毎日であった。それでも最初は、大胆にも重障児を゛良
くしよう″と療育のプログラムや方法を考え病棟で実践した。しかし、
これは当然のことながら大それた考えであったから、すぐ壁にぶつか
った。ちょうどこの頃、ボバースが来日し、その講演を聴きに行き感△109
激したりもした。
ある日、乗松院長より小冊子を渡され、「君はこれに書いてある事を知っているか」と言われた。★それは、ボイタの脳障児の早期発見・早期治療の紹介記事であった。その内容は脳性麻痺が治るかのような強烈な印象のものであった。院長より「勉強に行く気があるか」と問われ、迷うことなく「イエス」と答えた。重障児の中核群は脳性麻痺である。その脳性麻痺を減少させることができたら、重障児も減少するに違いないと小躍りした。
厚生省の許しを得て、51年から52年にかけ約半年間、ミュンヘン大学のボイタ先生の早期発見・早期治療に接することができた。今から思うと、ことばが充分ではなかったが私には大変な経験であった。目のウロコがとれた思いとでも言うか、それに国立療養所でもできそうに思えたのがうれしかった。
早速、52年4月より鹿児島市内の保健所や町の乳児健診に参加させてもらった。鹿児島県内の保健所をまわり、乳児健診に従事する人や保健婦に対する講演活動もさせてもらった。この頃の私は、鹿児島において脳性麻痺撲滅運動に立ち上がった主人公のように思い上がっていたのかも知れない。しかし、この思い上がりのエネルギーこそ、マンパワーの不足にも耐え、とにもかくにも今日まで続けられた源のように思う。
これまでに、南九州病院小児神経外来だけでも5,000例の発達障害が来院したことになる。南九州病院で少なくとも1年以上の療育指導を行い、すでに就学年齢に達している児だけでも500例にはなるだろう。これらの早期発見・早期治療活動の結果は、平成元年の総合医学会(仙台)で発表した。
タイミング良く南九州病院において、脳障害の早期発見・早期治療のキャンペーンを始めた頃、鹿児島市立病院周産期センターの活動も盛んになった。当然、ハイリスクベビーは周産期センターに集まり、△010 新生児間の治療が終わったものは、診断目的やリハビリ目的で紹介されることになった。これらは、圧倒的に、生下時体重1,500g以下児が多い。鹿児島において、脳性麻痺の発生は漸減傾向を示す。しかし、依然として脳性麻痺の半数は未熟児より発生する。現在の脳性麻痺児で、両麻痺型が多いのはここに原因があると考えられる。アテトーゼ型はめったにみかけなくなった。新生児医学や周産期医学の進歩の賜物であろう。しかし、
汞障児の発生率の減少は確認できない。重障児の中に占める脳性麻痺の比率は減少していると思う。これは乳幼児死亡率の減少と関連すると思われる。受胎から分娩までの開に、何らかの原因によって収障児となる比率は高まっていると思われる。今後の対策が待たれるところである。
ところで、111Jの批判を防つまでもなく、ボイタ法を始めて12年が過
ぎた。一つの反省期でもあろう。ボイタ法に対する批判は、かいつま
んで.lえば、二つあるように思う。
1.ボイタの姿勢反射による早期診断法はオーバーダイアグノジスにならないか。
2.ボイタ法によって脳性麻痺は治ると嘘をついているのではないか。
の二点に集約されるように思う。小生の経験を踏まえて言えば、「安易に真似るとオーバーダイアグノジスは起こる」である。姿勢反射は、何も脳性麻痺の診1祈法ではないから、このことを子供の両親によく説明すべきである。 2の点も正確には、中枢性協調障害がよくなるとボ
イタはjT I・ つているのである。 しかし、これをほっておくと脳性麻痺に
なる心配ありと言うのだから、中枢性協調障害とは何ぞやという疑問
は残る。この問題は専門的すぎるのでここではこれ以上触れない。
オーバーダイアグノジスも注意しないと起こりうるし、脳性麻痺で
あれば機能改善の余地はあるけれども、完全に治るということはあり
得ないというのが小生の見解である。 しかし、それでも現状ではボイ△111 タ法はなお有川であると考える。その理山は生後1〜2ヵ川からI戸、
ビリが始められる。脳性麻痺と早期確定診断できない場合でも、広く
発達障害の早期発達と捉えると、姿勢反射も非常に打効である。重障
児レベルで言えば、独歩に達せしめるためのリハビリでなく、二次障
害・三次障害(例えば側弯、股関節脱臼、嚥下障害、そしゃく障害、
う歯)の予防には、早期からの取り組みが必要である。事実、これま
で普通の精神科医であれば遭遇しなかったであろう赤ちゃんの筋疾患、
精神薄弱特殊型の赤ん」方、代謝疾患の赤ちゃんなど、早期より異常姿
勢反射を示す。これらの疾患に出会えるようになったのは医師として
は望外の喜びであり、これは、脳性麻痺の早期発兄・早期治療活動の
副産物でもあった。
しかし、将来その子が:服障児に間違いなくなるであろうということ
を親に告げる時は辛い。少産・少死の時代に入って、子供は当然元気
に育つものと思い込んでいる親にとってどんなにショッキングなこと
か。ショックを和らげながら、いかに正確に説明していくか経験だけ
は多少積んだようでも、本ぴjiに若い苦悩する親の精神而を支える存在
になっているのだろうか、またしても自信がぐらついてくる。 しかし、
我々が早期発見・早期治療から関わった親と、16年前重心病棟に収容
した児の親を比べると、明るさが違うように思う。 16年前はこらちも
まだ未熟(今でもまだ未熟だが)だったが、親の方も容易に心を開い
て話をできるという雰囲気ではなかったように思う。最近は、内而的
に強く、外見的には明るい親の方々が多くなったようにも見える。こ
のことは、またこういう活動をする者にとっては大変な喜びである。
これまでの16年間、重心担当医として、幸せな道を歩いてくること
ができたと思う。重障児の存在によって、日常接することにより自分
の内面をいつも見つめさせられてきた。自分の人生の生き方を考えさ
せられてきた。人のおおらかさや優しさの素晴らしさも重障児を通し
て学んだように思う。重障児の医師としては依然として無力である。
112 第2編 治療及び研究のあゆみ
-
-
-
J
自分か医師として、収障児(者)やその家族にとり、どれだけ精神的
支えになっているかを考えると心もとない反面、自分の方は逆に、重
障児(者)やその家族に確実に支えられていることに気付く。そして、
許される限り今後も重障児の近くにいたいと思う。勿論、将来ボイタ
法にこだわり続けるつもりはない。現在でも治療手技にこだわっては
いない。有能なPT,0Tを信頼していくのみである。
第1章 重症心身障害児(者) 113
■7 動く重心
国立療養所斑求病院長松 本 茂 :や
はじめに
昭和42年の児・収福祉法の一部改ilモを契機に収症心身障害児病棟の幣
備が進められましたが、その卯|ぷはさまざまな行動異常を示す障害児、
いわゆる「動く重心児」の治療や処遇に関しては、まだ十分な対応が
なされないままでした。 II,7U;II45年、中火児・鉈福祉審議会の「いわゆる
動く重心児対策について」という答申をうけて具体的な施策が動き出
し、昭和47年国立肥前療養所に、はじめて動くT収症心身障害児の為の
病棟が開設され、その後、各地に病棟が整備されていきました。
昭和45年の答申では動く重心児を次のように定義しています。「(1)精
神薄弱であって著しい異常行動を有する者。(2)精神薄弱以外の精神障
害であって著しい異常行動を有するもの。(いずれも身体障害を伴うも
のを含む。)の二つに大別される。この行動異常は、暴行、器物破損、
弄火、放火、無断外出、無1析侵入等の反社会的行動、頻発するてんか
ん発作および多動となって現れ、異常行動を有し、現行の精神薄弱施
設重度棟および重症心身障害児施設においては、その保謾指導のきわ
めて困難な者である。」
当時の動く重心児のおかれていた状況は、その著1リjな情動、行動異
常のため、学校教育では、なかなかうけ入れてもらえず、精神薄弱施
設重度棟で、うけ入れられても、指導が困難等の理由で家庭にひきと
らざるをえないことが多く、また治療をひきうけてもらえる医療機関
も、極めて乏しく、いわば、教育福祉医療の谷問に、おちこぽされて
114 第2編 治旅及び研究のあゆみ
いたといえるでしょう.
(1)動く重心児病棟の発足
開設`I呻Jの動く改心病棟の状況を、肥前療養所を例に、その歩みを
追ってみます。当時は、動く重心児の定義を知っていても、そのよう
なj”供達が、病棟内の集団生活で、どのような異常行動を示し、いか
なる療育が必要か、ある程度予測できたことと、全く予測できなかっ
た困艱を数多く経験しました。
開設'1呻J、病棟は、一般の恥C,、と同じ構造でした。毎日、窓ガラス
が割れ、2ケ川ぐらいで、ほとんどのガラスがなくなりました。 1年
経った頃には、ほとんどのものがこわされ、10年以上使用した廃屋の
ようになっていました。まずは危険のないものをと考え、ビニールの
人きなオキアガリコボシを、病棟内に入れました。しばらくしてみる
と、ドの砂袋だけが残っていました。ビニールのほとんどは、子供の
腹の巾でした。病棟のどこでも排便をするなど、悪臭がただよい、看
護婦はいつもモップとバケツをもって病棟内を走りまわっていました。
当時措置されてきた子供のなかには、家のなかに檻を作り入れられ
ていたり、服を着ないのでいつも裸で生活していた者もおり、まず人
問らしい生活をさせることが当面の問題でした。
現在のように、在宅で幼児のときから、相談、指導が受けられる体
制が極めて乏しい状況でしたので、早期療育の必要性を痛感しました。
そのように無我夢中で病棟を運営して2年程たって、動く重心はどう
あるべきなのか、おぽろげながら分かってきました。
゛動く:重症心身障害児病棟″はいかにあるべきか一国立肥前療養所
動く重症心身障害児病棟に関する資詐1−としてまとめました。
動く重心の治療に関する要因は、重心の生活、身体、行動の面をは
じめ、治療のあり方、治療の構造、および設備、スタッフの量と質な
ど、多岐にわたっています。
第1章 重症心身障害児m 115
病棟内でみられた異常行動を、かみつく、奇声、固執、白傷行為等
の38項目について調査してみると、単純平均で1人8.4の間題行動がみ
られています。
(2)動く重心、行動異常の治療、研究の変遷
総合医学会の報告を中心に、その流れを見てみます。
昭和49年より以前の学会では、重心部門で、多動、異食などの異常
行動のケースレポートを中心に、観察、展望などについて、すでにさ
まざまな演題が報告されています。昭和49年から、重心部門に、動く
重心のセクションがもうけられています。また、それまでの演題は個々
の障害児の病理や、治療に重点をおいていましたが、この頃より徐々
に、療育のあり方、行動異常に対する技法に加え、障害児を取り巻く
環境や、病棟の機能評価から、治療を考えるような演題が多く報告さ
れています。厚生省の班研究として、「著名な情動障害を伴う精神発達
遅滞児の治療に関する研究」がおこなわれ、Total mVeuの分析と評
価がされています。昭和53年の学会では、動く重心についてのシンポ
ジウムが開かれ、動く重心児の多岐にわたる問題を総合的に考える方
向がみえてきました。昭和54年の養護学校の義務化より教育と療育の
密接な関係が論じられるようになりました。医療と教育の連携が具体
的な形で一段と進められるようになっています。昭和56年頃より動く
重心児を重症心身障害児全体のなかでの行動障害という位置づけで治
療や療育や処遇についても考えるようになり、昭和57年よりその総合
的にとらえる方向がさらに進み、重症心身障害児のリハビリテーショ
ン医学という位置づけから動く重心児の行動異常を考えるようになっ
ています。またノマライゼーションの考えより地域で生きる障害児に
とってなにが重要なのかという視点より重心医療を考えるようになっ
ています。
116 第2編 治療及び研究のあゆみ
(3)動く重心医療の現状
攻撃行動、固執等呂=しい行動異常を呈する幾つかの類型に基づく臨
床像として観察されています。
継時的変化を兄ると、その異常行動は、発達的観察からは、早期幼
児期、j柴の遅れ、多動夸異な行動、生活習慣の遅れ等、さまざまの
問越を示し、思轟期発現の前後より、情緒的混乱や、さまざまの行動
異常を伴う収篤な病像を'itし、青年期を境として一応の安定をみるも
のと、青年期以後もその病像が長期にわたって継続するものに分かれ
ます。また、心理的、社会的環境の変化により、異常行動が再び問題
化し、人院治療必要となる障害児が多くみられます。動く重心児は、
長期にわたって、発達障害に伴う異常行動、情動障害に対する専門的
な治療が、在宅、人院のいずれに処置されるにしても必要であります。
発達障害児の地域の療育システムと技法を開発し、機能させるために
は、このような専門的医療機関の支援が、不可欠となります。
(4)外来、デイケア的機能
特殊薬物療法をうけているものが多く、また個人指導、親指導、集
団指導といった療育をうけているものなど、外米、デイヶア的機能が
拡大しています。年令川については、初等教育、中等教育をうけてい
るものも多く、障害児教育をうけながら、医療も同時に必要としてい
ることがわかります。
(5)入院治療
年令構成について、長期在院高令化の現状がありますが、両親の高
令化、それに伴う病弱化の問題等家庭の問題もあり、また長期にわた
り治療に対して変化しにくい異常行動がっづいていること等があげら
れます。さらに入院の経緯についても、精薄児施設において、著しい
不適応行動が出現し、処置困難となり、入院してくるものも少なくあ
第1章 重症心身障害児(者) 117
,|
リません。合併症を有する者も多く、精薄施設への転人を困難にして
いる一つの要因となっています。
入院児に対しては、構造化された、さまざまなプログラムが設定さ
れています。個人療法(1対1で、訛語療法、行動療法、遊戯壕法、
感党訓練、運動療法など)、集団療法(複数の治療者が、複数のj’・ども
に遊戯療法、感党訓練、生活訓練等)、親訓練(異常行動に対する対
応、生活上の問題に対して指導)等です。これらのプログラムは、発
達障害に対する一般的問題(身辺の自立等)に対する旅育と感覚統合
訓練、行動療法などをとり入れた、より専門的なアプローチにより、
一般的問題、佃別的な行動異常等の問題を治療する目的をもつものが
あります。またそれに加え、向精神薬、抗てんかん薬など、特殊薬物
俶法がおこなわれています。また、家庭の支持機能の向凵こむけて、
親訓練、親の仝の種々の活動教育講演がおこなわれています。
(6)今後の展望
地域の中で家族や障害児に対する支援機能が垂視されなければなリ
ませんo在宅での俶育が十分おこなわれるためには親の養謾介謾能力、
技術を向上させていく必要があり、そのための親訓練プログラムなど
の設定や、著しい行動異常を示す子どもの家族にしばしばおとずれる
危機状況に積極的に危険介人できる医癡機関としての機能をさらに高
めることが必要ですo
また発達障害児を含めた家族全体に対する治俶介人も人院から在宅
へのかけ橋としてよリ専門性が求められますoこのように地域での発
達障害児を支援していくために、医学的治療施設として「動くT服心医
療」の専門的治俶機能を充実させていくことが必要でしようo今まで
以上に、周辺領域との密な連携システムを築くことが、主要な課題に
なつていくと思われますo発達障害児の生きる権利を地域の中で支え
ていくためには、医俶機能の充実118 第2編 治療及び研究のあゆみ
-
青能力を育てていくことがこれからの最大の課題と考えられます。研
究については、医学、教育学、心理学、社会学など、多而的な研究が
必要であり、今後それらの研究が統合され、発達障害児学として確立
・されることが期待されます。
第1章 重症心身障害児(者) 119
■8 リハビリテーション
国立療養所七尾病院長 松島 Ila 廣
重症心身障害児(以下重症児)の生命的r・後の軒しいlfl凵lは、20年
前の開設当初のことを考えると想像も及ばないものがある。諦機能の
向上や維持、日常生活への適応や能力拡大を川的としたリハビリテー
ションの果たす役割は重要である。
重障児のリハビリテーションについては、徐々にではあるが確実に
進歩が認められている。その足跡は著作として、あるいは機能訓練、
ADL動作訓練、言語療法といった各分野において、また個々の症例
報告として数多く発表されている。詳細な内容は隕られた紙而で述べ
ることは不可能ゆえ、私見をまじえて治仮面と、最近の研究の動向に
ついて紹介してみたい。
治療而;脳性麻痺治療の変遷が重障児のリハビリにも多大な影響を
及ぼしてきた。ボバース、ボイタ、ドーマン法等のいろいろな手技手
法の応用が今日まで取り入れられてきている。中でもボバースアプロ
ーチの概念は、障害の程度をとわず、児が有する最も主要な問題点を
解決への糸口としていることや、児の扱い方を含めた日常生活すべて
が訓練的視野に立ってなされるべきだとする考え方である。これらは
療育に携わる者にとって共感することが多い。また療育する側の療育
への基本姿勢が治療以前の問題として同時にとわれている。
ボバースアプローチの基本原則は、異常運動パターンの抑制肢位を
利用して正常運動パターンを促通させることである。つまり児が反復
学習することにより全身の正しい動きの感党を自ら獲得し、正常運動
120 第2編 治旅及び研究のあゆみ
“ターンを作り出してゆくということである。 また、固定化したボバ
ース法というものは決して存在せず、日常生活の指導、ケアーの中に
あっても佃々人にあわせてアプローチを創造してゆくことが大切で、
絶えざる、武みがあるのみだと述べている。
私自身は未だに決まった方法を持ち合わせていない。そして個々人
の機能障害の評価に対しても未熟ながら評価を行ない、訓練プログラ
ムと治療目標を掲げて今まで試行錯誤で実施してきた。それゆえ、こ
れまでの体験から反省を含め、現在の機能訓練而に取り入れている一
般的な考えと内容の一部を紹介して許しを乞いたい。
第一に、体位変換と日常生活姿勢の配慮がある。年長児(者)のす
さまじい変形・拘縮を伴なった固着肢位をみると、生まれつきからこ
のような収障児は存在しないのだという叫びが聞こえてくる。単に変
形・拘縮の予防のみならず、運動発達の促進や食事・排泄等のADLの
改善のためにも、出米るだけ早期からあらゆる体位に恨れさせるポジ
ショニング指導を実施せねばならない。むろんポジショニング指導の
必要性は、種々の感党刺激の人力や提供の容易さという観点からも指
摘されている。たとえ最重度群児であっても、生命維持の安定した状
態が保たれるなら、食事摂取や呼吸機能面を考慮すると坐位介助保持
の段階まで、最大限の努力をしたいものである。
過去に股関節脱自・脊椎側弯・胸郭変形について、日常生活姿勢と
してのpreferable position 別(背臥位、腹臥位、坐位・立位)に調査
を行なった。背臥位のねたきり生活児は3歳より殷脱、5歳より構築
性側弯が存在した症例があり、胸郭扁平が9歳頃より健常児に比べ格
段の差を生じてくる。一度出現した変形の回復はまず不可能で、加令
とともに骨成長旺盛期をすぎるとその増悪に拍車をかけてくる。これ
らは年長児(者)の諸能力の退行にもつながっていることが判明して
いる。また、胸郭連動パターン、呼気ガス換気パターンの観察より、
側臥位・腹臥位あるいは運動発達レベルを度外視したup right posi-
第1:収 重症心身障害児(者) 121
tionが呼吸機能而の改善を認めることが多い。
児の周I川に対する関心の乏しさに加えて、マンツーマンのかかわり
は時問が隕られ、刺激の少ない環境である。 しかし・R力という不|析の
刺激が加わっていることを考えれば、今一皮良のpreferable po sition
に留意してゆきたいものである。その為に、ll常生活の場に応じた器・
具や川具の必要性が高まり、創意工夫もなされてきたと考える。
第二に、楚非試みたい手段として収障児の子ども体操がある。先の
ボバースの連動発達診断と評価法から、同時に訓練面へ適応出来るよ
うに生みだされたもので、決して難しい手技は妛しない。四肢・躯幹
の屈曲拘縮が強い群、後弓反張肢位をとる群、不随意述動群等に分け
て、個々人にあったように取り入れてゆけばよいのである。甲。に関節
可動域訓練に終始せず、児自らの活動性や運動効果を高めるという結
果につなげられるように、余裕をもって実施したい。また体操の応川
で反射抑制肢位へ導いていくこと、例えば緊張性アテトーシス児に対
するball position等はリラクセーションもかねているのでμびも多
し丶o
以上ポジショニングを主体に述べてみた。ある発達レベルの獲得と
いうと大変な道のりで、増悪予防するだけでも正illllいっておぽつかな
い訓練現況かもしれない。 しかし信念をもって絶えざる試みの大切さ
は、先輩諸兄が教示してくれている。機能訓練一つとっても、IFきつく
せないゆえ、他のADL動作訓練やコミュニケーション訓練、感党訓
練等も含めて詳細は参考文献を参照していただきたい。
研究而;重度化因子を支配すると考えられる変形・拘縮の実態が、
長期にわたる臨床上の観察から報告されてきた。重障児特有の股関節
脱臼や下肢交叉、脊椎側弯の成因とその特徴が明らかにされた。主病
因別、麻痺の程度や性状、連動発達レベル、日常生活姿勢等の様々な
角度から分析されている。その増悪予防に対して、日常生活上の指導
や留意点も指摘されてきた。一方、下肢交叉が強度で、介護凵木1郵を
122 第2編 治療及び研究のあゆみ
きわめる年長者の廃川性ケアーの対処は、症例により観血的療法も考
えられている。 しかしながら事前にその予後を推定しての手術適応や
時期の決定は、今なお結論が出されていない。
・ また、日常乍活の姿勢管理として種々の用具や器材、補助装具の創
意ll火があげられる。特に服度のアテトーシス型脳性麻痺例の不随意
連動を抑制し、嗷位姿勢を確茫させることを目的とした坐位保持装具
の作製は、ll肢機能の向上や桁神機能而へ好影響をもたらすことから
参号になる。ある程度の知的能力が要求されるが、下肢・下顎を利用
し電動車椅子使川により移動範1川の拡大をはかったり、マイクロコン
ビューターとワードプロセッサーを組み合わせた書字介釛機器等の開
発は凵をみはるものがある。
食事訓練における成米は、摂取機能の評価の試みや、嚥下に際して
の表面筋電M fi'J検討、v i deo f 1 u o r ogr a ph y上の観察に基づくリラクセ
ーション姿勢の配慮、口唇・舌・ド顎のコントロール等により向上し
ている。また嚥ド1木1難児に対しては、従来の留置された経鼻経管栄養
よりも、食・扛毎に嚥下訓練をかねて経口的に挿入する、口腔ネラトン
法による栄養法が効果的ともに・われてきている。最重度群児によく遭
遇する呼II及不令の状態に関しては、やはリリラクセーションを考慮し
た体位変換の他、最近は鼻咽頭チューブの挿入により改善が得られて
いる。
その他、、l語能力の評価方法やj語の行動形成を作り出していく試
みとして受信・発信系様式の解析がされている。また反応に乏しい児
を対象に、前庭党・触党・固有党を中心とした複合刺激を与えて、姿
勢反応や適応反応を引き出していく感覚統合的アプローチの報告等が
ある。他にも症例を通じた数々の地道な研究報告は枚挙にいとまない。
今後はさらに研究の成果が集積発展されて、重障児の療育現場に迷
元されてくることを期待したい。
第1章 重症心身障害児(者) 123
参考文献
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17.災田11 守,他:収症心身障害児への感覚統合的アプローチの検討,昭
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第1章 重症心身障害児(者) 125
■9 最近の諸問題
国立梢神・神経センター武蔵病院長 有 馬 11モ 高
収症心身障害児(以|゛服症児と略)を閇¨jの病棟に受け入れ、乍涯
にわたり医療、福祉両・而から対応するという制度は11本独自のらので
あり、そのために4半世紀の間に111:界の医学の教科、りになかった新た
な知識と技術を発艇させることになった。この間に、概念、基礎疾忠
の分類、死囚、多彩な合併症の発兄、呼吸・栄養の管川、病理觧al】の
解析、疫学調査など多くの実績が積まれ、収症児の医学は障害児折医
俶のなかで既に確囚とした領域を築いたといえよう。
一方、医療と社会の情況も次第に変化し、20年前はr・想しなか−Jた
ような変化が重症児をめぐっても経験されるようになった。義務教育
の普及、在宅対策への指向などとといこ、発生率や死亡率も変り、施
設収容を主体としてきた収症児医療の現場にも影響を及ぼしている。
このような現状のもとで話題は多いが、本稿においては特に医療に関
する問題について取りllげることにした。
(1)重症児者の有病率の増加と年長化対策
1980年代から各地で活発となった有病率の調査によれば、一部の地
区ではむしろ増加傾向に転じたことが指摘されている。地域入日に対
する重症児の比率(有病率)は、発生率、死亡率、および、生存期間
によって左右される。すなわち、発生数が減れば有病率も減るが、死
亡率が減少し寿命が延びれば有病率は増加することになる。
妊産婦と新生児医療の進歩にともなって、脳性麻痺の発生率が減少
126 第2編 治療及び研究のあゆみ
し、それに並行して収症児の発生率も1970年代までは減少した。就学
年令・の収症児の打病率は1965年当時1000対1程度であったのが1980年
代は約1500対1でありほぽ3分の2になったのはその反映と思われる。
一方、この間に新生児死亡率、乳幼児死亡率とも著しく減少し、世界
の最鳥の水準を維持できるようになり、その傾向は現在まで続いてい
る。その;杉響は亟症児にも及び、各年令層の死亡率も、並行して減少
したと思われる。一般に、死亡率は乳児期に高く、幼児、学令期には
低いが、その傾向は収症児でも同様である。近年の学令重症児の年間
北亡率は2〜3%であり、一般児童の30ないし50倍の高率ではあるが、
1960 年当時、学令期までに半数は死亡したのに比較し、最近は70%以
卜。が乍作し街るようになり学令期終了時の有病率はむしろ増加するこ
とになる(ドM)。おそらく、この現象は当分続くことになるので、重
症児全体の年令分布が施設収容、在宅とも変化し、年長者の相対的な
比収が増加することになると考えられる。
l/ll)4
20
n
10
5
1965
川
重症児有病率の推移
(|卍|冷口以当り)
1歳
5歳
一一一一。。1985
15歳
1965
第1章 重症心身障害児(者) 127
(2)超重症児への対応
NICUの普(3)基礎疾患の時代による変化への対応
1960年から70年にかけての調査では周生期脳障害の比率が約半数、
後天性出生後が約20%を占めていた。その後、比重は明らかに出生前
の原因に移っている。国立療養所における共同調査は、出生年度別の
推定原因の推移を知るのに貴重な情報を提供してくれるが、患者の入
退院数が隕られているので近年の実態を明らかにするには不十分であ
る。
128 第2編 治療及び研究のあゆみ
-
原因の推定は、今後の発生率の予測と発生予防の方針を立案するの
に不可欠な資料である。外米診療の調査に加え、地域の乳幼児の疫学
調査を定jりj的に実施し、時代にともなう原囚と発生率、有病率の変化
を速やかに把捉できるよう組織化することが不可欠である。モデル地
|)(を設定し、・R点的に人材を確保することが必要であろう。
(4)重症児者対策における国立病院の役割
収症児の収容施設は国立8080床の他に公法人立もほぼ同数あり、そ
れぞれが特色をもって運営されている。施設に入所している比率は県
によってかなりの差があり、5%から50%の幅があると推定されてい
る。
すでに述べたように、有病率はむしろ増加の傾向さえあり、重症児
の余命の延長にともなって高令化の対策は施設・在宅ともに重視せざ
るを得ないであろう。
I矢療の立場からみると、国立療養所重症児病棟の在籍者の年令がす
すみ、青年から壮年に達した人も多くなった。病院内で日々蓄積して
きた経験は膨大な量になるが、青壮年に達した在宅重症者の療育にと
っても役立つものと思われる。しかし、40歳を越えた重症者がどのよ
うな経過をとるか、老人性進行がどのような形で発現するか、長期に
わたり行動範|川が制限されていた環境がどのような影響を与えるのか、
長期の抗てんかん薬服薬の影響はどうかなど、長期間の追跡によって
はじめて明らかに出来る問題は多い。これらの点については今後の研
究に期待されるが、いずれにしても全国的な情報の収集が必要であり、
ネットワークの確立されている国立病院の役割といえるであろう。
国立療養所は人的にも装備の而においても不備な点が指摘されてき
たが、専門性と強い意欲を備えた人材が全国的に輩出してきている。
これらの人達が自らの仕事に誇りをもちつつ次代の医療、医学を切り
1剔くよう支援していきたいと思う。重症児をとりまく問題は多いが、
第1章 重症心身障害児(者) 129
J
これからの10年を予測して、取り組みたい項川を列嚼してみた。
重症児について解明すべき課題
1
2
医療の課題
原因別、状態像別、年令別にみた情報の解析
死亡率の改善・合併症の1刎lは可能か
生活動作能力の到達r・測は1・f能か
退行、侵襲に対する予備能のr・測は11f能か
超重症児の対策の?/:案と試行
コミュニケーション手段の充実の努力とll夫
在宅兜者へのサービスの組織化
発生r防の立案と提a
医学・人間科学への貢献
脳の機能分化と可塑性の解析
粗大な脳病変のない重度障害の本態解析
無動、過緊張、長期臥位の長期的影響
徴:叺元素欠乏の影響と所要量の確立
人工頭脳の開発と自立への支援
家族、養育者等の心理・行動の解析と対策
人権に関する諸条件の分析と対策
国際的な広報活動と情報交換
130 第2編 治療及び研究のあゆみ
..矗
-
■1 筋ジストロフィー研究の曙
岡崎国立共同研究機構 生理学研究所名誉教授 ニヒ 橋 節 郎
(1)筋ジストロフィー研究のはじまり:呉とその門下の業績
我が国のジストロフィー研究がいつから始まったかはっきりという
ことは雛しいが、症例報告は|リj治20 (1887)年に遡るという。 しかし、
本桁的ジストロフィー研究の創始者は呉姓(くれ・けん、1883-1940)
であり、その任地福岡医科大学(九大の前身)から、大正10 (1921)
年以後いくつかの論文が発表されている。
呉・は両家としても一家をなした天才肌の学者で、外国では臨床医と
してよりも、筱根を経て末梢臓器に至る「脊髄副交感神経」の存在を
七張した研究行として有名である。当時は外国の教科書にも引用され、
―Ill;を風びした感があった。この説自体は歴史上の一エピソードに終
わったが、111J界の常識に挑戦した呉の果敢な闘争精神は、後続の研究
者に人きな影響を与えた。
呉はそのiモ張の一環としてジストロフィーの自律神経障害説を唱え
たのである。その萌芽は1925年ex per. Medに発表)に遡る。こ
の線に沿った研究は、呉が束大に移ってからも続けられ、1929年の論
文には既に冲中の名前を見出すことができる。勿論、自律:神経障害が
筋ジスト。フィーの原因そのものではないが、筋ジスト・フィーの病
像成立過程の解明は、現在の分子生物学的な成果だけに依據するもの
ではない。この一連の実験もまた脚光を浴びることもあると思われる。
第2章 筋ジストロフィー症 131
-
ここ・、、_
11本のジストロフィー研究組織の眤を作った冲中・Mff=凵おきなか・
しげお、1902〜)は、呉が呶λに移-Jてから力高弟の ・Vごあり、脊
髄副交感神経、l見の完成にも蛾も人きく寄り・した{fll.し講叶佶しては呉
の後ではなく、坂川康藏(現第三内科)の詼任と々。た)。
呉の実験は、頸部交感神経節を除去するヒ、幼火の骨桁筋にジス
ドフィー様の組織変化が認められるというものであ・Jた。ニグで)実
験は鳥度の熟練を要し。当時呉・内科に技手であ。たT・jJ彡義以外の
人にはできない技術であった。1958年頃杉111秀火は’卜尼力助けを得
てこれを追試俑認した(精神神経学部、誌62.118-125【】960))。しか
し不思議なことに、1970年冉追試したところ、どうもうまくいかな
゛。両者の人きな差は凵本の経済発艇に怦う動物飼育室の改泙であ
って.liijには数|叫に1匹しか助からなかったのが。今度は令部生き
てしまうのである(そのことを闘いて冲中先生は、「環境のよいとこ
ろでは、自律神経は働く必要がないんだよ」といわれたとのことで
ある)。
ここで強訓したいのは、呉は過伝学的検討に力をいれたことで。と
りわけその門ドの三好和夫の業積(1950)は注目に値する。:三好が惆
告した伴性劣性の成年腰帯型は、いまのBecker ・S9 と考えられるもの
で、Beckerらの報告(1955)に数年先立つものであるが、当時||本の
|=I】際的皃場や論文の発表の形式などから、||IJ岑に9;|】られることなく終
わったのは残念である。
ここで触れておかねばならないことは、三浦謹之釛及びその門ドの
勝沼精藏という系譜があり、1931年以後名一占屋の地にジストロフィー
研究の根を下ろしたことである。また、九大勝木11j昌之助は、これと
は独立に九州における筋ジストロフィー研究を開始した。これらにつ
いては他の著者によって後述されることと思う。
132 第2編 治療及び研究のあゆみ
」
`フコ ̄4 こ7二
(2)血清クレアチンキナーゼ
lflL清クレアチンキナーゼによるジストロフィー診断法の発見は、単
に?iじ診断法の開発としてだけでなく、生化学的アプローチを常識
化したという意味で。筋ジストロフィー研究史上一つの里程と見るこ
とができる。種々の疾患の際に、罹患臓器から湘出する酵素を測定す
る|剛I'i'酵素、洽|祈法は、19-19年のSibley, Lehningerのアルドラーゼ法
を嚆矢として、1950年代に次第に臨床的応njが高まりつつあった。し
かし当時の我が川では、依然として病理学的方法を本質的と考える伝
統か強く、殊に診断の困難な1111経疾患ではその傾向が強かった。この
様な雰|川氣の||本で血清クレアチンキナーゼ法が開発されたことは、
呪在の時点で考えられる以上のインパクトがあったと思われる。
この研究は、私自身が関係するので書き艱い而もあるが、そのき
9かけが鵞く偶然で・あり、それに私の無知が役立つなど、決して個
人として自慢になるような話でもないし、新しい研究というものが
どのようにして始まるかということの1例として、虚飾を混えず、
実情を記找することにする。
昭和32 (1957)年の暮だったか、親友の桃井宏直(冲中内科)が
入院したので兄匍にいったところ、「教室の杉田君という若いタップ
フェルなのが、筋ジストロフィーの診断に血清アルドラーゼを使っ
ている。ジストロフィーの診|祈というものは経験をつんだ臨床家と
熟練した病理学者が協力して初めてできることになっている。それ
をそんなつまらない簡単なことで診断するなどとは大それたことだ
と、大変評判が悪い。お前どう思うか」ということである。私は例
によって不勉強で、血清酵素による診断という流れが始まっている
とは一向に知】らなかったが、何も答えないのもどうかというわけで
「なぜアルドラーゼなんてまずいものを使うのだ。あれはどこにでも
ある酵素で、悪いことには赤血球はゴマンとある。当然筋肉に特異
第2章 筋ジストロフィー症 133
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的なクレアチン燐酸キナーゼを使うべきだ」「それはどうしたら測れ
るのか」「うちで(東大薬理)ルーチンにやっているからいつでもや
ってやる」。それで話題は他に移り、私はそのことを令く忘れてしま
っていた。
ところがそれから10日もたったろうか、桃井がぬっと研究室の人
「1に立って「血清をもって来た」という。・若いが臨床が非常にでき
る同級の豊介康夫と話をして、その診|析をつけてや9て末たという
のである。但しその結果は測る前にはお前には教えられないという、
なかなか厳しい話であった。仕方がないので、研究室のクレアチン
キナーゼ検定のサンプルの中にまぎれこませたのである。
これがクレアチンキナーゼ診断法開発の蛾初の一こまである。そ
して当然のことだが杉日1が加わり、まだ20代であった杉川の苔さと
エネルギーが中心になって、国際的な規膜の業紋に発艇できたので
ある。
それにしてもその発表論文はJournal of Bio chemistryのわずか
2頁。私白身はそんなことは当然誰かがやっているといって、論文
にすることに反対であった。誰でも考える筈のことを得々と発表し
て、二番煎じであったら大恥をかくだけだというのが私の気持であ
った。ところが3人[桃井、豊介、杉日])がいくら探してもそんな
論文はどこにもないというし、ちょうど米国に留学する1111Jj(昭和
33年12月)で目の廻る程忙しい時でもあったので、頑固な私もつい
に折れてしぶしぶ投稿に同意したというのが実情である(Ebashi,
S・、Toyokura, Y・、Momoi, H. and Sugita, H. (1959) High creatine
phosphokinase activity of sera of progressive muscula】‘dystro-
phy, J. Biochem. 46, 103-104)。
というわけで、私がしたことといえば、単なるリッ’プサービスだ
けであった。自分で体を動かさない限り、ファースト・オーサーに
ならないことを原則にしている私にとって、この論文はほとんど唯
134 第2緇 治療及び研究のあゆみ
一の例夕卜である。桃JIこ、豊介、杉IHといった人柄も研究の傾向も異
な、Jだ3入が、それぞれの役割に応じて渾然一体の協力をした賜で
あ9た。
このクレアチンキナーゼがこのように評判になり、長い生命を保
つとは夢にも1りえなかったが、最近の遺伝子工学的成果によってよ
うやくその乍命を終わったようで、ホッとしているところである(診
断法としてはまだまだ息が続いているという人もある。本当のとこ
ろはビうなのであろうか?)。
lflL清クレアチンキナーゼによる診断法の確立は種々の幸連に恵まれ
て、・応1111な的な評価をうることができた。 しかし、今ふり返って見
ると、我々がせっかくのチャンスを充分生かし切ったかというと、必
ずしもそうでない面があることに気付くのである。 もしこれが英国で
行われていたらどうなったろうと考えると、臍を咄むことも多い。一
つの発見を大きな(Jjll藍に仕立てるという点において、日本人は何かが
欠けていると思う。一つは集中力の欠如であるが、それだけでない。
今やかましい日本人の創造性の問題の一つがこの点にありそうである。
むすび
凵本の筋ジストロフィー研究の歴史の曙を、ジストロフィーをよく
知らない入間が書くことになるというのも皮肉な話である。臨床には
豊富な知戡と適切な判断が必要であろう。 しかし基礎的研究では、無
知と剔折が何かをしでかすこともある。
今、分子遺伝学ないし遺伝子工学的アプローチが学界の花道となっ
ている。 しかしこれに関係のない仕事もあり得るし、新しい展開は意
外とそういった所から生まれることになるかもしれない。 しかしそれ
を歴史から学びとるわけにはゆかない。歴史は所詮、歴史である。
第2章 筋ジストロフィー症 135
■2 厚生省筋ジストロフィー研究
昭和43年〜昭和52年まで
国立梢神・神経センター神経研究所長杉 日I 秀 夫
はじめに
進行性筋ジストロフィー症の成因の解明と治療法の開発を川ざし、
厚生省研究班が設立されてから早20年の年川を経た。
この間我が岡の研究者の英知を結集し、基礎、臨床、療育、看護而
から数多くの研究成果が挙げられて来た。特に成因研究のIこでは最近
の分子生物学の凵ざましい進歩に伴い、従来の研究方向(Fo rward
Genetics)に対し全く逆方向の、まず遺伝子座を決定し、遺伝子産物を
同定するというReverse Geneticsの手法を川いデュシヤンヌ型筋ジ
ストロフィー症の遺伝子がクローニングされ、遺伝子産物゛ジストロ
フィン″が米国で同定された。この研究は原因不明の遺伝性難病克服
に向けて分子遺伝学がもたらした最初の歴史的勝利であるとaわれて
いる。
そしてデュシヤンヌ型筋ジストロフィー症では、本来骨格筋表・面膜
に存在すべきジストロフィンが全く存在しない事が明らかとなり、昭和
63年になって発症原因はようやく分子レベルで解|リ1されたわけであるo
昭和43年、班の発足当初より10年間にわたって冲中重雄先生は班長
として活躍されたが、この時期は又一言で言うならば、筋ジストロフ
ィー症の正攻法(Forward Genetics)研究の戦略に各研究者がもっと
も苦労した時代でもある。今当時をふり返る事もまた意義深い事であ
ると思う。
136 第2編 治旅及び研究のあゆみ
表-1 昭和43年度厚生省特別研究費補助金
「進行哇筋ジストロフィー症の成因と治療に関する研究」
主任研究者(班長)虎の門病院 冲 中 重 雄
班員および特別研究員
汪 僑 節 郎
冲 中 ・R 雄
勝本 川馬之助
黒 1・ 義阮郎
II¶ 占 栄:l郎
机父汪 逸 郎
鳥 津 忠 人
佑 忠 雄
豊 介 康 人
中 7{i 一轟 久
西 川 光 夫
野 村 達 次
三 好 和 夫
山 111 憲 吾
・所 属
収人薬理学教室
虎の門病院
九人・第二内科
九大・脳研神経内科
収拓人・内科
名・占屋人学・内科
束人・小児科
新潟大学・脳研神経内
科
東人・脳研神経内科
東大・内科
阪大・内科
実験動物中央研究所
徳島大・内科
徳鳥大・整形外科
分担研究課題
ジストロフィーマウス罹患筋の
発生学的研究
血清A T P : Creatinephos-
photransferase測定法の検討
と改良
進行性筋ジストロフィー症の病
態生理、特に生化学的研究を中
心として
進行性筋ジストロフィー症の疫
学的・生化学的研究
1.先天性筋疾患と核酸代謝に
関する研究 2.先天性筋疾患
の発生に関する研究
進行性筋ジストロフィー症の臨
床病理学的研究
先天性進行性筋ジストロフィー
症の成囚と治療に関する研究
進一行性筋ジストロフィー症の臨
床的、遺伝学的、電顕的ならび
に生化学的研究
1.進行性筋ジストロフィー症
の患者の姿勢、起立および歩行
異常の神経生理学的解析 2.
進行性筋ジストロフィー症の筋
檮造蛋白に関する研究 3.
Duchenne型ジストロフィー保
閃者の筋生検像
進行性筋ジストロフィー症の臨
床生化学的研究
1.筋ジストロフィー症の発症
機作に関する研究 2.グリシ
ン投与とジストロフィー症
ジストロフィー・マウスの飼育、
管理および生産
進行性筋ジストロフィー症の遺
伝とミオグロビン異常に関する
研究
進行性筋ジストロフィーのリハ
ビリテーションに関する研究
第2章 筋ジストロフィー症 137
(1)班研究10年の歩み
昭和43年、厚生省特別研究助成補助金を受け゛進行性筋ジストロフ
ィーの成因と治療に関する研究″班が発足した。研究費として2000\万
円が計上されたが、当時国の研究費でllレー疾患に対する研究費が1000
万円の人台にのったのは筋ジストロフィー症が初めてであると、lわれ
ており厚生省当局がいかにこの難病解決に力を入れていたかがうかが
えるわけである。班は表1に示されるように冲中収拙児乍を班長に、
総員14名で構成された。 ・IwI=までの進行性筋ジストロフf一に関する
基礎データは極めて少なく、生化学的にはわずかに昭和3がljll僑教授
らが発兄されたlfIL清クレアチンキナーゼ(C K)の鳥値、デュシャン
ヌ型筋ジストロフィーf呆囚者の約60%がやはりI白L清cKが高値を示し
不完全ではあるが保因者を発見出来る・liなどであった。1自L清cKの高
値を示す理山として筋細胞膜透過性の亢:進が想定され、筋細胞膜に問
題があるのではないか、などが漠然と考えられていた時代であった。
発足当初冲中班長は進行性筋ジストロフイー症の成囚、本態レ診断、
治療に関して基礎及び臨床の両而から系統的な研究を行うことを基本
方針とされた。成因、病態の解明のためには初期変化が何であるかの
検索が最重要課題であり、疾患の初期から経時的に変化を追及する事
が必須である。その闘的の為に本研究班の特に注目すべき点は疾患モ
デル動物を研究材料として川いた・】iである。実験助物申臾jJr究所の野
村所長に班員の一人に加わっていただき、゛i時米国ジャクソン研究所
以外では繁殖に成功していなかった飼育遺伝学上量も困郢とされてい
たdyマウスの自家繁殖、生産、供給を行った。野村所長のよ柴を借り
るならば国の研究班が疾患モデル動物を組織的に研究材料としてVい
たのはこの班が最初であり、難病研究に向けて疾患モデル動物の重要
性を強調された冲中班長の慧眼は高く評価されよう。また当時゛今日
の研究が明日の医療行政に役立つ″のが厚生省の研究であると`Iuつれ
ていただけに厚生省の研究班が疾患モデル動物を川いた事は異例の事△138 であり、`り・liのこの疾患に対する理解、関心の深さの程がうかがえる。
また冲中班災の要請により、研究テーマは特に限定せず全て班員各自
の自山かつ独alj的なアイデアに基づいて出発した事も特筆に値し、未
知の疾患研究の少なくとも出発点としては必要な事であろう。
基礎研究として汪僑班員は当時最も欠けているのは分子生物学の基
礎に、し、た筋の発生、分化の研究であるとの考えから以後発生、分化
面を中心とする基礎研究が始まった。
研究卜口こして昭和か1年には勝木・l ■-] 馬之助先生を中心とした「進行
性筋ジストロフィーの疫学研究」、山V憲吾先生を中心とした「進行性
筋ジストロフィー症の臨床社会学的研究」の2つのサブグループが発
足した。これは今日の第3班、第4班の前身とも言えよう。
昭和46'I - (第2期)になり我が岡の各地に筋ジストロフィー症患者
を収容する壊養所の整備が進んだ事に対応し、冲中先生は班長である
と具に「基礎班」の分担研究者となり17名の共同研究者で編成し、山
111先生も分担研究者となり、国立療養所16施設が参加し「臨床班」を
編成し研究活動を行った。
昭和48年度に入り基礎班では骨格筋の発生、分化と関連し、ニワト
リの培養筋細胞の成長を促進する成長因子の研究が始まり、疾患モデ
ル動物dyマウスの坐骨神経近位部に無髄線維の大集団がみられ、ミ
J二。リン形成の先天性異常が明らかとなった。この変化は筋ジストロフ
ィー病変の成立に関与するとは考えられないという意見もあったが、
神経系の関与の可能性はdyマウスの疾患モデルとしての意義に問題
を投げかける結果となった。
昭和49年(第3期)、新たに「筋ジストロフィー症の病因の究明に関
する研究」にテーマを変え、冲中班長以下23名による新しい班が発足
した。発足当初班員各自の白出発想に基づいて行われてきた研究もよ
うやく研究方向、焦点がかなりしぽられて米たのをうけて、組織的か
つ集中的研究へと進み、研究成果を正しく評価できる評価委員会、厚
第2章 筋ジストロフィー症 139
班
事 会
合分科会
表-2 昭和50年度
冲中班機構図
分・科jt
I
基礎 1.筋肉の発乍分化再生の基礎的研究
2.ジストロフィーマウスに関ずる研究
II°実験{3.実験的ミオパチーに関する研究
V.臨床
■Working Group
4.筋ジスの遺伝・臨床疫学
5.筋ジスの病理・形態
6.筋ジスの病態・乍理
7.筋ジスの生化学・免疫
8.筋ジスの薬物療法
9.筋ジスの近縁疾患
10.
1.ミオパチーの分類
2. CPK微量定量
3.筋ジストロフィー症の療育指針
(冲中班、山IH班、.収111班との共同作業)
評価委員会:熊谷、勝木、中尾委員および班長
筋ジス研究促進連絡委員会(厚生省、冲中班、山[11班、重田班、11本筋ジス協会]
生省、筋ジストロフィー協会とも密接な連絡が取れるように筋ジスト
ロフィー研究促進連絡委員会が発足した(表2)。
遠位型筋ジストロフィー(三好型)の提唱、筋緊張性ジストロフィ
ーの本邦における遺伝形式が欧米と同じように常染色体優性遺伝であ
る事が結論づけられたのもこの年である。
昭和50年には新しく筋表面膜異常と筋壊死との関連でカルシウム依
存性中性プロテアーゼ、カテプシンなど蛋白分解酵素の精製及び活性
中心の検索、特異的阻害剤の開発など新しい課題も呈出され、病態研
究もようやく核心に迫って来た。またworking group として筋ジスト△140 ロフィー症の分類、CPKの徴し: IM£虻法、また「筋ジストロフィー症
の療介指針」に関しては山|11班、重III班との共同研究作業により@筋
ジストロフィー症の診断、A治療方針、B在宅患者の治療指針の3項
目について@は冲呻班、A山III班、B重[II班が各々担当する事になっ
た。
昭和5卩1≒dvマウスに関する研究は一通り終了し、進行性筋ジスト
ロフィーの病態モデルとして充分その意義をはたした後、新たに米国
Califc rnia, DavisよりジストロフィーチキンNo.413を導入すること
になった。チキンを川いる大きな理由は@胚の段階から、すなわち極
めて初朗から詳細な病態の推移の検索が可能な事、筋成長因子との関
連でジストロフィーチキンの発症原因として筋成長因子の異常が考え
られたなどが剌たる理山であろう。1唱和52年度、第4期の冲中班が編
成されたが表3に示されるように従来にまして細かいプロジェクト方
式を採川し、人規模な組織的研究が行われた。
特に凵?ylつのは基礎系と臨床系に2大別し、各プロジェクトにプロ
ジェクトリーダーを任命し、また基礎、臨床系各分科会にそれぞれコ
ンサルタントとして数名の学者に参加していただいた事である。
この班はちょうど昭和53年4月に国立武蔵療養所神経センター(現
国立精神・神経センター神経研究所)の開設に伴い、一年間のみで終
了し、昭和53年度より4つの班に分けられ、一年遅れて昭和54年には
「モデル動物の開発」班が発足し5つの班として研究が進められること
になり現在に続いている。またこの年には本邦の研究水準が充分国際
レベルに達したとの判断の上に我が国の研究成果を広く海外に紹介し
学問的交流をふかめる事を目的とし英文のProceeding,“Current
Researchin Muscular Dystrophy, Japan”、The proceedings of the
annual meeting of Muscular Dystrophy Research Groupが出版さ
れた。そして諸外国のこの方面の研究者に送られ我が国の筋ジストロ
フィー研究の質的水準の高さ、屑の厚さを示した事は特筆されてよい
第2章 筋ジストロフィー症 141
-
f一 一 り
評幹フ
価 委 員 仝
事
ロジェクトリーダー
表-3 昭和52年度 冲中班機構図
I。基礎系
II.臨床系
1。筋肉の細胞生物学
1)筋ジストロフィー筋の机織培養
2)移碵
3)筋の発生分化
a)形態
■言及
◆立岩真也 2014- 「身体の現代のために」,『現代思想』 文献表