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『記憶の肖像』

中井 久夫 19921021 みすず書房,336p.

last update:20110221

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中井 久夫 19921021 『記憶の肖像』,みすず書房,336p. ISBN-10:4622045540 ISBN-13:978-4622045540  \3150 [amazon][kinokuniya] ※ d/m01b

■内容

どうも童話とエッセイは書けないようだ――それが私の長い間の固定観念であった。緊張の持続のはてに能力以上のものを無理強いにしぼり出してきた人間には、たしかにこの二つは書けないだろう。いつかエッセイ集をといわれていたが、実現するかどうか半信半疑であった。(「あとがき」より)

一精神科医として、日々患者の治療に携わってきた著者は、折りにふれて、みずからの思いを文章に書きつけてきた。自分の棲む街・神戸のこと、人との出会いと別れ、訪れた土地や自然、子ども時代の思い出、それに医療や教育、社会問題等々。
その一文一文には、昭和一ケタの最後の世代に生まれ、時代の絶望と希望を体現してきた著者のやさしさと強さがある。精神科治療の現場の緊張感の持続とそこからの解放感が、非凡な文学的才能とみごとに融けあっている。中井久夫が紡いだ初のエッセイ集を、ここにおくる。

なかい・ひさお
1934年奈良県生まれ。京都大学医学部卒業。神戸大学名誉教授。精神科医。著書『中井久夫著作集――精神医学の経験』全6巻別巻2(岩崎学術出版社、1984−91)『分裂病と人類』(東京大学出版会)『記憶の肖像』(1992)『家族の深淵』(1995)『アリアドネからの糸』(1997)『最終講義――分裂病私見』(1998)『西欧精神医学背景史』(1999)『清陰星雨』(2002)『徴候・記憶・外傷』(2004)『時のしずく』(2005)『関与と観察』(2005)『樹をみつめて』(2006)『臨床瑣談』『日時計の影』(2008)『臨床瑣談・続』(2009、以上みすず書房)ほか。共編著『1995年1月・神戸』(1995)『昨日のごとく』(1996、共にみすず書房)。訳書としてみすず書房からは、サリヴァン『現代精神医学の概念』『精神医学の臨床研究』『精神医学的面接』『精神医学は対人関係論である』『分裂病は人間的過程である』『サリヴァンの精神科セミナー』、ハーマン『心的外傷と回復』、バリント『一次愛と精神分析技法』(共訳)、ヤング『PTSDの医療人類学』(共訳)、『エランベルジェ著作集』(全3巻)、パトナム『解離』、カーディナー『戦争ストレスと神経症』(共訳)、クッファー他編『DSM-V研究行動計画』(共訳)、さらに『現代ギリシャ詩選』『カヴァフィス全詩集』『リッツォス詩集 括弧』、リデル『カヴァフィス 詩と生涯』(共訳)、ヴァレリー『若きパルク/魅惑』などが刊行されている。

■目次

I
島の病院/たそがれ/信濃川の河口にて/龍安寺にて/ドイツの同世代の医師/N氏の手紙/過ぎた桜の花/ある応接間にて/ピーターの法則と教育の蟻地獄/日本人の宗教/日本の医学教育/桜は何の象徴か/人間であることの条件 英国の場合/ささやかな中国文化体験/「故老」になった気持ち/戦後に勇気づけられたこと/ロシア人/待つ文化、待たせる文化/花と時刻表/国際化と日の丸/一夜漬けのインドネシア語/荒川修作との一夜/淡路島について/顔写真のこと/花と微笑
II
神戸の光と影/あるドイツ人老教授の思い出/神戸の額縁/名谷に住む/住む場所の力/ある青年医師の英知/ワープロ考/神戸の額縁の中味/野口英世とプレセットさん/悲しい親たち/暴力に思う/ギリシャ詩に狂う/神戸の水/ある大叔父の晩年
III
私の仕事始め ウイルス学の徒弟時代/精神医学と階級制について/治療のジンクスなど 精神科医のダグアウト 1/私の入院 精神科医のダグアウト 2/神戸の精神医療の初体験 精神科医のダグアウト 3/知命の年に 精神科医のダグアウト 4/ジンクスとサイクルと世に棲む仕方と 精神科医のダグアウト 5/意地の場について/治療にみる意地/精神科医からみた子どもの問題/見えない病気の見えない苦労/精神科医としての神谷美恵子さんについて/井村恒郎先生/日本語を書く/一つの日本語観 連歌論の序章として

あとがき

■引用

「精神医学と階級性について History has many cunning corridors.」
 最近、精神医学史の研究が盛んで 過去の新しい事実を意欲的に発掘する試みがなされているのはよいことである。
 しかし、私は、素朴な一つの事実を指摘しておきたい。それは、前科学的な医療がつねに、そして科学的医療も大きく、階級あるいは階層というものによって左右されてきたことである。このことがいくぶん軽く見られているのではないか。
(p187)

 いかに献身的な医師も、どこかに「いつわりのへりくだり」がある。ある高みから患者のところまでおりて行ってやっているという感覚である。シユヴァイッァーさえもおそらくそれをまぬかれていない。むしろ、神谷さんに近いのはらい者をみとろうとした人々、すなわち西欧の中世において看護というものを創始した女性たちである。その中には端的に「病人が呼んでいる」声を聞いた人がいるかも知れない。神谷さんもハンセン氏病を選んだ。神谷さんの医師になる動機はむしろ看護に近いと思う。この方の存在が広く人の心を打つ鍵の一つはそこにある。医学は特殊技能であるが、看護、看病、「みとり」は人間の普遍的体験に属する。一般に弱い者、悩める者を介護し相談し>298>支持する体験は人間の非常に深いところに根ざしている。誤って井戸に落ちる小児をみればわれわれの心の中に咄瑳に動くものがある。孟子はこれを側隠の情と呼んで非常に根源的なものとしているが、「病者の呼び声」とは、おそらくこれにつながるものだ。しかし多くの者にあっては、この咄瑳に動くものは、一瞬のひるみの下に萎える。明確に持続的にこれを聞くものは例外者である。医師がそうであっていけない理由はないが、しかし多くの医師はそうではない。(pp298-9)



 あえていうなら彼女には精神医学の世界に関する限り、出会ってよいものに出会っていないという意味で不遇の影がないでもないと私は感じる。生ま身の交際でなくともである。たとえば、刊行されている翻訳はいずれも彼女が著者にかなりのめり込んでいて、決して才能まかせのものではないと私は思うけれども、最後まで彼女が失望しなかった対象はマルクス・アウレリウスとジルポーグでなかったかと臆測する。フーコーあるいは構造主義への傾斜は私からみれば自己否定の方向のものであって、しかもフーコーは、神谷さんがあれだけ真剣にとりくむほどの相手でなかったように思えて惜しい。フーコーが神谷さんの訳された著作についての彼女の問いに「若気のいたり」と軽く受け流したことは、いつも真剣で全力投球をする彼女にとっては意外中の意外だったのではあるまいか。ウルフについても私は神谷さん近い人のように実は思えない。軽々には言えないけれど、かなり強く、そう感じる。(p303)

■書評・紹介

■言及



*作成:三野 宏治
UP:20110221 REV:
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