『死刑の〔昭和〕史』
池田 浩士 19920325 インパクト出版会,379p.
■池田 浩士 19920325 『死刑の〔昭和〕史』,インパクト出版会,379p. ISBN-10:4755400260 ISBN-13:978-4755400261 \3675 [amazon]/[kinokuniya] c0132, c0134
■出版社からの内容紹介
大逆事件から「連続幼女殺人事件」まで、[昭和] の重大事件を読み解くなかから、死刑と被害者感情、戦争と死刑、マスコミと世論など、被害者感情など死刑をめぐるさまざまな問題を万巻の資料に基づいて思索した大著。
■目次
序章 「大量虐殺糾弾」の頽廃について
第T章 虎ノ門事件と〈昭和〉の開幕
第U章 死刑と日本の近代化
第V章 戦争――日常化する死刑
第W章 「法」が死刑囚をつくる
第X章 「世間」が死刑囚をつくる
第Y章 「兇悪犯に重刑を!」――死刑と世論
第Z章 死刑囚という隣人たち
第[章 死刑囚から「世論」へ
第\章 死刑廃止論の現在
第]章 死刑を執行する側から
第]T章 死刑がないと困るのだ!!
もうひとつの序章 死刑廃止の彼方へ
参考文献・資料リスト
あとがきにかえて――この本は死刑とどう向きあってきたか?
■引用
第U章 死刑と日本の近代化
「三種の死刑方法が定められたのに先立って、一八六八年十月三十日には一部地方にたいして、「刎・斬・磔・焚・梟首」の五種を定めた通達が示され、これもまた暫定措置として実施された。つまり、三年後に新律(明治政府の最初の刑法典たる「新律綱領」)が公布されるまでの期間は、梟・刎(斬首)・絞の三種に加えて、斬(袈裟斬り)・磔(はりつけ)・焚(ひあぶり)の、全部で六種の死刑が定められていたわけだ。その三年間の東京小伝馬町囚獄での記録によれば、一八六八年には処刑者一九〇人のうち、刎首が九二人、梟示が九五人、磔刑が三人、六九年には一二八人のうち、刎首が五八人、梟示が二八人、磔刑が一人(女性)だった。この記録で見るかぎり、絞首刑はまったく行われていない、それは、江戸時代の刑法である「公事方御定書」が死刑のなかに絞刑を含めておらず、江戸時代以前の武士階級の支配下でも絞刑は原則として武士以外の、それもかなり限定された罪状だけに適用されたこともあって、なじみのない死刑方法だったからであると思われる。
そのなじみのうすい処刑方法をお斬首刑とともに明治新政府が採用したことについて、「日本の絞首刑はいかにして発達したか」という論文の著者、村野薫は、きわめて重要な指摘を行なっている。絞首の採用は「日本の死刑制度史上の画(引用者註:旧字)期となった」のだが、「と同時に、維新政府としては、このことによって行刑制度においても「王政復古」の思想的意志をしらしめるよりよい契機となった」というのである。なぜなら、武士階級が政治権力を握る以前の法典たる大宝律と養老律は、刑罰体系に「死・流・徒・杖・笞」の五刑を定め、死は「絞および斬」と規定していたから、絞首刑の採用は朝廷律の復活を意味したのだった。>67>
明治維新と不離一体のものと考えられている文明開化、つまり日本社会の近代化が、尊皇攘夷という天皇制支配の復活強化および排外主義と結合してしか実践されなかった――という日本近現代史の特徴的なありかたは、死刑制度の再編のなかにも如実に示されているのである。
三種の死刑方法のうち梟示は、一八七九年一月四日に廃止され、斬刑に統合された。その斬刑も、翌一八八〇年(明治一三年)七月十七日公布のいわゆる旧刑法(太政官布告第三十六号)によって廃止された。その第十二条は「死刑ハ絞首ス但規則ニ定ムル所ノ官吏臨検シ獄内ニ於テ之ヲ行フ」としており、死刑はついに絞首のみとなったからである。前年一月三十日の「首打役」山田浅右衛門による高橋お伝ほか二名の処刑が、日本における斬首刑の最後となった。一八八四年から八五年にかけての自由民権運動の革命化、いわゆる加波山事件や秩父事件などの蜂起者たちは、戦死したものは別として、いずれも絞首刑によって処刑された。絞首刑は、軍法会議による銃殺刑と、戦争や公害や巨大事故のような裁判や刑の宣言ぬきの権力による民衆処刑とを別とすれば、日本社会の歴史と歩みをともにして現在にまでいたる、唯一の死刑形態となったのだった」(pp.67-68)
第W章 「法」が死刑囚をつくる
「被害者の感情にうったえ、それを動かすことばを見出しえぬうちは、わたし自身、>101>自分のことばとして「死刑廃止」を主張することはできない。これが、『死刑の〈昭和〉史』を書きはじめるにあたっての、わたしのささやかな自戒だった。そして、それはもちろん、いまでも変わっていない。わたしは、いまなお、「死刑廃止論者」ではない。
そのわたしでさえも、死刑は廃止されなければならない、と率直に言える気持になってしまうのは、冤罪死刑囚のおびただしい実例を目のあたりにするときである。
(中略)
いまはまだ死刑廃止論者ではなく、しかし冤罪の事例を見るにつけてもますます死刑廃止のことばを見出さねばならぬ、という思いに強くとらえられているわたし自身は、さしあたりの到達点として、こう記すしかない――近い将来、この国家社会に死刑が廃止される日が訪れたとき、わたしは、裁判官にたいしてだけは死刑が>102>適用できるという除外規定を、なんとしてでも主張したい。これが数ある冤罪事件について知りえた現在の、いつわりのない気持である」(pp.101-103)
第]章 死刑を執行する側から
ベイリーの『ハングマン』は、「イングランドのハングメン」という原題にも示されているように、イギリス(イングランド)の死刑執行人の歴史である。しかし、それは日本の現実にとっても、無縁な他人事ではない。たとえば、さきに言及したウィリアム・マーウッドの画(引用者註:旧字期的な考案のいくつか――長い落下による瞬時の頸椎破壊(それゆえ、この処刑方法は本来は「絞首刑」とはいえない)、それに適した太い麻ロープ、絞縄の輪の部分にとりつける革製ウォッシャー付きの金属環など――が、日本の現行の死刑にそのまま用いられている。死刑囚の体重や体格によって絞縄の長さ、つまり落下距離を微妙に調節する必要があるこの処刑方法が、しばしば首の切断(ちぎれること)など目をおおうような事故を引きおこしたありさまわ、この本は伝えているが、同様の方法を用いている日本での処刑でも、同様の事故が起こっていることは、十分に推測できる。それだけではない。もっと本質的なことは、イングランドの多くの死刑執行人たちを人格崩壊や自殺に追いやったものが、日本の現在の死刑執行人たちにも重くのしかかっている、という事実なのだ。しかも、イングランドの死刑執行人の職務は、公務員のそれではなく、報酬と引きかえになされる任意の職業であり、その気になれば自分の意思で退職することもできた。もちろん、それでも生涯の職業とした人びとが多かったのは、じっさいにはそれ以外に選択の余地がなかったからだ、と考えるべきだろう。ひとたびこの仕事を生業としたものは、社会からそのよ>275>うな人間としての扱いを受けざるをえなかった。そのうえ、社会は、人気の高い死刑執行人に歓呼を送り、かれが英雄の座から降りることを困難にしたのである。
これとは異なり、日本の死刑執行人は、公務員たる刑務官(看守)がその任にあたらなければならない。刑事訴訟法、刑事訴訟規則、監獄法などにその定めはないが、公務員にたいする業務命令として、死刑執行にあたることを強制されるのである。
(中略)>276>
死刑が国家による殺人である、ということは、死刑廃止論がしばしば指摘してきたとおりである。だが、それを確認するだけでは十分ではないのだ。死刑が国家権力による法の名のもとでの殺人であることは、そのとおりであるとしても、その殺人を犯すのは抽象的な国家や法律ではない。その殺人を犯すのは主権者たるわれわれ自身なのだ。しかもわれわれは、自分で直接に手を下すのではなく、死刑執行人に手を下させるのである。「国家権力による殺人」という、それ自体まったく正当な死刑制度批判は、この視点をぬきにするとき、われわれ自身を死刑執行人たちの権力的敵対者とさせる」(pp.275-277)
「死刑執行人・首藤重造の苦渋を描くなかで、作者・倉田啓明は、死刑執行人という職業が「恐ろしい忌むべき」ものであることを物語るために、その「報い」としてかれの肉親が社会的に忌み嫌われる身体的・精神的特質を運命づけられてしまった、という想定を選んだのである。作者のこの想定が、社会的な差別を前提としており、社会的差別の廃絶によりは既成事実化や助長に、いっそう加担するものであることを、否定するわけにはいかないだろうし、また否定する必要もない。だが、もうひとつ、この表現のなかにわれわれは、死刑執行人という社会的役割を強いられた人間にたいする社会的な差別の現存が、あからさまに描き出されている点を、看過するわけにはいかないだろう。そしてこの差別は、まさしく、死刑という刑罰が忌むべきものである、という社会の暗黙の合意を土壌としている。首藤看守は、イギリスの死刑執行人・エリスとまったく同じ道をたどることによって、みずからの社会的苦難にみずから終止符を打ったのである」(p281)
「死刑は、国家権力による殺人ではない。国家権力は、みずから手を下して権力犯罪>281>を行なうのではない。南京大虐殺の貧しい農民兵士の大部分がそうであったように、湾岸ピンポイント攻撃の黒人兵や落ちこぼれ青年兵士の多くがそうだったように、国家権力は、殺人の実行者を必要とせざるをえない。国家の名による正義の殺人を実行させられる兵士も必要でないように、死刑制度がない社会には死刑執行人もある必要がなく、死刑執行人にたいする社会的差別も存在しようがない。
いっそだれもが喜んで死刑執行人となる社会を実現するか、さもなければ一人の死刑執行人も存在しない社会を模索するか――死刑執行人という社会的差別者をなくすためには、結局のところ、この二つの道しかありえない。前者の道を選ばないとしたら、道はひとつしか残されていないのだ」(pp.281-282)
あとがきにかえて
「死刑制度の廃止を求める声は、日本でも、年ごとに高まっている。
世論調査の結果では圧倒的多数の国民が死刑の存続を望んでいる、とされるものの、書店にならぶ刊行物にせよ、マスコミの報道特集にせよ、死刑制度と具体的にとりくんで展開される論調は、ほとんどすべてが死刑の廃止に賛成している、といっても過言ではない。少なくとも、正面から死刑制度の存置をかかげる主張は、このところ鳴りをひそめている。しかもこれは、日本だけの傾向ではない。人権擁護の運動をすすめる国際救援機構「アムネスティ・インターナショナル」は、すでに一九七七年十二月に「死刑廃止のためのストックホルム会議」の宣言で、あらゆる死刑を廃止するよう世界各国に呼びかけ、これにそった活動をつづけてきている。一九八九年十二月には、国連総会において、いわゆる「死刑廃止条約」が、賛成五九ヵ国、反対二六ヵ国、棄権四八ヵ国で採択された。日本政府はこれに反対票を投じたが、世界の流れとしてもまた、大勢が死刑廃止に向かっていることは、ほぼ疑いないように思える。
こうしたなかで刊行される本書は、しかし、確信をこめて熱烈に死刑の廃止をうったえるものとはほど遠い。いわば、死刑をめぐるひとつの模索の軌跡である。
わたし自身、これまでに何らかの死刑廃止運動に積極的に参加してきたわけではな>371>いし、死刑廃止のうったえの支えになるような手助けをしてきたわけでもない。それどころか、誤解をおそれずに言うなら、死刑の廃止を熱心にうったえる論者や運動にたいして、かねがね、何かしらしっくりしない気持をいだいてきた。
なるほど、たとえ法律にもとづくものだとしても、人を殺すということが良いことであるとは思えない。いやむしろ、法にもとづく殺人たる死刑は、殺人を禁じている当の法が犯す殺人であるだけに、法そのものにとって自己矛盾であり、法の自殺行為ですらあるだろう。また、近代社会における刑罰の精神は、報復や懲罰にではなく、犯罪をおかした人間の矯正を目的とする教育刑にある、というのも、なるほどそのとおりだろう。無実の被告があやまって死刑を執行されれば取りかえしがつかない、という問題も、死刑に反対する論拠として決して無視するわけにはいかない。これまでに死刑の存続を主張する見解を表明した論者たちでさえ、そのほとんどが、基本的には死刑を「やむをえない必要悪」と見なし、時期がくればいずれかは廃止されるべきもの、と考えているのである。
だから、すすんで死刑制度の存置に賛成するつもりなど、もちろん、わたしにはない。かといってまた、声を大にして死刑廃止を叫ぶだけの信念も根拠も自分にはない、というのが、いつわらぬ気持だった。もしもかりに、政府機関その他が行なう世論調査の対象にたまたまわたしが当たったとしたら、「死刑は廃止すべきでない」に○をつけることなどもちろんなかったにせよ、他人を納得させうるだけの確信と説得力をもって廃止賛成を選ぶことができたかどうか、疑問だったかもしれない。
要するに、死刑制度についてのわたしの気持は未確定だった。さらに言うなら、死刑というものは自分にとって切実に身近な問題ではなかったのだ。死刑制度のことな>372>ど考えなくても、日々の暮らしは成り立っていく。それどころか、日々の暮らしのなかには、ほかに考えなくてはならない問題が山積しているのである。死刑廃止を熱心に叫ぶ声は、遠い世界を吹きすぎる風のように、わたしには感じられた。その風が、強姦殺人も通り魔殺人も存在しない楽園のような世界のなかで吹くものならば、なるほどそれは爽やかな涼風であるだろう。しかし、わたしたちが生きる国家社会は、そのような楽園とはほど遠い。たとえば貧富の格差や社会の差別構造をそのままにした有閑階級のボランティア福祉活動と、いったい死刑廃止運動はどこが異なるというのか――。
さまざまな機会に出逢い共感した友人や知人のなかに、死刑廃止の運動とかかわっている人びとが少なくなかったにもかかわらず、このような疑問は胸を去らなかった。この疑問は、雑誌『インパクション』編集部の強いすすめによって、日本という国家社会の具体的な現代史のなかで死刑制度を見つめなおす作業にとりかかったときも、少しも消えてはいなかった。というよりもむしろ、この疑問をたえず反芻しながら死刑制度と向きあうことを、わたしは自分に課したのである」(pp.371-373)
■書評・紹介
■言及
*作成:櫻井 悟史