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『健康と福祉のまちづくり』

朝日 俊弘 19920315 悠々社,201p.


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朝日 俊弘 19920315 『健康と福祉のまちづくり』,悠々社,201p. ISBN-10: 4946406093 ISBN-13: 978-4946406096 1600 [amazon][kinokuniya]  ※:[広田氏蔵書] m.

■著者

 奥付の「著者紹介」
 「朝日俊弘(あさひとしひろ)
 1943年名古屋市に生まれる。70年京都大学医学部卒業後、兵庫県の公立豊岡病院(精神科・神経科)に勤務。<地域>にこだわり続けながら、精神医療の確立をめざして医療改革運動に積極的に取り組む。75年同病院の労働組合委員長をつとめる。84年自治労本部中央執行委員、同衛生医療評議会事務局長、「医療社会化推進会議」事務局長を歴任。89年「全国医療」事務務局長、厚生省「老人保健審議会」委員。90年自治労中央執行委員、政策局・自治研事務局長。
 著書に『自治体精神医療論』(批評社)、『地域医療計画批判』(批評社)、ブックレット『自治体労働と安全衛生C職場のメンタル・へルス』(自治労安全衛生対策室)がある。」

■引用

 「まえがき

 本書を手にして、これから一人の著者との出会いを試みようとされている読者の皆さんに、あらかじめ著者の自己照介をささせていただくことが、それなりの礼儀ではないかと思うので、冒頭から私事を書き綴らせていただくことをお許し願いたい。
 私が生まれたのは一九四三年、愛知県の名古屋市である。兄弟はたった二人。私はその長男で、現在は弟が両親と隣接して住んでいる。名古屋は今でこそ大都市と呼ぷにふさわしいたたずまいであるが、子どもの頃の記憶からすれば、それはまさしく「大いなる田舎」であった。小学校はその名もなつかしい「野立」小学校。私の母は当時としては相当の「教育ママ」であったのだろう、その母親と担任教師の奨めもあって愛知学芸大学(当時)附属中学校に入学した。通常の校区から遠く離れて通学に一蒔問以上も要する中学校に通うこととなった。
 高校は中学時代の多くの仲間と一緒に県立旭丘高校に入学した。高校時代の前半はもっぱらバスケット・ポールのクラブ活動に明け暮れていた。ところが、二年生の夏休み頃からいささか調子がくるい始めたとでも言おうか? 結局そのままずるずると休学するはめになってしまった。夏の合宿で腰痛(椎間板へルニア)を起こしたことも大きな要因であったが、今から考えると何   不思議な人生の巡り合わせと言うべきであろうか、この時、つまり私にとって二度目の二年生が、現在の共同生活者である妻との最初の出会いの時であった。というわけで高校は四年間かかって卒業できたことになる。
 それでも幸運なことに、大学は京都大学医学部に入学することができた。私の家は医者の家系でもなく、さりとて独り高適な理想に燃えた選択の結果でもなかった。ただ、子供の頃から少々自閉的傾向が強かった私は、研究者としての生き方に対するあこがれのようなものを漠然と抱いていたと記憶している。京都における学生時代には、とうてい簡単には紹介できないほど得難い様々な体験を積み重ねる機会に恵まれた。日本キリスト教団に属するある教会の牧師との出会いも忘れることのできない思い出の一つである。
 卒業の時期が近づき、自ら医師としてどのような選択をしていくのかを自覚し始めたちょうどその頃、医学部のみならず大学全体が当時の学園闘争の中に巻き込まれていった。その中で私自身も医学生・青年医師運動に身を投じていったのは、ある意味で極めて自然な流れでもあった。「自己否定の論理」を前にして、時にはたじろぎなからも、せいいっばい自問自答しながら多くの仲問と語り合い行動したこの時の体験は、今も私の中に脈々と流れていると言ってよい。
 一年遅れで医学部を卒業することとなり、その時、私はほとんど迷うことな   一年遅れで医学部を卒業することとなり、その時、私ははとんど迷うことなく精神科医となることを選択した。しかし大学に残って研究生活に入ることには全く魅力を感じなかったので、医師免計取得と同時に兵庫県の公立豊岡病院に勤務する道を選んだのである。/私が着任した当時の豊岡病院の精神科病棟は、建物は古ぼけて破れガラスが目立ち、しかも数少ないスタッフで多くの患者を閉鎖病棟に収容しており、お世辞にもよい病院とは言えなかった。
 私が着任した当時の豊岡病院の精神科病棟は、建物は古ぼけて破れガラスが目立ち、しかも数少ないスタッフで多くの患者を閉鎖病棟に収容しており、お世辞にもよい病院とは言えなかった。加えて、山陰地方特有の天候、とりわけ冬のどんよりとした重苦しい空が続く毎日に、正直なところ気持ちが滅人ってしまうこともしばしばであった。
 そんな中で、私は知らず知らずのうちに楕神科の看護者とともに労働組合運動に参加し始めていた。労働組合の仲間に請われて労組執行委員長の任を引き受けたりもした。その当時、但馬地労協の支援を受けて「但馬の医療を守る五万人請願署名運動」に取り組んだことは、今でも鮮明に思い浮かべることができる。同時に、自治労の衛生医療評議会運動との関わりを持っようになり、精神医療活動者集会(現在の精神保健集会)にも度々参加するようになった。
 このような関わりの中で、豊岡病院を休職して自治労本部中央執行委員として衛生医療評議会事務局長の任務を六年間お引き受けし、その後、六年間の衛生医療評議会事務局長の任に統いて、政策局で自治研事務局長という新たな任務を担うこととなり、昨年(一九九一年)一〇月には三重県伊勢市を中心に第二四回地方自治研究全国集会を主催した。
 その一方で、医療杜会推進会議の仲間の皆さんとも知り合うことができ、その事務局長という立場から「医僚の杜会化」誌の編集・発行活動に関わってきた。また自治体病院のみならず、そ   もちろん、これらすべての任務は、それぞれに関わってこられた仲間の皆さんの努力と活動の積み重ねがあってこそ、私自身もそれなりの役割を担うことができたものに他ならない。この場をお借りして、この間の活動を支えていただいた皆さんに心から感謝を申し上げたい。

 以上、いささか長々と自らにのみ都合のよい、勝手な自己紹介をさせていただいたのだが、本書はこうした活動のその時々に私なりにまとめて文章化した小論を再収録させていただいたものである。もちろん、可能な限り最近のものを中心に掲載したつもりではあるが、それぞれの文章については、その初出年月を念頭に置きながら読解していただけれぱ、大変ありがたい。
 本書が、多少なりとも今後の医療と福祉の制度改革をめざす運動展開のための一助となれば、これに勝る喜びはない。
  一九九二年 新春
                            朝日俊弘 

■言及

◆立岩 真也 2014/06/01 「精神医療現代史へ・追記3――連載 100」『現代思想』41-(2014-6):-


UP:20140511 REV:
精神障害/精神医療  ◇WHO