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『親密性の変容?近代社会におけるセクシュアリティ、愛情、エロティシズム』

Giddens, Anthony 1992 The Transformation of Intimacy : Sexuality, Love and Eroticism in Modern Societies, Diane Pub Co

=19950725 アンソニー・ギデンズ著 松尾 精文・松川 昭子訳 『親密性の変容?近代社会におけるセクシュアリティ、愛情、エロティシズム』,而立書房


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Giddens, Anthony 1992 The Transformation of Intimacy : Sexuality, Love and Eroticism in Modern Societies, Diane Pub Co
=19950725 アンソニー・ギデンズ著 松尾 精文・松川 昭子訳 『親密性の変容?近代社会におけるセクシュアリティ、愛情、エロティシズム』,而立書房 ,  302p, \2625 ISBN-10: 4880592080  ISBN-13: 978-4880592084 [amazon] [kinokuniya] ※wga01 s00 p04

■紹介
内容(「BOOK」データベースより)
性の解放は、われわれに何をもたらしてきたのか。感情革命の行く末を問う。

内容(「MARC」データベースより)
今日、歴史上初めて女性達-普通の女性達は男性との対等な関係を要求している。その思い描く「純粋な関係性」の構築は、性差に基づく既存の権力形態の打破を暗に意味する。そのような感情革命の行く末を問う本。

■目次
はしがき

序論

1 日々の実験、関係性、セクシュアリティ
   社会変動と性行動
   異性愛、同性愛

2 フーコーのセクシュアリティ論
   セクシュアリティと制度上の変化
   制度的再帰性とセクシュアリティ
   倒錯概念の衰退

3 ロマンティック・ラブ等の愛着
   婚姻、セクシュアリティ、ロマンティック・ラブ
   ジェンダーと愛情

4 愛情、自己投入、純粋な関係性
   ロマンスの追求
   女性、婚姻、関係性
   女性、男性、ロマンティック・ラブ
   ロマンティック・ラブか、ひとつに融け合う愛情か

5 愛情やセックス等にたいする嗜癖
   セックスと欲望
   嗜癖の本質
   嗜癖、再帰性、自己自立
   セクシュアリティにとっての言外の意味
   セクシュアリティと女性の誑し込み

6 共依存の社会学的意味
   共依存の本質
   嗜癖と、親密な関係性の問題点
   親密な関係性、親族関係、親であること
   親と子
   有毒な親?

7 心の迷い、性の悩み
   セクシュアリティと精神分析理論??前置き的見解
   心理社会的発達と男性のセクシュアリティ
   男性のセクシュアリティ、衝動脅迫性、ポルノグラフィ
   男性による性暴力
   女性のセクシュアリティ??相補性の問題
   ジェンダー、親密な関係性、気遣い

8 純粋な関係性のかかえる諸矛盾
   純粋な関係性??破綻と形成
   女性同性愛と男性のセクシュアリティ
   同性愛とその場限りの出会い
     男性と女性??一緒がよいのか、離れていた方がよいのか?
   男女の分離

9 セクシュアリティ、抑圧、文明
   性と抑圧??ライヒ
   ハーバート・マルクーゼ
   性解放の急進論の実現可能性
   制度的抑圧と、セクシュアリティの問題
   強迫観念としてのモダニティ
   性の解放
   結語

10 民主制としての親密な関係性
   民主制の意味
   個人生活の民主化
   メカニズム
   セクシュアリティ、解放、生きることの政治

訳者あとがき


■引用等
太字見出しは作成者による
この論考ですること
この論考で、私は、ジェンダーによる不平等が経済や政治の分野でどれほど存続しているかを分析したいのではない。むしろ、女性たちが??自分はフェミニストであると自覚している女性集団はもとより、毎日の暮らしに忙しい普通の女性たちが??極めて重要な、また一般化が可能な変化を切り開いてきた、そうした感情的秩序の問題に焦点を当てていきたいのである。これらの変化は、「純粋な関係性」、つまり、性的にも感情的にも対等な関係が実現できる可能性を探求することと本質的に結びついているが、そうした対等な関係性の構築は、性差にもとづく既存の権力形態の打破を暗に意味しているのである。(p.12)

性の二重の道徳規範
しかし、従来、女性はほとんどの場合、貞淑な女か尻軽な女かに分けられ、「尻軽女」は世間体を重んじる社会の周縁にのみ存在してきた。「貞淑さ」とは、女性が性的誘惑に屈するのを拒否すること、つまり、付添いの婦人が同行する未婚男女の交際や、妊娠したために無理やりおこなう結婚等の、さまざまな制度的庇護によって支えられた拒否というかたちで、長い間定義づけられてきたのである。
 他方、男性の場合、身体の健康のために数多くの女性と性関係をもつ必要があると、昔から??しかも、男性だけでなく女性からも??考えられてきた。男性が結婚前に多彩な性的出会いをもつのは、一般に好ましいとされ、また、結婚後も実際には男性と女性とで異なる、性の二重の道徳規範が働いてきた。(p.19)

「関係性」の同性愛者における先行性
同性愛者は、女性も男性も、この関係性という言葉が一人ひとりの生活に当てはめられた際に今日担うようになってきた意味合いでの間柄を築いていく上で、ほとんどの異性愛者に先行していた。なぜなら、同性愛者たちは、伝統的に確立された婚姻という枠組みをもたずに、相対的に対等な立場で相手と「折り合って暮らして」いかなければならなかったからである。(p.31)

「抑圧仮説」とフーコーの批判
 フーコーは、その著書『性の歴史』で、いまや有名な表現となった、フーコーのいう「抑圧仮説」を厳しく批判していった。抑圧仮説によれば、近代の諸制度は、そのもたらす便益にたいして代償の支払いを??つまり、抑圧の増大を??われわれに強いている。文明とは規律を意味し、さらに規律は、統制が有効に働くためには内面的なものでなければならないため、内的衝動の抑制を暗に意味している。モダニティについて論ずる人は誰でも、超自我について論ずることになる。フーコー自身も、初期の著作では多少これに類似した見解を容認していたようで、近代の社会生活が、たんに監獄や保護施設だけでなく、たとえば企業や学校、病院といった他の組織体にも特徴的な「規律を強いる権力」の高まりと、本来的に密接に関係していると考えていった。規律を強いる権力は、欲望に促されて気ままに行動できるというより、むしろ活動を管理、規制された「従順な人びと」をおそらく生みだしてきたのである。
 この場合、権力は、とりわけ束縛する力として出現した。しかしながら、フーコーも結局は認識するに至ったように、権力は、たんに制約を加えるだけでなく、人びとを可動する現象でもある。だから、規律を強いる権力の支配下にある人たちは、そうした権力にたいしてとる態度の面で、必ずしも従順ではない。それゆえ、権力は、快楽を生みだす手段ともなりうる。つまり、権力は、たんに快楽と敵対するだけのものではないのである。「セクシュアリティ」を、たんに社会的な力が抑制しなければならない衝動というかたちでのみ理解すべきではない。むしろ、セクシュアリティは、「権力関係へのとりわけ稠密な転移点」、つまり、権力を注入されることでセクシュアリティが生成するまさにそのエネルギーをとおして、社会的統制の焦点として利用できるものなのである。(pp.34-35)

→参考・立岩真也「死/生の本・5??『性の歴史』」

「セクシュアリティ」という語
 フーコーが言うように、「セクシュアリティ」は、確かに十九世紀に入って初めて出現した用語である。この言葉は、早くも一八〇〇年には生物学や動物学の専門用語として存在していた。しかし、すでに十九世紀末近くには、今日われわれが使うのとかなり近い意味で??つまり、『オックスフォード英語辞典』が「性的であること、あるいは性を有することの特質」と規定するような意味合いで??広く用いられていた。セクシュアリティという言葉は、一八八九年に出版された、なぜ女性が男性のかからない種々の病気になりやすいのか??女性の「セクシュアリティ」によって何らかに説明されることがら??を問題にした書物のなかで、こうした意味合いですでに登場していた。(p.41)

フーコー批判
 セクシュアリティとは、権力の領域のなかで機能する社会的構成概念であり、直接的に解放が得られるとか得られないという、たんなる一連の生物学的刺戟ではない。しかしながら、ヴィクトリア朝時代のセクシュアリティに「魅了された状態」からごく近年に至るまでの間に、ほぼ一直線の展開を見いだすことができるとするフーコーの主張は、私には容認できない。ヴィクトリア朝時代の医学文献が暴露し、その結果事実上周縁に追いやっていったセクシュアリティと、今日数多くの書物や論文等が記述する日常的な現象としてのセクシュアリティとの間には、著しい差異がある。さらに、ヴィクトリア朝以後の時代に抑圧が見られたことは、とりわけ歴代の女性たちがいずれも証言するように、いくつかの点で明らかに事実なのである。
 かりにフーコーが展開するような、権力と言説、身体だけが動かす力であるような包括的な理論的立場にとどまる限り、これらの論点について理解していくことは、不可能ではないにしても難しい。権力は、フーコーの著作では不可解なかたちで登場し、また、歴史は、人間という主体が能動的に獲得していったものというかたちでは、ほとんど現われてこない。それゆえ、セクシュアリティの社会的源泉に関するフーコーの議論には同意するものの、それを、異なった解釈の枠組みのなかに当てはめていきたいのである。フーコーは、ジェンダーについて考慮せず、過度にセクシュアリティを強調している。フーコーはまた、家族の変容と密接に関連していった現象であるセクシュアリティとロマンティック・ラブとの結びつきについて、何も言及していない。さらに、セクシュアリティの本質に関するフーコーの議論は、主として言説の??それもどちらかといえば、この問題についての限定された言説の??レヴェルにとどまっている。そして最後にもう一つ挙げれば、モダニティとの関連でフーコーがおこなった自己についての概念形成には、疑義をさしはさむ必要がある。(pp.41-42)

人口とセクシュアリティ
「家庭」は、労働とは区別された独自の生活環境として出現し、そして、少なくとも原理的には、職場が有す道具的特質とは対照的な、一人ひとりが情緒的な支援を期待できる場となっていったのである。このことがセクシュアリティにとってとくに重要な意味をもつのは、事実上前近代のすべての文化に特有に見られた、子どもは大勢でなければならないという圧力が、家族規模を厳しく抑える傾向に屈していった点である。このことは、一見面白くもない人口統計のデータに思えるが、セクシュアリティに関する限り、歴史的変化の引き金となっていった。大多数の女性にとって、セクシュアリティを、妊婦と出産の絶え間ない繰り返しから初めて切り離すことが可能となったからである。(pp.45-46)

自由に塑型できるセクシュアリティ
 セクシュアリティは、性が生殖という要務から段階的に分化していく過程の一環として生じていった。その後の生殖技術のより一層の精緻化にともない、性と生殖の分化は、今日では行き着くところまできている。妊娠を人為的に抑制するどころか、人為的に受胎させることがいまや可能になったために、セクシュアリティはついに完全に自立していったのである。生殖は、性的活動なしに生ずることが可能になった。このことは、セクシュアリティにとって最終的な「解放」であり、それゆえ、セクシュアリティは、完全に一人ひとりが有し、他者と互いに取り交わす関係の特性となりうるのである。
 生殖や親族関係、世代関係との古くからの一体的結びつきから切り離された《自由に塑型できるセクシュアリティ》の創出は、この数十年間に生じた性革命の前提条件であった。(p.47)

セクシュアリティと制度的再帰性
 性をめぐる展開について分析する際、言説が、その言説が描写する社会的現実の構成要素となっていくとフーコーは主張しているが、その点は確かに正しい。セクシュアリティを理解するために新たな用語がひとたび生まれると、そうした用語によって表現される認識や概念、理論は、社会生活それ自体のなかに次第に浸透していき、その結果、社会生活を新たに秩序づける働きをしていくからである。とはいえ、フーコーにとって、こうした一連の過程は、「権力知」の、社会組織体のなかへの、果断な、一方的な侵入のように思えたのである。われわれは、セクシュアリティと権力の結びつきを否定することなく、この現象をむしろ《制度的再帰性》のひとつとして、また、絶えず作動していく過程として理解していく必要がある。この現象は、それが近代という時代状況のなかで社会活動を構成する基本的な要素であるため、制度的である。また、社会生活を記述するために導入された用語が??自動的な過程でもないし、また必ずしも統制されたかたちでもなく、そうした用語が個人や集団の取り入れる行為の枠組みの一部になっていくからであるが??社会生活のなかに日常的に入り込み、社会生活を変容させていくという意味で、この現象は、再帰的自己自覚的なのである。(pp.48-49)

 近代社会における自己の発達についてのフーコーの解釈にもまた、かなり基本的な点で疑義を差しはさむ必要がある。われわれは、自己を、特定の「テクノロジー」が構成するものと見なすのではなく、自己のアイデンティティが近代の社会生活において、とりわけ近年において著しく不確かなものになっている点を認識していくべきなのである。再帰性の高い社会に見いだす基本的な特徴は、自己のアイデンティティが「開かれている」ことと、身体の再帰性である。(p.51)

フロイトの意義
 フロイトの研究の意義は、近代という時代が性に没頭している状況について、最も得心がいく、明確な論述をおこなった点にあるのではない。むしろ、フロイトは、セクシュアリティと自己のアイデンティティとの結びつきがまだまったく不明瞭であった頃に、両者の結びつきを暴き、同時に両者の結びつきが問題をはらむことを明らかにしていったのである。<中略>とはいえ、精神分析の明らかな重要性は、精神分析が、再帰的自己自覚的に秩序づけられた自己についての叙述を創り出すための場と、そのための豊富な理論的概念的手段となっていることになる。療法の場面では、それが旧来の精神分析の場であろうとなかろうと、人びとは、自分の過去を現在の切迫した状況に「合致」させることが(原則的に)可能になり、自分が相対的に満足できるように感情の筋書きをひとつにまとめることができるようになるからである。(pp.51-52)

身体の再帰性
 自己に当てはまることは、身体にも当てはまる。身体は、ある意味で??これから確認していかなければならないが??明らかにセクシュアリティの領分である。今日、身体は、セクシュアリティや自己と同様、著しく再帰性を注入されている。人びとは、身体を、つねに飾り立てて愛玩の対象にし、また時にはより高い理想を求めて手足等を切断したり、絶食をしてきた。とはいえ、こうした旧来の没頭とは明らかに異なるかたちで、身体の外見や管理に今日われわれが寄せている関心は、どのように説明できるのであろうか?フーコーはこの疑問に答えを出しているが、それは、セクシュアリティを引き合いに出した答えである。近代社会は、前近代社会とはまったく対照的に、人間の生に中心をおく権力の生成に依存していると、フーコーは言う。しかしながら、この点はせいぜいの半面の真理でしかない。確かに身体は、統治権力の焦点となっている。しかし、それ以上に重要なのは、身体が自己のアイデンティティの歴然たる担体となり、一人ひとりのおこなうライフスタイルの決定とますます不可分になっている点である。(pp.52-53)

情熱的恋愛
 「情熱」という言葉が??宗教的熱情を意味していた古くからの用法とは明らかに異なり??世俗的な意味合いで用いられるようになったのは、おおむね近代に入ってからであるが、情熱的な愛情を、つまり《情熱恋愛》を、愛情と性的愛着とがひとつに結びついていったことの現われと見なすのは理にかなっている。情熱的愛情の著しい特徴は、現実にあつれきの生じやすい日々の型にはまった行いから、情熱的愛情が徹底的に切り離されている点である。相手にたいする感情的没頭は??そうした没頭が非常に強いため、その人は、あるいは双方とも、自分たちの通常の務めを無視するかもしれないほど??強く働いていくのである。情熱的愛情には、その熱狂さの点で宗教的なものにもなりうるような、人を魅了していく側面がある。(p.62)

ロマンティック・ラブ
 十八世紀以降人びとの間でその重要さが認識され始めたロマンティック・ラブは、一方でこうした理想にもとづき、また《情熱恋愛》の要素を取り入れていったが、にもかかわらず両者とは別個のものとなっていった。ロマンティック・ラブは、一人ひとりの生に物語性という観念??崇高な愛情の有す再帰性を徹底的に拡大していった手段??をもたらしたのである。物語ることは、「ロマンス」という言葉の担う意味のひとつであるが、この物語性が、次に個別個人化し、より広い社会過程と格別何の結びつきももたない身の上話のなかに自己と他者を挿入していった。ロマンティック・ラブの高まりは、小説の登場とほぼ同時に生じ、両者の結びつきは、新たに見いだされた叙述形式のひとつとなっていったのである。(pp.64-65)

ロマンス
 「ロマンス」という観念は、その言葉が十九世紀に呈するようになった意味合いでいえば、社会生活全体に影響を及ぼした世俗的変化を言い表わすとともに、そうした変化をも促進させていったのである。モダニティは、物理的社会的過程の理性にもとづく理解が、神秘主義やドグマによる恣意的支配に当然とって代わっていくという意味で、理性の優位性と不可分な関係にある。理性には感情の入り込む余地が存在せず、感情は、たんに理性の領域の外側に位置するにすぎない。しかし、現実には、感情的生活は、日々の変わりゆく活動条件のなかで新たに秩序づけられていったのである。<中略>十八世紀以降一般に理解されていった「ロマンス」は、天の定めという先行する概念構成の余韻を依然とどめていたが、そうした余韻と、開かれた未来を求めていく気持ちとを一体化させていったのである。ロマンスは、かつて一般にそうであったような、虚構の世界のなかで魔法でも用いたかのように未来への可能性を導き出すものではもはやなくなっていった。それどころか、ロマンスは、人びとにとって(主として)ロマンスがその人の生に感動を与えていく、そうした心理的安心感の一形態となっただけでなく、未来を統制するための潜在的手段ともなっていったのである。(pp.66-67)

ロマンティック・ラブは、一方で《情熱恋愛》の残滓を保ちながら、《情熱恋愛》とは別個のものとなっていった。《情熱恋愛》は、ロマンティック・ラブが十八世紀後半の頃から比較的近年に至るまでそうであったような、包括的な社会的勢いをもつことが決してできなかった。ロマンティック・ラブの普及は、他の社会変動とともに、個人生活の他の脈絡だけでなく結婚生活にも影響を及ぼしていった重大な転換と、密接に関連していたのである。ロマンティック・ラブは、自己への問いかけをある程度想定している。自分は相手のことをどう思っているのだろうか?相手は自分のことをどう思っているのだろうか?二人の思いは、長期に及ぶ親密な関係を十分支えられるほど「心底深い」ものだろうか?《情熱恋愛》にも、所在定まらず漂白するような面があるが、ロマンティック・ラブは、《情熱恋愛》と異なるかたちで、人をより広い社会生活環境から解き放していく。ロマンティック・ラブは、期待を寄せることはできるが、どのようにも変わりうる未来を志向していく、そうした人生の長い道筋を人びとにもたらしていった。また、ロマンティック・ラブは、夫婦関係を家族組織の他の側面から切り離し、夫婦関係を最重要視する「共有の歴史」を創り出していったのである。(pp.71-72)

ロマンスの追求
 女の子たちの語った話のなかに見いだす中心的テーマは、トンプソンが「ロマンスの探求」と称するものであった。ロマンスは、性的出会いが結果的に究極の愛情関係を獲得する上での回り道であったと見なすことができるように、セクシュアリティを予想される未来に適合させていくのである。かりにロマンスが避けがたい運命の探求であるとすれば、セックスは、いわば点火装置である。とはいえ、この場合、ロマンティック・ラブの追求は、強く求めた関係性が生ずるまで性的活動を延期することではもはやない。新しい相手と性関係をもつことは、捜し求めていた運命的出会いの始まりとなるかもしれないが、おそらくそうはならないのである。(pp.78-79)

純粋な関係性
 相手との緊密な、変わらない情緒的きずなを意味する「関係性」という言葉は、比較的近年になって一般に使われるようになったにすぎない。ここでの問題点を明確にするため、こうした現象を指称するのに《純粋な関係性》という用語を、私は導入していきたい。純粋な関係性とは、性的純潔さとは無関係であり、また、たんなる記述概念ではなく、むしろ限定概念である。純粋な関係性とは、社会関係を結ぶというそれだけの目的のために、つまり、互いに相手との結びつきを保つことから得られるもののために社会関係を結び、さらに互いに相手との結びつきを続けたいと思う十分な満足感を互いの関係が生みだしていると見なす限りにおいて関係を続けていく、そうした状況を指している。(p.90)

ロマンティック・ラブと純粋な関係性との対立、ひとつに融け合う愛情
 今日、ロマンティック・ラブという理想は、女性の性的解放と自立を求める圧力のもとで崩壊する傾向にある。ロマンティック・ラブにたいする抑圧されたこだわりと純粋な関係性との対立はさまざまなかたちで現われたが、そうした対立は、いずれも世間の目には次第に制度的再帰性の増大として示されていく傾向がある。ロマンティック・ラブは、自己投影的同一化ができるか否かに、つまり、将来パートナーとなる人どうしが互いに心をひかれ、強く結ばれるようになるための手段である《情熱恋愛》という自己投影的同一化が図れるか否かにかかっている。この場合、自己投影は相手との一体感を生みだすが、こうした感覚は、互いにアンチテーゼというかたちで定義づけがおこなわれてきた男性性と女性性との、既成の差異によって明らかに強化されている。相手の人格的特徴は、ある種の直観によって「認識されていく」のである。しかしながら、別の観点から見れば、自己投影的同一化は、その持続が親密さに依存している関係性の発達を妨げることになる。相手にたいして自分をさらけ出すことは、つまり、私のいう《ひとつに融け合う愛情》のための条件は、たとえ自己投影的同一化によって《ひとつに融け合う愛情》が生じていく場合があるとしても、こうした自己投影的同一化とはある意味で反対のものなのである。(pp.94-95)

ひとつに融け合う愛情が現実の可能性としてさらに強まれば強まるほど、「特別な人」を捜すことは次第に重要でなくなり、「特別な関係性」こそが重要になっていくのである。(p.95)

しかし、《現実には》ロマンティック・ラブは、権力によって徹底的に歪曲されてきた。女性たちにとって、ロマンティック・ラブという夢は、残念ながらほとんどの場合、家庭生活への容赦ない隷属をもたらしていったのである。ひとつに融け合う愛情は、対等な条件のもとでの感情のやり取りを当然想定しており、こうした想定が強まれば強まるほど、個々の愛情のきずなは、いずれも純粋な関係性の原型に限りなく近づいていく。(p.96)

男性と親密な関係性の変容からの排除
見た目とは裏腹に、男性は??これから詳しく調べていかなければならない点がいくつかあるとはいえ、おそらく大多数の女性以上に??確かに愛情を欲している。なぜなら、公的領域における男性の位置づけは、親密な関係性の変容からの締め出しという代償を支払うことで獲得できたからである。(p.103)

嗜癖
 嗜癖は、衝動強迫的であるが、決して取るに足らぬ儀式ではない。嗜癖は、その人の生活に広範囲に及ぶ影響をもたらしていく。嗜癖は、さきに言及した行動のそれぞれの様相はもとより、それ以外の様相をもともなっている。嗜癖は、衝動強迫的に没頭する様式化された習慣であり、中断した場合手に負えない不安感を生じさせるものと定義づけできる。(p.109)

→嗜癖に見られる固有な特徴 1「高揚感」 2「執着」 3「短期間の活動停止状態」 4再帰的自己自覚的関与の一時的放棄 5自己喪失感の後の羞恥心や良心の咎め 6「特別な」体験という感覚 7自己自律性の病理、そのまま放置されるか、厳しく抑制されるか

 嗜癖とは、その人の日々の生活の重要な要素を??さらにまた、自分自身を??特定の仕方で掌握していくことである。嗜癖に特有な重要な点は、次のように理解できる。嗜癖は、伝統が以前にもまして徹底的に一掃されており、また、それに相応して自己という再帰的自己自覚的達成課題がとりわけ重要な意味を呈するようになった社会の観点から、理解していく必要がある。既存の様式や習慣がその人の生活の大部分をもはや規定していない状況では、人はライフスタイルの選択を、何とかやり遂げることを絶えず余儀なくされている。その上??この点が決定的に重要であるが??そうした選択は、たんに一人ひとりのとる態度の「外面」ないし識閾的側面であるだけでなく、その人がどういう人間「である」のかも規定していく。言いかれば、ライフスタイルの選択は、自己の再帰的自己自覚的叙述の主要な構成要素なのである。(pp.113-114)

 伝統的秩序の後にくる社会秩序において人びとは、自己についての叙述を、現実に絶えず書き直さなければならないし、また、かりに人が人格的自立を生きる上での安心感と結びつけていく必要があるのであれば、ライフスタイルの実践は、そうした自己の記述に沿うものでなければならない。とはいえ、自己実現の過程は、ほとんどの場合、断片的で限定されている。したがって、嗜癖が潜在的に非常に広範囲に及んでいることは、意外でもない。ひとたび制度的再帰性が普段の社会生活のほぼすべての領域に及んでしまえば、ほとんどの行動様式や習慣は、すべて嗜癖になる可能性があるからである。嗜癖という観念は、伝統文化ではほどんと意味をなさなかった。なぜなら、伝統文化では、昨日したことを今日もおこなうのが普通だったからである。(pp.114-115)

自己という再帰的自己自覚的達成課題の観点からみれば、嗜癖は、選択と対置できる行動である。(p.117)

セクシュアリティ
今日、男女双方にとって、セックスは、親密な関係性にたいする期待を??ないしは、恐れを??つまり、それ自体が自己の根源的な部分に密接に関係するものをともなっている。(p.119)

カサノヴァ
 とはいえ、前近代の文化では、二人以上の妻を娶ることは、性的征服とはほとんど何の関係もなかった。複婚制の社会は、ほぼすべて協定結婚の方式をとってきた。妻を複数娶るためには、物質的な富や社会的威信を必要とし、また、妻が複数いることはそうした富や威信の表出でもあった。同じ点は、蓄妾が制度として公認されている社会では、妾の場合にも言えることである。カサノヴァは、前近代の文化には居場所がなかった。カサノヴァは、近代という新たな時代に入った社会が生んだ人物なのである。〔中略〕男性たちは、愛情を欲しているのであろうか?それはともかく、確かにある意味で愛情こそが、まさしくカサノヴァの生きることの目的であったのである。(pp.124-125)

共依存と固着した関係性
 争点になっている概念を、私は次のように整理しておきたい。共依存症の《人》とは、生きる上での安心感を維持するために、自分が求めているものを明確にしてくれる相手を、一人ないし複数必要としている人間である。つまり、共依存症者は、相手の欲求に一身を捧げていかなければ、みずからに自信をもつことができないのである。共依存症的《関係性》は、同じような類の衝動強迫性に活動が支配されている相手と、心理的に強く結びついている間柄なのである。関係性そのものが嗜癖対象となっている間柄を、《固着した》関係性と、私は称していきたい。固着した関係性では、人は、相手がすでに形づくっている嗜癖を中心にみずからの生活を築き上げていくのではない。むしろ、その人たちは、もしそうでなければ充足していくことができない安心感を充たすために、そうした間柄を必要としているのである。固着した関係性は、最も良性な場合には、習慣というかたちで確固不動なものとなっていく間柄である。こうした関係性は、当事者がさまざまなかたちの相互反目と結びついていった場合、より一層手に負えないものとなる。なぜなら、当事者は、そうした反目からみずから脱していくことができないからである。(pp.135-136)

純粋な関係性と固着した関係性
 心理療法というかたちで嗜癖的関係性から人びとが離脱する手助けをしている人たちの研究成果は、この場合もまた、嗜癖的関係性に影響を及ぼしている構造的変容について知る手がかりとなっている。この点でいま一度、純粋な関係性が、ただたんに自己という再帰的自己自覚的達成課題やひとつに融け合う愛情の範型と緊密に結びついているだけでなく、次第に中心的な役割を占めていくのを見いだすことができる。嗜癖的きずなは、(1)純粋な関係性にとって必要不可欠な、自己と他者とのモニタリングを許さず、(2)自己のアイデンティティを、相手のなかか、あるいは固着化した日々の型にはまった行いのなかに没入させ、(3)親密な関係性の前提条件となる、相手にたいする例の自己開示を妨げ、(4)ジェンダー間の不平等な差異や性の習わしを温存していく傾向がある。(pp.136-137)

個人的境界
 個人的境界を定めることは、非嗜癖的関係性を築くための必須の原則と見なされている。なぜであろうか?この疑問にたいする答えもまた、自己とその再帰的自己自覚性に直接関係している。境界は、心理学的に言えば、何が誰に帰属しているかを規定しており、それによって自己投影的同一化の及ぼす影響を減殺していくことができる。関係性のなかでの明確な境界は、ひとつに融け合う愛情にとっても親密な関係性の維持にとっても、明らかに重要である。親密な関係性とは、相手に夢中になるのではなく、相手の特質を知り、それを自分自身の特質に活かしていくことである。相手に心を開くためには、逆説的ではあるが、個人的境界が必要である。なぜなら、相手に心を開くことは、気持ちの通じ合いをどのように計るかという問題になるからである。〔中略〕関係性のなかで人びとが育む率直な心と傷つきやすい感情、信頼感とのバランスは、個人的な境界がこうした気持ちの通じ合いを促すよりも、むしろ妨げるような障壁になるか否かを左右していくのである。
 こうしたバランスはまた、権力のバランスを想定している??この点は、純粋な関係性が、それのもたらす親密な関係性の生ずる見込みとともに、女性の自立性の増大と自由に塑型できるセクシュアリティとの双方に依拠し、もはや性の二重の道徳規範とはなぜ結びついていかないのかを説明している。(p.142)

過去からの絶縁
 大人どうしの崩壊してしまった関係性での「去らせる」と、たとえばニッキのような大人を、子どもの頃の出来事や心の傷に強迫衝動的に巻き込まれている状態から解放しようとする努力を比較するのは、さほど奇抜なことではない。いずれの場合も、過去の心理状態を知覚的にも感情的にもあるがままに受け入れ、自己の叙述を書き直していく過程をともなっているからである。また、いずれの場合も、「過去との絶縁」の失敗は、同じような行動様式が繰り返されていくことをおそらく意味し、自立的な自己発達を発展させるよりも、むしろ悪循環を形成していく。「みずからの愛情ショックという経験に立ち向かい、関係性のなかで何がうまくいかなかったかを学ぶことは、苦悩を自己の成長の糧に変え、次の機会に関係性をより高めることができる洞察力や対処能力をその人にもたらしていく」からである。(pp.156-157)

有害な親の問題
 ここで、この章全体を貫いている何本かの議論の筋道をひとつにまとめることができよう。有害な親の問題は、自己という再帰的自己自覚的達成課題と純粋な関係性、さらに個人生活再構築のための新たな倫理綱領との、相互の結びつきについて明確な洞察をもたらしている。親からの「感情面での独り立ち」を宣言することは、同時にまた自己についての叙述を改めるための、また(たんに責任を道理にかなったかたちで受け入れていくためだけでなく)みずからの権利を主張するための手段ともなる。だから、その人の行動は、もはや子どもの頃の型にはまった行いを衝動強迫的に再演するというかたちで組成されてはいかなくなる。この点で、大人になってから形成される嗜癖を克服していく問題と明らかに類似性が見られる。なぜなら、そうした嗜癖は、それ自体ずっと以前の段階で確立した習慣に通常由来しているからである。
 有害な親のもとで育った経験は、その人が心安らかな気持ちになることができる「伝記風の説明」となるような、自己に関する叙述を生みだすのを妨げている。そのことの重要な帰結のひとつに、普通は無意識な、あるいは自覚していない羞恥心のかたちをとる、自尊心の欠如がある。さらにもっと基本的な帰結は、その人が、感情的に対等な存在として他の大人に接していくことができなくなる点である。有害な親のもとで育った経験からの脱出は、ある種の倫理上の原理や権利の主張と不可分な関係にある。子どもの頃の体験を振り返ることで親との関係性を変えようと努めている人たちは、実際には権利を主張しているのである。(pp.163-164)

男性のセクシュアリティ
 こうした既存の社会形態が??いずれも影響力を依然保持しているとはいえ??崩壊するにつれて、男性のセクシュアリティは、ますます問題をかかえ、ほとんどの場合衝動強迫的なものになっていくと想定せざるをえなくなっている。男性の性の衝動強迫性は、前章で指摘したように、かつての支持基盤を失ってきた日々の型にはまった行いを、取り付かれたように、しかも不安的なかたちで無意識に行動に表わしていくことと解釈できる。男性の性の衝動強迫性は、少なくとも近代という時代が生み出した公的制度領域から見ていった場合、モダニティそれ自体がたどる「漂泊の旅」に匹敵するものを??統制と感情的距離に関係していくが、潜在的暴力によって縁取られた「漂泊の旅」を??形づくっているのである。(p.168)

ポスト構造主義的「本質主義」批判批判
 「本質主義」批判は、少なくとも私見によれば、見当違いの言語理論にもとづいている。確かに、意味は、差異によって定義づけができる。しかし、意味は、記号表現の果てしない浮遊のなかではなく、使用習慣という実際的な脈絡のなかで定義づけがなされていくのである。言語のコンテキスト依存性を承認すると、アイデンティティの連続性が消失してしまうなどということは、論理的に考えても絶対にありえない。「本質主義」の提起する疑問は、自己のアイデンティティがいかに空虚で、断片的なものであるかという点や、男性と女性を区別しがちな包括的特質がどの程度まで存在するのかという経験論的争点を除いては、人を欺くものなのである。(p.171)

今日とくに重要なのは、母親の愛情が??かりに少しでも与えられる場合には??極めて重要になると同時になしで済ますことができる状況のもとで、男性のセクシュアリティにとって格別緊張にみちた帰結が生じている点である。確かにペニスは勃起した男根になる。しかし、勃起した男根による権力を維持していくために、その権力の表出がますますペニスに、もっと正確に言えば、性器セクシュアリティに集中してきているのが、今日の状況なのである。
 近代社会における男性性をこのようなかたちで理解していくことは、男性の性の衝動強迫性の典型的な形態を解明する一助となる。多くの男性は、女性たちを精査することで自分自身に欠けているものを探し求めたいという衝動に駆られていく??それは、あからさまな怒りの発作や暴力というかたちで表出してくる欠乏感なのである。〔中略〕多くの男性は、民主化と新たな秩序の構築とがより一層進行していく一人ひとりの生活領域と折り合いをつけさせてくれる、そうした自己についての叙述を組み立てることができなくなっていると言うべきなのである。(p.175)

ソフトポルノの主題と女性の性的快楽
 こうした挿話には、あるテーマが広く浸透している。そのテーマとは、実際には男性ではなく女性の、しかも通例きわめて特有なかたちで提示されていく性的快楽である。こうした挿話は、女性が性行為のなかで経験する恍惚状態を話題にしているが、それは、つねに勃起した男根による支配のもとでの恍惚状態である。女性はすすり泣き、あえぎ、身を震わすが、男性は、次々に生ずる事態に黙々と最大の効果が得られるよう対処していく。女性の示す歓喜の表情は、男性の歓喜にどれほど言葉を割いたとしても、それとは比較にならないほど熱心に微に入り細に入り描写されていく。女性が恍惚状態に達することを少しも疑っていないのである。しかしながら、こうした挿話の言わんとするところは、女性の性的快楽の源やその本質について理解したり感情移入したりすることではなく、むしろ女性の快楽を飼い慣らし、隔離していくことにある。これらの挿話は、女性の示す反応という観点からそこで展開する出来事を描写していくが、女性の欲望が、男性のそれと同じようにその場限りのものであるかのように描写していく。したがって、男性たちは、女性が何を欲しているのか、女性の欲望にどのように対処すればよりのかを、男性自身の観点から知るようになるのである。(pp.179-180)

ハードポルノ
ソフトポルノがなぜ多くの人びとの興味を引いていくのかは、もっと露骨な性描写の出版物が一般に市販されていないという現実からではなく、むしろこうしたソフトポルノの常態化効果によっておそらく説明できよう。たとえハードポルノの露骨な描写が男性の「探究心」を一見ほぼ完全に満たしているように思えるとしても、少なくとも一部のハードポルノは、男性にとって明らかに脅威的存在となっている。ハードポルノが描く権力は、「支配される側の同意」??つまり、女性の共犯者的な眼差し??によってもはや規制されず、もっと公然と、あからさまに暴力的に押し付けられたものとして登場するからである。(pp.180-181)

 近代社会では、事情は明らかに異なっている。女性は、いまだかつてないほど頻繁に匿名性の高い公の場で生活し、働いており、男女を遮断してきた「分離し、かつ不平等な」隔壁は実質的に崩壊してしまった。男性の性暴力が性的支配の基盤をなしているというとらえ方は、以前よりも今日においてより大きな意味をもつのである。言いかえれば、今日、男性の性暴力の多くは、家父長制支配の連綿とした存続よりも、むしろ男性のいだく不安や無力感に起因しているのである。暴力は、女性の共犯関係の弱まりにたいする破壊的反応なのである。(p.183)

親密な関係性と女性
親密な関係性とは、何よりもまず平等な対人関係のもとで他の人びとや自分自身とおこなう気持ちの通じ合いの問題である。女性たちは、近代という時代の感情革命の支持者としての役割を演ずるなかで、親密な関係性の領域が拡大するための道筋を下準備してきたのである。特定の心理学的性向は、対等な権利の要求を可能にした物質的変化がそうであったように、こうした親密な関係性の領域が拡大していく過程の条件となってきたし、またそうした変化過程の結果でもあった。(pp.194-195)
純粋な関係性の構造的矛盾
 純粋な関係性は、相手にたいする自己投入を中心に展開するため、ハイトの研究で回答を寄せた多くの女性たちが認めているように、構造的矛盾を内包している。自己投入を生みだし、共有の歴史をつくり出す、一人ひとりが相手のために尽くしていく必要がある。つまり、その女性は、二人の関係性が無期限に維持できる、いわば保証のようなものを、言葉や行いで相手に与えなければならないのである。しかしながら、今日の関係性は、かつて婚姻関係がそうであったに、ある極端な状況を除けば、関係の持続が当然視できる「おのずと生じていく状態」ではない。純粋な関係性の示す特徴のひとつは、いつの時点においてもいずれか一方のほぼ思うままに関係を終わらすことができる点にある。関係性を十分長続きさせるためには、自己没入が必要である。しかしながら、無条件で相手に自己投入が必要である。しかしながら、無条件で相手に自己投入していく人は誰でもみな、かりに万一関係が解消した場合に、将来きわめて大きな精神的打撃というリスクを冒すことになるのである。(pp.204-205)

「とても単純なことだったのです。……バーにいる人誰でも、お母さんに会わせるために家に連れていくことができるような人と、知り合いになるつもりはなかったのです」。(p.216)

同性愛と家父長制
男性の同性愛者は、女性同性愛者と同様、婚姻と一夫一妻婚を伝統的な異性愛というかたちでくくることに異議を唱えているのである。制度化された婚姻関係のなかで従来理解されてきたように、一夫一妻婚は、つねに性の二重の道徳規範と、それゆえ家父長制と結びついてきた。一夫一妻婚は、男性にたいする規範の要求であったが、多くの男性は、不履行というかたちで一夫一妻婚に敬意を表わしてきた。しかしながら、自由に塑型できるセクシュアリティと純粋な関係性からなる世界では、一夫一妻婚は、自己投入と信頼という脈絡のなかで「書き改めていく」必要がある。一夫一妻婚とは、関係性そのものではなく、信頼感の基準としての性的排他性を指している。「貞節さ」は、相手にたいする信頼が想定する、例の高潔さの一側面であることを除けば、何の意味ももたないのである。(p.218)

異性愛婚姻と純粋な関係性
異性愛婚姻は、社会秩序において表向きは依然中心的位置を保ちつづけていくように見え、女性の同性愛関係についてさきにおこなった議論を、どう見ても周縁的なものにしていく。現実には、異性愛婚姻は、純粋な関係性や自由に塑型できるセクシュアリティの高まりによって相当程度蝕まれている。かりに従来正統とされてきた婚姻が、実際にそうなり始めているとはいえ、他の多くのライフスタイルのひとつにすぎないというとらえ方がまだ広くなされていないとすれば、それは、ひとつには制度的遅滞からであり、またひとつには、男女のそれぞれの心的発達が異性に関して生みだす魅了されたい気持ちと嫌悪感が複雑に交錯しているからである。純粋な関係性が一人ひとりの生き方の模範的形態になればなるほど、こうした一群の逆説的態度がますます見た目にも明らかになっていく。純粋な関係性は、さまざまな形態の依存関係や、さらには共依存を生み出すが、それは同時に、さきに述べたような分離を引き起こす帰結をもたらしているのである。(pp.229-230)

ライヒ
 多くの人びとは、ライヒが後半生におこなった研究を、死期が近づくにつれ錯乱したいった人の考えと見なしてきた。しかしながら、ライヒが追求していった考え方の展開の方向は重要であり、事実、ライヒの初期と後期の著作の間には明らかに関連性を見いだすことができる。ライヒは、フロイトの会話による治療法に長い間疑問をいだいてきた。ライヒによれば、自由連想法は、その人のかかえている問題を暴く手助けとなるよりは、多くの場合その問題から注意をそらしていく。身体とその身体の諸属性には固有の表出言語があると、ライヒは考えるようになる。(p.242)

マルクーゼ
マルクーゼが解放の可能性について分析や判断をおこなっていった際の中心となる概念公正は、抑圧を、基本的抑圧と過剰的抑圧とに区別し、現実原則に実行原則を付け加えていった点である。言いかえれば、抑圧のなかにも近代制度の「心の内なる禁欲主義」に起因するものがあり、それらは、近代制度を超克したときに追い払うことができる。そうした抑圧は、心理学的な意味での「必要要件にたいしての過剰」である。実行原則は、「現実」それ自体にたいしてではなく、特定の社会秩序の(一時的な)歴史的現実にたいして真正面から立ち向かっていくことを暗に意味するものである。たとえば、マルクーゼが「一夫一妻婚的家父長制」家族と呼ぶものは、抑圧の過剰が存在する場合の社会形態のひとつであった。とはいえ、マルクーゼは、その関心のほとんどを、労働の場という状況での過剰的抑圧に集中させていった。(p.244)

社会全体が性に魅了されていること
 ライヒやマルクーゼのように、近代文明がもともと抑圧的であると主張する人たちが誰でも直面する困難の主要な源泉は、フーコーが指摘しているような、社会全体が性に魅了されている点である。近代制度の成熟は、束縛の増大ではなく、束縛がほぼ至るところで顕著になっていくことと結びついている。マルクーゼは、この問題に気づき、解答を用意していた。性の自由放任状態は、決して性の解放と同じものではない。セクシュアリティの商品化は広く浸透しているが、エロティシズムは、ほぼ完全に視界からは抹消されている。西欧社会の初期の発達段階で人びとがセクシュアリティにたいしていだいてきた反感の方が、見せかけの享楽のもとに性にたいする弾圧を押し隠している「性の自由」よりも明らかに好ましいと、マルクーゼは論じている。かつては、剥奪されたものごとにたいする認識を人びとは失ってはいなかった。われわれはより自由になったように見えるが、現実には従属状態で生活しているのである。
経験の隔離
 「経験の隔離」とでも称しうる状況は、近代の諸制度が伝統から絶えず徹底的に断絶し、また、近代の統制システムが、社会的行為の既存の「外的境界」を超えて侵入しつづけてきたことの帰結なのである。経験の隔離は、その帰結として、社会的活動を超越的なものや自然現象、生殖と結びつけてきた道徳的および倫理的特徴の消失をもたらしていく。そして、そうした道徳的および倫理的特徴は、事実上、近代の社会生活が日々の型にはまった行いのなかにもたらす安心感にとって代わっていった。生きる上での安心感は、日々の型にはまった行いそれ自体から主として得られる。したがって、人びとは、既成の日々の型にはまった行いが打破されるたびに、精神的にも心理的にも傷つきやすくなる。これまで述べてきたことを考え合わせれば、こうした傷つきやすさが、ジェンダーの点で無色でないことは明らかなのである。(pp.258-259)

生きることの政治
 今日、男性と女性を分け隔てる対立のなかだけなく、情熱の私事化と公的領域へのセクシュアリティの浸透との緊張関係のなかにも、新たに取り組むべき政治的協議事項を見いだすことができる。セクシュアリティは、とりわけジェンダーとの関連のなかで、解放とのみ結びつけて考えていった場合誤解をまねく言い方であるが、個人的なことがらの政治を生じさせてきた。この、私としてはむしろ、生きることの政治と称したいものは、制度的再帰性という脈絡において機能するような、ライフスタイルの政治なのである。それは、ライフスタイルの決定に、この言葉の狭い意味合いで「政治的色合いをつける」のでなく、道徳性を再度付与すること??もっと正確に言えば、経験の隔離によって日常生活から

*作成者:篠木 涼
UP: 20080829
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