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『センス・オブ・ウォールデン』

Cavell, Stanley, 1992, The Senses of Walden, University of Chicago Press.

=20051025 斉藤 直子訳 『センス・オブ・ウォールデン』,法政大学出版局


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Cavell, Stanley, 1992, The Senses of Walden, University of Chicago Press.
=20051025 斉藤 直子訳 『センス・オブ・ウォールデン』,法政大学出版局,  244p, \2800 ISBN-10: 4588008331  ISBN-13: 978-4588008337 [amazon] [kinokuniya]

■目次
謝辞
日本語版への序言
序文

1 センス・オブ・ウォールデン
   ことば(Words)
   センテンス(Sentences)
   ポーション(Portions)

2 エマソンの思考、エマソンについての思考

3 エマソンのムード

訳註

スタンリー・カベルと『ウォールデン』の世界――日本の読者への誘い
ポール・スタンディッシュ、斉藤 直子著

訳者あとがき



■引用
太字見出しは作成者による
アメリカと国家的出来事
われわれは、ニューイングランドのすべての祖先たちが、森に自分たちの住処を構えたそれぞれの年、日付を知っている。その始まりの瞬間は国家的出来事であり、『ウォールデン』の出来事の中で再演される。今度こそ、その国家的出来事を正しく行なうために、あるいは、それが不可能であることを証明するために。そして、この地を発見し、そこに住み着く(settle)ために、あるいは、この地についての疑問を最終的に解決する(settle)ために、これが、七月四日に居を構えたことが偶然(accident)であることのひとつの理由である。
 いかなるアメリカの作家もアメリカ人も、そうした国家的出来事に対して、なんらかの形で反応する傾向がある。つまり、アメリカがその発見においてのみ存在し、その発見が常に偶然の出来事であったという理解に対して、そして自由への強迫的なとらわれと、新しい構築物を建てそこに住む新しい精神をもった新しい人間を形成することへの強迫的なとらわれに対して、なんらかの形で反応する傾向がある。さらに、この比類なき機会が永遠に失われてしまったという予感に対して反応する傾向がある。(p.11)

アメリカと『ウォールデン』の研究
 『ウォールデン』についての研究は、私がすでに強迫的にとらわれていた諸々の問いへのひとつの答えとなるのでなかったならば、もしかすると私にとってはさほど強迫的にとらわれるものとはならなかったかもしれない。それらの問いとはすなわち、なぜアメリカは哲学的に自己を表現したことがないのだろうか、あるいは、その最も偉大な文学のもつ形而上的奔放さにおいてはそうしたことがあったのだろうか、という問いである。哲学的思索への衝動は、「自明な運命説」のような思想でそうであったように、領土をめぐる投機的な思索によって吸収され消耗し尽くされてしまったのであろうか。あるいは、このような問いかけは本当のところ理解可能なものではないのだろうか。いずれにせよ、そうした問いは、アメリカ文学が自己確立する前に問われた問いと、とまどってしまうほど似ている。『ウォールデン』を初めて読んだ時から二〇年後に再読してみて、私は、それが、思考の一つの伝統を確立したり啓発したりするのに十分な知的範囲と一貫性をもつ本であることを見いだしたように思う。『ウォールデン』がそのような伝統の確立に至らなかった一つの理由は、アメリカ文化が、恒久的な価値をもつ何ものかを生み出す自らの能力を本当に信じたことがないということである――それ自身を除いては。ゆえに、アメリカ文化は永遠に自らの達成物を過大評価したり過小評価したりしているのである。(p.42)

ことば
 ことばは遠いところからわれわれのもとへやってくるのであり、われわれが存在する以前からそこにあった。われわれはことばのうちへと生れ落ちる。ことばを意味するということは、ことばの条件についての事実を受け容れることである。われわれに対して語られていることが何かを発見することは、われわれの語っていることが何かを発見することと同じく、語られていることが発せられる正確な場所を発見することである。なぜ、まさにそこから、その時に言われているのかを理解することである。作り話の技巧は、距離――語られていることの起源、誰であろうとそれを語る人物の性格は、われわれの方で発見すべきものなのだということ――を教えることである。(「話しことばは、聴き取れない人々にとって好都合である」(VI, 3)。これは、話すことを禁止しているわけではなく、話者、すなわち人類とはそうしたものなのである)。顔を突き合わせてともに話すということは、そうした距離を否定するように思われる。つまり、互いに向き合うということが他者の存在を承認し、われわれの立場を明らかにし、必要があればそれをさらけ出す(betray)ことを必要とするのだということを否定するように思われる。だが、そうした否定は、隔絶性を否定してしまうことである。その結果、われわれは互いを虚構の存在とみなすことになる。(pp.79-80)

実際的になること
 いかにしてわれわれは実際的になるのだろうか。どうしたら、「貧しき者の監督者」(I, 109)(自分自身の監督者)であることは自分自身を忘れ去ることよりも一層難しいということを理解するために、「別の目を向ける」、すなわち、別の目で、別の見方ができるようになるのであろうか。われわれのすべての持ち場は解放を待ち受けている――地理学と場所、文学と近隣、認識論と目、解剖学と手、形而上学と都市。この迷路の中で位置を得るための最初の一歩は、われわれ自身がその迷路の建設者であり、ゆえに、設計を想起し新たに考える立場にあるということを知ることである。住処を建設する第一歩は、すでに自分がそれを建てているということを悟ることである。(p.99)

アメリカとキリスト教
この章は、新約聖書の語彙(よって、それについての理解の仕方)を、のどの奥まで指を入れて押し込むことによって、われわれの価値観を冷酷に嘲る。というのも、明らかに新約聖書は、精神的混乱を表現し修正するために使用される経済の比喩的描写の起源であり、あるいは常に引用される章句の出典であるからだ。何の得があろうか、罪の報い、才能についての寓話、財産の蓄積、皇帝のものは皇帝に返すこと、慈善、といった事柄である。プロテスタントの倫理と呼ばれるもの、つまり、天における地位を象徴するための世俗的な損失と利益の使用は、『ウォールデン』においては、魂のある究極的窒息状態として現われる。アメリカとそこにおけるキリスト教は、完璧で理想的な形で、それ自身を文字通りに解釈するもの、さもなくばパロディとなった。(p.108)

『ウォールデン』の答えの一部
 『ウォールデン』の答えの一部はすでに明らかになった。われわれは、発見するということがどういうことであるのか、見失った何かを探すとはどういうことかについて学ばなければならない。そして、受け容れとはどういうことであるのか、つまり、刻一刻自分がどこにいるのかを自分自身で発見し、その発見を実験しながら受け容れ、決算報告書に付け加えなければならないということが何を意味するのかについて学ばなければならない。このことには自身が必要となる。どのような時にも自然に対して自信をもつということは、それに信用されたいという意志をもつことであるように思われる(「……私は、かれが「自然」のどのような営みにも驚嘆の念を表わすのを耳にして驚いた。両者の間には何の秘密もないと考えていたからだ」(XVII, 4))。こうした理由により、書き手による自然の読み方は、それを教訓的なものにするのではなく、あたかも自然によって自らが読まれ、自然の中で告白させられることに身を任せ、それについて語るのではなく、耳を傾けているかのように感じられる。発見すること、受け容れること、自信、信頼(trust)は、われわれが自分の実験に対し、経験に対し、そして自らに生じていることに対して関心をもつことを必要とする。こうした概念(発見すること、信頼、関心など)一つひとつが他の概念に向かって開かれ、他の概念によって調整されなければならないだろう。(p.119)

エマソン、ソロー、ハイデガー
エマソンとソローが共有しているハイデガーとの本質的な差異は、人間的なものの達成が住み込みと定住を必要とするものではなく、放棄すること、去ることを必要とするということである。そうなると、すべては、あなたが放棄することを実現することにかかっている。というのも、去ることの重要性は、あなたが何ごとかを成し遂げ、清算したという発見のうちにあるからである。それは、あなたが自分自身をそこにある何かに向けて放棄すべきであると熱情的に感じているとう発見であり、そこにいる他者たちを、いまや世界への住み込みを遺しうる人々として扱うことができるという発見である。(p.164)

カベルの映画研究と結びつくエマソンの特徴
 その問いについて考える前に、映画研究への私の関わりと頭の中で結びつく、エマソンの著作のある特徴について述べていく。「アメリカの学者」において、彼がその「究極的な理」を知るよう学徒に求める事柄の一覧――「小さな桶の中の挽き割り麦、鍋のミルク、路上で歌われる民の歌、船の便り、一瞥のまなざし、身体の形と足取り」――は、日常性の相貌と呼びうるもの、つまり、キルケゴールが日々の崇高さの知覚と呼ぶものの形態を典型的に示す一覧である。また、ダゲールが、写真への強迫的なとらわれを凝縮する形でパリで銅板を展示することになる三、四年前に作られた一覧である。私はかつて、ボードレールが近代生活の画家を賞賛する中で映画を予兆していたと述べた。ここで私は、エマソン(そしてソロー)の中で、日々のもの、近くのもの、卑近なもの、身近なものによって触発されるような知覚の様態をもたなければ、人は、映画の詩性とその崇高さに対して盲目になるはずだということを付け加えておきたい。当然のことながら私は、この盲目が同時に、哲学の中のある最高の詩性――ここではその神話的な飛翔でも論証の美や純粋さでもなく、具体的例示の力、一片の蜜蝋の中の世界――に対して耳を傾けることができない状態をもたらしてしまうであろうと言っておきたい。映画が私の日没と日の出、「私のパポス、想像不可能な妖精の国の領域」となったというのであれば、私は、ソローが私の夜明けとなっていた、あるいはそれを取り戻してくれていたということを付け加えなければならない。(pp.176-177)

カベルのウィトゲンシュタインへの着目点――「スタンリー・カベルと『ウォールデン』の世界――日本の読者への誘い」
 『哲学探究』が認識論的論駁以上の何ものかであるということは、カベルが雄弁に示すように、ウィトゲンシュタインが問題を「溶解/解消する」ことで、それをただ立ち戻らせているだけであることを見れば明らかである――これこそが、ウィトゲンシュタインの繰り返し行なっていることである。むずがゆさは再び戻ってくる。問題はなくならない。こことは懐疑主義の真実ではなく、懐疑主義における真実を承認することを意味している。いわば、認識論の真実ではなく、実存的真実である。こうしたウィトゲンシュタインの懐疑主義へのアプローチは、人間の条件のある深遠さを証言している。つまり、懐疑への抑えがたいわれわれの欲望、ある状況下で認められる以上に大きな確信を要求する傾向、あるいは合理的に保持しうる以上に頑強に立証を要求する傾向などである。さらにカベルは、説明がどこかで終焉せねばならず、「生活形式」を承認する時、ゆえに、究極的に「これがわれわれの行なうことである」ということを受け入れる時、正当化は終焉せねばならないというウィトゲンシュタイン的主張にこめられる軽い失望感に着目している。ここにおいてカベルがいみじくも述べているように、ウィトゲンシュタインの懐疑主義へのアプローチは、基準に対するわれわれの失望をも証言している。そのような否認こそが、シェイクスピアの悲劇の核心であり、そして、より日常的なわれわれの精神の貧弱さの実体である。(pp.217-218)




*作成者:篠木 涼
UP:20080816
ナラティヴ・物語哲学/政治哲学(political  philosophy)/倫理学アメリカ合衆国 United States of America 身体×世界:関連書籍 2005-BOOK
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