『市民運動の宿題――ベトナム反戦から未来へ』
吉川 勇一 199109 思想の科学社,246p.
last update:20110626
■吉川 勇一 199109 『市民運動の宿題――ベトナム反戦から未来へ』,思想の科学社,246p. \2310
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■出版社/著者からの内容紹介
■目次
まえがき
1 私の大学時代のこと
旧制高校から新制大学へ
試験ボイコット闘争と民俗学への指向
再試験ボイコットをめぐって
「気違い部落」の山村工作隊?
共産党への入党
自治会中央委員会議長
東大ポポロ事件(警察手帖事件)
裏返しの背広の話と『もう黙ってはいられない』
父の変化
挫折と病気
中国への密航に失敗
2 平和委員会での活動
スターリン批判
大江健三郎『偽証の時』
全学連スパイ監禁事件
本当にスパイだったのか?
第五福竜丸の被爆と原水爆禁止運動
「蜂六会」のこと
中ソ対立の中の原水協
3 ベ平連について
今なぜベトナムか
北爆開始と日本の市民の反応
ベ平連の発足
徹夜ティーチインの地図
「事務局長」引き受ける
定例デモの功罪
自由なデモのリーダーシップ
新左翼政党と大衆運動
異なるグループとの共同行動
「神楽坂ベ平連」の内閣
「神楽坂ベ平連」と地方ベ平連
市民的不服従・非暴力直接行動
『冷え物』討論
わたしとビール
脱走兵援助
「ほびっと」と「アウル」
遊びでゆこうベ平連
本当に遊んだ話
ベ平連の解散
「国家を超える」という永久運動的課題
ベ平連の仲間からの贈物(「先進民族」の後進性?)
4 久野・鶴見氏の対談をめぐって
美空ひばりの公演ボイコット問題
ベ平連の努力したこと
私服刑事をなぐる話・内ゲバを防止する話・間違えてなぐった話
「形式」ということ
「ベ平連」としての一貫性
連合赤軍リンチ事件とベ平連
岩国の全国懇談会での発言
ベ平連のフィードバック装置
5 ベ平連の残したもの
ベ平連運動の中で嘘をついたこと
少数派と多数派
戦争責任問題と市民運動
市民の常識と権力の常識
市民運動はシングル・イッシューであるべきなのか
京都ベ平連の同窓会
6 湾岸戦争反対運動の教訓
マスコミの役割
ベトナム反戦運動と湾岸戦争反対運動との比較
保谷市でのデモ
市民運動の「老齢社会」化現象?
あとがきにかえて 古山洋三への弔辞
事項索引/人名索引
■引用
2 平和委員会での活動
■中ソ対立の中の原水協
「一九五四年からの原水爆禁止運動は、戦後最大の幅をもった大衆運動だった。しかしそれは、初期のことであって、その後は政党や大労組の影響力が支配的となり、遂には分裂にいたり、力を失う。自民党、民社党などから、運動が左傾偏向したという攻撃も加えられたが、それが大きな原因ではない。[…]党の官僚的機構が再び党員個々の活動や、それを通じて大衆運動の方針をも左右するようになるにつれ、運動は一般国民の感情や期待と離れたところでの、党派間抗争の場に変容させられてゆき、広範な民衆を離反させていった。」(吉川、1991:81)
3 ベ平連について
■北爆開始と日本の市民の反応
「世界の素早い反応と比べると、日本の動きは異常なほど遅かった。[…]ベトナム反戦それ自体を目的とした大衆行動はなかなか起らなかった。[…]ベトナム反戦それ自体を目的とした大衆行動が日本で初めて行なわれるのは、日本人によるものではなく、二月一三日、東京でのベトナム人留学生五〇名によるでも、そして日本人によるものでは、その二日後、東京でも大阪でもなく、沖縄の労組、平和委員会などによる百五〇名による集会とデモのようだった。」(吉川、1991:91)
「市民の日常の挨拶の中にまでお天気のつぎにはベトナム戦争が話題になるほどになっていたのだ。」(吉川、1991:91)
「原水禁運動の分裂に見られるように、政党の運動支配と激しい内部対立による運動の形骸化、硬直化はひどい状態になっていた。民衆の関心や要求に基づいて運動を起こすのではなく、運動は自党の影響力の拡大の道具、選挙の票田としか見られず、従って、自発性とそれに基づく創意的な行動という、いかなる運動においても基礎におかれるべき要素が既成の運動体とその周辺からはすっかり摘みとられてしまっていたのだ。」(吉川、1991:92)
■定例デモの功罪
「定例デモの出発前、清水谷公園では集会が開かれる。この場が情報の交換、相互の意志疎通、事務局からの実務報告、そして行動の提案、決定の機能を果した。司会者はいるが、発言はまったく自由、誰でも勝手に話ができ、行動の提案ができた。ただ条件が一つだけあった。行動を提案する際、提案者は必ずその行動をやるということで「言いだしっぺの原則」と呼ばれた。」(吉川、1991:104)
◇デモ=コミュニケーションの場。綱領がない中で、コミュニケーションコードの流動化。党派用語ではないコミュニケーションと変容の可能性?まずはやってみる。
「この定例デモは月刊のニュースの発行と並んで、運動の持続性、継続性の最低限の保証でもあった。[…]『ニューヨーク・タイムズ』への意見広告運動、ベトナムへ医療品をおくる募金運動、米軍基地の凧挙げ行動等々、みな、この場の提案から始まった。それは気持ちのいいフォーラムであった。」(吉川、1991:105)
◇フォーラムとしてのベ平連。
■自由なデモのリーダーシップ
「デモへの自由な参加といっても、もちろん自分勝手とは違う。スローガンやデモの形式まであらかじめ決定され、それに従うよう統制される既成大組織のデモと違い、不特定多数の人びとが加わる市民運動のデモでは、参加者一人一人のとる行動が、一緒に参加しているさまざまな他の人びとに、どういう影響を与えるか、それを個々人が配慮した上で自分の行動を選び、定めるという、自発的な自己抑制、自己相対化のかなり高度な判断が、参加者の一人一人に要請されるのである。ベ平連の定例デモは、そういう行動に慣れてゆくための共同の学校でもあった。[…]全学連や新左翼諸党派などのデモの機動隊との激しい衝突が各地で続くにつれ、市民の静かなデモにあきたらぬ思いをもつ若い人びとも多く参加してきた。このとき、全体のデモのリーダーシップはどうあるべきか。」(吉川、1991:108)
■「神楽坂ベ平連」と地方ベ平連
「ベ平連は会員制度ではなく、選出された役員を持たず、本部・支部・中央・地方などの上下関係はないとされていた。それぞれの間で、意見や情報を交換し合っても、指導や服従といった関係はなかった。[…]平等な一単位であるはずの神楽坂ベ平連が「中央の」ベ平連となり、その提案によって決められる課題と自分たちの独自の行事とで予定表は一杯となり、位置づけもはっきりせぬまま、スケジュールだけをこなす日々になっており、ベ平連の原則がおろそかになっている、という批判」(吉川、1991:120−121)
「やはり、私たちも悪しき権威主義、東京中心主義の枠から完全には抜け切れなかったようだ。」(吉川、1991:122)
■市民的不服従・非暴力直接行動
「ベ平連が全国に大きく広がるのは一九六七年一〇月のイントレピッド号からの四水兵の脱走援助、六八年のエンタープライズ佐世保入港反対の運動などの影響が大きかったが、しかし、ベ平連運動の基礎が築かれたのは、それ以前、一九六六年六月、アメリカから二人の活動家を招いて行なった全国講演旅行だった。ハワード・ジン氏はボストン大学の政治学教授で、反戦運動、公民権運動の活動家、ラルフ・フェザーストン氏は米国南部で活動していた黒人の解放運動組織、SNCC(学生非暴力調整委員会)の指導者だった」(吉川、1991:123)
「この講演会は生まれたばかりのベ平連に大きな思想的影響を与えた。二人のアメリカ人活動家の語る教条主義とは無縁な自由な思考、不服従と直接行動の思想、そして参加する民主主義の実践、それらは当時の日本の運動にとってまったく新鮮なものであり、薄紙が水を吸いとるように講演会に参加した人びと、とくに青年、学生たちによって共感され、吸収された。
ベ平連はその夏、再度ジン教授を含むアメリカ反戦運動家を多数招いて、東京で「ベトナムに平和を! 日米市民会議」という国際会議を開催した。[…]小田実氏は、国家が個人を被害者の立場に立たせ、そのことによって民衆をベトナム人民に対しては加害者にさせる、という有名な被害者=加害者の主張をのべる。そしてこの関係を断ち切るために彼は国家の命令に対する個人的な拒否の原理を提案する。
すでにその年の夏、鶴見俊輔氏らによって、「非暴力直接行動委員会」なるグループが誕生し、ハノイ、ハイフォン地区に爆撃が行なわれたならば、直ちにアメリカ大使館に向けて行動を起そうという呼びかけが出されており、それは無届けの行動となるので逮捕をも覚悟するという行動だった。つまり、市民的不服従の直接行動である(この行動は、ハノイ爆撃がついに事実となった日の翌日、その年の六月三〇日に実行されることになる)。
ジン、フェザーストンの講演旅行、日米市民会議でのアメリカ反戦活動家の発言、これらアメリカ反戦運動、公民権運動の実践による影響力と、小田、鶴見両氏の主張や提案、これが合わさって、それ以降のベ平連の思想と行動の基本路線が敷かれたと、私は考えている。」(吉川、1991:123-125)
「国民はベトナム人民の敵、加害者の立場に立たされる。それを拒否しようとすれば、国家の命令よりも個人の原理を上にして、不服従の行動に出る以外にない。六六年のベ平連は、こうした非暴力直接行動の思想を掲げたのだった。」(吉川、1991:125)
「ベ平連の中にいたマルクス主義者、新左翼思想家の影響力も挙げなければならないだろう。沖縄を切り離して成立した憲法の枠内で論じられる戦後民主主義への真っ向からの批判も、ベ平連運動に影響を与えた。戦後民主主義を虚妄とする見解はベ平連の全体のものではなく、小田、鶴見氏らの同意する思想ではなかったが、ベ平連全体の行動の中では、それは矛盾・激突することなく、その一部として包摂されていたといえるだろう。そこには、「市民主義=合法主義」「市民運動=現状維持・保身の非階級運動」という、それまでの左翼的範疇を超える新しい市民運動の登場の萌芽があった。」(吉川、1991:125)
「六八年以降、ベ平連は反戦青年委員会や、全共闘、新左翼諸党派と何度か共同の行動をとった。[…]自己否定を主張する全共闘などが、日本の戦争加担を強く批判し、しかもそれを政府だけの責任とするのではなく、侵略加担の構造に組み込まれている自分自身を認め、その構造の変革を求めるという主張と、被害者=加害者の立場を個人の原理で拒否してゆくというベ平連の思想とに重なりあるところがあったからであろう。」(吉川、1991:126)
・『ベトナム通信』での公開質問状と反論
・札幌ベ平連・花崎皋平からの批判(『資料・「ベ平連」運動』下巻)
→東京中心主義への批判
「やはり、私たちも悪し権威主義、東京中心主義の枠から完全には抜け切れなかったようだ。」(p.122)
「かつて京都ベ平連の飯沼二郎氏は『思想の科学』(七三年一一月)に書いた「『市民運動』京の夜ばなし」という文章の中で、対話の登場人物の一人に「一度、ここらで君たちのまる八年間の運動を『総括』してみる必要、いや義務があると思うな。とくに、京都のばあいには、東京ベ平連のように、『有名人』がいなかっただけに、東京よりも、かえって、ふつうの日本人がこれから市民運動をやっていこうというときの参考になることが多いんじゃないか」と語らせていた。花崎氏の批判に通じるものを私は感じとる。
つい最近、京都の『ベトナム通信』の復刻版が出されるということを耳にした。飯沼氏の努力によるものだが、広義ベ平連運動の実態を明らかにする上で、これは大きな貢献となるだろう。」(pp.122−123)
(→
旧「ベ平連」運動の情報ページ「都道府県別反戦市民グループ」)
■わたしとビール
「六七年の佐藤首相の南ベトナム訪問と羽田デモでの山崎博昭の死、そしてエスペランチスト由比忠之進の抗議焼身自殺、米反戦脱走兵の支援、そして翌六八年一月の「エンタープライズ」入港阻止の佐世保闘争などを経る中で、運動の方向も、わたしたちの考え方も徐々に変わっていった。自分たちの生活そのものがベトナム戦争を支えている仕組に組み込まれているという認識が強まり、自分たちの生活も変えながらこの仕組みをどう変えていくかを考えなければならないというふうになってきた。
それまでに、ベトナムに医療品を送る募金運動などもやったが、それよりも日本から基地をなくし、日本の軍需生産をなくす運動のほうが、また、米脱走兵を国外に脱出させるよりも、米軍基地の内部に反戦の抵抗グループをつくるほうが重要だと考えるようにもなったし、さらに、国内にある被差別部落や在日朝鮮人などへの差別構造、第三世界の人民の解放闘争との連帯というような問題にも目が向いていった。三菱重工業系の一株運動も、そうした背景の中で出てきた戦術であった。」(吉川、1991:132)
■脱走兵援助
「この運動の中では一人一人の裸の人間がよく見えたような思いもした。
[…]ベトナムで解放戦線の兵士を何人も殺戮してきた十九、二〇歳の若者、生身の人間と二四時間、しかも警察の目を逃れてつきあうのである。一見、スマートな活動のように思われたかもしれないが、実際は精神も肉体もズタズタになるような活動であった。」(吉川、1991:140)
4 久野・鶴見氏の対談をめぐって
■「ベ平連」としての一貫性
「ベ平連の内外での人びとの「流動状態」について、認識の相違があるとは思えない。東京の、神楽坂ベ平連事務局の周辺であれ、毎月の清水谷公園での定例デモへの参加者であれ「昨日まで別のセクトのデモにくわわっていたものが今日はベ平連のデモに入っている」ということや、その逆のような現象はいくらでもあった。ベ平連の事務局の中心的活動家の一人だった若者が、その後大学に入ってから赤軍派の幹部になったり、共労党(共産主義労働者党)の若手イデオローグになったりしたこともあった。全共闘の集団とベ平連との間や、反戦青年委員会とベ平連との間にもそういう流動状況は無数にあった。」(吉川、1991:180)
◇米国の公民権運動や反戦運動、日本の新左翼諸党派などとのコミュニケーションの中で生まれ、成長していくベ平連。運動・経験の流動状態。⇒「市民」を超える要素。
5 ベ平連の残したもの
■戦争責任問題と市民運動
「[加害者と被害者という考え方がはっきり述べられたのは]一九六六年八月、ベ平連が東京で開いた「ベトナムに平和を!日米市民会議」での小田氏の演説の中でだった。[…]やがてこの加害者意識は、ひろくベトナム反戦運動から新左翼の反体制運動全体に共有されてゆく。
戦争責任を論ずることはもちろんそれ以前からあった。しかし、それは自分を被害者の位置において、その被害をもたらしたものとして、軍人や政治家、あるいはそれに同調した知識人などの責任を追及するものだった。それは自分自身を免責することで、歴史を、そしてその中における一般民衆の位置についての認識を誤らせるものであり、反戦平和の運動を浅いものにさせてきた。」(吉川、1991:207−208)
■市民運動はシングル・イッシューであるべきなのか
「ベ平連は発足にあたって三つの課題をスローガンとして掲げた。@ベトナムに平和を! Aベトナムはベトナム人の手に! B日本政府は戦争に協力するな! の三つで、その後、運動の発展とともに、自衛隊、軍需産業、沖縄、日米安保条約などの課題にも取り組んだが、しかしその根底にはベトナム戦争との関連が必ずあった。ベトナム戦争が終結すればベ平連は解散するということも当初からの諒解事項だった。」(吉川、1991:215)
「私は、市民運動の課題を個別的な単一のもの、あるいは身近な生活にかかわるものだけに限定させ、政治と社会全体を問題にさせないようにする主張には賛成できない。[…]簡単なことでないのは確かだが、市民が政治と社会の全体を問題にし、変革をめざす主体として登場する、そういうことをめざす運動が、市民運動として成立することが必要だと私は考えている。」(吉川、1991:221)
■書評・紹介
■言及
*作成:
大野 光明