HOME
>
BOOK
>
『保育園とフェミニズム――性(エロス)の中の子育て』
杉の子保育園 編 19910930 ユック舎,286p.
Tweet
last update: 20190124
このHP経由で購入すると寄付されます
■杉の子保育園 編 19910930 『保育園とフェミニズム――性(エロス)の中の子育て』,ユック舎,286p. ISBN-13: 9784843100486 1600+
[kinokuniya]
■内容
働く女性にとって子育ては乗り越えるだけのハードルなのだろうか? フェミニズムが取りこぼしてきた問題に保育の現場から光をあてる。安達倭雅子・金井淑子・青山南・干刈あがた・河野貴代美の5人の講師と杉の子保育園のスタッフが膝つきあわせて取り組んだ「子育てとフェミニズムの練習問題」
■目次
まえがき
はじめに――この本ができたわけ
安達倭雅子 「お菓子・ペニス・ボールペン・ヴァギナ」
‐「「あれ、これ、それ」なしで性を語りたい」
金井淑子 「女三人よればフェミニズム」
‐「子育てから見るいい「関係」」
青山南 「僕だって子育てしたいよ」
‐「がんばれ保育園の父ちゃんたち」
干刈あがた 「母の眼、作家の眼」
‐「子育て、みんなで“軽く”なればこわくない」
河野貴代美 「[C-R体験記]私を語る女たち――仕事・私・みらい」
星野勤 「[まとめにかえて]現代保育所考――保育園とフェミニズム」
おわりに
■引用
保育園は、日々の暮らしや子育てを担う現場であるために、男と女の関係から生まれる切実な葛藤(=差別の関係)や、エネルギーの噴出と無縁な存在ではない。その葛藤や悩みの根拠を探り、変えていくための実現可能なアイディアを出し合い実行してみることが、現在の子育ての世界をもう少し面白く、やり過ごしていく方法になると思うのだ。┃(p.14:「はじめに」)
杉の子保育園は、園児が、乳・幼児全員で四二名というずいぶん小さな、社会福祉法人立の(普通「私立保育園」と呼ばれる)保育園だ。この地に園が創られてから十二年ほど経ち、設立当初から関わっているスタッフも多く、園の建物同様にちょっと古びて、このところ、少々くたびれてきて気分直しの〈旅〉に出たいところだった。┃(p.16:「はじめに」)
「保育園」の存在を支える思想的基盤の一つとしてフェミニズムと呼ばれる思想や運動をあげることができるだろう。それは同時に、最も鋭く、保育園のありようを問い直そうとする力でもある。一▽△方で、フェミニズムの提起した問い返しの力によって、またもう一方では、現実に流動化・多様化してきている保育労働や就労の実情(二四時間化)に応じて、保育園はいま激しく改編を迫られている。|しかし、「保育園はこれからどうなっていったら良いのか」という課題に対する明瞭な答えは出ていない。それに加えて、保育園の存在そのものを怪しむ人がこれまでもたくさんいたのだが、新しい装いで「保育園=必要悪」論も再登場してきた。┃(pp.16-17:「はじめに」)
現実に、経済活動やその仕組みの中で働く者が直面している、生活・暮らしの中の矛盾や葛藤、その中に組み込まれた構造としての、女性や子どもたちへのさまざまな差別を厳しく問い直す異議申し立てが、十五年ほど前から盛り上りを見せてきた「フェミニズム」の思想や運動によってなされてき▽△ている。|そこで私たちは、子育てやそれへの大人たちの関わりを問い直し、さらにその社会的な出会いの場としての「保育園」の位置や可能性の捉え直しを、フェミニズムの思想や視点と関わらせて考えてみたい。┃(pp.17-18:「はじめに」)
一方で性(エロス)は(あるやむを得なさを伴って)、これを私的なもの・覆い隠そうとする心情を利用しながら、「語るべきではないもの」として社会的な構造(意識装置)に転化し、差別的な男と女との関係を補強しているようだ。しかも差別的な構造や葛藤は、子育てという時間や関係の中でこそ伝えられ再生産されていくものではないのかという疑いを検討し、それを乗り越えていく方法を手探りで探ることがその先のテーマになると思う。┃(p.18:「はじめに」)
従来、〈性〉は本能的なもの、自然なものだとみなされていた。しかも〈性〉とは「男」の〈性〉であった。これに対し、この十年来、フェミニズムの思想により、〈性〉は本能的なものでも、単なる生理的な自然でもない、それを含みながら同時に文化的・社会的なものとして私たちに現われ、私たちを動かしているものだという捉え直しが進められてきた。┃(p.19:「はじめに」)
フェミニズムを中心とした問いかけは、私たちの日常化し習慣化した感情や価値観など、実にさまざまな領域に対して、深く強いインパクトを与え、また、その捉え直しと組み替えを迫っている。それはさらに、私たちにとってはごく日常的な領域である「子ども像=子どもとは何かをめぐるイメージと理論」や、それと日々関わる「子育てとそのあり方をめぐる思想(理論・感情の全体)」に対しても当然、組み替えを迫っている。┃(p.19:「はじめに」)
女性解放を男並み化解放で考えるか、つまり、女が近代人として男と同じ立場に立つことによって平等を手にいれるか、それとも、男の女並み化平等か。【太字:女の男並み化平等】から【太字:男の女並み化平等】へ。この二つの言葉によってだいたい、ウーマンリブからフェミニズムへの流れの中で、それ以前の女性解放運動の思想的な追及の転換を捉えることができるんじゃないだろうかと考えているんですね。
たとえば生活クラブ生協で地域の運動をやってる女の人たちと話をすると、彼女たちは、女性問題に対する意識をストンと落っことしている。自分の生活のあり方を変える生活オルタナティブ(別のみち、もう一つの)の運動という場で、さしあたって自己実現ができていて、そこで止まってしまっている。今、私たちの社会では、同じ女性といっても働き続ける女たちと、働くことから降りてしま▽△った女たちと、もう一度働こうとしている女たちがいて、それぞれ分断され、さまざまな問題を抱えている。┃(pp.89-90:「女三人よればフェミニズム」)
フェミニズムは、六〇年代後半から七〇年代の好景気の中で、女がどんどん社会的場面に戦力化され、出ていった市場の中でも、依然として男が一流市民で女が二流市民という、同じ構造が労働という場の中でも再生産されていることに気づいていく。
そういう中で、ウーマンリブの運動は「女も人間だ」と言ってしまってはまずいんじゃないか、という疑問を投げかけたんですよね。「女は女だ」と言うべきなんじゃないか、と。「女も人間だ」と言って、「人間」というハードルを掲げて、それを越えようとした時、実は、その「人間」というのは、この社会ではイコール男なんですよね。その男のモデルを目標にすると、女の持っている身体的な特異性みたいなものを切り捨てちゃうことになる。切り捨てて男並みに頑張ることによって、男の持っているもろもろのものを手にする、そういう平等だったら、あえて求める必要がないんじゃないか。だから「女も人間だ」じゃなくて、「私は女だ」と。「私からの出発」なんて言った時に、「私=女【ルビ:わたし】」なんていうふうにわざわざ書いたりしてね。私は女なんだと、女が女であることをそのまま社会に突き出すというのがウーマンリブの運動だったんですね。┃(p.91:「女三人よればフェミニズム」)
ウーマンリブというのは、「女は女なんだ」その居直りの中から出発すべきなんだというふうに問題をたてながら、それは決して母性の中に女を囲いこんだり還元したりという発想じゃない。そこで女というのは、まさに個としての私なんです。さっき「私からのの出発」と言った、この「私」はとても重要なことで、まず個人としての自己解放と、それから女であるという事実を否定しない解放のあり方、この二つが、ウーマンリブ運動の「『女も人間だ』と言っちゃやばい!」という発想の中にあるわけなんですね。「だけれども、私は私なんだ」という事実をぜったいに見失ってはならない、と。
母性、というか、女の持っている女であるという事実を、私は「生理の事実」と言っちゃったほうがいいと思っているんです。母性と言うと、ものすごく危険があるわけですよね。生理の事実を否定しないで、女が産むことを強制される社会から、産む産まないは女が選択することのできる社会へ、▽△といった、そういうスローガンの中ではやはり、個としての女の解放が前面に打ち出されてきた。それをウーマンリブは運動としてかなりさまざまなスキャンダラスな装いをまといながら提起したんだと言えると思うんですよね。┃(pp.:93-94「女三人よればフェミニズム」)
ウーマンリブ運動の新しさ、その画期的な点は、今の社会の中で制度化されている関係性への異議申し立てにあったと思うのですね。男と女が性関係を持つことについて社会的に認知されるためには、婚姻届けを出す婚姻制度という枠組みがあり、家族関係を制▽△度化しているものがあるわけですけれども、その【傍点:制度化された関係性から自由への道】っていうことを運動として出したと思うんですよね。婚姻制度解体とか家族制度解体、そういう視点抜きには、女が女であることを丸ごと肯定することはできない、っていうこと。それらが女の母性意識や役割分業観を制度的に支えている。女を二流市民、男より劣位に位置させているんだという点をウーマンリブは見破った。ですからウーマンリブの婚姻制度批判、家族制度批判はすごくラジカルだった。|今はウーマンリブの運動は萎んでしまったんですけれども、そういう意識をもってやっている運動に、たとえば私生児差別をなくす運動、あるいは、あえて産んだ婚外子が住民票では、婚姻内なら長男、長女となるところを、単なる「子」としか書かれないことに対する窓口闘争をやっているグループなどがある。それは個別の運動なんですが、まさに、今の戸籍制度とか、制度化された私たちの関係がもつ制度外の関係性に対する抑圧性を問題にする運動なわけですからものすごくしんどいんですよね。でも、引き受けてやっていくと、なんでもないような紙きれを出しちゃうことがどれだけ関係を拘束し、その関係の中で女が差別的な位置に追いこまれているかが見えてしまう。┃(pp.98-99:「女三人よればフェミニズム」)
それから、ウーマンリブの運動が全体として後半には、日本の中にずーっとある体質なんだけれど▽△も、コンミューン主義的共同体運動に流れていったんですよね。「女たちの共同スペースを」とか、女たちがそれぞれの親子関係を複数化することで、エディプス的な虚構性みたいなものを越えていこうとする試みとして共同体運動に入っていくんだけど、そういうラジカルさというのは八〇年代になると影をひそめてしまって、フェミニズム論争ばかりが華やかになってくる。┃(pp.99-100:「女三人よればフェミニズム」)
私は、いろんな現象を見ながら、ウーマンリブが提起したものが次のような経路をとったと思っているんですよね。|一つは、行政サイドで「国連婦人の十年」というのが一九七五〜八五年までの十一年にわたってありましたが、ここにウーマンリブの運動がかなり吸収されていった。[…]|もう一つは、ウーマンリブの運動が生活オルタナティブな運動、環境問題であるとか、公害問題、食品問題、あるいは物のリサイクル、つまり、産業社会批判というものにつながっていく。今の豊かさへの疑問とか、自分たちの暮らし方の変革というところから運動に関わっていってる。|だいたい、その二つの中にウーマンリブのエネルギーは吸収されていったような感じがするんです。┃(p.100:「女三人よればフェミニズム」)
しかし、ウーマンリブが提起していたものには、働き方、生き方というものを当然含んでいたと思うんですが、もう一つ「関係性のオルタナティブ」というものも、ものすごく大きな問題として突き出していたと思う。|こう言うと、ちょっと理屈っぽい言い方だけれども、ウーマンリブはものすごく混沌とした運動エネルギーだった。[…]その混沌としたものの中にあったものが、全体としてはさっき言った三つの方向に拡散していった中で、今、八〇年代のフェミニズム状況でウーマンリブから引き継いで課題としなければならないこと、それが、実は、関係性のオルタナティブなんです。男と女の関係、親と子の関係、つまり家族のオルタナティブ、男と女のオルタナティブ。夫、妻という関係性の中で役割分業意識の再生産の根をどこかで断ち切るような意志を持った運動、それが八〇年代で引き継がれなければならない一番大きな課題なんじゃないかと、そんなふうに問題を整理してるんです。|生活オルタナティブ運動は華やかだけれども、そこには関係性オルタナティブの視点が欠落している。それは、とりもなおさず、エコロジーの思想はあるけれども、フェミニズムの思想がないということじゃないか。┃(p.101:「女三人よればフェミニズム」)
その関係性というのは、八〇年代は、女の時代と言われ、女が戦力化される形で女性の中に階層差別化を作り出す形での自由化状況ではなくて、女たちの側からの、かなり意志的な関係性のオ▽△ルタナティブが目指されなくちゃいけないんじゃないか。┃(pp.101-102:「女三人よればフェミニズム」)
┃(p.:「」)
┃(p.:「」)
┃(p.:「」)
┃(p.:「」)
┃(p.:「」)
■書評・紹介
■言及
◇立命館大学産業社会学部2018年度後期科目《比較家族論(S)》
「現代日本におけるオルタナティヴな「子産み・子育て」の思想と実践――「母」なるものをめぐって」
(担当:村上潔)
*作成:
八木 慎一
/増補:
村上 潔
UP: 20111107 REV: 20181219, 20190110, 24
◇
保育/保育所
◇
フェミニズム (feminism)/家族/性…
◇
子/育児
◇
性(gender/sex)
◇
身体×世界:関連書籍
◇
BOOK
TOP
HOME (http://www.arsvi.com)
◇